『クリーチャーズ 異次元からの侵略者』が面白かったのでドン・コスカレリ作品のレビューを再録してみた

昨日書いた『クリーチャーズ 異次元からの侵略者』がとても面白かったので、以前オレの日記で書いたドン・コスカレリ作品のレビューを再録してみました。今読むと「その論理の展開はどうよ?」という文章もありますが、とりあえずそのままで載せておきます。ドン・コスカレリ・ファンの方、お暇な方はドウゾ。

[MOVIE]【2007年1月3日分再録】プレスリーvsミイラ男 (監督:ドン・コスカレリ 2002年 アメリカ映画)

プレスリーVSミイラ男 [DVD]

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多分日本でも世界でも誰も言わないと思うからオレが書くが、この映画はホラーでもコメディでもバカ映画でもなく、実に文学的なテーマを描いている映画なんだと思う。キワモノの臭いこそプンプンすれど、物語の主題は実に人間的なものだと思うからだ。そして現代文学というのは、この映画のように奇矯で周辺的なシチュエーションをあえて選びながら人間的なるものを描こうとする流れがあったのではないか。表層で描かれるのは生きているかもしれないプレスリーやミイラ男かもしれない。しかしこの映画が本当に描いているのは人が老いる事、老いてなお人生の理由を考えるということだ。それは人として生きるなら誰もが直面する問題であり、そしてドラマではないだろうか。
この映画に登場する自称プレスリーの老人が本当にプレスリーかどうかは問題ではない。同じように自称JFKの老人が出てくるが、彼が黒人であることからもわかるように、有り得ないことであっても物語には少しも支障は無い。この老人がプレスリーであること、それは、かつて彼が青春を謳歌し自分の人生というものを持っていたこと、そして輝くような生のきらめきを体験していたことを表徴するための方便だと思っていい。
つまり”プレスリー”というのは輝ける生の記号であり代名詞であり、そしてその生のきらめきが、年老い体を病み、老人ホームで死を待つだけの身となったその時、いったい何がしかの意味があったのだろうか、と問いかけることがこの映画のテーマなのだと思う。映画の中で老人は思う、「所詮人生というのはメシとクソとセックスなのだろうか」と。例えそれがスーパースターであろうとどこにでもいる詰まらない男であろうと、生の根源というものがそこにしかないのだと気付いた時、感じる虚しさは一緒なのではないか。そしてどのような生を受けたものであろうとやはり共通して思うのではないのだろうか、人生とはなんだったのだろう、と。
そしてこの老人ホームに突如として現われ老人達から魂を奪ってゆく”ミイラ男”というのは当然のことながら”死”の象徴ということになる。現実かどうかは別として、プレスリー老人もJFK老人も年老いる事によりかつての栄光は費え去ってしまった。今は誰からも省みられず老人ホームに打ち捨てられ忘れ去られるしかない老人達は、ただ”死を待つ”だけの存在でしかなかった。しかし。彼らは、その”死”の顕された姿と対面した時、これと戦う事を決意するのだ。勿論死から逃れられる術など一つもないのだけれど、それでも彼らは戦おうとする。何故なら、それが、人間的な行為であり、ただ死ぬためにのみ生きていたわけではないという己の存在への誇りを彼らが思い出したからだ。
エンターティンメントとして見れば貧相だったり中ダレする部分もあり、誰もが楽しめるとは言い難いけれど、映画の持つテーマは決して陳腐ではない。歩行器を使わなければ歩けなくなったプレスリーがかつての派手な衣装に身を包みミイラ男との最後に戦いに馳せ参じる姿は滑稽ではあるけれどもどこか切ない。そしてそれが老いるということなんだと思う。しかしどのように滑稽であろうと我々は生きようとしなければならない。その悪あがきの中に我々はドラマを見、人間の姿を見るのだ。だからこそ、このプレスリーの姿は、切ないのである。
プレスリーvsミイラ男(原題:Bubba Ho-tep)トレイラー

[MOVIE]【2008年5月9日分再録】生と死のドン・コスカレリ〜『ファンタズム』と『プレスリーVSミイラ男』〜

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ドン・コスカレリの『ファンタズム』と『プレスリーVSミイラ男』のDVDを続けて観たんですよ。

