フェリーニの『サテリコン』を観た

サテリコン (監督:フェデリコ・フェリーニ 1969年イタリア・フランス映画)

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イタリア生まれの世界的な映画監督、フェデリコ・フェリーニには特に思い入れがあったりするわけではない。まず代表作である『道』を観ていない。同じく代表作である『甘い生活』『8 1/2』『アマルコルド』あたりはどれかを観ている筈だが、なにしろ観たのが遠い昔だからどれも頭の中でごっちゃになっている。その感想も「フェリーニってなんだか脂っぽいなあ、胸焼けするなあ」といった程度である。

ただ、ホラー・オムニバス映画『世にも怪奇な物語』における監督作『悪魔の首飾り』の悪夢的な映像にはひたすら感嘆した。これはオレが今まで観たホラー映画の中でも白眉といっていい。そしてもう1作、オレにとってフェリーニといえばこれだ、これしかない、という作品が今回紹介する『サテリコン』である。

サテリコン』は皇帝ネロ統治時代の古代ローマを舞台にした作品である。しかし歴史モノといったテーマから想像できるような豪華絢爛たる勇壮な物語では全く無い。もうこれっぽっちもない。それは古代ローマを舞台にしたアンモラルで不快で不気味な映像がこれでもかこれでもかと畳みかけて来る異様な作品である。観ていて胸やけを起こしそうな脂っぽい映像がひたすら描かれてゆくのだ。

物語もあるような、無いようなものだ。発端は主人公である美青年、エンコルピオが愛する少年奴隷ジトーネを親友のアシルトに奪われるところから始まる。そこからジトーネを追い求めるエンコルピオの様々な土地を舞台にした地獄巡りの如き遍歴が描かれる、というのがこの物語だ。それは古代ローマの酒池肉林から始まり、海賊船に捕縛され奴隷にされ、その後ミノタウロスと戦う羽目になり、さらに性的不能を治す女呪術師に会いに行く、などなどといったエピソードが脈歴無く続いてゆく。

その映像はひたすら毒々しく、不潔で、不快で、土俗的で、タガが外れたような狂気に満ちている。登場する人間たちの行動規範も、動物的なまでに野蛮で、利己的で、おぞましい程に淫蕩で、現代の倫理観を一切拒絶する、不条理極まりないものとなっている。しかし、にもかかわらず、この作品には、強烈な磁場の様な、思わず見入ってしまう悪魔的な魅力がある。そして観ていくうちに、これら映像と物語が、美しい、と思わされてゆくのだ。

これらアンモラルで不条理な物語になぜ魅力を感じるのか。それは「アンモラル」と「不条理」はどこに根差すのか、ということである。それらは、あくまで近代的な価値観に過ぎない。そしてヨーロッパ的に言うなら、それはキリスト教的な倫理観を端緒に持つとも言える。映画で描かれる古代ローマキリスト教以前のものであり、それが現在の規範でどれだけアンモラルであろうと、当時はそれが人間の姿でもあったのだ。もちろん古代ローマが全て映画で描かれるような世界であった筈も無いが、要は現在当たり前だと思われている価値観を、古代ローマを材にして相対化し揺さぶりをかけたのがこの作品だということなのだ。これはキリスト教圏に住む人間にとっては恐るべきものであったろう。

しかしこれら地獄巡りの物語は、冒頭こそ息苦しい程陰鬱でおぞましいものとして描かれるが、エンコルピオがその旅の遍歴を重ねるごとに、どこか滑稽であったり、美しい抒情を湛えるものであったり、哀切極まる悲劇であったり、解放感に溢れたものであったりと変遷してゆく。それはダンテの『神曲』の如き地獄から煉獄を経て天国へと至ろうとする旅のようだ。つまりこの物語は露悪趣味だけで構成されたものではないという事だ。まあもっともらしく書いているがオレは『神曲』なぞ読んではいないのだが。

