ウエルベックさん、ご災難!?/ミシェル・ウエルベック著『わが人生の数か月 2022年10月-2023年3月』

わが人生の数か月 2022年10月-2023年3月 /ミシェル・ウエルベック (著), 木内 尭 (翻訳)

わが人生の数か月 2022年10月-2023年3月

「私が本当に地獄に落ちたのは、一月三十一日、パリに戻ってからだった」。イスラム嫌悪の諍いの裏で、ポルノ映像出演という最悪の事態に見舞われた著者が赤裸々に描く自己分析的エッセイ。

素粒子』『服従』など問題作を書き続けるフランス文学界の鬼才、ミシェル・ウエルベックが2023年5月下旬に急遽発表した「告白形式のエッセイ」、それがこの『わが人生の数か月 2022年10月-2023年3月』なんですね。

なんだか勿体ぶったタイトルですが、実はウエルベックさんがろくでもない災難に遭って大慌ての巻、というのがその内容なんです。で、その「災難」というのは、まず「舌禍夥しいウエルベックさんがまたぞろイスラム差別発言をして大問題!」というのと、「エロ大好きウエルベックさんがうっかり出演したポルノ映画を公開するしないで法廷闘争!」という2本立てとなっているんですよ。まあ……実にウエルベックさんらしいというか……ええと……

ウエルベックさん、なにやってますねん?

で、この『わが人生の数か月』では、憤懣やるかたないウエルベックさんによる、それら事件の顛末やら経過やらが書かれているんだけど、実際書かれていることはまあ……実に言い訳がましいというか……ええと……

ウエルベックさん、しょーもな……。

帯の惹句にはこんなことも書いてある。

妻とポルノビデオを作りたいと願っていた作家が、事件に巻き込まれる。似非アーチストの「ゴキブリ」、淫乱のなり損ないの「メス豚」、美貌の持ち主だが無個性な「七面鳥」。ネットでは「予告編」が拡散されはじめ、「メディアの阿保ども」につけまわされる。性行為において最も重要な「愛」はどこにあるのか。

まあ「妻とポルノビデオを作りたいと願っていた作家(=ウエルベックさん)」というのはとりあえず置いときましょう。

だってウエルベックだもの。(みつを)

でもそれをあんまりよく知らない第3者に委ねちゃってた部分で「事件に巻き込まれる」可能性は予想できなかったのかなあ。

ウエルベックさん、結構ドンクサ。

で、実はスキャンダル目当ての詐欺行為だと発覚してウエルベックさん大慌て、映画公開(ただしネット配信映画なのらしい)差し止め請求裁判を起こしたんですが、撮影前に契約書にサインしちゃっており、裁判の雲行きは果てしなく怪しい。こんな理不尽さにウエルベックさん大激怒、自分を騙した連中を「ゴキブリ」「メス豚」「七面鳥」と汚い言葉で呼びつけ、本文は罵詈雑言の雨あられ。要するにアレです、「ネットで炎上してもさらに油注いじゃうタイプ」なんですねウエルベックさん。(でも「文章書くのとネットでエロ動画観る以外はパソコンは使わん!」とかよく分からない威張り方をしてますウエルベックさん。)相当迂闊だったとはいえウエルベックさんは間違いなく被害者だし、お怒りになる気持ちは十分分かるんですが、

ウエルベックさん、ちょっと老害入ってる。

とはいえ、そんなろくでもない私憤を書き連ねた文章を読んで面白いのかというと、実はこれが結構面白い。口汚い言葉も使うんだけど、ウエルベックさん一流の文学性に満ち溢れた文章がそちこちにあらわされ、ウエルベックさんならではの高度な知見に裏打ちされた言説が立ち上がり(見ようによっちゃあ単なる衒学と屁理屈なんですが)、これぞウエルベック節!と思わされる名文句がほとばしりまくってるんですね。

さすが、腐ってもウエルベック

もちろんこのエッセイ、ウエルベックのファンだからこそ生暖かく微苦笑を浮かべながら読めちゃうんですが、これまでウエルベックを読んだことの無い人が初見で手を出すのは絶対に御法度です。もし読んだらウエルベックが単なるドエロのクソジジイとしか思えなくなります(だいたいポルノ映画において自分がどんなにドスケベなエッチをしたのかを克明かつ丹念に描いています)。もしウエルベックさんに興味が湧いたのなら『素粒子』や『滅ぼす』を始めとした文学作品をまず読まれることをお勧めします。ウエルベック作品を全作読んでいるオレの感想文をまとめたリンクも下に貼っておきますのでご参考までに。

