アキレスと亀 (監督:北野武 2008年日本映画)

北野武“自己解体”3部作の掉尾

子供の頃ちょっと絵を褒められたばかりにその気になってしまい、まるで才能の無いまま売れない画家を続ける男の生涯を、笑いとペーソスで描いた北野武監督作品。映画は少年期、青年期、中年期と3つのパートに別れ、主人公・真知寿(マチス)をそれぞれ子役・吉岡澪皇、柳憂怜(柳ゆうれいが改名したらしい)、ビートたけしが演じる。

いつかも書いたがオレは北野武監督の映画作品が結構好きで、『あの夏、いちばん静かな海。』以外の作品は全て観ている。やはり初期〜中期の、血塗れの暴力の果てに辿り着く虚無と死、といったテーマの作品には痺れまくったものだ。登場人物の誰もが己の死の運命へと何一つ惑うことなく軽やかな足取りで突き進んでゆく様が壮絶なのだ。

しかし監督業に行き詰まったのか自分の作風に飽きてきたのか、北野は前々作『TAKESHIS'』、前作『監督・ばんざい!』と、妙な実験作ばかりを立て続けに撮ってきた。これらは俳優・タレントのビートたけしと監督の北野武を解体するべく撮られたような映画だった。そんな経緯の後作られたこの映画は、その解体作業終了後の作品という臭いをさせていて、どんな映画に仕上がったのか大いに楽しみだった。

■3つの時代

3つのエピソードをちょっと紹介してみよう。少年時代の描写はその時代の空気を実に丹念に再現していたように思う。オレはなぜか田舎の実家にいた子供時代を思い出したぐらいだ。裕福な家庭生活から一転、破産、両親の自殺、継子に出された先での辛い日々など、物語の展開はどことなく紋切り型だが、逆にこれまでの北野らしくない腰の座った演出で、北野の変化を感じさせた。

青年時代では新聞配達や印刷工をしながら美術学校に通い、仲間や恋人に出会う真知寿(柳憂怜)の姿が描かれる。ここでは美術仲間と芸術談義に付き合わされたり可笑しなアクション・ペインティングに高じる姿がハイライトとなる。所詮アートなんてこの手のお遊びなんだろ、といった皮肉が込められているのだろうが、オレにはちょっと皮相的な批評に感じたなあ。この時代で真知寿は理解者である幸子(麻生久美子)と出会い、結婚する。

中年時代での真知寿ではいよいよビートたけしの登場。これまでの時代で寡黙で内向的な性格として描かれてきた主人公が、素で悪乗りするたけしの登場でいきなり乱調になり、映画的整合感が失せてしまうけれども、北野の映画で映画的整合感なんて言ってもしゃあないんである。そして、ひたすら芸術に狂い、世間に後ろ指指され家族が崩壊しても気にも留めない真知寿の姿には鬼気迫るものがある。

だがしかしこの3つのエピソードは同じことの繰り返しになってしまい、観ていて段々飽きてしまう。3つのエピソードを時間的に等配分せず、ビートたけし中心にして押し切ってもいいような気がしたが、家族/その他、といった狭い人間関係のみで語られたこの物語では膨らませようがなかったのか。この映画の為に描かれたであろうたけしの絵も、ヘタウマの味わいがあるとはいえ、これまでの北野映画でさんざん見せられた身としてはああまたか、としか思えない。

■破滅願望

一応主題が見えてくるのは中年時代のラストである。ネタバレになるので詳しくは書かないが、ここで思い出したのはつげ義春の名作漫画『無能の人』だ。漫画家をほぼ廃業したような主人公が、河原に落ちている石を売って生計を立てようとするが、そんなもの当然売れる訳がない。家庭は貧窮し、妻からはゴクつぶしとなじられ、子供は腹を空かせてピーピー言っているのに、つまらないプライドから主人公はまるで動こうとしない。

アキレスと亀』の主人公・真知寿は好きなことをやり続けたいという一心で世間から浮き上がり、家族さえ不幸に陥れるが、妻・幸子(樋口可南子)はギリギリまでそれに付き合い、真知寿の理解者たらんとする。『無能の人』の主人公の妻は、甲斐性の無い夫に愛想を尽かしつつも、諦めなのかそれが運命と受け取っているのか、決して夫を放り出そうとせず、結局は夫を支える事となる。

好きなことだけをやっていたい、その為には世間などどうでもいい、そういった態度はひとつの現実放棄なのだろう。しかしそれで生活が成り立っていない以上、いずれ全ては破綻する。それを知りながらもやり続けるということ、それは破滅願望に他ならない。何もかも駄目になってしまったっていい、自分なんて消え去ってもかまわない。『無能の人』もそれと同じような主題が語られていた。

■生き続けること

北野のこれまで映画は、その破滅願望が繰り返し語られ、そして最後に、当為のように主人公は破滅と死を迎える。それがこれまでの北野映画の常套句だった。だが、この『アキレスと亀』のラストでは、主人公の持つ破滅願望が、家族というものによってギリギリの部分で救われる。それを家族や妻という存在への甘えととってもいいのだけれど、少なくとも、北野はここで生きようとする。

北野映画の変節は、ビートたけしが瀕死の重症を負ったバイク事故が原因にあったように思う。破滅へとひた走りながら、結局は生き残ってしまうこと。しかし生き残っても、茫洋とした現実で、索漠としながら生き続けなければならないということ。この葛藤が、北野“自己解体”3部作で描かれていたのではないか。そして、この3作目において、たけしは生き続けることを肯定したのではないか。さんざん不幸な目に合わされながらも最後に笑顔を見せる妻・幸子に真知寿が救いを見出したように、北野武も、ひとつの救済へと辿り着いたのではないのだろうか。