だから朝は憂鬱なんである

■(一)到着
どんなに気苦労があっても辛い事があっても、顔で笑って心で泣いて、苦しくったって悲しくったって、コートの中では、ではなくて、日記の中では愚痴を書かない、あたかも『蒲田行進曲』のヤスのように健気なオレであるが、そんなオレでも思いっきり憂鬱な事があるのである。それは朝の会社の鍵開けなんである。シフトの関係で、オレは会社で一番早く出社する男なのである。なにしろオレはゲンバだからな。本社に一回立ち寄ってタイムカード押してからゲンバに行かなければならないので、どうしても朝早くなってしまうんである。まあそれはいい。問題は、この本社の入っている雑居ビルの地下にある警備室まで、事務所の鍵を取りに行かねばならない事なのである。たかが地下の警備室、と思われるかもしれない。しかしここへ降りてゆくには、冥府へ立ち入るが如きおぞましさに耐えねばならないのである。

地下2階にある警備室に行くには、裏口の階段を降りるか貨物用エレベーターに乗らなければ行く事が出来ない。しかしこの裏口の階段と貨物用エレベーターは、雑居ビルの各テナントが出したゴミが一様に集められ搬送される為にも使われているのである。玄関から入ってトイレ脇のドアから薄暗い裏口通路に足を踏み入れると、壁中に染み付いたゴミの臭いがいっせいに体中にまとわり付いてくる。そこの空間だけが寒天か何かで出来ているようにねっとりとした濃度を持っているのである。夏場の暑い時期はさらに臭いの致死量がアップし、酸味とエグ味が匠の技のように程よくブレンドされたその腐敗臭は、何かの生物兵器かと思えるほどに心地よく鼻腔を刺激して止まないのである。

■(二)潜入
裏口に入ったら階段を下りてゆくか貨物用エレベーターに乗るのか決めなければならない。貨物用エレベーターは閉じられた空間なのでゴミの臭いがさらに濃密になる。さしずめトロトロ煮込んだゴミスープの様な濃密さである。階段を降りるなら濃霧のように漂うゴミ臭を掻き分け全身にゴミ臭粒子を万遍無く付着させながら進まねばならない。ゴミ臭粒子を体にまとったオレは、見てくれこそ変わらないものの、気持ちの中ではタールの沼から這い上がり、ドロドロのタールを撒き散らしながら町をパニックに陥れる魔人タールマンと化したような気分である。さらに階段は踊り場ごとにドアがあるのだが、ここでも命を奪うような危険なトラップが用意されている。ここのドアの取っ手が、いつもぬるりとしているのである。

さらにこの裏口階段と貨物用エレベータのあるフロアにはもうひとつ、オレをブルーにさせる存在がいる。それは掃除のオジサンである。早朝からビルの各フロアを掃除しているオジサンだが、四六時中のべつまくなしに独り言を言っているのである。それも囁き声ならまだしも、普通に誰かと会話をしているような大きさの声でだ。さらに独り言だけではなく、呻き声や叫び声までもあげている。何かココロとかなんとかに御不自由を抱えている方なのであろうが、薄暗い階段を降りようとする時にこのオジサンの「うあああああああああ」とかいう叫び声や「やってない俺はやってない」という独り言が聞こえてくるとかなり気が滅入るんである。

■(三)崩壊
さてこの難関を切り抜けて警備室に辿り着くと、警備員のおじさんから鍵を貰わなければならないのだが、勿論きちんと職務を遂行されている方達なのだが、深夜のシフトも明ける時間帯なので、警備室にはうっすらと饐えた様な疲労の空気が漂っているのである。朝会社に出てきて、やる気があろうが無かろうが、今日一日の仕事を遣り遂げねばならないものにとっては、朝一番に疲労感に満ちた空気を吸わねばならぬのは堪えるのである。しかもそれが瘴気に満ちたゴミ臭空間を追われるように通り抜けた後となってはなおさらである。「ご苦労様です…。鍵をお渡しします…。」警備員のおじさんが風船から空気が抜けていくような疲れた声でオレに囁く。「おはようごじゃります…。ありがとうです…。」すかしっ屁だってもっと元気だろ、と思わせるようなヘロヘロの力ない声でオレは返す。

そして満身創痍、仕事が始まってすらいないのに身も心もボロボロのオレは、今来た道を遡り、オレの会社の事務所へと泣きながら辿り着くのだ。だがしかしまだ終わりではない。鍵束には鍵が二つ付いており、どちらかが事務所の扉の鍵なのだが、これは挿してみないとわからない。もはやすっかり心の折れきっているオレにとって、最初に挿した鍵が入るか入らないかという事は、おそろしく重要な問題なのである。そして案の定鍵は入らない。そこで極限まで高まったオレのストレスは、脳天を突いて一気に爆発するのだ。「ウッキーーッ!!」オレは絶叫する。絶望的な朝に最後の止めを刺されて。「うぉおぉおぉお」掃除のオジサンがそれに唱和する。かくして、朝が来るたび、オレは壊れてゆくのである。