タクシードライバー (2005年10月10日分再録)


オレにとって10代、そして20代の頃の青春期と呼ばれる時期はただひたすら惨めな時期だった。社会にも人にも馴染めず、行き場の無い想念が腐った肉汁のようにグツグツと体の中で煮詰まり続けていた。そしてそのこじらせすぎた悪疫は30代まで尾を引き、こうして今のような歪な社会不適応者が一人完成したというわけだ。

思えば、ただ単に孤独だったのだと思う。そして、孤独とは、決して高級な人間の状態ではない。精神的に脆弱で自意識過剰な人間の至る病、それが孤独なんだろうと思う。自分の閉じこもった殻を後生大事に抱え、そこから出ようともせずに社会や人を見下し羨望し嫉妬し憎悪し、何もしないくせにただただ敗北感と焦燥感を募らせていたのだ。煎じ詰めればそれは、単なる愚か者だというだけだったのだ。

そうして無意味に溜め込んだ鬱屈と情念は腫瘍のように膨らみ続け、いつかそれが針で突付かれた風船のように爆発してしまうのではないかという恐怖をいつも抱えていた。自分はこのままだと恐ろしい犯罪者や狂人になるのではないかと心の底でいつも怯えていた。

そして、そんなふうに自分を追い詰め、遂には暴発してしまう男を描いた映画、それが「タクシードライバー」だった。

ベトナム帰りの海兵隊員トラビスは不眠症からタクシードライバーの職を選ぶ。彼は街のどんな場所でも走る。金満な社会の支配層が金に目の眩んだ女たちと共にそぞろ歩く繁華街を。ポルノ映画館と酔っ払いと娼婦達が跋扈する薄汚れた裏通りを。貧困にうな垂れ物欲しげな目でねめつける以外動くことも出来ない負け犬達のゲットーを。怒りと絶望で今にも爆発しそうな黒人達がひっそりと息を潜めながら暮らすハーレムを。

そしてトラビスはその全てを憎む。「この世界を洗い流す洪水がやってくるのはいつか」と待ち侘びながら。

女を好きになるがうまく行かない。デートに誘ってもやる事は頓珍漢だ。馬鹿で田舎者なのだ。女の扱い方なんて知らないのだ。分不相応な事に気付かないのだ。負け犬を好きになる女なんてこの世の中に存在しないなんて言う事が判らないのだ。そのうち愛想を付かされ、またいつもの孤独だけが彼を待っている。なぜうまく行かなかったのかさえ理解出来ない。しかし飢餓感だけは前にも増して自身をさいなむ。

そんな折、ふとしたことで13歳の娼婦と知り合うトラビス。「こんな事はしちゃいけない、こんな事があっちゃいけない」。彼の思う”汚い世界”の末端に触れたトラビスは、彼自身の溜まりに溜まったフラストレーションが暴発する矛先をやっと見つける。

トラビスの孤独は、自分をふった女が働く選挙事務所の大統領候補への殺意へと摩り替えられてゆく。さらに娼婦のポン引きとその一味を叩き潰す行為へと、やはり摩り替えられてゆくのだ。飢餓感が生む怒り。自分が世の中から顧みられていないという怒り。それは自分の存在が、ほんのちっぽけなもので、世界には、自分なんか必要ではないのだ、という恐怖だ。

そして、トラビスは、はじける。大量の小火器で武装したトラビスの、血に塗れた殺戮が始まる。己の間違いだらけの正義を貫徹するために。自分が、ここに存在するのが、正しく、そして当為である事を、自分と、世の中に認めさせるために。そうだ、認めさせるのだ、自分の存在を、自分の力を。自分に出来るたった一つの手段、暴力によって。

しかしだ。トラビスは社会に不満を漏らしながらも社会の何たるかを知らない。女性に憧れながらも女性の心の事を考えない。正義を嘯きながら正義とは何であるか考えない。全て、なにもかも、勘違いだらけで、空回りしかしていない、利己的で、自己中心的な、思い込みと、摩り替えと、願望憎悪と、近親憎悪と、短絡と、恐るべき無知。彼は、単なる、愚か者だったのだ。

タクシードライバー」は自分にはある種トラウマのように心にへばりついた映画だった。やさぐれてささくれ立った気持ちのときはへべれけに酔っ払いながら暗い部屋で「タクシードライバー」をじっとり舐めるような目で見続けていた。そこには狂気に囚われ、暴発し、自爆し、自滅する自分自身の姿があった。トラビスとはオレ自身であった。自分にとってもはやオンリーワンとしかいえない、ある意味青春の墓標のような映画だった。
http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20051010#p1