水木サンの幸福論 / 水木しげる

水木サンの幸福論 (角川文庫)

水木サンの幸福論 (角川文庫)

ゲゲゲの鬼太郎』でお馴染みの水木しげる氏(大本尊)が自らの半生を振り返り、”幸福とは何か”を語った著である。ここで氏の挙げた《幸福の7ヶ条》を紹介してみよう。

幸福の7ヶ条
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 なまけ者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。

ご存知の方も多いと思うが、水木氏は太平洋戦争中、既に戦況が劣勢なラバウルへと出征し、ここで片腕を失うという悲劇に見舞われている。終戦を迎え復員した後も生活は貧しく、紙芝居絵師から貸し本屋作家、漫画家へと転身しながらも、ヒット作をモノにし赤貧から抜け出せたのは40歳を過ぎてからなのだという。決して順風満帆な人生を歩んできた方ではないのだ。そんな氏の心を支えてきたのは絵に対する情熱であったり、持ち前のおおらかな性格であったりしたのだろう。
そして今漫画界の巨匠として誰もが知る有名作家になった氏ではあるけれども、氏にとって重要だったのは好きなことをやり続けることだけだったのであり、まあ生活は楽であるに越したことは無いにしろ、決して成功の為だけに生きてきたわけではないのだ。だからこの《幸福の7ヶ条》は、漫画家水木しげるが今の自分にとっての幸福をもたらしたものを示しているだけであり、誰もがこのように生きるべきだということを言っている訳ではない。
ただ、水木氏の半生記を読むと、そこには常に楽しみや喜びを見つけようとする子供時代があり、そしてその”好き”なものを続けるということが世間と相容れなかったとしてもそれを貫き通そうとする頑固さがあった。いや、それは頑固というよりも、単に現実的なことに頓着しないボンクラさだったのかもしれないが(水木先生すいません!!でもワタクシも大いにボンクラであります!)。ただどちらにしろ、もともと水木氏は、心の中に”幸福の種”を持ち続けてきた人なのではないかと思う。それが社会的な成功や、経済的な豊かさに繋がらなかったとしても、それでもきっと水木氏は自らを幸福と思えるだろう。そもそも本来幸福とは、心の裡にこそあるもののはずだから。
さて、水木氏のプロフィールはなんとなく知っていたつもりだったが、この本で幾つか新発見があったので、ちょっとトリビアの真似事などをして抜き出してみよう。

・氏はゲーテの大ファンであり、戦地に送られるときも『ゲーテとの対話』全3巻を雑嚢に忍ばせていたのだという。
・子供の頃自分の名前「しげる」が上手く言えず「げげる」になった。これが『ゲゲゲの鬼太郎』の「ゲゲゲ」の元となった。
・妖怪研究家として知られるようになった今でも、水木氏は妖怪がちょっと怖い。
鬼太郎のモデルは三歳になる兄の息子だった。顔に髪の毛が垂れていても気にせず遊びまわる姿をモデルにした。
・戦争で水木氏が左手を失ったと知った母は、自分の左腕を三角巾で1週間吊り、息子の不自由さを追体験しようとしたという。
・一方父親は片腕を失った息子に「お前ははもともと無精者で、両手を使うところを片手でやっていたんだから一本で大丈夫だろう」と変な慰め方をした。
・水木氏の兄はB・C級戦犯として巣鴨プリズンに収監され、死刑になる一歩手前だったという。
・27歳の水木氏はアパート経営を始めた。アパートが神戸市の水木通りにあった為、《水木荘》と名づけ、その”水木”が後のペンネームとなってしまった。
・現在結婚している婦人とはお見合い結婚。お見合いの時一生懸命”洗練された都会人”を演じていた水木氏だったが、婦人は逆になんと素朴な人だろうと思っていたのだという。
・バナナ好きの夫妻、貧しかった頃痛んだバナナばかり食べていたので、痛んでいないバナナを食べることを生活の目標とした。
・漫画が売れ始めた60年代頃のアシスタントは池上遼一つげ義春鈴木翁二というそうそうたるメンバーであり、また現在評論家の呉智英も資料整理のアルバイトに来ていた。