まぼろしの世界〜映画『ノルウェイの森』

ノルウェイの森 (監督:トラン・アン・ユン 2010年日本映画)

I.

映画『ノルウェイの森』をBlu-rayで観た。端的に感想を言うなら非常に感銘を受けた。劇場公開時は賛否両論あったようだが、個人的には非常に満足の行く出来だった。村上春樹に関しては『羊をめぐる冒険』以来そこそこなファンで、『ノルウェイの森』の原作も出版時に購入して読んでいたが、いかんせん相当以前のことなので細かな部分を忘れており、原作と映画の違いは殆ど気付かなかったし、また、気にならなかった。そして気にならなかったなりに、「確かにこういうお話だった」と思え、しかも面白く観られたという事は、それは映画作品として物語が完結しており、さらに成功しているということに違いない。
映画と原作が別物であるなどという事はどんな原作付き映画でも語られていることで、例えばキューブリックの『シャイニング』などはキング原作から相当改変されているにもかかわらず、映画自体は傑作であり、キングが嫌っているという話はあるにせよ、それが映画を毀謗するものでは決して無い。ここで『ノルウェイの森』を『シャイニング』並みの大傑作だというつもりは無いが、原作と映画との関係というのはえてしてそのようなもので、原作と違うから作品として間違っているということは出来ないと思う。
むしろ自分が危惧していたのは、なぜ今更の映画化なのか、という事だった。『ノルウェイの森』は日本がバブル景気真っ盛りだった80年代後期に出版された。天井知らずの景気に世の中が浮かれ騒いでいる時に濃厚な死の匂いと滅びの予感に満ちた文芸作品を、恋愛小説という形を借りて突きつけたところにこの小説の意味があったと思うのだ。この作品に時代的な普遍性は無いとは言わないが、それを出版後20年経った今映画化するということはどういうことなのだろうか、どうするべきなのか、というのがこの作品を映画化する上で重要なのではないか。

II.

この作品はただそのまま映画化してしまうと「死とセックス」ばかりが強調された生臭い悲恋ドラマになってしまうだろう。そこにメンヘラ要素を入れてしまうとそれはもう携帯小説となんら変わらない。そして日本の映画作家がこれを描こうとすればあまりに日本的な風俗に満ち溢れたベタベタなドラマになってしまうのは必至だろう。そういった表層的なものを削ぎ落として作品のエートスともいうべき部分を描くにはどうするべきか。そこでベトナム人映画作家トラン・アン・ユンの登場となる。
トラン・アン・ユンは映像の中から日本的な風俗、日本人同士にとって暗黙の了解とされる事柄を注意深く排除する。というより、外国人監督だからこそそうならざるを得ない。学生運動の情景すら単に時代設定を明らかにする為にのみ存在しているかのようだ。そうして描き出された映像は日本でありながらどこか日本ではないような情景が描かれ、そして日本の60年代を描きながらもどこか時代性を超越した風俗が描かれる。すなわち映画『ノルウェイの森』で描かれた世界は"ここではないどこか"として対象化された世界なのだ。つまり、映画『ノルウェイの森』は、小説『ノルウェイの森』をとりまく日本的な時代性と風俗を対象化し超越したスタンスから描かれているのだ。
この映画の登場人物たちは男性も女性もつるつるとした肌をし、皮下脂肪など存在しないかのようにタイトな肉体をしている。スタイルがいい俳優ばかり使った、といえばそれまでだが、男性も女性も、どこかユニセックスで、性を感じさせない。そしてよく観察すると、登場する女性たちは皆、申し合わせたように胸が薄い。そういう女優ばかりだった、というより、これは実は、あえて胸を強調することを避け、女性性を希薄にすることが目的だったのではないか。脂肪も無く筋肉の未発達な男性たち。そして、脂肪が無く乳房の未発達な女性たち。これは、登場人物たち全てが、ネオテニー=幼児のまま大人になった者たち、成長未発達な半分子供、半分大人の者たち、という意味性を負っているとはいえないだろうか。
ネオテニーである彼らはマージナル=周辺的な存在である。そして映画のテーマとなるものは彼岸と此岸だ。主人公が住む現実の世界と、ヒロインが身を寄せる現実から遠ざかった世界だ。しかしそれは現実=生き生きとしたもの、という意味にはならない。時には現実世界は索漠としたものとして描かれ、ヒロインの住む現実から遠ざかった世界は自然の豊かな美しい世界であったりする。ここでも【世界】と【彼岸と此岸】の未分化が発生する。主人公たち登場人物はマージナルな存在であるがゆえにこの彼岸と此岸との、どこか曖昧な世界を、いわば【まぼろしの世界】を行き来する。

III.

年端も行かぬ子供にとって生と死の世界というものの認識がまだ未分化であるように、マージナルな存在の彼らは彼岸と此岸のどちらにも存在しながら、そのどちらにも所属することが出来ない。村上文学が描くいわゆる"寄る辺の無さ""所属するものの無さ"がこれに当たり、そしてどこか人形のように美しくもまた生気に欠け、ぼそぼそと抑揚も無く自身のことを語る登場人物たち、というトラン・アン・ユンの配役と人物造型、そしてその演出は、寄る辺無き存在である彼らの姿を非常に的確にスクリーンに焼き付ける。村上文学を視覚化する上でトラン・アン・ユンは、映像が物語の説明に隷属するものではなく、映像それ自体が物語を説明するものとして描こうとする。そして描かれる情景は美しい。美しく叙情的な映像はただ美しいのではなく、それは登場人物たちの鮮烈な心象を鮮烈な映像に託した美しさだ。そもそも小説『ノルウェイの森』は"美しい"物語だっただろうか?叙情的な物語だっただろうか?それを美しい映像で描くというのはそういうことなのではないか?
そして、マージナルでありネオテニーである筈の彼らは、驚くほどあからさまに性的な話をしたがり、性の体験について語り、さらにその性について苛烈なほどに思い悩む。だがそこには享楽や放縦の匂いはあまりしない。それは、ここで語られ描かれる【性】が、【性】そのものであるというよりも、それを語る彼らの【生】そのもののありかたの吐露だといえるのではないか。この物語が表層をなぞっても本質は明らかにならないと最初に書いたように、この物語の本質は、【性】を通して彼らの【生】そのもののあり方を描こうとしたのだといえるのではないか。彼らは、【周辺】に存在し、その存在は【未分化】だ。そんな彼らの生きる世界は、薄暮に包まれた、寄る辺無き【まぼろしの世界】だ。だからこそ、彼らは彼らの【生】のあり方に思い悩む。その中で【生】へのイニシエーションとして【セックス】が描かれる。【生】の側に来ようとしたとき、彼らは【セックス】という手段を選ぶ。【生】すなわち【性】として描かれたこの物語にとってそれは自明のことだ。
その中で、直子は【生】への道を見失い、主人公"僕"は【生】への道を歩もうと決意する。最後に彼は【生】に満ち溢れたミドリと生きることを決める。だが、その"僕"の【生】は、【まぼろしの世界】で、直子と歩んだ薄氷を踏むような熾烈な【生】への葛藤があったからこそ確立されたものなのだ。だからこそ、直子は"僕"の中で生きる。直子と聴いた『ノルウェイの森』のメロディと共に。

まぼろしの世界

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