社会との違和感〜「銭湯の女神」 星野 博美

銭湯の女神 (文春文庫)「銭湯の女神」 文春文庫 星野 博美(著)
女性のエッセイというのは細やかな感受性とか鋭い観察眼とかとかもてはやされる事が多いが、なんだかオレにはちまちましたどうでもいいことをほじくり返して幸せごっこと不幸ごっこを演じてるだけのようなイメージが強い。その逆に最初っから大股広げて「文句あんの?」と偽悪ぶるとか。いや、実はほとんど読んだこと無いんだけどね。なんか、こう、女って奴は、現実的というか、地に足が着いてるぶん、世界をひっくり返したりぶっ壊したりしてくれないのだ。そもそもひっくり返したりぶっ壊したりは男の仕事、ということなんだろうな。いまだに「いい大学入って大企業に勤めて」とか子供に期待するのは女親だって話だし。
このエッセイの作者は写真家。ああ、後オレは芸術手段としての写真がわからない。面白いと思ったことが殆ど無いのだ。現実に存在するものを存在してます、と放り投げられても受け止めたくないのだ。やっぱ写真の醍醐味は心霊写真。あとUFOとUMA。あるはずの無いものが写っている。世の中これ程人を小ばかにしたものがあるだろうか。一番気に障るのは街中によくいるプチカメラマン。雑踏とかファッションビルとかなんだかお洒落な町並みで予定調和なお洒落な写真撮って面白いか?ショーウィンドウとか最初から綺麗に演出されているものを綺麗に撮ったからって、それはお前のセンスとか才能とかとは何にも関係ないとオレは思うぞ。
さて、言いたいこと言った後で恐縮だが、このエッセイは好きだ。というか、このエッセイの文章はオレが書いたんじゃないか?少なくともオレが思ったことを作者が脳電波として受信して書いたんじゃないか?と思えるほど(嘘だよ、思ってネーよ)オレが常日頃思っている事や感じていることが文章になっていた。「パンクは態度である」とか「癒しというまやかし」とか「温泉には行きたくない」とかタイトルだけでもこのエッセイの”立っている場所”が判る。作者はこの社会と自分との微妙な温度差と違和感を文章にし、そしてそれは何なのか?何故なのか?を考察してゆく。でも時々すっとぼけた文章が入っていたりしてメリハリがあり、小気味いい。人々が当たり前と感じてることなんて、本当は当たり前じゃない。人々が仕方ない、と思ってることなんて、仕方なくなんか無い。「しかし鈍感であることは罪だ。鈍感な人たちが敏感な人たちを傷つけ、追い詰めるからだ。鈍感な人たちが増えることは、その社会の致命傷といっていい。」(「切れる若者より怖いもの」)真っ当な感受性を失って生きて、そんな生き方の果てにいったい何があるというのだろう?そんな作者の問題意識や問いかけにはとても共感する部分がある。
でも作者は「いつも男だと思われる」とか「なるべく風呂に入るようにしよう」とかトホホなことを平気で言ったりする所もあって、決して窮屈な文章じゃない。そして自らの仕事である写真も所詮「記憶の墓場」だと言い切る。いいなあ。判ってるなあ。こういうのを「いい女」って言うんじゃないのか。
そーなのだ、オレにとってもこんな社会、違和感だらけなのだ。ただ…オレの場合、自分の性格が悪いから、というのが主に原因のような気がするので、この本の作者のように深い洞察とかはもちろんできていないのである。駄目である。情けないのである。