プルートで朝食を (二ール・ジョーダン監督 アイルランド/イギリス映画)

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」「クライング・ゲーム」のニール・ジョーダン監督の新作はトランスジェンダーな青年の自分探しの旅です。


舞台は1960年代のアイルランド、神父の家の軒先に捨てられた幼児は成長すると女装に惹かれる少年へと育っていった。周囲との軋轢に苦悩する彼の心を慰めるのは、自分を捨てた母親への思慕と憧憬だった。そして青年へと成長した彼は、母親を探す為にロンドンへと旅立つ。


物語は、60年代〜80年代のイギリスの音楽、ファッション、社会背景を存分に盛り込み、女装・同性愛者であることから世界と隔絶した青年が最後に”本当に大切なもの”を見つけ、自分と世界を取り戻すまでが小説のように短い章立てで描かれます。そこでは自らの暗い出自と共に、アイルランドとイギリスとの政治的抗争、テロリズムが影を落とし、主人公パトリックを二重に引き裂いてゆきます。トランスジェンダーの物語として見るのと同時に、60年代〜80年代のアイルランド/イギリスの青春群像として見る事も出来るのではないかと思います。こうして書くと暗い物語のように取られるかもしれませんが、主人公パトリックの夢見ているような生き方がどこかファンタジックでファニーな雰囲気を映画に醸し出し、時にはくすりと笑わせてくれるような、奇妙な明るさが物語を救っています。


物語だけで言えば、トランスジェンダーで、あれこれ辛いことがあって、出会いや別れがあって、本当の幸福を最後に見つけられて…と、この手のドラマではよくあるような展開になってしまい、新鮮さに欠けていることは否めません。映画としては凡庸かと思います。ただ、どこかこの社会での生き辛さ、疎外感や孤独感がより明確に浮き彫りにされ易いと言う意味で、同じような痛みを抱いたことがある一人の個人として、トランスジェンダーの物語には普遍的な共感を感じます。そして、それらを乗り越えたトランスの人たちには普通に生きている人間なんかには及びも付かない強い”輝き”を見る事ができます。この一発逆転の満塁ホームランみたいな眩い生命力の輝きと強靭さが彼らの物語にはあります。


この映画で際立っているのは主人公パトリックの頑固なまでの夢想性でしょう。監督ニール・ジョーダン曰く「ほとんど狂気とも思えるほどの信念を持ってこの世の中を美しい場所だと思い込むことで、パトリックは例え現実で全てを失ってしまっても、何も失われていないことに気付くのだ」とあるように、どのような苦く惨い現実が目の前にあっても、パトリックの夢想はそれをやすやすと飛び越えて、唯一つの幸福の情景の中で彼を救うのです。タイトル「Breakfast on Pluto」は「星々を訪ねて火星に向かう、そして冥王星(プルート)で朝食を」という主人公の作った詩からとられていますが、あたかも異星で生きているかの如くこの生を生きるパトリックの夢想性を端的に顕したタイトルになっています。


これを現実逃避だとはオレは思いません。むしろ、”現実”とされていることをさっさと飛び越してしまうことなんだとオレなんかは思う。映画の中でパトリックは「真剣(シリアス)、真剣、っていったいナニが真剣だって言うのよ!」と何度も毒づきますが、これは”現実”はたった一つしかないんだからそれに従え!というそれらの声を《否定》しているんだと思う。


”現実”なんて人それぞれが見るこの世の諸相の一つでしかない。客観的な現実なんか存在しない。だから私をあなただけのものでしかない”現実”に従わせるな!そんな貧相な現実を私に押し付けるな!パトリックは夢見るような瞳で、本当はそんなことを言っていたような気がしてなりません。この世界がどのように過酷で辛いものであっても、夢を見ているように生き、夢を見ているように死にたい。そして、夢見続けたパトリックのその夢想は、最後に、暴力と疎外しか生まない下らない現実に、勝利するのです。


余談ですが、映画の最中、パトリックを甘言で誘って殺そうとする変態中年が出てきます。んん!?なんか見たことがある顔…と思ってたら、


ブライアン・フェリーが変態役で出演してました。


(↓お美しいパトリックさま(キリアン・マーフィ))