東京都美術館『デ・キリコ展』を観に行った

この間のお休みに上野の東京都美術館で開催されている『デ・キリコ展』を観に行きました。

ジョルジョ・デ・キリコ、大好きな画家なんですよ。1888年、イタリア人父母の元でギリシャで生まれたキリコは、エルンストやマグリット、ダリらと並ぶいわゆるシュルレアリズム絵画の画家ということができるでしょう。最初に出会ったキリコの絵は『通りの神秘と憂鬱』(1941)という作品でした。

《通りの神秘と憂鬱》1941年 ※参考作品です。今回の美術展には展示されていません!

中学生ごろ、美術の教科書で見たのでしょう。夏の昼下がりを思わせる強烈な日差しと影とのコントラスト、ほとんど黒に近い青空、遠くまで続く長い長い建物、土埃の匂いがしそうな黄色い通り、その中を自転車の車輪を回して遊ぶ少女のシルエットと、建物の影に建つ誰とも知れぬ者の長い影。パースも消失点も正確ではなく、不安定で、どこか夢の中のような、孤独と郷愁と永遠がない交ぜになった光景。10代半ばでしたが、この作品には強い衝撃を受けました。もう徹底的に好きになってしまいましたね。シュルレアリズム絵画に傾倒する切っ掛けとなった作品の一つでもありました。

そんなキリコの作品を一堂に会した美術展が開催されると知り、随分と楽しみにしていたんですが、それがこの『デ・キリコ展』というわけです。

【開催概要】20世紀を代表する巨匠の一人、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。彼が1910年頃から描き始めた「形而上絵画」(幻想的な風景や静物によって非日常的な世界を表現する絵画)は、数多くの芸術家や国際的な芸術運動に大きな影響を与えました。 本展では、デ・キリコのおよそ70年にわたる画業を「イタリア広場」「形而上的室内」「マヌカン」などのテーマに分け、初期から晩年までの作品を余すところなく紹介。デ・キリコが描いた世界をたどる、日本では10年ぶりの大規模な個展となります。

東京都美術館 特別展 デ・キリコ展

とはいえ、キリコは『通りの神秘と憂鬱』のような「形而上絵画」と呼ばれる作品ばかり描いていたわけではありません。その長い創作期間の中でキリコの興味の中心となるテーマは様々に変わってゆき、特に後期に描かれる「新形而上絵画」と呼ばれる作品群は、既に画集で目にしていましたが、実のところ「?」と感じてしまうものばかりでした。今回の展覧会ではこれら「新形而上絵画」とキッチリ対面し、実際どうなのか?と決着を付けたいという意気込みもあったんですね。

という訳で展示作品をざっくりと紹介。

《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》1959年

まずは自画像。キリコは自画像作品を数多く描いており、きっと強烈なエゴを持った人なんだろうなあ、とずっと思っていました。ただまあ、キリコに限らず画家というものはそもそも強烈なエゴを持っているものなのでしょう。また、自画像というのは最も手っ取り早い絵の練習用モチーフでもあるのだそうです。

《バラ色の塔のあるイタリア広場》1934年

『通りの神秘と憂鬱』を思わせる「形而上絵画」の作品の一つ、いわゆる「イタリア広場」シリーズ。やっぱりいいですね、このモチーフたまらなく好きですね。物憂い午後が永遠に続くかのように感じさせます。

《不安を与えるミューズたち》1950年頃

「イタリア広場」シリーズと並んでキリコの「形而上絵画」のモチーフの一つとなっているのがこの「マヌカン」シリーズです。表情のない風船のような頭部をした人物像を描いたものがこれに当たります。謎めいているのと同時に、この作品もまた時が止まってしまったかのような「永遠」の情景を感じさせます。

