ビンラン、ガラスの箱に咲く無機質の花~瀬戸正人写真集『binran』

この写真を見ていただきたい。大きなガラス張りの部屋の中に一人の女性がぽつねんと座っている。部屋の中には調度品があるわけでもなく、女性の前のカウンターに、何か雑多なものが置かれているだけだ。ガラス窓の隅に見える文字から、これは東南アジアのどこかの国なのだという事が分かる。女性は肌の露出が多目の薄着で、無表情のまま、ガラス越しにただ宙を見据えている。…これは、いったい、何なのだろう?

一見、性風俗なのか、と思ってしまう。しかし、こんな中が丸見えの部屋で、風俗の営業などというのも、考え難い。何かを売っているのだとしても、何を売っているのか、まるで分からない。この異様な空間は、写真家が創出した、一つの架空の作品空間なのか?それとも、現実に存在する光景なのか?

瀬戸正人の写真集『binran』には、このようなシチュエーションの写真が多数収められている。その写真はどれも、冷たい光に満ちたガラスの小部屋の中、カウンターに座った若い女性達がじっと外を眺めているものばかりだ。これら謎めいた写真は、美しくも妖しくもあり、なにかザワザワと心を乱すものがある。

…これは、いったい、何なのだろう?タイトル『binran』にその秘密があるような気がして、パソコンであれこれ調べてみる。そうして分かったのは、ここは台湾であり、彼女たちは、『ビンロウ』、或いは『ビンラン』と呼ばれる嗜好品を売る女たちなのだという。

ビンロウ(檳榔、学名:Areca catechu)は、太平洋・アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科の植物。中国語では檳榔(ビンラン)と書く。種子は嗜好品として、噛みタバコに似た使われ方をされ、ビンロウジ(檳榔子)という場合は通常この種子を指す。ペナン島の名の由来となった植物である。
檳榔子を噛むことはアジアの広い地域で行われている。檳榔子を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ(コショウ科の植物)の葉にくるみ、少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す。
【ビンロウ】出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

台湾にはいたるところに、露出の多い女の子が座っている派手なネオンの小さなスタンドがあります。とくに高速道路ジャンクション付近には、たくさんあります。郊外の道路の周りには他に何もないような所に、突如ガラス張りのスタンドが現れ、女の子がバーのカウンターにあるような高い椅子に、何をするわけでもなく一人座っています。知らない人が見ると、とても異常に感じる光景なのではないかと思います。
外国人から見ると売春か何かしているようにしか見えないと思いますが、女の子たちはビンランというものを売っているのであって、自分を売っているわけではありません。露出の多い服を着ているのは、そのほうがビンランがよく売れるからです。
台湾仕事日記:ビンラン西施

街道沿いの屋台などで売られているが、1998年ごろから販売競争が激化。露出度の高い衣装を着た若い女性の接客が普通の光景となった。売り子は「ビンロウ西施」(西施は中国・春秋時代の美女の名)と呼ばれ、全島にある大小約40万軒の屋台で、数万人以上が働くという。
ビンロウ屋台の多くはガラス張り。売り子たちはドライバーの目を引くため、その中で待機。屋台の前で車が止まると、運転席に駆け寄り、ビンロウやたばこを売りさばく。
Mar:ビンランの誘い

多少台湾のことを知っている方ならよく見る光景なのか。オレの会社の後輩に、台湾に長く住んでいた男がいたので"ビンラン売り"のことを知っているか尋ねたら、やはり知っている、という答えだった。ちょっと田舎の方に行かなければ見ることのできないもので、タクシーの運転手などがよく立ち寄ってビンランを買っていくのだという。ちなみに彼もちょっと試してみたそうだ。味は苦く、クチャクチャと噛んでみたが、言われるほど昂奮や酩酊があるわけでもなかったという。

行った事の無い国の、知らない嗜好品と風俗のひとつであることは分かった。しかし、この写真の、儚げで、いかがわしくて、冷たく孤独で、そして圧倒的に異質な雰囲気というのは、ただのスナップ写真というものを超えた、写真家・瀬戸正人が切り取った視点であるのだろう。

瀬戸正人の写真は、『Living room』という作品集で初めて知った。そこに写し出された写真は、日本人や、他のアジア国を中心とした日本在住の様々な国の人たちが、自らの部屋で寛ぐ姿を写したものだ。その部屋部屋は生活感があったり無かったりと人それぞれだが、そこにいて安らいだ姿と、にも拘らず醸し出される奇妙な侘しさが対照的な、なぜか強力に心を惹く写真集だった。"写真"という芸術形態のイマイチよく分からないオレであったが、この写真集はどうも気になって、書棚から引っ張り出してはよく眺めていた思い出がある。

この写真集『binran』から感じるのも、暗い街路の中から幻燈のように浮かび上がる無機的で原色に塗れた部屋の非現実性と、若やいだ肢体を誇示する女たちの、どこか侘しげな佇まいだ。この名付け難い欠落感、アンバランスさはいったいなんなのだろう。瀬戸正人の写真からは、いつもこんな胸騒ぎを感じるのだ。

瀬戸正人HP:THE PLACE SETOS

瀬戸正人 写真集 binran

瀬戸正人 写真集 binran