世界は聴こうとなんかしない。/映画『ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド』

ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド (監督:スティーブン・キジャク 2021年イギリス・アメリカ映画)

f:id:globalhead:20211212182436j:plain

Heaven Knows I'm Miserable Now(天は僕が今惨めであることを知っているんだ)

数十年前、オレがロックを聴くのを止めよう、と思ったのは、イギリスのロック・バンド、ザ・スミスの音楽にあまりに傾倒し過ぎてしまったからだった。

ザ・スミスのヴォーカル、モリッシーの書くその歌詞は自虐と自己否定と孤独とやりきれなさに満ちていた。実際そういった曲ばかりではないのだが、少なくともオレは辛い気持ちを歌った曲が好きだった。そしてオレはそれらの曲の幾つかがまるでオレ自身のことを歌っているかのような錯覚に囚われた。

とりわけオレの心を苛んだ曲の一つは「I Know Its Over」だった。この曲は「プライドだけはやたら高い君が今夜も独りぼっちなのはなぜなんだ?君の見下している連中が友人や家族や恋人と過ごしているこの夜に?」と歌っていた。もう一曲は「Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me」だ。それは「昨夜、誰かに愛されている夢を見た。でもそれはまやかしだし、それが本当になる事なんか無いのかもしれない」という絶望を歌っていた。

全てが、あの頃オレを苛み続けていた惨めさを表現しつくしていた。そしてオレは傷を舐めるようにそれらの曲を聴き続けていた。しかしいつしかそれに耐え切れなくなってしまったのだ。惨めさを意識し続けてもそこから逃れられるわけではないからだ。だから、その感情から離れてしまいたかった。そしてオレは己の惨めさを封印する為に、ロックと、ザ・スミスを、自身から封印したのだ。

There Is A Light That Never Goes Out (決して消えない光がある)

f:id:globalhead:20211212171556j:plain

映画『ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド』は、そんなザ・スミスの解散を知ったアメリカの若者たちの、一夜の出来事を描いた作品だ。

【物語】1987年、コロラド州デンバー。スーパーで働くクレオは、大好きな「ザ・スミス」解散のニュースにショックを受け、レコードショップの店員ディーンに「この町の連中に一大事だと分からせたい」と訴える。ディーンはクレオをデートに誘うが、彼女は仲間たちとパーティへ出かけてしまう。1人になったディーンは地元のヘビメタ専門ラジオ局を訪れ、DJに銃を突きつけて「ザ・スミス」の曲を流すよう脅す。一方、クレオと3人の仲間たちはパーティでバカ騒ぎをしながらも、それぞれ悩みを抱えていた。

ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド : 作品情報 - 映画.co

この物語は1988年に実際に起きたザ・スミス・ファンによるラジオ局占拠未遂事件が着想の元になっているという。同時に、ラジオDJを襲うというのは「(世の趨勢に関心の無い)DJを吊るせ!」とアジるザ・スミスの曲「Panic」から来ているのだろう。映画では”決して消えない光”、ザ・スミスのヒット曲の数々が物語の流れや登場人物の心情とシンクロしながら流れ続け、それらの曲がただ流れてくるだけでかつてザ・スミス・ファンだったオレは訳もなく涙腺を刺激され、物語とは別の部分で終始感情が千地に乱れてまくっている有様だった。オレにとってザ・スミスは、やはり今でも心の傷を思い出させるバンドなのだ。

Please, Please, Please, Let Me Get What I Want(お願いだ、僕の欲しいものを手に入れさせてくれ)

f:id:globalhead:20211212171543j:plain

この作品に登場する若者たちの、その苦悩や気鬱やつまづきの様は、実のところハイティーンあるあるとでも言ってしまえるようなありふれたものだ。もちろんザ・スミス・ファンであるわけだからこじらせた連中ばかりなのだが、かと言って何か特記するものがあるわけではない。ただ「ありふれた」ものだからこそ若者の普遍的な苦悩という事もでき、それをザ・スミスの曲で彩ることにより、非常にビビッドな情感の発露として見せることに成功しているのだ。

そしてこの物語をよくある「音楽青春モノ」と一線を画しているは、ここで描かれるラジオ局ジャック事件だろう。登場人物の一人ディーンはザ・スミスを偏愛するばかりに(ザ・スミス・ファンにとってはくだらない)ヘビメタ専門ラジオ局を占拠し、DJを銃で脅してザ・スミスの曲ばかりを掛けさせるのだ。ここにはこじらせた若者が陥り易いあらゆる過誤と短絡が凝縮されている。だがラジオ局のオッサンDJ、フルメタル・ミッキーは、ディーンとの対話を繰り返すことによりお互いの歩み寄る術を探ろうとする。

それは犯罪者と被害者の対話ではなく、大人と子供との対話だ。大人であるフルメタル・ミッキーは、ディーンを諭すのではなく、ディーンが何を感じ、何を思っているのか聞こうとする。そこにはミッキーの価値観と合わないものもあるが、思わぬ部分で合致する部分もある。そしてミッキーが自らの人生を語ることにより、ディーン自身にも「大人になるという事はどういうことなのか、何を受け入れ何を諦めるものなのか」ということが伝わってくる。こうしてディーンは大人になること、そうして生きることの学びを得るのだ。それはただ世界に「NO」と言うだけではないということだ。ここにこの物語の豊かで素晴らしい部分がある。

ザ・スミスの解散したその夜、若者たちはザ・スミスという燦然と輝く光を失ったけれども、失ったからこそ冴え冴えと見えてくる現実に、ようやく対峙しなければならないこと知る。現実はつまらくて、うんざりすることも多いけれど、音楽を通じて集った気の置けない友人たちが今はいる。だから、まだ今日という日は生きていけるじゃないか。つまづくことはこれからもあるだろうが、それは彼らをきっと成長させるだろう。そんなささやかな切っ掛けとなる一夜を描いたのが、この作品なのだ。