ヘクトルとアンドロマケ》1970年

その「マヌカン」シリーズの中で繰り返し描かれてきたのがこの『ヘクトルとアンドロマケ』です。ホメロスの『イリアス』において描かれた戦地に赴くトロイ王子ヘクトルと妻アンドロマケの別れの場面を作品にしたものですが、キリコの手になるとこれが「永遠の抱擁」であるのと同時に「永遠の別れの哀しみ」を描いたものにも見えてしまうんですよ。

ヘクトルとアンドロマケ》 1924年

ヘクトルとアンドロマケ』は同様な構図で細部の異なる沢山のバリエーションが描かれており、今回の美術展でも全身像が描かれたもう一つの《ヘクトルとアンドロマケ》が展示されています。

《風景の中で水浴する女たちと赤い布》1945年

「形而上絵画」のあとキリコは古典絵画へと回帰した作品を描いてゆきます。古典に戻ることで一度自分の中のモチーフをリセットし、新たな目で自らの作品の進む先を見出そうとしていたのでしょう。この『風景の中で水浴する女たちと赤い布』もその一作ですが、よく眺めると奇妙に歪んだパースの中にキリコらしさを感じるんですよね。

《吟遊詩人》1970年

キリコは彫像作品も多く手掛けていたことを今回の美術展で初めて知りました。多くはこの『吟遊詩人』のような「マヌカン」シリーズをモチーフとしたものですが、彫像になって初めてキリコの見ていたものが垣間見えたように思えました。ちょっとこれ欲しいな。

《燃えつきた太陽のある形而上的室内》 1971年

そして老年期、キリコは「新形而上絵画」を描き始めます。これまでのマヌカンギリシャ神話的なモチーフを採用しながらも、イラストやコミックのような軽く・薄い表現方法をあえて使っているんですね。この『燃えつきた太陽のある形而上的室内』のような、月と太陽のモチーフも繰り返し描かれるようになります。ただやはり、深淵さを感じさせる初期作品と比べると「これ何?」と感じちゃうんですよね。

オデュッセウスの帰還》1968年

「新形而上絵画」の一作であるこの『オデュッセウスの帰還』にしても、過去のモチーフを繰り返しながら、「でもなぜ部屋の中に水があるの?」という変な謎があるんですよね。「部屋の中」というのもキリコのモチーフの一つなのですが、思うに、これはアトリエのことであり、その中で絵が生み出されているのだぞ、ということなのかな?などと思いました。

こうして見てゆくと、後期作品となる「新形而上絵画」からは、キリコが楽しそうに描いていることがとても伝わってくるんですよ。毎回同じモチーフを持ち出しそれをこねくり回して同じような別の絵を描く、それはそれで「(絵を描くという)行為としての楽しさ」があったのではないかと。あとキリコには「なんぼでも量産して儲けてやるわい」という商売人としての画家の部分も当然あったのではないでしょうか。そしてこの「セルフコピー」の態度が、この時期のアンディ・ウォーホルに注目された、ということを今回初めて知りました。つまり「新形而上絵画」はキリコにとってのポップアートであった、という部分がとても面白く感じたんですね。

 

【積ゲー消化】今頃だがSFサバイバルホラーゲーム『Dead Space』リメイク版をクリアした

 Dead Space(Remake)(PS5、Xbox Series X|S、PC)

例によってチマチマと【積みゲー消化】しているオレである。しかも最近「消化」し終わった積みゲーが増えている。これは「積みゲー消化してブログ記事にしよう!」という目論見のもとに積みゲープレイのモチベーションが高まってきているからである。ただでさえ人気のないオレのブログで最も人気のないのはこの【積みゲー消化】記事であるが、オレ一人が楽しければいいので無問題である(開き直り)。