■映画『ファンタズム』

『ファンタズム』は1979年製作の映画で、少年が葬儀屋のオヤジや、空飛ぶ殺人球や、スター・ウォーズに出てくるジャワズみたいな謎の小人に追い掛け回され、終いには異次元世界まで垣間見てしまう、という映画なんですが、ホラーというよりもどこか悪夢っぽいダーク・ファンタジー的な作品に仕上がっております。殺人銀球や死体の詰められた樽や、異次元世界への扉などのヴィジュアルが、どことなくサイバーな雰囲気で、よくあるようなホラー映画とは違ったテイストを醸し出しているんですな。異次元世界などはどこか遠い惑星の地のようにさえ見えました。
主人公が少年で、葬儀屋が怖い!怪しい!という所から物語が始まるわけですから、これは子供が持つ《死への恐怖》をイメージ化した映画だといってもいいでしょう。ただ面白いのは、この映画で描かれる”死後の世界”が、欧米では当たり前なキリスト教的な死生観と奇妙に断絶している所なんですな。死んだら小さな小人にされて、見知らぬ惑星で奴隷として使われる、なんて、キリスト教信者にとっては、日本人が考えるよりも不気味だし、訳が分からないものなんではないですか。

■ホラー映画とキリスト教

例えば同じホラーでも、『ゾンビ』という映画では、”死者の蘇り”というキリスト教的なモチーフを裏返しにして、それを”この世の地獄”にしてしまったという部分で、逆にキリスト教的な映画であるんですよ。その他のホラー映画でも、魂や霊の存在、埋葬や墓地などの扱いにやはり宗教観が見え隠れしますよね。スラッシャーホラーという、単にぶっ殺しているだけの映画にも、”神との契約”という概念が存在してるんです。キリスト教的に言うならば人は神と契約しますが、それはつまり神を介さずして人は人と契約しないということなんですよ。海外の法廷ドラマで証人が証言前に聖書に誓うのはこれだし、欧米が契約社会だと言われるのはそこに彼らの宗教観があるからなんです。これが欧米における個人主義の源流となるものなんだと思います。
そして、スラッシャー・ホラーにおけるジェイソンなりレザーフェイスは、なんだか分からない超越的な神/破壊者と契約したその代弁者、あるいは顕現として振舞う、というわけです。超越的なものと結びついている自己は、それ以外を排除しても毛ほども痒くないんです。だからあれほど無慈悲なんですね。即ちスラッシャー・ホラーの無慈悲さは個人主義社会のなれの果て、と言うことも出来るんです。ところがこの『ファンタズム』では死んだらSFになっちゃうんです。変なんですよ発想が。逆に言えばそこが受けた理由なんでしょう。
そして少年やその家族はその《死そのもの》と戦うのですが、当然《死》に勝てるものなどいないんです。だから物語はクライマックスで葬儀屋を負かせたように見えて、でもラストで少年は暗い穴ぐらへと引きずり込まれてしまうんです。そして勝てないからこそ延々戦っちゃうということが、その後も何作も続編が作られる理由の一つであるのでしょう。

■映画『プレスリーVSミイラ男』

さて『プレスリーVSミイラ男』は同じコスカレリ監督の2002年の作品です。自分がプレスリーだと思い込んでいる主人公と、ケネディ大統領だと思い込んでいる黒人が、老人ホームでエジプトミイラと戦う、という荒唐無稽な物語です。しかしこれは実は”老いる”ということの無情さと悲哀を巧みに描いた名作なんです。オレの日記のここらへんで大絶賛の記事が書かれているのであなたは読むがいいんです。
ここでも描かれるのは《死そのもの》との戦いです。エジプトミイラは他でもない《死そのもの》を体現しているものなんです。そしてこのエジプトミイラは人の魂を食べて、それをウンコとして排泄してしまうんです!ここでもキリスト教的な死生観を逸脱しているのがお分かりでしょうか。なにしろ相手はエジプトですからねえ。魂がウンコになる。こんな怖いことは欧米人には無いでしょう。
さて、《死そのもの》との戦いには、この映画でもやはり勝てはしないんです。エジプトミイラを退散させたプレスリーJFKですが、最後はやっぱり死んでしまうんです。エジプトミイラに魂は食べられなかったとはいえ、それにより彼らの魂がキリスト教的な意味で守られたとはいえ、やはり《死そのもの》に打ち勝つ方法なんて何処にも無いんです。ではこの映画は『ファンタズム』と同じペシミスティックな映画なのでしょうか。