オレはこの作品を最初10代の頃のいつだったかに、TVの深夜枠の映画放送で初めて観た。なんだかよく分からなかったが、とてつもなく異様で異質なものを観せられた、という強烈な印象を覚えた。それからずっと、「あれはなんだったのだろう?」と気になり続けていた。その後ビデオで見直したと思うが、その時も「なんなんだろうこれ?」ともやもやだけが残った。そしてこの年になりやはりどうにも気になり、ブルーレイ化されたということで購入して観たのだ。そしてブルーレイの鮮やかな映像で観たこの作品の真価を、オレは今更になってようやく理解できたような気がする。

このブルーレイの解説が素晴らしくて、実はこの作品が、キューブリックの『2001年宇宙の旅』から少なからず影響を受けていたりとか、タイトル『サテリコン』が「サテュロス(のごとき好色の無頼漢)の物語」という意味であったりとか、主人公二人は当時世界を席巻していた「ヒッピー」たちの生き方にインスピレーションを受けていたりとか、目から鱗の様な様々なことが書かれており大変視聴の参考になった。

今やどんな映画でもオンデマンドで視聴できるようになったが、この作品の様な古い名作ヨーロッパ映画は殆どセレクトされていないと思う。しかも映像のリストアされた作品となるとなおさらだ。そしてこういった作品を地道にディスクで販売し続ける販売会社の心意気には頭が下がるばかりだ。このディスクにはTV公開時の吹き替えが入ってるばかりか製作ドキュメント『フェリーニ サテリコン日誌』(60分)も収録されている。おまけに「字幕を映像に重ねず画面外の黒オビに表示するオプション」なんてものまである。暫く迷いながらやっと購入したブルーレイだが、これは作品内容や映像も含め実に充実した商品だった、ということも最後に付記しておきたい。

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ウラジーミル・ソローキンの『テルリア』を読んだ

■テルリア/ウラジーミル・ソローキン

テルリア

21世紀中葉、世界は分裂し、“新しい中世”が到来する。怪物ソローキンによる予言的書物。“タリバン”襲来後、世界の大国は消滅し、数十もの小国に分裂する。そこに現れたのは、巨人や小人、獣の頭を持つ人間が生活する新たな中世的世界。テルルの釘を頭に打ち込み、願望の世界に浸る人々。帝国と王国、民主と共産、テンプル騎士団イスラム世界…。散文、詩文、戯曲、日記、童話、書簡など、さまざまな文体で描かれる50の世界。

ウラジ-ミル・ソローキンといえば現代ロシアを代表するポストモダン作家であり、オレ自身は『青い脂』しか読んだ事がないのだが、そこではSFとも寓話ともつかない異様なヴィジョンに満ちた物語が描かれていた。そのソローキンの2013年に発表した作品がこの『テルリア』となる。

舞台は近未来のロシア/ヨーロッパ、そこでは戦争によりそれまでの国家が多様なイデオロギーを持つ数10の群小国家へと分裂していた。資源の枯渇によりハイテクとローテクが混在した世界では国家体制も退行し、あたかも中世の如き社会に小人や巨人や亜人といったバイオテクノロジー生物が闊歩し、それ自体がグロテスクな童話の如き世界と化していたのだ。

ただしこれら異形と化した未来にはひとつのキーワードが存在する。それは「テルルの釘」と呼ばれる覚醒物質だ。この釘を頭蓋に直接打ち込むことにより人智を超えた能力と認識を得る事が出来るとされているのだ。そしてその「テルルの釘」の原産国が「テルリア」というわけなのである。作品は各々がほぼ関連性の無い50の章に分かれた物語で描かれ、それらがひとつのパッチワークとなって幻想の未来世界の全体像を露わにする仕組みとなっている。

とまあそんなお話なのだが、読んでいて正直、疲れた。「近未来の異形化したロシア/ヨーロッパ世界」の50に断章化されたヴィジョンは確かに相当の想像力を感じる事が出来るし、そのグロテスクな描写や退行した世界の御伽噺じみた不気味さは十分に伝わってくるのだが、なにしろ50の章それぞれで登場人物も内容も文体も違うので、章が変わるたびに脳内でいちいち情景をリセットしなければならず、「物語の流れに乗って読む」ことがし難かったんだよな。おまけに章そのものの一つの物語がある訳ではなく、あくまでも起承転結の無い一つの点景が描かれるだけなんだよ。それが疲れた原因。せめて連作短編の形で充実した物語の連鎖によって全体を構成するとかしてくれてたらなあ。