今回クリアしたゲームは2023年1月に発売された『Dead Space』。人類が宇宙に進出した未来、救難信号を発する宇宙船に急行した主人公が遭遇したのは、夥しい死体の山と襲い掛かってくるおぞましいモンスターの姿だった。主人公は半壊状態の宇宙船内を駆け巡りながら、グログロなモンスターをグログロにブチ殺しまくってゆく、というとても楽しいSFサバイバルホラーゲームである。言うなれば『エイリアン』要素の加味された『バイオハザード』、あるいは映画『イベント・ホライズン』のゲーム版といったところだ。ゲーム自体は2008年にリリースされた同名ゲームのリメイク版で、『Dead Space 2』『同 3』とシリーズ化もされた人気作である。

【物語】舞台は2508年の世界。主人公であるエンジニアのアイザック・クラークは,調査と復旧のミッションのため,救難信号を発した惑星採掘船・USGイシムラ(USG Ishimura)へと赴く。USGイシムラの船内では,船員達は切り裂かれ,寄生されており,さらに採掘船に勤務していたアイザックの恋人ニコールは行方不明となってしまう。船に1人囚われたアイザックは,「ネクロモーフ」と呼ばれる恐ろしいモンスター,そして崩壊していく自らの精神とも戦うこととなる。

リメイク版「Dead Space」,日本国内ではPCに向けて本日リリース。その恐怖体験で脚光を浴びたSFサバイバルホラーの名作が再登場

なにしろこのゲーム、凄まじい残酷描写で話題となったゲームだが、あまりに残酷過ぎてレーティング審査が通らず、日本ではシリーズすべてが発売中止になっている。どのぐらい残酷なのかというと、常に辺りは血塗れバラバラ死体だらけ、主人公がモンスターに殺されるシーンは首が吹き飛び手足をもがれ臓物撒き散らしながら血の海に沈む様子を念入りに描いていたりするのだ。ううっ、なんて悪趣味!(ウットリ)

日本未発売ではあるが輸入盤は入手できるし、Steamでも普通にD/Lできる上、ギリギリまで日本発売を見越していたようで日本語字幕も付いているしGUIも日本語化されているから問題なくプレイできる。そう考えるといまさらレーティングで日本未発売とかいうのも無意味な気がする。そういった訳でオレもシリーズ全作プレイしているが、実は1作目は結構難易度が高かったうえに途中セーブデータが飛んでしまい、クリアせずに放り投げてしまった。だからこのリメイク版プレイはリベンジマッチという意味合いもあるのだ。

というわけでリメイク版をプレイしたのだが、グラフィックの向上のみならず、難易度がかなり調整されていて、オリジナル版よりも数段遊びやすかった。難易度設定で低難易度を選んだせいもあるのだろうが、敵の固さはほどほどだったし、セーブ地点があちこちにあり、アイテムやゴールドも豊富に入手でき、特にクライマックス近くでは保有アイテムがありすぎて困ったほどだった。なんというか至れり尽くせりの遊びやすさなのである。

オリジナル版で詰まっていた箇所も、難なく、というほどではなかったが無事通過できた。これなどはオリジナル版購入時と違ってネットに豊富に攻略情報があったせいもあるだろう。グラフィック、システムやデザインは今でも十分斬新に感じる作品で、今回リメイク版によってリベンジマッチできたことが嬉しく感じた。クリア18時間。

 

 

フランス文豪バルザック小説を原作とした虚飾と慢心の物語/映画『幻滅』

幻滅 (監督:グザビエ・ジャノリ 2021年フランス映画)

19世紀フランスの文豪、オノレ・ド・バルザックの小説『幻滅 メディア戦記』を映画化した作品。地方出身の純朴な青年リュシアンは蛇の巣の如く退廃と悪徳に塗れた19世紀パリにやってくる。彼は詩人になる夢を捨てて打算に満ちた人生を歩み始め、虚飾に溺れて自らを失ってゆく。

