ショートバス (監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル 2006年 アメリカ映画)

オーガズムを得られない女性、ゲイのカップル、SMの女王。自らの性愛のあり方とアイデンティティーに悩む人々の群像劇。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』で世界を席巻したジョン・キャメロン・ミッチェルの最新作。”ショートバス”とは特殊児童の為のスクールバスのことらしい。

最初はドキュメンタリータッチな再現フィルムなのかと思っていたがそういうわけでもなかった。一般公募の素人を俳優に使っていたからそういう印象を受けたのだろう。だから現実的ではあるが華が無いのも確かだ。冒頭から非常に際どいセックスシーンやオナニーシーンが描かれ、中盤でも乱交シーンがあったりと、監督の意気込みの程をうかがわせるが、見終わってみると、結局フィジカルな悩みもメンタルな部分でしか解消されえないということなのであれば、特にあの際どさが必要だったかどうかは分からない。性愛の悩みをセックスのテクニックやアプローチで解決しましょう、というハウトゥもののお話なのではなくて、お互いの心を開きましょう、という、まあ、ありふれた結論がこの物語の主題のようだからだ。

ただ、物語に登場している人々の、その欲望を充足させなければならないというという強迫観念にも似た願いと言うのは、関係の無いオレのような者から見れば、実は、単なる、《強欲》なんじゃないのかと思えてならない。誰もが報われたいと思い、報われる為に努力しているのかもしれないが、かといって誰もが必ず報われるとは限らない。むしろ報われないことのほうが多いのだろうし、報われないことに諦めを付けていかなければならないのも人生なのではないか。そういった意味で観るとこの映画の登場人物たちは”単なる欲張り”にしか思えないのだ。さらに言ってしまえば、これは欲望の本質の問題であり、その欲望は真実満たさなければならないものなのか、という疑問もあるし、欲望それ自体さえ何かの代償行為であり、欲望を満たしたところで本質的な部分の問題は何も変わってなんかいないこともあるんではないのか、などとオレなんかは思うのだ。

そしてラストの「ボクたち優しさじぇねれーしょん」みたいな寝惚けた乱痴気騒ぎ。いったいなんなんだね。君達の苦悩やらなんやらはこんなもんで癒されるのかね。知らないヤツと一発やれば済んじゃう問題なのかね。それで何か解決したのかね。というか、「寝れる相手がいるにも拘らず引き起こされる精神の齟齬」が、相手が変わっただけで解決するとは思わないし、言いたが無いが、寝れる相手さえいない人間の問題はどうしてくれるんだね。ろくに愛されたことのない孤独な人間に「愛が大事、愛が全て」とか言ったって何の意味もないのと一緒じゃないの。それにセックスの問題をセックスで解決する、というのはなんだか安易過ぎるんじゃないのか。むしろセックスでさえ解決出来ない心の闇こそが問題なのであり、「ボクらはみんな仲間なんだ」と十把一絡げにされ刹那的な高揚感で目眩ましをされたところで、自分の抱える不幸や孤独は決して無くなってはいないと思うんだが。ジョン・キャメロン・ミッチェルはベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ*1を観てもう一回勉強し直すべきだ。

■"Shortbus" - Trailer (full)

*1:この辺でレビューしたのでよろしかったらどうぞ