■トータル・リコール (監督:レン・ワイズマン 2012年アメリカ映画)
『アンダーワールド』、『ダイ・ハード4.0』の監督レン・ワイズマンがコリン・ファレル主演で製作した『トータル・リコール』、この映画はアーノルド・シュワルツェネッガー主演、ポール・バーホーベン監督により1990年に製作された映画『トータル・リコール』のリメイク作品になります。映画自体はアクションに次ぐアクションの連続で、生身の人間を主人公に描かれた『トランスフォーマー』みたいなカチカチとした目まぐるしい編集が成され、そのてんこ盛り感は料金分お腹いっぱい満足できる作品に仕上がっています。ただ人によっては胸焼けを起こす人もいるかもしれませんが。というわけで今回は映画からちょっと離れて原作者であるP・K・ディックのテーマについてグダグダ書きます。
オリジナルの『トータル・リコール』は個人的には最初観たとき「なんじゃこりゃ」と映画館の席からずっこけそうになったオバカ映画でしたね。シュワらしい筋肉ムキムキアクションとバーホーベーンの「見ろ人がゴミのようだ」といわんばかりの悪趣味が合体した大味な大作映画で、そういう味わいの映画なんだと途中から気付いて観てたからそれほど嫌いでもないんですが、SF映画として観るならかなり苦しい映画でしょう。しかしそれでもこのリメイク版『トータル・リコール』はかなりの部分でオリジナルに敬意を表していると思います。少なくともこれの製作者は結構オリジナルが好きだったんでしょう。しかしそんなオリジナルへの敬意よりもさらに敬意を払われているのは映画『ブレードランナー』と、『ブレードランナー』、そしてこの映画『トータル・リコール』の原作者であるP・K・ディックに対してでしょう。
『ブレードランナー』が公開されて以来、その"ブレードランナー的世界観"は近未来を舞台にしたSF映画に一種の呪縛のようにつきまとい、影響を与え続けてきてしまいました。"混沌として汚濁に満ちた近未来世界"を描こうとすると、どうしてもブレードランナー的にならざるを得ないのですが、その"混沌として汚濁に満ちた近未来世界"とは、実は"混沌として汚濁に満ちた今"を描いたものであり、そういった"今"をカリカチュアナイズしつつリアリズムを追求しようとすると、即ち"ブレードランナー的世界観"に落ち着いてしまうというわけなんです。しかしそういった"呪縛"とは別に、この『トータル・リコール』は、『ブレードランナー』と同じディックSF原作作品であり、そういった部分から、作品オマージュの姿勢はより確信犯的に行われているということが出来ると思います。それはヴィジュアルのみならず、例えばこの作品の中で、主人公がピアノを弾いて自分の真のアイデンティティに行き当たるシーンなどは、『ブレードランナー』における、レプリカントであるレイチェルがピアノを弾くことで自らのアイデンティティを守ろうとするシーンなどにも表れているといえるのではないでしょうか。
それと同時に、ディックSFであるこの映画の原作のテーマであり、そもそもがディックSFのテーマの根幹である、「この自分は本当に自分なのか?」「この現実は本当に現実なのか?」という問いかけが、基本はどうしてもアクション映画であるこの作品でも、意外ときちんと盛り込まれている、という点でも、ディックの原作を単なる骨組みに使っただけではない敬意を感じたんですね。
「この自分は本当に自分なのか?」「この現実は本当に現実なのか?」という問いかけはどうして成されてしまうものなのでしょう。それは認識論とかなんとかなにか哲学的な命題を明らかにするために成されているのでしょうか。いや、「この自分は本当に自分なのか?」「この現実は本当に現実なのか?」という問いかけは、実は「こんな自分が自分である筈が無い」「こんな現実が本当の現実であるはずが無い」という、一種の自己疎外、そして現実否定から成されているものなのだと思うんです。この映画の設定である「世界大戦による大規模汚染の為、ヨーロッパを中心とした富裕層、オーストラリアを中心とした貧困層の2箇所だけが居住可能区域として残された地球における両区域の軋轢」というのは、一見「格差社会」という今日的な問題を扱っているかのように見えますが、これは実は、ディックSFによく登場する「地球と火星植民地との関係」を、地球という一つの舞台で描こうとしたものだといえます。
例えばディックSFの中でも傑作として名高い『火星のタイムスリップ』での火星は、人間が普通に暮らせる地球との対立項としての、荒野ばかりが広がる過酷で非人間的な世界として描かれます。そして、「荒野ばかりが広がる過酷で非人間的な世界である火星」に住む人間たちは、その過酷な現実を忘れる為、日常的にドラッグの幻覚や非現実の世界に逃れることを日課としているんです。実はその「荒野ばかりが広がる過酷で非人間的な世界である火星」、というのは、この我々が生きる現実のメタファーなんです。このとき"火星"は、太陽系の第4惑星の事ではなく、「人が人としてまともに生きる事のできる場所から遠く離れた辺土」として描かれているんです。同じように、この映画でも、貧困と苦しい労働と搾取に満ちた現実を忘れる為に人は"リコール社"の偽の記憶、即ち非現実の世界の記憶を買おうとします。それは、彼らの生きる世界が、「過酷で非人間的な世界」「人が人としてまともに生きる事のできる場所から遠く離れた辺土」だからです。そしてそのような世界で生きざるをえないからこそ、人は「この自分は本当に自分なのか?」「この現実は本当に現実なのか?」と自問し、「こんな自分が自分である筈が無い」「こんな現実が本当の現実であるはずが無い」と逃避しようとするのです。
ディックSFがなぜやるせないのか?というのは、ディックSFのそういったテーマのあり方が、実は、現実のやるせなさそれ自体から生まれているからです。映画『トータル・リコール』の主人公は、リコール社で偽の記憶を注入しようとしたことがきっかけで本当の記憶が蘇ります。しかしそれは、本当の記憶だったのでしょうか。自分は、命懸けのアクションが連続する映画の最中でさえ、というよりもむしろ、アクションが過激になればなるほど、ひょっとして、この主人公がいきなり目覚め、またいつものやるせない現実に戻ってしまうのではないか、とそればかり考えてしまいました。そしてまた、もしもこの映画のすべての物語が例え偽の記憶であり、電気羊の夢なのだとしても、覚めずにいるのなら、覚めないままでいいじゃないか、とも思えていました。映画『トータル・リコール』は、観る者にとっても、それ自体がリコール社から注入された偽の記憶だったのかもしれません。
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