《物語》文学を愛し、詩人として成功を夢見る田舎の純朴な青年リュシアンは、憧れのパリに、彼を熱烈に愛する貴族の人妻、ルイーズと駆け落ち同然に上京する。だが、世間知らずで無作法な彼は、社交界で笑い者にされる。生活のためになんとか手にした新聞記者の仕事において、恥も外聞もなく金のために魂を売る同僚たちに感化され、当初の目的を忘れ欲と虚飾と快楽にまみれた世界に身を投じていく。

映画『幻滅』公式サイト

この物語では19世紀のフランスに生きる一人の平民青年の、貴族階級への羨望と嫌悪がないまぜになったルサンチマンが描かれる。これはバルザックゴリオ爺さん』やスタンダール赤と黒』にも通じる、当時の若者たちの心象を抉ったものなのだろう。同時に当時の貴族社会の、平民への強い侮蔑と冷笑とがあからさまにされる。

この作品は幾つもの点において今日的な問題と共通する事柄を描いている。一つは都会の中で疲弊してゆく青春の蹉跌の物語。この辺り、北海道の片田舎から上京した”お上りさん”のオレには我が事のように感じてしまった。そして貴族/平民の強烈な階級社会描写は、格差社会と化した現代と二重写しになっている。

正義なきパワーゲームに奔走するメディアの醜怪さも描かれる。新聞メディアが力を持ち世論を大いに搔き乱すというこの描写は、18世紀半ばから巻き起こった産業革命が影響したものであり、印刷技術の大規模な発達がメディアに力をもたらしたということなのだ。これも昨今のインターネットの爆発的な発達と共通するものがあるだろう。古典文学を原作としながらも、こういった点において非常に今日的な作品だと言えるのだ。

ちなみにバルザックはその著作においてスターシステムを使用しており、この作品における主人公リュシアンは、原作『幻滅 メディア戦記』の前作『ゴリオ爺さん』にも登場している。そもそもがバルザックの著作は、『人間喜劇』というタイトルの長大な大系に集約されたものなのだ。また、物語で描かれる「対立劇団潰し」は近世フランスでは常態となっていて、戯曲『ドン・ジュアン』を書いたモリエールもその憂き目に遭っていたという。

幻滅

幻滅

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『オリヴィエ・ベカイユの死・呪われた家~ゾラ傑作短編集~』を読んだ。

オリヴィエ・ベカイユの死・呪われた家~ゾラ傑作短編集~ /エミール・ゾラ (著), 國分 俊宏 (翻訳)

オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集 (光文社古典新訳文庫)

完全に意識はあるが肉体が動かず、周囲に死んだと思われた男の視点から綴られる「オリヴィエ・ベカイユの死」。新進気鋭の画家とその不器量な妻との奇妙な共犯関係を描いた「スルディス夫人」など、稀代のストーリーテラーとしてのゾラの才能が凝縮された5篇を収録。

最近あれこれと怪奇幻想小説を漁っているオレだが、今回読んだのはエミール・ゾラの短編集『オリヴィエ・ベカイユの死・呪われた家~ゾラ傑作短編集~』。

ゾラ(1840-1902)といえばフランス自然主義文学の代表的な作家のひとりであり、『ジェルミナール』『居酒屋』『ナナ』といった名作を著している。ただ、オレは以前フランス文学を集中して読んでいた時期があったが、このゾラには手を出さなかった。理由は、有名作の粗筋を読んでみたら、リアリズムを是とする自然主義文学ならではの、現実の醜い面ばかり描いた暗さに辟易したからである。

とはいえ今回、おっかなびっくりこの短編集を読んでみると、これがなんと実に面白い。長編作品の暗く救いのないイメージとはまた違う、小気味よいテンポのしっかりとしたストーリーテリングの作品ばかりだったからだ。正直短篇だけとってみるなら、これまで読んだフランス古典文学の中でも相当によくできていると思えた。

