■Awaara (監督:ラージ・カプール 1951年インド映画)
映画『Awaara』は法廷の場面から始まる。ラジという男が裁判官ラグナスの殺人未遂容疑で逮捕されたのだ。女性弁護士リタはラグナスに問い詰める。「あなたにお子さんはいらっしゃらないんですか?」と。
そして時を遡り物語られるのは、かつて裁判官ラグナス(プリトヴィーラージ・カプール)が山賊に妻リーラを誘拐された事件だった。リーラはラグナスの子を身籠っていたが、ラグナスは山賊に狼藉されたための子だと思い込み、身重のリーラを冷酷にも追い出す。リーラは貧民街に身を落としラジという男の子(シャシ・カプール/子供時代のラジ)を生む。そう、実はラジはラグナスの息子だったのだ。極貧の中ラジ(ラージ・カプール)はコソ泥として育つが、ある日かつて幼馴染だった女性リタ(ナルギス)と再会し、激しい恋に落ちる。だがラジは自分が犯罪者であることを彼女に言うことができなかった。
1951年製作の、60年以上も前の白黒インド映画を、今の自分が観て面白いのだろうか?と思いつつ観始めたのだが、その考えは杞憂だった。杞憂どころか、これは素晴らしい名作じゃないか、と感嘆させられた。物語のテーマとなるのは貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛といったもので、それに親の身勝手から離別した子供、というドラマが加わる。今でこそこういったテーマはありふれたもののように思えるかもしれないけれども、1951年のインドにおいてはより切実で身に迫るものだったのではないか。インドで1951年といえば独立後まもなくであり、インド式社会主義が立ち上げられた時代でもあったが、経済のレベルは相当に低かったと聞く。
物語はそういった時代の理想と現実を相半ばしつつ描きながら、厳しい現実にあえぐものにいかにして希望の光を当てるのかに腐心する。母の胎内にいるうちから父に捨てられ、貧しさの中母を助けようと主人公ラジは否応なく犯罪に手を染める。そしてその犯罪の世界から足抜けすることができず彼はもがき苦しむ。そんな彼を救うのは誰だったのか。それはラジの愛しい女、リタであった。
リタのラジへの愛は、それは全人格的な愛だった。それはあたかも菩薩を思わすような比類なき慈愛であり、彼女はラジの貧しさも人生における過ちすらも全て赦し、そして二人いっしょに未来を築き上げようとラジを励ます。どん底に生きる貧民のコソ泥でしかない男に対するこのリタの愛はなんだったのか。男の夢の中だけの都合のいい女、実際には存在しない絵空事の女なのか。いや違う、彼女はその存在それ自体が【希望】というものの象徴だったのではないか。ラジの中の、希望を請い求める心、それがリタだったのではないか。さらにまた、厳しい現実の中で希望を失わずに生きるということの、製作者たちの代弁者がリタだったのではないだろうか。
このリタを演じる主演女優ナルギスが相当に素晴らしい。自分は以前彼女主演の『Mother India』を観た程度だが、この作品でも彼女はインドの母であり大地であり地母神であるものの象徴として登場した。『Awaara』では菩薩を、『Mother India』では地母神の化身を演じるナルギスだが、彼女自身が女神のような美しさと温かさを持った女優だったからこそ可能だったのだろう。また、物語の最初に彼女が弁護士として登場した時は、不遜ながらこの当時のインドでこのような前進的な女性像を描くことができたのか、と驚いた。
また、主演・製作・監督をラージ・カプールが務め、彼の才能とその底力を示した作品となっている。さらに彼の父プリトヴィーラージ・カプール、4男でラージと14歳年の離れたシャシ・カプールの共演もあり、役者親子の共演というのはインド映画では度々見られることだが、この作品ではまるで違和感を感じず、むしろはまり役だった。この作品は本国のみならず旧ソ連、中国 、トルコ、アフガニスタン、そしてルーマニアなどで大ヒットを記録し、カンヌグランプリ作品としてもノミネートされた、記念すべきインド映画もである。