ではこのエッセイで心に残ったウエルベック名文句を幾つか挙げておきましょう。

  • 「諸々の誤った心理学の影響で、性行為における幻想の重要性がしばしば過大に評価されている。幻想は、他人との関係がいっさい存在しないところで育まれる。(p19)」
  • 安楽死は、存続に値しない文明とそうでない文明を本当に分ける、数少ない主題のひとつだ。(p67)」※ウエルベック安楽死否定論者として知られる
  • 「悪は、善と同じくらい広大であり、同じくらいほとんど限度を知らない(p67)」
  • 「この本には「私の自縄自縛」というタイトルをつけることができるだろう。なかなかいい響きだと思う。(p74)」※ちょっと自嘲も入ってるウエルベックさんが可愛い
  • 「私はしばしば悲観主義の作家と見なされており、それは多分正しいのだが、良い本を書くのに役立つ明晰さは、現実にとるべき態度としては必ずしも最良のものではなく、多くの場合、すべてはうまくいくかのように振舞った方がいい。(p76)」※作家と作品は別箇ですよと言っている
  • 「私は信仰を信じるのをやめていた。私が言いたいのは、人間たちがその周りに集まるふりをしている、政治的、哲学的、宗教的な思想のことである。愛はまだ信じていた。(p115)」
  • 「私とキリスト教の関係がこれほどまでに険悪だったことはいまだかつてなかった。それに対して、イスラム教との関係は緊張緩和が顕著に進み、その動きは私が「ライシテ陣営」に対してますます苛立ちを募らせていたことでさらに加速した。(p118)」※「ライシテ」とはフランス独特の政教分離政策のこと。「キリスト教よりイスラム教の方がまし」と言いながらこれまで批判的だったイスラム教に色目を使うウエルベックさんの姑息さが結構嫌いじゃない
  • 「私は人生をもはやそれほど好きではないが、人生を再び好きになろうと考えることはできた。(p123)」※ウエルベックのこういう言い回しが本当に好き

 

生きる理由、生きる意志。/映画『マッドマックス:フュリオサ』

マッドマックス:フュリオサ (監督:ジョージ・ミラー 2024年アメリカ映画)

映画『マッドマックス:フュリオサ』は荒廃した世界で巻き起こるウルトラバイオレンスを描いたジョージ・ミラー監督作『マッドマックス』サーガの第5弾である。前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード(MMFR)』の前日譚として製作され、『MMFR』で重要な役割を演じたフュリオサが主人公として活躍する。

このフュリオサ、『MMFR』ではイモータン・ジョーにより支配された砦「シタデル」で大隊長を務めながら、イモータンの女たちと共に「緑の地」を目指して逃走、その後マックスを仲間に加え壮絶な戦闘を巻き起こした女性だ。この作品では過去に遡り、フュリオサが幼い頃「緑の地」から拉致され、「シタデル」での過酷な日々を生き残り、どのように大隊長へと成り上がっていったかが描かれてゆく。そこにはフュリオサを拉致し地獄へ突き落とした張本人、ディメンタスへの燃える様な復讐心が関わっていたのだ。

主人公フュリオサを演じるのはアニャ・テイラー=ジョイ、宿敵ディメンタスにクリス・ヘムズワース。その他『MMFR』に登場した多くのキャラクターが登場し、前日譚として大いに盛り上がるが、『MMFR』や『マッドマックス』サーガを観ていなくても十分楽しめる作品だろう。

『フィリオサ』は前日譚であると同時に外伝的な性格を持った物語だ。これまで主人公だったマックスは一応登場せず、女性であるフュリオサが主人公となっている部分でこれまでのサーガと一味違うものとなる。さらに『MMFR』の過去を描くことで『MMFR』世界を説明する補完的な内容でもある。そして今作の最大の敵であるディメンタスが、これまでの奇怪な相貌の悪役と違い、ダークヒーロー然とした二枚目半のマッチョなのだ。こういった部分でジョージ・ミラーがこれまでのサーガともう一つ違う世界を描こうとしたのが伝わってくる。