さてこの短編集、『オリヴィエ・ベカイユの死・呪われた家』などと見るからに怪奇小説ぽいタイトルなのだが、実のところ怪奇小説的なプロットを借用した人間ドラマが基本であり、決して超自然現象を扱ったものではない。また、タイトルに挙げられた2つの短篇以外は人間それ自体を描くごく普通の文芸小説である。とはいえ、本を手にするいい切っ掛けにはなった。

収録作品は5編、それらの感想を順を追って書いてみよう。まずは「オリヴィエ・ベカイユの死」、これはポーの「早すぎた埋葬」のゾラ・バージョンだと思って貰えばいいだろう。死んだと目される男の意識が自分の体や妻の様子を上から眺めている描写はどこか可笑しい。男は本当に死んだのか、死んでないのか?という興味で最後まで読ませるが、基本はやはり奇想小説ではなく人間を描く物語なのだ。

「ナンタス」は未婚の母となった貴族の娘と偽装結婚する貧しい青年の物語だ。打算から始まった結婚だが青年は次第に娘を愛するようになる……といったストーリーはある意味ベタだが、こういったベタさが実はゾラの持ち味なのかなと思った。「呪われた家―アンジェリーヌ」にしても幽霊屋敷と噂される屋敷の真実を探る男が登場するが、2転3転する展開がこれまたベタながら楽しませる。そしてこの作品も超自然現象を扱ったものではない。

「シャーブル氏の貝」は子供のできない年の離れた貴族夫婦(40代の夫と20代の若妻)が、子作りによしとされるフランスの避暑地に赴くといったお話。途中若く魅力的な青年が現れ展開が見えるにしても、この青年と貴族の妻がいつくっつくのか?という下世話な興味で読ませる作品となっている。それと併せ、フランス田舎町の風光明媚な光景の描写が素晴らしく、作品を魅力に満ちたものにしている。

「スルディス夫人」は画家の夫婦が主人公となる。優れた才能を持ちながら放蕩の末に絵が描けなくなってゆく夫と、才能は乏しいが忍苦を重ねて夫を立てようとする妻との、危ういバランスで成り立つ夫婦関係は読んでいてはらはらさせられた。物語は途中から大きな変転を迎え、絶妙なストーリーテリングを見せつけながら、静かな感動を呼ぶラストを迎える。

総じて、ゾラの短編は読み易く親しみ易く、あまり古さを感じさせない。確かにスタンダールバルザックといった同時期のフランス文豪と比べるなら、文学性の深さといった部分では物足りなく感じさせるかもしれないが、ベタな筆致は逆に大衆的でもあり、読み物としての楽しさを十分に兼ね備えている。そういった部分で今回読んだゾラの短編集からは様々な発見をすることができた。

 

『サンクスギビング』『コンクリート・ユートピア』他、最近ダラ観したDVDやら配信やら

サンクスギビング

サンクスギビング (監督:イーライ・ロス 2023年アメリカ映画)

クエンティン・タランティーノ+ロバート・ロドリゲスが製作した悪ノリ・アンソロジー映画『グラインドハウス』はオレも大のお気に入りの作品である。その後映画内で上映されたフェイク予告編『マチェーテ』『ホーボー・ウィズ・ショットガン』まで悪ノリで映画化しており、「やることアホやなあ」と大いに楽しんだのだが、またまたフェイク予告編から映画化されたのがこの『サンクスギビング』だ。

物語は感謝祭での惨劇から始まる。スーパーのセールに殺到した客たちにより暴動と強奪が起こり、多数の死傷者が出たのだ。そして数年後、近付く感謝祭に沸き立つ町で、住民たちが一人また一人と残虐な方法で殺されてゆく。その陰には「感謝祭での惨劇」に恨みを持つ謎の人物の復讐が隠されていたのだ。

冒頭の「感謝祭の惨劇」からアクセル踏みっぱなしのろくでもなさで、バカを描かせたらイーライ・ロスは本当に頼れる奴だなとほっこりさせられる。その後は学園を舞台としたティーンホラーとして展開するが安定感もたっぷり。多数の登場人物をきちんと交通整理しながら丁寧に描く手腕にはさすがベテラン監督の腕が光っていた。ホラーの割に警察もちゃんと働いており、「犯人は誰か?」というミステリもきちんと物語を牽引する。殺戮シーンはバラエティに富み景気良くて大盤振る舞いのえげつなさ、残虐だが笑えるセンスも小気味いい。細かく無駄なこだわりぶりも楽しかった。巧いしよく出来ていた作品で十分に楽しめたが、やはり続編が企画されているらしい!

