デリーの異邦人が体験するインドのアンビバレンツ〜映画『Delhi 6』

■Delhi 6 (監督:ラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ 2009年インド映画)


イギリスのロック・シンガー、スティングに「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」というヒット曲があるが、この『Delhi 6』は「アメリカン・イン・デリー」ということができるかもしれない。

ニューヨークで生まれ育ったインド系アメリカ人、ローシャン(アビシェーク・バッチャン)は、故郷で死にたいと希望する祖母の為にインドの都市デリーへと移り住むことになる。インドの血が流れているとはいえ、ローシャンにとってデリーの町はあまりに異質な世界だったが、その喧騒と混沌、そしてそこに住む人懐こい人々に次第に魅せられてゆく。そして同時に、隣家に住む美しい娘、ビットゥー(ソーナム・カプール)の現代的でさばけた雰囲気にローシャンは惹かれていった。だがビットゥーには親の決めた相手との結婚話が持ち上がり、二人の関係に暗雲が立ち込める。折りしもその頃、謎の生物「黒い猿」の出現がデリーを恐怖に陥れ、それを巡りヒンドゥー教徒イスラム教徒の間で緊張が高まりつつあった。

こうして映画『Delhi 6』は、「異邦人の目から見たインドの古い町デリー」を、その驚きと戸惑いを描くことになる。通りに溢れる膨大な数の人、薄汚れた町並み、渋滞の続く道路、並び立つ市。悠久の時を経た建造物、イスラムの礼拝、ヒンドゥーの神像、夕暮れになると開催される神話の神の舞台劇。これら見慣れぬ文化と見慣れぬ習俗は、眩暈のようなカルチャーショックとなって主人公を魅了するが、同時にそれは、この映画を観る者もまた魅了するのだ。こうして映し出されるデリーの様々な光景は、そこに住むインド人には当たり前すぎて気付かないインドの素晴らしさを伝えながらも、インドの現実が抱える、カーストや貧富の差、暴力的な官憲、女性蔑視、宗教対立など、必ずしも明るいばかりではない側面も伝えることになるのだ。

美しいインドと醜いインドの狭間の中で、主人公ローシャンもまた自らの抱えるアンビバレンツに悩まされることになる。それはアメリカ人として育った合理的なアイデンティティと、自らの中に流れるインドの血という気質との葛藤だ。さらにローシャンは、ヒンドゥー教徒イスラム教徒の父母を持ち、そのような異教徒同士の駆け落ちの中で生まれた男だったのだ。アンビバレンツはローシャンの恋した娘ビットゥーにも存在する。露出度の高い服を着、「TVタレントとして活躍したい」と夢見るビットゥーは、インドの現代的な女性であるが、その彼女は親の決めた相手との結婚、というインドの古い因習に心を引き裂かれてゆくのだ。そして、ローシャンの抱えるアンビバレンツ、ビットゥーの抱えるアンビバレンツは、実はそのまま、5000年の歴史と著しい経済成長の狭間にあるインドそのものが抱えるアンビバレンツを描くものだったのだ。

その中でトリックスターのごとく物語の背後で蠢くのが謎の生物「黒い猿」だ。闇の中を跳梁跋扈し人々に悪さをする、と信じられている「黒い猿」だが、それはデリーの人々の間で囁かれる都市伝説であり、映画に実際に姿を現すわけではない。しかし謎の生物に対する不安と恐怖が、デリーに住む市民たちに次第に集団ヒステリーのようなパニックを引き起こし、いつしかその不安はヒンドゥー教イスラム教の代理戦争へと摩り替えられてゆくのだ。前半どこかしら長閑な観光映画のように綴られるこの物語が、後半二つの宗教間での暴動へと発展し、そしてそれはやっとお互いの気持ちを確かめ合ったローシャンとビットゥーを巻き込んでゆくのだ。その結末は映画を観て確かめてもらうとして、そもそもこの「黒い猿」とはなんだったのか。それはアンビバレンツの狭間でグジグジと発酵していった、インド人たちの鬱屈が形となったものだったのではないだろうか。

さてこの物語は、高い評価を得ている作品であるという以上に、実は映画『Raanjhanaa』で活躍していたインド女優、ビットゥー役のソーナム・カプールの美しさをもう一度確かめたい、ということから観てみることにした作品であった。いやーやっぱりソーナム・カプール、相当に美しいです。彼女の美しさを愛でる為にだけでも、この作品を観るのは惜しくはない。
http://www.youtube.com/watch?v=_4-ryg7sVeI:movie:W620
鳩を頭に載せて踊るソーナム・カプールが可愛過ぎる。A・R・ラフマーンの音楽も非常にモダンで素晴らしい。