選ばれし者の孤独と葛藤〜映画『エンダーのゲーム』

■エンダーのゲーム (監督:ギャヴィン・フッド 2013年アメリカ映画)

I.

映画『エンダーのゲーム』はオースン・スコット・カードによるSF小説の映画化だ。もともと短編小説だった作品を長編にリライトしたこの原作は、SF界で最も権威のあるヒューゴー/ネビュラ両賞を受賞している。日本では1987年に訳出され、SF小説好きだったオレもこのときに読んだおぼえがある。この『エンダーのゲーム』、本国では相当な人気を誇っていたらしく、物語のその後を描く『死者の代弁者』、『ゼノサイド』、『エンダーの子どもたち』など沢山の続編が書かれている。今回の映画化も、そうした人気が後押ししたものなのだろう。
物語の骨子は単純に言うなら宇宙戦争モノだ。時は未来、地球は外宇宙の昆虫型生命体フォーミックに侵略される。圧倒的な軍事力を誇るフォーミックだったが、一人の地球軍兵士による英雄的な行為により、その侵略はすんでのところで阻止される。地球軍はフォーミックの第二時侵攻に備え、地球の衛星軌道上に軍事訓練施設を設置、そこに世界中から選抜された少年少女が集められることになった。主人公エンダーもその一人。彼は人口抑制政策により第二子までしかもうけられない世界で、特殊な遺伝的特質を認められ生まれた"サード(第三子)"と呼ばれる子供だった。果たして天才的な戦略と戦術の才を開花させるエンダーだったが、抜きん出たその才覚は逆に彼を孤独へと貶めていた。そして訓練は日に日に苛烈なものとなっていった。

II.

この物語が「エンダーの"ゲーム"」というタイトルが付けられているのは、その肉体・精神の訓練課程が、全て"ゲーム"によって培われていることによる。戦闘のルールを理解し、自らの能力を把握し、相手の能力を見極め、攻略のポイントを探し、最も効果的な戦術に打って出る。これら一連の流れを瞬時に判断し実行できる能力、これをゲームによって訓練する、というわけだ。大人よりも柔軟で瞬発力に優れ、先入観の少ない思考を持った子供たちを訓練することで、困難極まりない戦況を打破する、そういった目論見によって『エンダーのゲーム』の訓練施設は作られたのだろう。大人より子供のほうが戦闘向き、という考え方は乱暴だが、むしろ、大人ではなく子供を戦闘に駆りださぜるを得ない、ということの不条理がこの物語の根底になるのだ。
確かにことゲームに関しては、年齢の若い方の方が柔軟な思考で瞬発力のあるプレイをしている、とは一人の老人ゲーマーとして思う。まあオレがヌルいゲーマーなのは年齢のせいばかりではなく、適当な性格のせいもあるがな!軍事とゲーム、ということであればアメリカ陸軍が企画・製作した「America's Army」というFPSゲームが存在し、これは無料で配布されている。勿論FPSゲームが上手いからといって実戦でも巧みな戦闘ができるということは有り得ないが、新兵リクルートの窓口として採用された、ということなのだろう。また、コンピューターのモニター越しに行われた戦争、ということで湾岸戦争が「ニンテンドー・ウォー」と呼ばれたこともあった。『エンダーのゲーム』は、そういった"ゲーム世代"による戦争を物語化した作品として、ゲーム好きな若者にとって求心力をもっているのだろう。
映画のほうは『スターシップ・トゥルーパーズ』のような昆虫型生命体との宇宙戦争という世界観を背景に、『フルメタル・ジャケット』前半のような訓練課程を描く、というものになっている。鬼軍曹なども出てくるが、ここはリー・アーメイに演じてもらいたかったと思ったほどだ。宇宙戦争モノとは言っても異星生命体との白兵戦が描かれるわけではない。『スター・トレック』のように宇宙空間で宇宙船同士のビーム砲撃ち合いがあるわけでもない。ではなにが物語の中心となるのか、というと、"戦闘の天才"として見出された主人公エンダーの、「選ばれし者の恍惚と不安」ならぬ「選ばれし者の孤独と葛藤」がこの物語の中心となっているのだ。

III.

主人公エンダーは最初から"戦略・戦術の天才"として登場する。映画ではきちんと説明されていないが、エンダーはそもそもが天才の遺伝的特質を持つものとして生を受けている、ということになっており、映画はいかに彼が天才的な素質を持ったものであるか、そしてその素質にどのように磨きがかけられてゆくか、を描くことになるのだ。平凡な人間が艱難を乗り越えて成長する、といったよくあるような成長譚ではなく、「選ばれし者」が主人公である物語は、プライドは高いが何者でもない、といった若い頃にありがちなコンプレックスを刺激する物語でもあるといえる。
天才であり、困難が起こってもそれをたちどころに乗り越える知力と判断力、そして行動力を持ったエンダーにとって、『フルメタル・ジャケット』の如き理不尽な訓練や人間関係など取るに足りないものだ。そんなエンダーのその時々の機転の利かせ方が実に鮮やかで小気味よく、そこが映画の見せ場のひとつとなる。だがこれは一人の天才の成功の物語では決してない。天才的な知性を持ちながらも、その魂の中には引き離された家族を恋しく思う孤独があり、なぜ自分だけが孤独の中で戦闘を強いられなければならないのかという葛藤が存在する。さらに後半ではこの戦争は本当に行わなければならなかったのか?という問いまでも投げかけられる。即ちこの物語は、宇宙戦争の勝敗という巨視的な状況を描きつつも、一個人の、それも年端も行かぬ少年の、その魂の遍歴とモラルの在り様を描いた物語だといえるのだ。
個人的には、原作の無重力空間でのゲームと、あの衝撃的なクライマックスまでの戦闘がどう描かれるのか興味があったが、これは優れたCGI技術により非常に興奮に満ちた描写がなされ、このテの宇宙戦争モノとしては今までにない映像を世に送り出すことに成功しているように感じた。また、そのクライマックスからラストまでの流れは深い余韻に満ちており、これが単純な勝敗のみを描いた戦争ドラマではないことを雄弁に物語っているだろう。ただ、スクールカースト的な訓練仲間同士のいざこざは、こういったSF作品としては生臭く思えたし、また、ベン・キングズレー演じるキャラの登場は、上映時間の関係もあるのだろうが掘り下げに乏しく、勿体無いように感じた。