コンクリートユートピア (監督:オム・テファ 2023年韓国映画

地震により廃墟と化した韓国の首都ソウルを舞台に、たった一棟だけ無事に残っていたアパートの住民たちが、住民以外の人間を排除すべく恐怖政治を敷くというディストピア映画。この物語の本当に怖い所は、大地震から何か月経とうがどこからも誰からも救助の手が差し伸べられていないという状況で、これはほぼ世界全てが壊滅状況であるということに他ならないのではないか。この状況下で「自分たちだけは生き延びる」と排外主義を取るのは至極当然の事だと思うし、それにより殺人も辞さないというのは古代ギリシャ寓話「カルネアデスの板」にあるように、非常事態におけるギリギリの選択なのではないだろうか。当然映画はフィクションとしてのグロテスクな脚色を加えているが、本質的な部分においてこの物語を「人間の醜さ」ととらえるのは違うだろう。むしろこの状況下で平時と変わらない「お気持ち」を持ち出そうとする主人公の嫁は最終的にコミュニティを滅ぼす存在だと思ったけどな。どちらにしてもこういった時には厳密さを求めるのではなく柔軟さも大事ではあり、その匙加減だろう。そして映画として面白かったかというとそれはまた別の話。

私がやりました (監督:フランソワ・オゾン 2023年フランス映画)

私がやりました [Blu-ray]

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30年代のパリを舞台に、貧乏こじらせた二人の女性が、やってもいない殺人事件の犯人になって注目を浴びお金を稼いじゃおう!と画策する犯罪コメディ。一見アンモラルなお話だが、背景には女性蔑視や性的暴力、女性の社会的地位の低さがあり、それを逆手にとって衆目を浴びようという、したたかであると同時にやむにやまれぬ女性たちの立場を描いた物語なのだ。主演を演じる二人の女優が非常に若く美しい女性で、この「若くて美人」であることを武器に物語が展開するというのも、ルッキズムやエイジズムといったものに対し裏返しの皮肉を浴びせていて面白い。とはいえ物語自体は実に軽やかに展開し、30年代パリの風俗や衣装の美しさで魅せてゆき、犯罪ドラマでもあるのに全く嫌味なく楽しく観られてしまう部分も好感度が高い。殺人事件の犯人になりすましちゃったら本当の犯人は?という後半の流れもきちんと考えられていて優れていた。なおこの映画は「「私がやりました」フランソワ・オゾン監督のノワールコメディですが… - レタントンローヤル館」のレビュー記事で興味を持ちました。元記事も是非ご一読を。

シアター・キャンプ (監督:モリー・ゴードン/ニック・リーバーマン 2023年アメリカ映画)

Theater Camp

Theater Camp

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経営難により存続の危機に陥っている子役専門の演劇スクールを舞台に、教師たちの奮闘とドタバタを描くコメディドラマ。この教師たちというのがいかにもオフブロードウェイ出身と思われるエキセントリックな人たちばかりで、子供たちもほぼセミプロのこまっしゃくれた子たちばかり。こういった癖の強い面々でコメディを成立させようとしているが、なんかこうマンハッタン島に住むアートかぶれの連中らしい鼻につく言動と行動がどうにもイラッとさせてくれて、ちょっと物語に乗れなかったな。ただねえ、一旦本番の演劇が始まると、悔しい事にやはり巧いんだよこいつら。