■《生》と《死》

プレスリー(と思い込んでいる男)とJFK(と思い込んでいる男)は、エジプトミイラ=《死》との最後の戦いに赴く時に、プレスリーは彼がかつてステージで活躍していた時代のキンキラキンの衣装を、そしてJFKは大統領らしいカチッとしたスーツに身を包んで出かけます。エジプトミイラと戦うキンキラキンのエルビスとスーツ姿のJFK。画面だけ観るならこれはどこもまでも滑稽なシーンです。しかしこういう見方もできます。彼らは、《死》に相対する時に、彼らが(それが妄想であろうとなかろうと)その人生で最も誇り高かった時代のコスチュームで臨んだのです。つまりそれは《生》の《尊厳》ということです。
《死》には決して勝てはしない。しかし、人であるならば、それに《尊厳》でもって臨みたい。『ファンタズム』が闇雲に《死》は怖い、《死》はイヤだ、と言っていたのはそれが少年が主人公だったからです。翻って『プレスリーVSミイラ男』の主人公達は老人です。《死》は必ずやってくることを彼らは知っている。そしてそのとき、《尊厳》でもって《死》と対峙したい。勝ち負けではなく、その《尊厳》こそが、《生》というものの証なのだ。映画『プレスリーVSミイラ男』は、《死》の恐怖を描く『ファンタズム』から一歩踏み出し、《生》の《尊厳》のあり方を描いた映画だったのだと思います。

[MOVIE]【2006年11月9日分再録】《マスターズ・オブ・ホラー!③》ラリー・コーエン、ドン・コスカレリ篇

『マスターズ・オブ・ホラー』、世界のホラー映画の巨匠13人を集め、それぞれの個性で独自のホラー映画を撮らせたアメリカのテレビ・オムニバス・シリーズです。
3回目です。みんな付いて来てくれているだろうか…。
■ムーンフェイス 監督:ドン・コスカレリ (ファンタズムシリーズ)

おおおっといきなりこれは傑作です。やはり”アメリカど田舎スラッシャーホラー”ではあるのですが、決定的に違うのは命を付け狙われるヒロインがかつてサバイバル訓練を受けていて、格闘やトラップ作成に秀でているというところですね。かといって無敵というわけではなく、殺人者と力が拮抗しているところに面白さがある。そういった殺人者との力比べ知恵比べが従来のスラッシャームービーと質を異にしている。さらに監督ドン・コスカレリの映像への拘りが実に素晴らしい。出し惜しみのない大判振る舞いのスプラッタ描写は痛快だし、サバイバル訓練を受けていた回想シーンと現実とのメリハリも生きている。何といっても所々に覗く独特の幻想的な描写がいい。月明かりがしゃれこうべの頭部から眼窩を透かして光線を投げかけているビジュアルなど、センスあるなあ、と思った。ドン・コスカレリがかつて監督したホラー映画『ファンタズム』もやはりファンタジックな味わいのあるホラーだったよね。さらに思いもよらない驚愕のラストシーンが実に秀逸!そうか、伏線は張ってあったのか!?展開もスピーディーでこのまま90分の映画にしても持つかなあ、と思ったが、監督は原作からあくまで40分前後の作品として想定して温めていた作品だったらしい。こういうプロフェッショナルな潔さもいい。なんだよ、ドン・コスカレリ、最近なんか新作撮ってないの!?と思ったら『プレスリーVSミイラ男』の日本公開が控えており、もうこの徹底的にナメ切ったタイトルから傑作の匂いがプンプンしており、今から楽しみであります。