- 作者: ウォルター・テヴィス,古沢嘉通
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2003/11/29
- メディア: 単行本
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映画の内容やテーマは、同映画をレビューしたオレの日記のここあたりを読んで下さると嬉しいです。
小説のほうですが、多少の違いはあったとしても、映画とほとんど変わらないストーリーです。ある意味忠実な映画化だといってもいい。逆に、映画ではあまり語られなかった脇役達の人間性が掘り下げられていて、その辺が読みどころか。ボウイ扮するT・J・ニュートンの地球に来訪した目的も違っていて、このあたりは読んでのお楽しみかも。
と言うわけだが、ここでは映画のレビューでは言及しなかった、この作品のもうひとつのテーマである「飲酒」というものについてちょっとだけ書きたい。おれ自身が飲兵衛なので、酒というものについて何か書くと、どこかしら自己弁護めいてしまうので書きづらいのだが。
例えば村上春樹のある作品で、ポール・ニューマン主演で映画化もされたテネシーウィリアムズの「熱いトタン屋根の猫 」という戯曲の一節が言及されていたのを覚えている。そこで言われていたことは、酒は、ある程度飲むと、頭の中で「カチッ」と音がする、のだという。スイッチの切り替わる音なのだろうと思う。その時、やっと人間らしい気分になると言うことなのだろう。
社会で生きていく以上、人は何がしかの役割を演じなくてはならない。それは常識的社会人であったり、有能な会社人であったり、よき家庭人であったり、あるいはどこにでもいる学生であったりするのだろう。あるいは決して突出しない中庸さや物分りのよさ、人当たりのいい柔和さなどを兼ね備えた人間であろうとしてしまう。それはしかし漸うとして見えない社会の要求する「自分」ではあっても、本来持ち合わせている「自分」とはどこかに「ずれ」がある場合が多いのではないか。人はその「ずれ」から立ち戻る為に酒を飲むのではないか。要するに、そんなに真人間の振りばかりしてたら、疲れちまう、って事だよ。
はたまたあるいは、こちらのほうがこの作品のテーマに沿っているのだが、空虚さ、孤独さを埋める為に、あたかも鎮痛剤を服用するように酒を飲むこともあるだろう。生というそれ自体が「死に至る病」であるものから痛みを取り除く為に。
かつてアル中だったスティーブン・キングは、自身の小説の中でも酒に溺れた人間たちをよく登場させていたが、特に凄い描写だったのは長編「トミーノッカーズ」の中のエピソードだ。主要人物の一人はかつてアル中だったのだが、この男が酒により破滅寸前まで追い詰められた過去の記憶が、本編と全く関係なく50ページあまりも執拗に描かれるのである。その長さと描写の克明さは、登場人物の性格の肉付けをするためというにはあまりにも異常だ。この一章には作者S・キングのアルコールというもの、そして酒を飲む、という行為への苦さと破滅的な憧憬が詰りまくっていた。アル中小説として読んでも白眉であると思う。
酒を飲む、という事は、ちょっとづつ死んで行く事なのだ。飲酒癖と自殺願望を結び付けて語られる事は多いけれど、逆に見れば、自分の現実をその都度リセットしたい、という人間的な願望なんじゃないのか。どっちにしろ、「自分であること」に強い訴求力を持ってる人のほうが酒好きなような気がするな。ただオレは、「酒は物事を解決しない。酒は物事を先送りさせるだけだ。」という一言が、酒のある面を説明しているのも確かだと思う。
ところで最近は実は酒の量は減っている。歳のせいもあるが、やることが有り過ぎて酒を飲んでいる暇が無いのである。(なにやってるかって?日記の更新さ!!)飲んじゃうと眠っちゃうからである。そういった意味では、オレはもう空虚でも孤独でもないのかもしれない。まあ、会社から帰って来たら取りあえず一杯遣るけどな。グビ。