ちょっと言ってることが大げさすぎねえか?〜映画『ツリー・オブ・ライフ』

ツリー・オブ・ライフ (監督:テレンス・マリック 2011年アメリカ映画)


今巷で「訳がわからない」「いや大傑作だ」とあれこれ評判の映画『ツリー・オブ・ライフ』です。はじめて予告編を観た時「これなんなの?」と気になっていたので観に行きました。主要な登場人物は1950年代のテキサスの片田舎で暮らす父と母、そして兄弟3人。物語はその兄弟の一人の死をきっかけに、【神】に対して生きることとは何か?を問いかけるところから始まりますが、こっからが凄いんです。家族の死に打ちひしがれたその想いは、いっきなり宇宙の生成、ビッグバンまで遡っちゃうんですね!暗黒の宇宙空間に星々が生まれ、恒星系が形作られ、そのひとつの惑星を海が覆い、そして悠久の時を経て生命が誕生し…とまあなんかNHKの科学番組状態なんですよ!この辺の映像はなんか凄いっちゃあ凄いんですが、「おいおいなんじゃこりゃああ!?」って気もするんですね!

そんな映像を眺めてたらまたまた現実世界に戻ります。物語の主人公である夫婦が現れ、その夫婦は子供を成すんですが、ここから中盤の親子の確執が描かれ始めます。優しい母と対象的にお父さんは子供に大変厳しくて、子供はちょっとグレちゃうんですね。ただこの人間世界の描写もメッチャビュリホーです。そして物語は序盤の家族の死に戻り、ハイパーリアルな光景の中で懺悔やら贖罪やら救済が描かれて物語は幕を閉じるんですね。

でもなんで宇宙とか生命の誕生とかメッチャでっかいもんと、アメリカの片田舎の親子の確執みたいな、まあ宇宙なんぞと比べたらメッチャちいせえもんが同等に描かれなきゃならないんでしょう?まあオレなんかはこういう感覚全然判らないんですが、監督の考え方を判った気になって書いてみると:

宇宙の開闢、生命の誕生、それは【神の御業】であり、それと同時に、その巨大な時間と空間の中で、一瞬のうちに現れては消える、泡のような【人間の生の営み】もまた、【神の御業】である。神は、いつも、どこにでも、この宇宙のありとあらゆる時間と空間の中に【顕現】しうる。宇宙の生成と、人間の生、それは、【神の御業】の前では、実は【等価】である。それは、人は宇宙であり、宇宙はまた、人である、という意味である。なぜなら、神はその創造物に、【あまねき慈悲を与えたもう存在】だからである。

…ということなんじゃないでしょうかね、思いつきでつらつらキリスト教的な教義を捏造してみただけですけど!まあ理屈と膏薬はどこにでも貼り付くっていいますから、この程度のことはどっかの小さい教会で言ってるかもしれませんな(言ってなかったらゴメン)!
とまあ、そういうことを言いたかったんじゃねーのかなー、ねーのかなー、と想像は付くんですが、信仰とかなんもないオレからしてみれば、言ってることが大げさすぎねえか?って思うわけなんですわ。まあなにしろ相手は痩せても枯れても神様っすから、大げさにならざるを得ないんでしょうが、毎日つましくさもしく現実に塗れまくってヘラヘラと生きている身の者としては、ンなこと言われても、「…ハア」とか適当に相槌打って頭の中では今晩の酒のつまみの内容でも考えてるだけですわ。ぶっちゃけねー、無闇矢鱈と仰々しいこの物事の捉え方って、欧米白人の限界だって気がしますよ。要するにキリスト教史観から決して逃れることが出来ない連中の限界がこの映画なんだろうなーって思うんですよ。
だいたいね、大げさな物言いが通用するのって、SFぐらいなもんでしょう。宇宙の始まりと終わり!銀河系の巨大ブラックホール!地球の滅亡!宇宙人の来襲!永遠の生命!光速の壁を越えて航行する宇宙船!銀河を股にかけて繰り広げられる大戦争!惑星ひとつ破壊するデススター!こういう物々しく仰々しく大げさで、そして実の所馬鹿馬鹿しいことに血道をあげる、それがSFというジャンルの使命なんですよ。だからね、この『ツリー・オブ・ライフ』も、神がどうとか抹香臭いこと言わないで、そのままSF映画にしちゃえばよかったじゃん!とつくづく思いましたが、まあ、監督のテレンス・マリックってバカ真面目そうだから、逆に馬鹿馬鹿しいことが出来ない、思いつけない、そういうセンスが皆無、というわけでこんな映画になっちゃったんでしょうねえ。
そもそもなんで映画に出てくるのがアメリカ1950年代の時代に生きる家族なのか?ってことを考えると、この時代はアメリカ人にとってまだ神が生きていた時代だからってことでしょ。つまり神様って言い訳を堂々と言い張れる時代を持ってきたわけでしょ。これを現代を舞台にやっちゃうと「ちょっと堅苦しすぎる宗教観じゃありません?」ってことになっちゃうでしょうね。敬虔なのはわかるんだけど、そのいわゆる【宗教告白】がストレートすぎるんですよ。だいたい映画には有色人種も殆ど出てきませんし(舞台となる当時の中央テキサスの町の有色人人口比率がそもそも低かったからだといえるのかもしれませんが)、それは監督自身の意識的なものではなかっただろうとはいえ、結局白人中心主義的なキリスト教史観を見てしまうんですよ。でも、こういうのって、もう古臭くありません?
逆に何で描かれる現在において、成長した姿で現れる兄弟がショーン・ペン演じる兄だけで、死んだ弟の成長している姿は出てこないんだ?あともう一人の生きてる兄弟はどこ?って思いましたね。つまり【思い出の過去】だけに物語が同定されているのが、この物語をなんだかちぐはぐにさせているんですよ。そして最初の母の神への問い掛けが、終盤何故か兄ショーン・ペンの贖罪にすり返られている。だから視点が誰のどこのものなのかあやふやに感じてしまうんですよ(ただこの辺オレの思い違いかもしれません)。
ただしね、テーマ的には噴飯モノなんだけど、撮影技術やその手法、そしてなにより映画前後のイメージの見せ方はね、これはもう至高の技と言ってもいいぐらい素晴らしい、本当に目を見張るものなんですよ。監督はこういった面ではいっぱい勉強して感性磨いて頑張ってる人なんでしょうね。そういう所は認めたいんですよ。だからオレ的には、この映画はとりあえずBlu-rayで買ってですね、映画の音は消して自分の好きな音楽を鳴らして、さらに中盤の人間ドラマは全部すっ飛ばして眺めていたいと思いましたね。そういうドラッグムービーとしての有難さはこの映画にはあると思うし、逆にそういった面でこそ評価できる作品なんだと思いますよ。