インランド・エンパイア (監督:デイヴィッド・リンチ 2006年アメリカ映画)

■”内なる帝国”
ハリウッド女優ニッキー・グレース(ローラ・ダーン)は映画『暗い明日の空の下で』の主演に抜擢されるが、その映画はかつて主演者二人が死亡した未完のポーランド映画『47』のリメイクだった。そしてニッキーは撮影が進むにつれ、夢とも幻ともつかない世界へ次第に足を踏み入れてゆく。『マルホランド・ドライブ』から5年振りに発表された3時間にわたるデイヴィッド・リンチ最新作。

覚悟していたことだったが、実は、殆ど意味が分からなかった!リンチ映画では処女作『イレイザーヘッド』、前作『マルホランド・ドライブ』とも最初はあまりの訳の分からなさに憤慨した記憶があったが、再見してみると実に筋道だてられた全貌が見えてきて、「ああそういうことだったのか」と納得、決していたずらに難解だったわけでもないと溜飲が下がり、逆にリンチ映画の迷宮めいた面白さを再発見したぐらいである。という経緯から、この『インランド・エンパイア』も初見で意味が分かることは無いだろう、と最初から思って観ていたぐらいだ。むしろ、意味などではなく、リンチ映画の映像と音を堪能出来ればそれでいいぐらいの考えだった。という訳で、この映画はいずれ再見して、いったいどういうものだったのか改めて考えながら観てみたいと思っている。実のところ、ネットで探したり劇場販売のパンフレットなどを読めば、この映画の物語の解題を発見することは出来るし、オレもついつい読んで失敗したな、と思ってしまったのだが、やはりリンチの映画は「何故こうでなければならないのだろう」と考えながら観ることに醍醐味の一つがあるのではないだろうか。

スノビズムとしてのデイヴィッド・リンチ
確かに、やたら難解なもの、難解めいたものを有り難がるというのはスノビッシュないやらしさがあり、オレは基本的にそういうものは出来るだけ自分から遠ざけたい部分があるのだが、『イレイザーヘッド』を劇場で観た時もリンチというのはそういうスノッブたちの慰み物めいた雰囲気を感じて嫌悪していたものなのである。ただ、分からなかった、というのはどうにも悔しいもので、嫌悪しつつも劇場にもう一度足を運び、再挑戦という形で観てみると、前述のようにするすると意味が分かってきたのだ。そして、リンチというのは、難解というよりも、”変な”映画監督である、ということが理解できるに至り、それ以来、リンチ映画はオレの中で愛すべきものであると格付けされた。

カルト的でアーティスティックである部分が強調され持ち上げられているリンチであるが、その本質は単に”変なヤツ”ということでいいのではないか、とオレなんかは思っている。そして、”変なヤツ”だからこそ、その映画は愛すべきものなのである、ということも。実はリンチ映画というのは、ストーリーそのもの自体はたいしたものではないのだ。『イレイザーヘッド』は《子育てで疲弊した生活》を描いていただけだし、『エレファント・マン』『デューン砂の惑星』は雇われ監督であったから脚本はきちんとしていたが、リンチが本当にやりたかったのは薄気味悪いクリーチャーを描く事だけだったような気がする。傑作と謳われる『ブルー・ベルベット』も実のところヤクザの麻薬取引に関わった青年の話でしかない。『ワイルド・アット・ハート』はチンピラの暴走以外の物語はない。『ロスト・ハイウェイ』は女房殺しの男の錯綜した精神をホラーめかして描いているだけだし、『マルホランド・ドライブ』は単に女優の夢敗れた女の悔恨の物語である。言ってしまえば、物語の題材としては実に平凡なものばかりなのだ。しかし、これだけリンチが評価されるのは、物語なのではなく、全て、その”描き方”、ただ一点にある。リンチというのは、その描き方が、”変”なのであり、”異様”なのである。