全体的な構成やビジュアルにしても、オープニングからハイカロリーかつテンコ盛りの展開を見せる『MMFR』と比べるなら、前半子供時代のフュリオサから現在のフュリオサまでを的確に見せてゆく部分でテンポが異なる。また、きちんと調べたわけではないが、実写にこだわり生々しいアクションの展開する『MMFR』と違い、『フュリオサ』は特撮処理したアクションシーンが割合多かったように思う。これは善し悪しではなく作品の見せ方を変えたかったからだろう。サーガを引き合いに出すなら『フュリオサ』は前半部が『マッドマックス サンダードーム』を、後半部は『マッドマックス2』を思わせた。

そしてこれまでのサーガと『フュリオサ』との大きな違いは、サーガにおいては虚無を抱えた男性主人公マックスが、巻き込まれ型の事件の中でなけなしのヒロイズムを嫌々ながら発揮する物語であったのと比べ、『フュリオサ』では女性主人公フュリオサが、絶望的な状況の中でも決して「希望」を失わず、「復讐」そして「故郷への帰還」を確たる目的としていることだろう。それは物語の中でフュリオサ以外のキャラクターが徹底的に「希望なんてない」と連呼することから逆に浮かび上がってくる。

「生き残ること」がサーガの中で最重要な事柄として描かれるのは間違いない。『マッドマックス』サーガは、地獄のような世界で、それでも「生きろ、生き延びろ」と訴えかけていた。ではなぜ生きるのか、生き残ろうとするのか。それに対しフュリオサは強烈な目的意識を持つことで一つの回答を明示する。この「生きる意志」を描いた部分で映画『フュリオサ』はサーガの中でも特異な作品であると同時に、新たな指標を見だした作品と言えるのではないか。ニヒルなマックスに比べ、フュリオサの描かれ方はエモーショナルなのだ。

映画的にいうなら、主人公フュリオサを演じたアニャ・テイラー=ジョイはアクションや立ち姿において若干線の細さを感じてしまったが、最近要注目の女優を抜擢したこと自体は映画に大いに貢献していたと思う。クリス・ヘムズワースが悪役を演じるというのも新奇で面白く感じた。これまでの悪役が少々人間離れしていたことを考えるなら、あれだけ悪辣なことを仕出かしながらも、娘の形見のぬいぐるみを後生放さず持っている部分に妙な哀れさを感じさせ、そういった役柄にクリス・ヘムズワースは大いに応えていたように思う。アクションシーンは『MMFR』ほどテンコ盛りではないにしても、一旦発動するとこれまでの作品では見たことの無いような怪しげなマシンやギミックがこれでもかと登場し、お腹いっぱいにしてくれるだろう。そして今作、今まで最も砂漠の無常が巧く描き出されたように思う。

《6月2日追記》

『マッドマックス:フュリオサ』は5月31日にIMAXで視聴し、このブログの感想文を書いたが、その後6月1日に今度はDolby Cinemaでもう一度視聴したので、ブログ文を追記しても差し支えないだろう。

『マッドマックス:フュリオサ』の冒頭で登場する「緑の地」は、15年後の物語である『MMFR』では汚染された毒の沼地と化し既に滅んでしまっていた。物語を通じてフュリオサは、「緑の地」から拉致されながらも結果的に生き延び、さらにはイモータン・ジョー一派を撃破して「シタデル」を巡る世界を平和へと導く。即ち拉致されていなければフュリオサは「緑の地」と共に滅んでいたかもしれないし、当然世界を変えることもなかった。そう考えると、映画『マッドマックス:フュリオサ』は、血を吐くような怒りと困難に満ちた物語であったとはいえ、「世界をより良い方向へ導く」ための壮大な助走であったと考えることができるのだ。まさに数奇な運命としか言いようがないじゃないか。

振り返ってみると、実は『MMFR』自体が殆どの重要な部分がフュリオサについての物語で、だからこそ彼女の出自を物語る『マッドマックス:フュリオサ』が作られたのは必然だったのだと思う。そもそも、ジョージ・ミラー監督は、ド派手なアクション演出を可能にする監督である以前に、例えばミラー監督の前作『アラビアンナイト 三千年の願い』に代表されるように、「物語/伝承/伝説/童話」といった意味合いでの【TALES=テイルズ】の監督なのだ。そして『マッドマックス』サーガも、サーガという意味合いにおいて【TALES=テイルズ】の映画だと言えるはずだ。そう考えるなら、主人公フュリオサの生い立ちから属する社会の命運を賭けた戦いまでを丹念に描いたこの作品は、『MMFR』の狂騒とはまた別のベクトルにある、実にミラー監督らしい作品なのではないだろうか。

 

