宇宙戦争

製作が発表された時は「なんで今頃H・G・ウェルズ?」と首を傾げたが、なるほど、これは、スピルバーグが政治的な事を抜きにした「テロとアメリカ」映画を撮りたかったんだなあ、と思った。この場合、現実的なテロリストを登場させるとフィクションとして生臭くなってしまうから、だから宇宙人なのだ。分かり易いぐらい見事に911トラウマ映画と言っていいのではないか。しかも、スピルバーグが描きたかったのは、テロ社会の憂いでも、アメリカないしアメリカ国民とテロのイデオロギッシュなあり方でもなく、ただただひたすら、「こんなに!こんなにぶっ壊れちゃうんだよおぉっ!」というテロの生み出す破壊のパワーを映画の画面でこれでもかと再現する事だったのではないか。そして勿論、破壊と崩壊を描く映像の生み出す恍惚も。
スピルバーグは感じたに違いない、911の、あのWTCの崩壊の、禍々しいばかりの圧倒的な破壊のエネルギーとパワーを。それは恐るべき事件ではあったけれど、一人の創作者として、「破壊」そのものをとことんまで描く事は、ひとつの表現たりうる、と思ったのだ。メッセージもイデオロギーも抜きにした、「破壊の恐怖」そのものを。
この映画では最後まで「敵」の意図も正体も、宇宙からの侵略者であるということ以外説明されない。そもそも、交渉だの対話だの「インディペンデンス・デイ」でさえ描かれた事柄が一切存在しない。ただ突然破滅は起こり、訳も判らず人々は逃げ惑い、殺害され、全てが瓦礫と化し、そして唐突に物語は終わる。原作にある都合のいいラストのオチ通りに。この映画でラストが弱いのだとしたら、これはもともと《ラスト》など存在しない物語なのだからだ。一つの興行映画として娯楽作品として完結しなければ成り立たないからラストがあるだけであり、本当の主人公が崩壊する現代建築である以上、それが描かれた時点でこの映画の役割は終わっているからである。
だからこの映画では登場人物さえ単なる狂言廻し以上の役割を与えられていない。トム・クルーズ演じる主人公は破滅の発端と経過と終焉を全てその目で観、体験するが、それは「カメラの目」以上の物ではなく、人物描写も性格描写もありきたりで特別に個性的なものなど無い。ブルーカラー、離婚家庭、はアメリカでは恐ろしく一般的な存在であり、ほぼ危機を回避するべき知性もスキルも持ち合わせ無いただその辺の市井の人間が主人公である事はこの物語では重要な事なのである。ヒーローでも科学者でも軍人でも無い、いつ殺されても何もおかしくは無い存在である事が。それはつまり、誰もが、破壊の前には、為す術も無く、無力でしか無い、ということだからだ。
そして人々は家畜のように逃げ惑い、虫けらのように捻り殺される。破滅の前では誰もが等しく不条理な死の大鎌の前に首を付き出しているのだから。クライマックスで一度だけ主人公は能動的な攻撃に転じ、敵を壊滅させるが、これとて映画的カタルシスを構成する為のお約束でしかなく、ここだけがスピルバーグ的娯楽アクションとして成立しているけれど、本来主人公のような人物はたまたま生き残るか例外なく死ぬかどちらかでしかないのである。
だからこの映画の評価はその情け容赦無い破壊の描写のみに対し与えられるべきであり、そういった意味でこの映画は傑作なのである。
蛇足だが、エイリアンの造形はジョージ・パル制作の1953年版のほうが秀逸だったと思う。あの映画では宇宙船の造形もカッコよかった。