とはいえこれはオレの頭が付いて行かなかっただけで、読んだ方の評判は結構イイみたいだから、まあオレには合わなかったということなんだろうなあ。面白かったのは近未来を舞台にしながらも決してSF小説って感じではなく、しかも物語の中心になるのが覚醒物質ということで、斜陽の未来にドラッグだけが崇め奉られる、ある意味とてもペシミスティックなヨーロッパ像を描いた作品だと言う事もできるかもしれない。

テルリア

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21人vs1万人の戦い/映画『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』

KESARI/ケサリ 21人の勇者たち (監督:アヌラーク・シン 2019年インド映画)

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19世紀末、当時の英領インドとアフガニスタンの国境にあったサラガリ砦は通信中継地点として21人のインド人シク教徒が駐留しているのみの小さな砦だった。しかし、列強支配を快く思わないアフガン族部族連合は国境侵攻を画策、まず第一の標的としてこのサラガリ砦制圧を目論んだ。その数は1万人。1897年9月12日午前9時、こうして21人vs1万人の絶望的な戦いが幕を切ったのである。

今年インドで公開され大ヒットした歴史大作『ケサリ 21人の勇者たち』は史実に残る熾烈な戦闘に脚色を施し製作された作品だ。「ケサリ」とはサフランサフラン色のことを指し、これは「勇気と犠牲」を意味するものとされ、インド国旗にも使用されている。物語は武勇の誉れ高いシク教徒たちが「ケサリ/勇気と犠牲」の信念のもと、死を賭けた戦いを繰り広げる様が描かれてゆく。

主演は『パッドマン 5億人の女性を救った男』、さらに日本公開が待たれる超大作『ロボット2.0』のアクシャイ・クマール。主人公の妻役として『僕の可愛いビンドゥ』『Hasee Toh Phasee』のパリニーティ・チョープラー。監督はパンジャーブ語映画のヒットメーカー、アヌラーグ・シン。また、アクションスタッフとして『マッドマックス  怒りのデス・ロード』のローレンス・ウッドワードが参加している。

冒頭から巧いシナリオだと思わされた。命を奪われそうになったパシュトゥーン人の女をイギリス人上官の命令を無視してまで助けようとする主人公イシャル・シンの姿を通し、彼の気高さと真正さ、そして勇猛さに溢れた性格をまず印象付ける。同時に、彼の仲間であるシク教徒たちの、規律正しさと同胞愛もまた描く。

そんなイシャル・シンを見下し罵倒する英国人の姿から彼らの傲岸さと、彼らに隷属しなければならないイシャル・シンやシク教徒たちの苦々しい立場も明らかになる。そして怒りを堪え耐え忍ぶイシャル・シンの表情から、彼の高いプライドが見え隠れする。さらに時折イシャル・シンの妻の姿が妄想となって彼に語り掛け、彼の家族愛の深さを知らしめることになる。これらが冒頭30分程度で全て説明されるのだ。

この物語のポイントとなるのは、主人公を始めとするサラガリ砦の兵士たちがシク教徒である、という部分だ。シク教徒はターバンに髭というインド人のステレオタイプの元になった者たちだが、実際はインド人口の1.7%に過ぎない。そんな彼らがなぜインド人ステレオタイプとして目されたかというと、その有能さから兵士として買われ、幾つものシク教徒連隊が作られ英領に派兵され、それが他の国で目にしやすいインド人であったということからのようだ。シク教徒は勤勉で勇敢で自己犠牲の強い者たちであるという事なのだ。そしてこの勇敢さが、たった21人で1万人の軍勢に対峙した最大の理由なのだ。

さて登場人物や時代的背景の説明が終わった頃に、いよいよシク教徒12人対アフガン族部族連合1万人の戦いへとなだれ込んでゆく。早い段階で他の砦からの援軍はほぼ不可能、ということも分かっている。文字通り孤立無援という訳だ。そしてここからラストまで、血で血を洗う凄まじい戦闘が延々と続くことになるのだ。