■リンチという”異邦”
リンチの映画は時間も空間も飛び越える。それも何の前置きもなしに。そしてそれが何故リニアーな時間軸と空間移動がされないかの理由が一つとしてされず、それが何故映画に必要なのかさえ解析不能なのである。手法としての倒叙法とかモンタージュとかそういう生易しいものではないのだ。リンチ映画が難解なのはこのアプリオリな映画手法や叙述法のお約束をはなから無視していることだろう。部分的にシュルレアリスム絵画におけるデペイズマンを思わせる描写もあるが、リンチ映画は絵画的ではあっても一枚絵を積み重ねたようなアート映画では決してない。むしろリンチの映画は映像自体よりもその時間感覚についての映画ということは出来まいか。映画のカット割というのは映画を生かしも殺しもする重要なもので、一つのシークエンスが長いか短いかでもって場面の印象がまるで違ってきてしまう。リンチの映画は、この一つのカットが無意味に長い。これも、映画手法における”長回し”とはまるで異なる、むしろ《精神の空白》とでも呼べるような、異様に不安を喚起させる間延びした長さなのだ。

何しろ映画というのは強制的に監督の時間感覚に従わされる。劇場では映像のポーズも早送りも巻き戻しも出来ない。リンチ映画で途方にくれさせられるのはまさにこの部分だ。リンチ映画の間延びした時間感覚と、錯綜した時間軸、理由も無く跳躍する空間認識は、映画の表現法云々というより、ただただそれがリンチにとって”最も心地よいテンポ”であるから、ということでしかないのではないか。観客は、だから、商業作品として分かりやすく整理された娯楽映画を見せられるのではなく、”リンチ個人の精神的時間感覚”を未整理のまま文字通り「ドバッ!」と丸投げされる。言ってみれば何の予備知識も無く異邦に投げ出されるようなものである。だから訳が分からないし、異様だし、不気味なのだ。しかしそれは、最初から滅茶苦茶なものでも、そういうふうに恣意的に意図されたものでもなく、リンチ個人の中では真っ当に筋道が通っている世界なのである。観客は、その《リンチという”異邦”》の中を、道しるべも無く彷徨う事になるが、異邦に滞在するうちにその地の言葉を覚えていくように、次第にリンチ世界を”発見”してゆく。そして、自らの精神とかけ離れたリンチのその精神の在り様に感嘆し、あるいは嫌悪する。それが、リンチ映画を観る、ということの面白さなのではないだろうか。

■映画『インランド・エンパイア
「意味が分からなかった」この映画ではあるが、2、3の点で思ったことを書かせ欲しい。まず撮影がDVカムと呼ばれるビデオ機器によるものであるということだ。これにより、リンチは「撮りたい時に撮る」というフットワークの軽さを重視した撮影形態をとったが、逆にビデオである為の画像の荒さと深みの無さが気になった。その為リンチ映画独特の淫蕩な赤や闇の奥のような黒が堪能できなくなってしまったのは残念である。ハリウッド映画世界の裏の闇という題材は前作と被ってしまってるので新鮮味に若干欠けたような気がする。時空の入れ子構造というのも同様だ。それとこれまでの映画にあったような意味も無くしつこいセックス・シーンが無い。別にそれが観たい、という訳ではないが、60歳を迎え、リンチも流石に枯れて来たのかな、とちょっと思った。その”枯れ具合”が先の”フットワークの軽さ”を優先した簡便な撮影形態へと移行させたような気がする。そういった意味で考えると、これからのリンチ作品はこの『インランド・エンパイア』と似た形式のものになってゆくのかもしれない。ただそういうことを言いつつも、この映画が重厚な作品であることは変わりない。次の作品が何時になるのかは分からないが、それまで、DVDでも購入して、何度でもこの『インランド・エンパイア』の世界を堪能していたいと思う。

■INLAND EMPIRE Trailer


■INLAND EMPIRE - Official Italian Trailer