藤木TDC&和泉晴紀のコミック『辺境酒場ぶらり飲み』を読んだ

辺境酒場ぶらり飲み / 藤木TDC, 和泉晴紀

辺境酒場ぶらり飲み (リイドカフェコミックス)

繁華街でも商店街でもない場所にぽつんとあるひなびた酒場。破れた赤提灯、煤けた暖簾、汚れた引き戸。一見客を突き放す閉鎖的な空気を漂わせている。どうしてこんな場所に飲み屋があるのか。場末の酒場にはそんな疑問がわくが、そこには現代史とも密接な関係を持った歴史があり、個性的な店主と常連客の人情が息づいているのだ。場末の酒場には、酒徒の好奇心を満足させる物語がある。日常のしがらみに疲れた人間を癒やす、魂の原風景とは――。

大酒呑みのオレではあるが、殆ど家呑みである。外で呑むときは、相方や友人が一緒の時だけで、一人で呑みに行く、という事が全くない。そもそもオレは外で一人で飯も食うことがない。家で自炊である。外で飲み食いしないというのは、間が持たなそうなのと、経済的な理由である。家の方がのんびりできるし、お財布にも優しい。また、誰かと外で飲み食いするにしても、どんな評判の店なのかあらかじめ調べるし、そこで飲み食いして気に入れば、何度でもリピートする。まあ、誰でもそんなものだろう。

たまさかしか外で飲み食いしないから、失敗したくないし、失敗した時のガッカリ感は後々まで尾を引く。相方と飲みに行ってとんでもない店に当たった時の体験は、今でも時々思い出しては、二人で罵詈雑言を並べ立てて楽しんでいる。そういえば昔、椎名誠だったがが言っていたが、美味いものを一緒に食べた時の体験よりも、不味いものを一緒に食べた時の体験のほうが、後々までお互いの記憶に残り、大いに盛り上がるネタになるのらしい。確かにそう思う。

コミック『辺境酒場ぶらり飲み』はルポライター藤木TDCと漫画家の和泉晴紀が、関東近辺の、盛り場とは大きく外れた「辺境の酒場」にぶらりと入り、そこで飲み食いしたもの、出会った人々、それにまつわるアクシデントなどなどをコミック形式で描いたものである。ここで言う「辺境酒場」とは、昔から地元に根付き、地元民に利用され、そしてその土地が辺境と化していったことでひなびてしまった酒場を指す。町酒場だからたいていは店主一人で経営され、店主の趣味嗜好が大きく反映され、同時に昔ながらの町酒場の雰囲気がいまだに残る、”古臭い”店舗ばかりである。

いわば酒場についての「詫び錆び」と、そこでの一期一会を味わおう、というのが主眼なのだ。だから「穴場の飲食店!」とか「絶対食べておきたい名料理!」などといったものを紹介する内容では決してない。そもそもそういったものは登場しない。だからだいたいの場所は描かれていても、正確な店の名前は記載されておらず、むしろそんな店のあるその土地の記述が多い。それは、単に酒場での飲み食いを記述したものというよりも、どこか「考現学」に近い感触を覚えるアプローチだ。

それは例えば、この町で過去、どのような理由でどのような産業が興り、それによりどれだけの労働者が集まり、その労働者を吸収するためにどのような食堂や酒場、あるいは風俗産業が発達していったのかを紹介するそれぞれの作品末のコラムの存在に象徴されるだろう。そしてこれら産業はたいていは現在消滅しつつあり、繁華街はシャッター通りとなり、その中でいまだにひっそりと残る酒場があり、その酒場に入ることでこの町の過去の繁栄を想像するといった行為がここにあるのだ。

それは今作の共著者であるルポライター藤木TDCの持つテーマであり視点となるだろう。ただしそれを、和泉晴紀のお気楽なんちゃってサブカルライフな軽いノリと、久住昌之と共著時のペンネーム泉昌之で数多く出版している『食の軍師』等B級飲食店コミックを連想させるギャグタッチな進行により、親しみやすく大いに笑わせる楽しい作品として完成している。特に「寿司の置いていない寿司屋と蕎麦を勧めない蕎麦屋」の回は、これはもう事実は小説よりも奇なりを地で行く、とんでもないカルチャーショックと笑いに満ちた回だった。

なおこちらの作品は[ 噛みごたえ - 不発連合式バックドロップ ] を読んで興味を持ち手に取りました。併せてお読みください。

 