孤立無援の籠城戦ということでは「アラモの戦い」を思わせ、圧倒的に多勢に無勢の戦闘という事では300人のスパルタ兵士が100万人のペルシア軍勢と戦いを繰り広げる映画『300《スリーハンドレッド》』の元となった「テルモピュライの戦い」を思い起こさせることだろう。倒しても倒しても雲霞の如く湧き上がり迫りくる敵の姿からはゾンビ映画すら連想させられるが、いつ終わるとも知れない徒労に満ちた戦いの有様からは『ブラックホーク・ダウン』や『13時間 ベンガジの秘密の兵士』といった秀作戦争映画を彷彿させる作品でもある。

後半からの戦闘シーンは若干単調になる部分こそあるが、インド映画独特のエモーショナルな描写を交えることによって飽きさせない工夫がなされ、先に挙げた戦争映画にひけをとることのない非情さと迫真性に満ちた作品として仕上がっている。そしてなによりこの映画の中心的なテーマとなるのは「プライド」ということだろう。それはシク教徒としてのプライドということである。確かに、死を賭けてまで守らなければならないプライドなど度を越していると思えてしまうし、死や戦争それ自体を美化してしまう危険性もある。おまけにこの戦闘は”国を守る””愛する者を守る”などといった戦いですらないのだ。

しかしこの戦いの本当の矛先は、支配者である英国に向けられたものなのだろう。もはや英国を倒すすべはない。しかし被支配者であるシク教徒たちは、それに決して甘んじている訳ではない。ここで彼らが示した矜持は、いかに支配され蔑まれようとも、己の気高さと真正さは決して譲り渡してはいない、ということを誇示するためのものだったのではないか。彼らは、自らの中にある「尊厳」の為に戦ったとは言えはしないだろうか。

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インド映画『シークレット・スーパースター』を観た

シークレット・スーパースター (監督:アドベイト・チャンダン 2017年インド映画)

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インド映画『シークレット・スーパースター』はシンガーになる夢を持つ少女とその夢を阻む暴力的な父親との確執を描く人間ドラマだ。粗筋はこんな感じ:

インド最大の音楽賞のステージで歌うことを夢見る14歳の少女インシアだったが、厳格な父親から現実味のない夢だと大反対され、歌うことを禁じられてしまう。それでも歌をあきらめられないインシアは、顔を隠して歌った動画をこっそりと動画サイトにアップ。ネットを通じて彼女の歌声は大人気を博す。やがてインシアは、落ち目の音楽プロデューサー、シャクティ・クマールと出会うこととなるが……。(映画.com) 

 主演のインシアに『ダンガル きっと、つよくなる』のザイラー・ワシーム、怪しい音楽プロデューサーに『きっと、うまくいく』『PK』『ダンガル きっと、つよくなる』のアーミル・カーン。さらにインシアの母親ナズマを『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で主人公少女の母親役を演じたメヘル・ヴィジュ、父親役をアヌラーグ・カシャヴ監督の問題作『Black Friday』に出演したラージ・アルジュンが演じる。

この作品は幾つかの要素を含んでいる。それはまず「自分の夢を叶えたい」という少女の願いだ。もうひとつはそんな彼女の願いを「女のくせに」と一顧だにしない父親の無関心と無理解、その大元となる強烈な男尊女卑社会の在り方だ。そしてそんな中、娘の願いをなんとかして叶えてあげたいと祈る母親の愛だ。ここには現代的な価値観の中自分の未来をなんとしても掴み取ろうと奮戦する新しい世代と、旧弊な価値観に胡坐をかき己の男権的で強権的な支配の構造に疑問一つ抱かない古い世代との断絶がある。

インド映画に於いて一枚岩の様に頑固な父権社会と新しい考えを持つ若者との対立を描いた作品は幾つもある。それは『DDLJ』の如く結婚相手の父親の頑迷さであったり『家族の四季』のように強烈な父権支配の中における家族のドラマを描いた作品であったりする。しかし物語はたいてい父親と若者との和睦によって完結し、父権の否定やそれを乗り越える所には至らない。その中で例外的に『Udaan』(監督:ヴィクラマディティヤ・モトワーニー 2010年インド映画)のみ、徹底的に父親の否定を描くが、逆にこれ以外に父権の否定を描いたインド映画をオレは知らない(探せばあるんだろうが)。

