クリス・マルケルはフランスの映像作家であり、ジャーナリスト、写真家でもある。
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ラ・ジュテは全編モノクロのスチール写真のみで構成された短編SF映画。核戦争により絶滅した人類の最後の生存者達は地下で細々と暮らしていた。彼等の最後の希望はタイムトラベルによって過去から“情報”を取り出すことであった…。というお話。テリー・ギリアムの「12モンキーズ」の元になった作品と言ったほうが判りやすいだろう。内容は、シリアスなSFものというよりもむしろ、“記憶”というものの在りように触れようとする思弁的な内容と見たほうがいい。そして、男と女の、出会いと別れの映画でもある。
スチール写真が次々に映し出され、台詞もなく、ナレーションだけで物語りは進んで行く。しかし写真のみなのにも拘らず、次第にそこに動きを感じてくる。切り取られた一枚一枚の写真は、美しい。
それにしても何故スチール写真なのだろう。時間−記憶−過去を映像で表現する最善の方法がスチール写真だと判断されたのだろうか。過去は写真のように静止した/スタティックな情報であると言うことなのだろうか。それでは何故映画の時間軸上では“現在”であるべき核戦争後の未来の映像すら写真なのだろう。いや、物語として完結した時点で全ては過去となり、時間はまたしても進んでいく。主人公が追い求める幼い頃に見た空港での情景の記憶。そこで見た女性の淋しげな横顔の記憶。主人公の主観的時間の最後の場面は再び訪れた“過去”の空港である。そこで彼はもう一度自分と出会う。記憶の上に積み重なるもう一つの記憶。物語は唐突に終わるが、しかし、世界内の時間はそんなものなどお構い無しに過ぎてゆくのだ。幼い頃の記憶の理由も。記憶の中の女性との儚い逢瀬も。みじめな“現実”も。全てはアルバムの中のスナップショットでしかなく、物語の円環は閉じられ、アルバムは書棚の中に忘れ去られ、そしてまた新たな、ここでは語られない物語のために、時間は無情にも過ぎ去ってゆく。
しかし。この映画で一瞬だけ映像が動く場面がある。それは主人公の愛した女が眠りから覚める時の一瞬の瞬き。無防備にまどろむ女を主人公は愛しげ眺めていたに違いない。その瞬間、目覚める女の美しさに陶然となった瞬間。この刹那にのみ逆説的にこの映画を構成するルールは停止する。
そして、この刹那の、誰かを愛しむ瞬間こそが世界を停止させ、時間を越えた永劫性を獲得するのだ、と映画は語っているような気がしてならない。
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サン・ソレイユは日本とアフリカを題材にしつつ、カメラマンである“私”がその文化の中で何を認識し、どのような精神的遍歴を経たのかを手紙の形式で説明したドキュメンタリー。
製作が1983年であることから、ここで映し出される日本の映像も時事も当然20年前のものである。しかし何故か殆どの映像に古さや懐かしさを感じさせない。それは例えば、竹の子族の映像は確かに古臭いものではあるが、作者は竹の子族という風俗を撮影したのではなく、その背後にある竹の子族を象徴とする日本の若者たちの“何か”を写そうとしているからなのだろうと思う。
阿波踊りや人形供養祭、どんど焼き、豪徳寺の招き猫など、日本の土着に根ざした映像もあるが、異邦人の目というフィルターを通してみると、これが実に美しく、趣のあるものであることを再発見する。単に風俗をそのまま写せば凡庸で風化しやすい映像にしかならない。結局は視点の問題なのだ。
それにしてもありふれた日本の光景ばかりなのに、どうしてこうも見ていて心安らぐのだろうか。いや、むしろ、自分も異邦人の目と同化して、孤独と漂泊の甘やかなる快楽に酔っているのかもしれない。どこか夢見ているような気分にさせられるのは、時折仕様される奇妙な音響効果や視覚効果と、そしてフランス語の女性ナレーションによるものなのだろう。フランス語というのは美しい響きがあるな、と妙に感動した。
ここで語られる“手紙“の内容は様々だ。時に詩のようでもあり、思索の断片でもあり、そして明確に政治的であったりする。三里塚空港闘争。アフリカのクーデター。沖縄の戦争の記憶。そして特攻隊員の手紙。
そして、製作されることがなかった映画のストーリーの要約が語られる。40世紀と過去を結ぶタイムトラベルを描くSF映画。記憶についての映画だ、と彼は述べる。映画のタイトルは「サン・ソレイユ」。そう、この映画のタイトルでもある。基本的に、時間SFのルールは改変できない過去。そして、このドキュメンタリーの名を借りた精神の漂泊を描く映像は、実は製作されなかったSF映画のアナザー・バージョンとしてみることが出来るのではないか。すなわち観察者としての存在でしかない自己。日本やアフリカを愛しつつも、異邦人/時間航行者と言う名の傍観者でしかない自己。
そしてこの映画は、ラ・ジュテと同じ円環構造をした構成を辿っている。冒頭と終盤に挿入されるアイスランドの母子の映像。作者はこれを“幸福の映像”と呼ぶ。しかし、この“幸福の映像”に繋げられる他の映像を探そうとして駄目だった、と彼は続ける。彼の中で、幸福の映像は既に枯渇してしまっている。代わりに挿入されるのは航空母艦のカタパルトの戦闘機の映像。時代という名の不幸。だからこそ手紙の言説は時折ひどく政治的になり、そして異郷の情景に心の慰めを見ようとする。そして様々な映像の果てにドンド焼きと日本の新年という“浄化”を経て映像はもう一度アイスランドの母子の“幸福の映像”へと辿り着く。
最後に語られるのは、タルコフスキーの映画「ストーカー」に現れる、幸福を現実のものにすると言われている異次元空間「ゾーン」の話だ。彼はその「ゾーン」がここにもある、と告げる。幸福を現実のものにする場所が。
そうなのだ。この映画はドキュメンタリーの体裁をとりつつも、実はひとつの“幸福の映像”とそれを実現する「日本」という異次元世界を求める物語であり、そこに迷い込んだ時間航行者(即ち映画監督であるクリス・マルケル)の漂泊と孤独と癒しと、そして魂の遍歴についての物語であったのである。