『手招く美女 怪奇小説集』を読んだ

手招く美女 怪奇小説集 / オリヴァー・オニオンズ(著)、南條竹則、高沢治、館野浩美(訳)

手招く美女: 怪奇小説集

長篇小説を執筆中の作家ポール・オレロンは古い貸家に引越すが、忽ち創作は行き詰まり、作家は周囲に何者かの気配を感じ始める。邪悪なものの憑依と精神崩壊の過程を鬼気迫る筆致で描き、ブラックウッド、平井呈一らが絶賛した心理的幽霊譚の名作「手招く美女」など全8篇と、作者がその怪奇小説観を披露したエッセーを収録。英国怪奇小説の黄金時代に、精緻な心理主義と怪異描写、斬新なアイデアで新しい地平を拓いたオリヴァー・オニオンズの怪奇小説傑作選。

イギリスの作家ジョージ・オリヴァー・オニオンズ(1873-1961)の怪奇幻想小説を集めた作品集。全8篇の中短篇と序文となるエッセー「信条」とで構成されている。

オニオンズの作風をまとめるなら、怪奇幻想小説ジャンルから連想される暗くおどろおどろしい怪異をこれみよがしに描くのではなく、非常に抑制された描写の中から、滲み出てくるかのようにじわじわと”あやかし”が浮き上がってくるといったものになるだろう。端的に言うなら奥ゆかしく、「雰囲気」で読ませる怪奇小説作家だ。もともとオニオンズは美術を志していた人物らしく、そういった美意識が反映されてもいるのだろう。

解説にある「脱ゴシック作家」としてのオリヴァー・オニオンズの存在についての記述が興味深い。

十九世紀半ばから二十世紀前半にかけての、英語圏における近代怪奇小説の確立と発展の過程を一言で要約するならば、「脱ゴシック」となろう。怪奇小説はゴシック小説を母体に生まれ、学術研究や批評の場ではゴシック小説と一括りに扱われることも多い。だが実作の場ではむしろ、いかにゴシックの旧弊な様式を脱するかを焦点に作家たちが腕を競い合うことで、怪奇小説は発展してきた。

即ちそれは、超自然現象をそのまま描くのではなく、ひとつの心理現象でも有り得るとして描くという手法だ。これは脱ゴシック作家、ヘンリー・ジェイムスの『ねじの回転』でも見られる描写の在り方である。怪異は、ただ外からやってくるのではなく、内なる部分から沸き起こってくるものでもある、という心理主義的な描写なのだ。

例えば怪奇作家アルジャーノン・ブラックウッドから「最も恐ろしく美しい幽霊小説」と評された表題作「手招く美女」だ。物語は、古い貸家に引っ越した作家が、何者かの気配に脅かされ、次第に精神崩壊に至ってゆくというものだ。ここでは具体的な「幽霊」の存在そのものよりも、主人公の抱える不安や恐怖それ自体が怪異を導き出しているかのように思わせるのだ。この辺りはシャーリィ・ジャクソンの『丘の上の家』を思わせるものがある。ただし、作品は中編の文章量で、読んでいて長すぎるように感じたのと、「雰囲気」が先行し過ぎてちょっとかったるかったのは否めない。

一方、沈没寸前のガレオン船の乗員が見る幻影を描く「幻の船」や、天才的な勘を持つ建設作業員が在り得べからざる影におびえる「ルーウム」、二人の対照的な男が対峙する「不慮の出来事」 、自らの魂を彫刻の中に転移させようと試みる芸術家を描く「ベンリアン」 などは、怪異譚というよりもSF的な超次元を扱ったものとしてH・G・ウェルズの短編作品にも通じるものに感じた。

17世紀の幽霊譚を現代の視点から物語る「途で出逢う女」は、その構成の特異さが際立つ一風変わった作品だ。シチリアの富豪の娘と旅先で知り合った青年との燃え上がる様な恋その後の運命を描く「彩られた顏」神秘主義的展開が独特な中編だが、前半のロマンス描写が冗漫すぎて辟易した。戦争で顔を負傷した男の呪われた運命を描いた「屋根裏のロープ」はこの短編集では最も暗い余韻を残す作品だ。

なにしろ全体的に奥ゆかしく格調高い筆致で読ませようとする作品が並び、SF的な着想も目を惹いたが、個人的にはもう少々下世話に怪異を描いてくれた方が楽しめたように思えた。

 

 

 