とはいえこれらは(父親という)男と(息子という)男の、男と男の睨み合いを描いたものである。そしてその「息子という」男はいつか「父親という」男になるのだが、物語が和睦によって完結する以上批判は存在せず単なる現状維持の世代交代があるだけということになってしまう。男と男はなぜ和睦するのか。それは強固な家族制度を維持する為である。家族主義を基本とするインドでは解体した家族の孤独なぞ世界で最もおぞましいものであるのかもしれない。

しかしこれらの物語から零れ落ちているものがひとつある。それは「女」の存在である。

映画『シークレット・スーパースター』において、主人公少女インシアも、その母ナズマも、家長であるファルークによって、「女だから」というだけで全てを否定される。インシアは「女だから」自らの夢を追うことを許されず、長子として生まれなかったことを疎まれ、挙句に見知らぬ男と結婚させられそうになる。ナズマに至っては「女だから」どこまでもファルークへの従属を強いられ、ファルークの意思に反することをするなら徹底的な暴力が振るわれる。それは、「女だから」そのように扱っても構わない、という旧弊で頑迷な父権社会・男権社会の習わしだからだ。家父長制において女は男にかしずき隷属し常に男の意のままに生きなければならないからだ。

物語はこれら太古の恐竜の如く生き残る醜悪な父権制の中で否定され翻弄され続ける主人公が、どのように生きる希望を掴み取ってゆくのかが大きなテーマとなる。そしてその希望とは、シンガーになるという夢であり、その夢を叶えるための第一段階がYouTubeだった、というのがこの物語の面白いところだ。家族主義という「囲い込み」の中で不幸を背負った主人公が、インターネットという開いた世界で希望の切っ掛けを掴む。そこには自分を発見し認めてくれる者がいる、というだけではなく、家族主義というヒエラルキーから脱した、各々が等価な世界が広がっていたのだ。そこには新しい価値観があり、多くの出会いがある。そしてそのネット世界の中でインシアが出会ったのが、落ち目の音楽プロディーサー、シャクティ・クマールだったのである。

アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールが登場し調子っぱずれの怪気炎を上げ始める所からこの映画は俄然ドライブが掛かり始める。「父権制の不条理」や「女性の虐待」といったシリアスな問題提起だけでは真摯でありつつもシビアな社会派ドラマで終わってしまったであろう部分を、アーミル・カーンの登場でいきなりファンタジックなエンターティメント作品に捻じ伏せてゆくのである。それだけアーミル演じるシャクティ・クマールは怪奇極まりない男なのだ。

実の所シャクティもまた傲岸不遜なマッチョ・キャラでしかない。トラブルメーカーである彼はある種の社会病理者であり社会不適合者であるとも言える。しかし音楽業界という魑魅魍魎の蠢く世界で、優れた才能と権勢を持って生きていたからこそ彼のイビツさは黙認されていたのだ。しかしあまり好き勝手やり過ぎて今や干される寸前だ。そんな彼が一発逆転を狙い発掘した才能がインシアだったのである。

シャクティのマッチョ・キャラはそれ自体が男権社会のカリカチュアでありパロディとも言える。しかしファルークが男権社会の負の部分を体現していたのに対し、シャクティは「下品だが頼りになるおっさん」という、しょーもないことはしょーもないが巧く活用すれば役に立つこともある「男の甲斐性」を見せてくれるのである。陰鬱なファルークの「父権制」に対して調子っぱずれなシャクティの「男の甲斐性」をぶつけることにより、「男権的なるもの」が「対消滅」を起こす、というのがこの物語の構造なのだ。

こうしてダメな男たちの物語は「対消滅」を起こして終わる。一方は唾棄すべきものとして、一方はかつて後見人であった素晴らしい人として。男たちの物語が終わった後に、女であるインシアの、人生という名の物語が始まる。それは一人の、何にも束縛されない個人の物語だ。かつて彼女は”秘密の”スーパースターだった。しかしこれからは、誰にも何にも臆することの無い、彼女自身の人生のスーパースターとして生きることだろう。


