■親子三代の物語
ハンガリーを舞台にした祖父、父、息子3代に渡るシュールでグロテスクな物語。第2次世界大戦中。祖父ヴェンデルはどことも知れぬ寒村で軍隊中尉とその家族の世話をする当番兵だった。マスターベーションだけが唯一の楽しみだった彼はある日、豚のように太った中尉の妻と関係を持ってしまう。さらに屠殺された豚の屍骸と性交していた彼は中尉に射殺される。そして中尉の妻は豚のような尻尾を持ったヴェンデルの子を宿してしまう――。
続くハンガリー共産主義時代。ヴァンデルの子・カルマンは国家から将来を衆望される”スポーツ大食い競技”の選手として今日も大食い大会に出場し、豚のように食べ物を喰らっていた。カルマンは女性大食いチャンピオンのカルマンと知り合い、二人は結婚する。二人の間には息子が出来るが、それはとても虚弱な体躯の子供だった――。
そして現代。カルマンの息子ラヨシュは成長して剥製師となり、極端な肥満で身動きすら取れない父の世話をしていた。過去の栄光にすがるばかりで息子を顧みないカルマン。そんな中、ラヨシュは”究極の剥製作り”を目指し始めた――。ちなみにタイトル”TAXIDERMIA”とは「剥製術」の意味である。
■グロテスクさの意味するもの
いやー、露悪趣味極まりないグログロゲロゲロの映画でありました。祖父ヴェンデルの章ではチンポ出しまくり。映画でこんなにチンポを見たのはピーター・グリーナウェイの『プロスペローの本』での薄衣から透けて見えるチンポ、それと『ホステル2』のラストでの拷問台で開陳されるチンポ以来でしょうか(こっそり観ているエロ動画での男優のチンポは除く)。性交シーンでの口もはばかるアングルではボカシどころかフィルムを削っていたんではないか。臓物大放出のリアル豚解体シーンもあって見所満載ですよ。スポーツ大食い選手権では日本のTVでやってるような”大食い大会”がお茶会に見える程の下品下劣極まりない汚穢振りで、家畜が飼葉桶の残飯を貪っているのとなんら変わらない小汚さ、さらに競技が終わると選手全員並んでたった今食った食物を嘔吐しまくるという凄まじさ。そして剥製師ラヨシュの章では、これでもかと画面に大写しにされる解体・内臓取り出しシーン。映画館で隣に座っていたハイソ風なオバチャンがホントに目を覆ってました。
例え露悪的であったとしても、それに鋭敏な美術センスがあれば、死体だろうが血糊だろうが臓物だろうが映像として見せることも出来るんですが、この映画では冒頭での”桶”を巡る回転シーンと取って付けたような”飛び出す絵本妄想シーン”、そしてラストの”自動剥製製作マシーン”を除いては美術センスらしいものはあんまり見られません。ゲロゲロホラーの大好きなオレでさえ「なんじゃこりゃ?」と思ったぐらいです。いや、それらの映像から監督が面白いセンスを持っていることが伝わっていることを考えると、それ以外のただただ気持ち悪くなるだけのシーンの連続は、それなりに監督の狙いがあったからだと思うべきなのでしょう。それではこの映画のチンポ・ゲロ・内臓摘出シーンには何か意味があったんでしょうか。っていうか、このよくわかんない映画の主題はなんだったんでしょう。
■祖父と父
物凄ーく判りやすくシンプルに解題するならば、この映画の描いたものは”ハンガリーの歴史”ということになるのでしょう。だからこそ”祖父、父、息子3代”なんです。そしてこの監督は33歳。まだ若いですよね。即ち若い世代の青年が自国の歴史を振り返ったとき、その暗部に対して非常に辛辣なアンチテーゼを唱えた、というのがこの映画のグロテスクさだったのではないか。オレはハンガリーの歴史に詳しいわけではないのでちょっと調べましたが、例えばハンガリーは、まず第一時世界大戦で敗戦し、オーストリア・ハンガリー帝国が二分され、領土と人口の半分以上を失います。続く第二時世界大戦では失地回復のため枢軸国側に付きますが、結局これも敗戦、領土をソビエト連邦に占領されるんですね。つまりチンポおっ立ててもマスターベーションにしか役に立たず、結局は豚のような女と豚それ自体と寝てしまう、というのは、戦争行為に対して役立たずで、おまけに豚の如きナチスヒトラーと結託=寝てしまうような国家を揶揄していたのではないか。
その後ハンガリーはソ連の影響のもと共産主義国となります。”スポーツ大食い競技”とは共産国が自らの国威を鼓舞するために血眼になってオリンピック競技に入れあげるその滑稽さを描いたものなのではないか。オリンピック史におけるハンガリーの成績は判りませんが、当時共産圏であった近隣東欧諸国がオリンピック競技というものに国を挙げて取り組み、そしてその裏で吐瀉物のような薄汚い行為が成されていた、ということがこの醜く肥満した選手によって行われる”スポーツ大食い競技”という下劣で無意味極まりないスポーツ競技に顕されていたのではないか。即ち”スポーツ大食い競技”とは共産主義に象徴されるものの戯画化ということなのでしょう。
■そして剥製師
そして現代。主人公の剥製師は、これは現代のハンガリーの若い世代だと言うことが出来ます。剥製とは内臓が取り除かれ、内面においては空洞であり、外面においては形骸化した屍骸に他なりません。つまり剥製師=現代の若者たちはハンガリーの空洞化し形骸化した歴史性に対してこれは既に屍骸と化したものでしかないのだ、と感じているのではないか。歴史の息子である主人公が、化け物のように肥満した父を養いながらその愛情が得られない、というのは、もはや醜悪でしかない前世代とその作り出した国家への断絶ということではないのか。そしてその前世代への引導を渡す為、その内臓を取り出し見せしめの標本として陳列する存在が剥製師であった、と言うことができないか。つまりこの映画で描かれるグロテスクさというのは、若い世代が自らの国家とその歴史に対する嫌悪感を顕したものなのではないか。とまあ、そんな風に受け取りました。ただ映画として面白かったかというと、幾つかのイメージの面白さ以外はちょっと…って感じでしたけどね。
なお蛇足ですが、映画のアートディレクターを務めたスローッシイ・ゲーザのHPが、奇怪な死体・廃物趣味に溢れた実に興味深いアート作品を多数収めており、見所がありました。死体系のアートがお好きな方はちょっと御覧になってみるといいかも。
■スローッシイ・ゲーザ オフィシャルHP
■『タクシデルミア〜ある剥製師の遺言〜』日本語オフィシャルサイト
■Taxidermia trailer