毛も無く歯も無く足が臭い

「毛も無く歯も無く足が臭い」というのは地球上でマダガスカル島のみに生息する小型齧歯類「ハゲハヌケアシクサネズミ」のことである。その名の通り、頭頂に毛が無く、歯はまばらにしか生えておらず、そして脚部がとても臭い生物である。とはいえ性格は臆病で温厚、草の陰や石の陰、木のウロなどにひっそりと暮らすことを好む。現在絶滅危惧種として扱われいるが、それは歯があまりないのでまともに餌を食べられないという事情があるのらしい。……というのは全て冗談で「毛も無く歯も無く足が臭い」というのはなにを隠そうこのオレのことである。

毛は無いわけではなく、逆にこの年にしてはまあまあ残っている方ではあると思う。ただ毛足が細く腰が無くなってきており、なんだかペタン、フニャッと頭に貼り付いているといった感じだ。頭頂部は結構寂しい。どのぐらい寂しいかと言うと冬の夜の雨にけぶる関ヶ原古戦場の如き鬼哭啾啾たる有様である。この間ふと気が付いたら頭の上を鬼火が飛び交っていた。そのうちオレの寂しい頭頂部に落ち武者の霊がさ迷い歩いたりし始めるかもしれない。

フニャフニャの毛質になってしまったせいで、遂に整髪料を使わなくなった。今まではスプレーやジェルやムースなんかでヘアスタイルをまとめていたものなのだが、そもそもスタイルしなければならないヘアが無くなってきているので必要としなくなってしまったのである。スプレーだのジェルだのムースだのと随分といろいろな整髪料を使っているように思えるかもしれないが、実は若かりし頃のオレは物凄い固く太い毛髪だったうえに結構な癖毛だったので、これら整髪料を使用しないと中洲産業大学の森田教授みたいな頭になってしまうのである(オレも古いな)。

それをこの間きっぱり止めてしまった。止めたのは昔から通っている床屋のオヤジに「最近髪の毛が細くなって―」とか愚痴っていたら「整髪料で頭固めると毛根に負担を掛けるから止めたらー?」と言われたのが切っ掛けだった。止めてみるとこれが楽だ。シャワーを浴びた後にタオルで頭をわしわし拭いたら、ドライヤーもかけずちょっとブラシで毛を整えてそれで終わり。後は勝手に乾いてくれればなんとなくそれらしい頭になっている。そもそもちゃちゃっと右左に分けてるだけのヘアスタイルと言えるようなヘアスタイルでもなかったのでそれで十分なのである。オレはもともと風呂嫌いでシャワーもあまり浴びたくないクチなのだが(一応毎日はシャワってるが)、それは頭を乾かす過程が面倒臭い、というのがあった。しかしこれでシャワーを浴びる敷居が一つ低くなった。今後もこれで行きたい。

歯に関しては、この間激しい歯痛に悩まされ、歯医者に行って奥歯を一本抜くことになってしまったということである。虫歯ではなく、歯周病で歯がグラグラしていたのだ。歯はきちんと磨いていた筈ではあるが、多分煙草と酒のせいだろう。整髪料を止めて喜んでいる暇があったら煙草と酒を止めろという話ではあるがこれがなかなか止められない。そしてこの有様である。これでオレの歯は計5本無くなった事になる。歯の無くなってしまった箇所は今まで部分入れ歯を作ってそれを使用していたのだが、また新たに入れ歯を作らねばならない。定年も近いというのにつまらない出費がまた増えることになる。本人の責任とは言え、なかなかに世知辛い。

さて不愉快な話で申し訳ないのだが、最近足が臭かった(今は無い)。もともとはそんなことがなかったのだが、急にである。風呂嫌いとは書いたが、特に足はいつも念入りに洗っていたはずだ。これはどうも歯痛だった時期と重なっており、痛みのストレスが足部にも余計な汗をかかせたからではないかと推測している。いわゆる「厭な汗をかく」というヤツである。その汗が雑菌の繁殖を促してしまったのだろう。なぜそう思うのかと言うと、歯の治療を終えたあたりから臭うことがなくなったからだ。

とまあ、「毛も無く歯も無く足が臭い」という、汚らしい老人の汚らしい話であった。しょーもなくつまらない何の意味もなく何の教訓もない話で大変申し訳ない。これを反省して今後のブログでは「QOLを爆上げする特殊便座使用法」とか「年寄りの喜ぶ美味しい落雁の店10選」とか「まだ知らない!?サイコロで決める確実投資」など”とてもはてなブログらしい記事”をバリバリと上げてゆく所存である(しねえよ)。