映画「シークレット・スーパースター」日本版予告編

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僕と怪獣と屋上で

母の葬儀の後、弟と一緒に遺品整理をしていた。2015年の冬の事だ。その時出てきたのがこれらの写真だった。子供時代のオレが、着ぐるみの怪獣たちと一緒に映っている写真だ。中央の、熊の絵の鉢巻きをして、不安そうな顔で明後日の方角を観ているのが子供の頃のオレだ。子供の頃、とは言っても、幾つぐらいで撮った写真なのか正確な所は憶えていない。4歳なのか、5歳なのか、6歳なのか、はたまた7歳なのか。まあ、その位の年の写真という事だ。

場所は、当時地元で一番大きなデパート、その名も「高林デパート」の屋上だ。ちなみに「地元」というのはオレの生まれ育った北海道の、稚内という街だ。知ってる方も多いと思うが、稚内というのは日本の一番北の街だ。海の向こうにはロシア領のサハリンが見える。要するに限りなくロシアに近い土地なのだ。サハリンは第2次世界大戦前まではその半分が日本の領土で、樺太と呼ばれていた。それが終戦間際に当時のソ連が侵攻し占領し自国の領土とした。ロシアに限りなく近い土地である稚内には自衛隊基地があり、ロシアへの軍事的警戒のためだろう、レーダーサイトまである。オレが子供の頃まではアメリカ軍も駐留していた。

 

多分この「高林デパート」の屋上で、子供たちを集めて怪獣の着ぐるみショーとかいうのをやっていたのだろう。地元で一番大きなデパートとは言っても、なにしろ北海道の僻地にあるデパートなので、4階建てぐらいの建物だったと思う。しかし当時地元では、4階建て以上の建物というのは、このデパートと、あと市役所と市立病院ぐらいだったのではないか。確かエレベーターが設置された商業施設もここが一番早かっただろう。それだけまあ、地元では一番のデパートだった。多分、僻地とはいえ、当時の高度経済成長で、地元が活気づいていた頃でもあったのだろう。

そして僻地に住む小さな子供にとっては、このデパートに行く事は大きな楽しみの一つだった。それはまず、玩具コーナーの充実だ。そして最上階にある、レストランの充実だ。子供の頃は家族でこのレストランに行って、ラーメンとソフトクリームを食べるのが一番の楽しみだった。家族でデパートに出掛けるというのは、それはある種、田舎暮らししか知らない人間にとっての、豊かな生活のステータスだった。そんな高林デパートではあったが、オレが成人し地元を離れた後に倒産してしまった。話では店員に予告なくデパートを閉めたのらしく、何も知らされず出勤した店員たちがシャッターの開かない店の前でパニックになっていたという。

出てきた怪獣の着ぐるみの名は、円谷特撮TV『ウルトラマン』に登場したネロンガと、 ギャンゴと、そしてこれは怪獣ではないのだが、『キャプテン・ウルトラ』に登場したハックという名のロボットの3体だった。オレはなにしろリアルタイムで『ウルトラマン』をTVで観ていた子供で、そしてこの怪獣というヤツが大好きだった。あまりに怪獣が好き過ぎて、小学校に上がる前に「怪獣」という漢字を覚え、それをノートに落書きしていたぐらいだった。だから当時も、「そんな怪獣に会える!」と喜び勇んでいった筈なのだが、実際出会った怪獣の着ぐるみが怖くなり、泣き出してしまったのだという。写真をよく見ると、確かにオレの顔は、今にも泣き出しそうな、微妙に歪んだ表情を浮かべている。

しかしオレは実ははっきりと覚えているのだが、「怖い」という感情とはちょっと違っていた。オレがそこで出会った怪獣の着ぐるみは、すっかりヨレヨレになり、ブカブカな上に皺だらけで、あちこちには修繕した跡まであり、TVで観た彼らとは何か別のものに成り下がっていたのだ。おまけに、着ぐるみの素材なのだろう、ウレタンか何かの、化学製品の臭いがとてつもなくきつく、その臭いに、気持ち悪くなってしまったのだ。そんな「気持ちの悪い何か」が、オレの傍によってきて、頭を撫でたり肩を抱いてきたりしてきたものだから、オレは耐えられなくなってしまったのだ。

