■Pakeezah (監督:カマール・アムローヒー 1971年インド映画)
【インド名作映画週間】と銘打って何作かのインド古典名作映画を観たが、その中で最も感銘を受けたのが実はこの『Pakeezah』だ。ムガル朝時代の北インドを舞台に、親子2代に渡り身分違いの恋に引き裂かれてゆく踊り子を描いた作品である。またこの作品はもともと夫婦であった監督と主演女優の離婚により完成まで14年の歳月が要したことや、その主演女優が映画完成後に病死したことなどでいわくつきの作品でもある。この辺りの紆余曲折は2014年公開のインド映画『Xposé』の題材ともなっているのだという。日本未公開作ではあるが、2008年に銀座エルメスで『パーキーザー 心美しき人』の邦題で上映会が成されている。ちなみにタイトル「Pakeezah」とは「純粋な心」の意であるらしい。
ムガル朝時代、北インドのラクナウ。夫の家族から疎まれ家を出たナルギス(ミーナー・クマーリー)は失意の中、一人の女の子を産んで死亡する。サーヒブジャーン(ミーナー・クマーリー二役)と名付けられたその子は17年後、美しい踊り子として成長していた。しかし死んだ母への思いと籠の鳥のような踊り子の生活に彼女は心が沈みがちだった。そんなある日、金持ちの男と乗っていた船が象に襲われ、一人岸にたどり着いたサーヒブジャーンは、岸辺に建つ小屋で人心地付いていた。その小屋に森林レンジャーの男サリム(ラージ・クマール)が訪れ、サーヒブジャーンの姿を見て驚く。サリムは以前電車のコンパートメントで眠る彼女の姿を見かけ、その美しさに魅了されていたのだ。
この物語に感銘を受けた、あるいは興味深く観ることのできた幾つかの点を箇条書きにしてみたい。
1.踊りが素晴らしい…踊り子が主人公であり、またその踊り子の社会が描かれるという点から、作品の中で演じられる踊りも非常に芸術性の高いものを見ることができる。インド舞踏には暗いのだが、調べるとこの作品で演じられる踊りはカタックと呼ばれるもので、北インド、ガンジス川流域を中心に伝わるインド四大古典舞踊の一つであるらしい。足に沢山の鈴をつけて踊るのが特徴であるらしく、それはこの作品でも再現されている。もちろん歌と音楽も素晴らしい。
2.美術が素晴らしい…踊り子たちの舞台がある町では、遠景のそこここで踊り子の女性がクルクルと舞い踊っており、どこかシュールレアリズム絵画のようですらあった。また、当時インドを統べていたムガル朝はイスラム教が主教であるため、建物や屋内装飾がイスラム建築とイスラム様式で施されており、この部分が目新しかった。同じムガル帝国を扱った『Mughal-e-Azam』は息苦しいまでの装飾過多を見せていたが、この作品ではシンプルに徹していた。もちろん衣装と装飾品も美しい。
3.撮影が素晴らしい…こういった美術もそうだが、作品内に時折映し出されるインドの情景、自然の光景が美しい。夕闇の中黒いシルエットとなって走る蒸気機関車、青々とした巨大な入道雲の下に佇む東屋、轟音を為して落ちる瀑布、ヨットの浮かぶ水辺を染める茜色の夕焼け。また、屋内においても踊りのシーンではシンメトリーで室内が映され、それに庭先の噴水から吹き出す水流の弧の映像が被さる場面など非常に幻想的だった。
4.象徴主義的な映像…この作品で驚かされたのは映像のそこここにシンボリックで暗喩的な描写を挟むことにより主人公の心理や状況を説明するいわゆる象徴主義的な映像作りが成されているという部分だった。例えば主人公の部屋にある鳥籠に蛇が忍び込もうとする映像がある。これは籠の鳥となって生活する主人公に邪な者が近づくという分かり易い暗喩である。主人公は夜毎部屋の向こうの線路を走り抜ける機関車を憧憬の目で見つめている。それは気にかかる男性との出会いがあった機関車であるのと同時に、ここを離れどこか遠くに旅立ちたいと願う主人公の心理を表したものだろう。また、先に触れたインドの美しい自然の情景は、どれも踊り子の社会から抜け出し素晴らしい男性と出会ってからのものであり、主人公の伸びやかな気持ち、膨らんでゆく希望を美しく広大な自然の映像に託したのだろう。その後踊り子社会に連れ戻された主人公の部屋のベランダには糸の切れた凧がぶら下がり、これも主人公のその時の状況を表しているのだろう。このように注意深く画面を見ると様々な示唆に富む映像なのだ。
あれこれ褒めそやしたが、作品自体は古いものなので最新のインド映画のように観てしまうとキャラクターの在り方や物語展開の唐突さなどで見劣りする部分があると思われるので注意されたい(ただし踊りのシーンは格別だ)。古典を観るときは古典を観る気構えが必要に感じる。また、自分はDVDで視聴したが、フィルムの汚れ、画面のブレが多く、時折変色などもあったことは報告しておく。
ここまで明言は避けていたが、主人公をはじめとする踊り子たちはただ単にパフォーマーとしてのダンサーのみを生業にしているのではなく、「金持ち相手に踊りを披露することでパトロンを得る」ことで生活を成り立たせているように思えた。いわゆる「風俗」であり、"春をひさぐ"こともその中に含まれていたのだろう。また、踊り子が「身分の低い女性の商売」という部分もあっただろう。踊り子という一見煌びやかな世界にいながらも、彼女らの暮らしにはどこか侘しさがあったに違いない。だからこそ主人公はこの生活を抜け出したいと切に願っていたのだろう。同時に、この作品に横溢するどこか気だるげな退廃性は、そういった含みがあったからのように思う。
主人公と森林レンジャーの男サリムの最初の出会いは、電車で眠る主人公の足を見たサリムが、「とても美しい足なので、汚れるから地面を踏まないでください」という置手紙を残したことから始まっていた。そしてその足首にはカタックの鈴が付けられていた。この鈴は、ある意味「踊り子という(身分の低い)職業」を他人に如実に示してしまうものであると同時に、主人公にとっての足枷という意味合いもあるように思えた。そしてクライマックス、心破れた主人公はその足を血で汚しながら踊り狂う。踊り子の要であり、そして愛する人との出会いのきっかけになった自らの足を汚すことは、それは自分自身の全否定であり、絶望からだったのではないだろうか。このように映像の中に様々な意味づけをしてゆく様子が受け取れるといった部分でも秀逸な作品だった。
http://www.youtube.com/watch?v=OjXrVq6cHkM:movie:W480