ところで、この写真を撮ったのは、オレの母方の叔父になる人だった。確か当時はまだ二十歳そこそこだったのではないかと思う。叔父は、母の実家である函館のさらに奥地の田舎に住んでいたが、あまりの田舎さに嫌気が差し、そこよりは多少都会ではある稚内に住む姉(=オレの母)を頼ってやってきていたのだ。そしてその叔父はまだ子供のオレを大いに可愛がってくれていた。映画や漫画の好きだった叔父は、このオレをいつも映画館に連れ出してくれたし、漫画雑誌を買い与えてくれていた。絵をかくのも好きで、部屋でいつも訳の分からない絵を描いていた(正確には、障子に書いていた)。オレの今の漫画や映画の趣味の幾ばくかは、この人の影響が大きいだろう。

叔父は中卒で、手に職を着けようと理容師の見習いをしていたのだが、実験台としてよくオレの髪を切っていて、そしていつも虎刈りにされていた。「虎刈り」というのは虎の模様の様に髪の毛の切り方がまばらで不揃いになっている事を言う。オレはこの叔父の務める床屋にもよく通っていて、ここで終始漫画雑誌に読み耽っていた。

その叔父が孤独死していたのを知らされたのは去年の事だった。叔父は数十年前から東京に移り住んでおり、オレが上京した時もとても世話になっていた。だがこの頃から叔父には人嫌いの性向が出始め、その後の引っ越し先もオレにも血縁の者にも知らせず、叔父の母(=オレの婆ちゃん)が亡くなった時も、誰一人として連絡先が分からず結局葬式に来なかったほどだった。上京してから会った叔父は、いつもどこかで学歴の低さと、学歴が低いばかりにあまんじなければならない職業の安い賃金に溜息をもらしていた。コツコツ貯めた金でなんとか念願だったバーを開店したが、バブル経済時期だったこともあって最初はそこそこに流行ったものの、その後客足が途絶えいつの間にか引き払ってしまっていた。そしてその後叔父は行方不明になっていたのだ。

孤独死の知らせは警察から母方の伯父に行き、DNA鑑定の依頼がまず最初だった。死の直前まで伯父がどこでどんな暮らしをしていたのかオレは知らない。そしてオレは、この怪獣たちとオレの写っている写真を見ながら思ったのだ。この写真を持っていた母も、この写真を撮った叔父ももうこの世におらず、であるなら、この写真の情景を記憶しているのは、この怪獣たちを記憶しているのは、もうこの世でオレだけなのではないかと。

いや、確かにこのデパートの屋上にやってきていた何人もの子供や親たちの中には、まだ覚えている人もいるのかもしれない。しかしオレが言いたいのはそうじゃなくて、このオレと情報を共有していた人間が誰もいなくなるということなのだ。年を取るというのはこういうことでもあるのか、と思ったのだ。高林デパートも、高林デパートの屋上の怪獣も、オレがそこで泣いたことも、そこでオレの写真を撮った叔父も、彼がどんな人間だったかも、知っている人間が誰もいなくなってしまう。確かに時の流れというのはそういうものなのかもしれない。他愛の無いあれやこれやの記憶など、忘れ去られるのが常であろうし、覚えていたからと言って何の役に立つというものでも無い。ただ、それがゼロになってしまう、虚無に還ってしまうというのが、なんだか侘びしく感じて仕方ないのだ。

 だから、オレは思ったのだ。こうしてブログにして、あの当時の事を何がしかの文章にしたため残しておくのなら、それを読んでくれる人が何人かはいてくれるだろうと。そして数分でも、数時間でも、その人の記憶の中で、これらの出来事が生き返るのだろうと。あの日、オレと怪獣はデパートの屋上にいた。天気のいい日だった。デパートのラーメンとソフトクリームは絶品だった。あの頃、家族そろってデパートに行くのがとても楽しみだった。今はいない父親がいて、母親もいた。多分オレは、幸福だった。そんな時代が、オレにもあったんだよ。