町山智浩トラウマ映画館その2 / 密室と化した車両でひきおこされる心理リンチ劇〜映画『ある戦慄』

■ある戦慄 (監督:ラリー・ピアース 1967年アメリカ映画)


最初に二人のチンピラが登場する。深夜のニューヨークの下町で、この二人は通りがかりの男を襲い、金を奪ったうえ惨殺する。

そして。夜半を過ぎてもまだ走り続ける電車に、様々な人々が乗り込みはじめる。けちん坊の夫とそんな夫に不満を持つ彼の妻。人目もはばからず体をまさぐりあう若いカップル。息子に金を無心して断られ、憤懣やるかたない老夫婦。二人の若い米軍兵士。野心家の妻とその気弱な夫。中年のアル中男と、彼を追ってきたゲイの若者。白人たちに常に不満を抱く黒人の男とその妻。様々な素性を持ち様々な人生を生きる彼らが、夜の闇をひた走る一つの電車車両に、乗り合わせる。そしてその車両に、最後に乗ってきたのは、冒頭の血に飢えた二人のチンピラだった。

映画は、チンピラの凶行というショッキングな出だしから、ただならぬ緊張を孕みながら進んでゆく。その後描かれる、電車に乗り合わせる人々の姿は、映像によりそれぞれが丹念に生活の背景を説明され、これらの人々がこれから出遭うであろう陰惨な事件への恐怖感を、じわじわと煽ってゆくのだ。

電車に乗り込んだ二人は常軌を逸した興奮状態で馬鹿騒ぎを始め、しびれを切らして注意した乗客の一人に狂気の宿った目を爛々と輝かせながらねちねちと絡み始める。チンピラどもの陰湿な暴虐は次第にエスカレートしてゆき、そしてその矛先はいつしか車両に乗る全ての客に向けられる。チンピラどもは一人また一人と乗客たちにたちの悪い言いがかりをつけ、罵倒し、哄笑し、抵抗するものは威圧し、威嚇し、萎縮させ、停車駅で逃れようとするものは首根っこを掴んで押さえこんだ。

しかし、ある種の暴力劇でありながら、この映画は、チンピラどもが殴る蹴るなどの肉体的な暴力を直接行使せず、徹底して相手の言葉尻を捕らえたり曲解して見せたり、客たちの見てくれから想像できるような弱みに付け込んでじわじわといたぶり、相手を恐怖の虜にさせてゆくという、言葉の暴力が中心となっているのがユニークなサスペンス・ドラマとなっている。それと同時に、恐怖に萎縮した人々が、他人がチンピラどもの餌食となっていても、自らに火の粉が降らかからないよう、いかに見て見ぬ振りをし続けているのか、その自己保身に汲々とする無関心振りも、もう一つのテーマとなっているのだ。

乗客たちの乗り込んだ車両は、ドアが壊れているので隣車両へと移動が出来ないことになっている。また、当時の電車の仕様なのかどうなのかわからないが、出入り口が一つしかない。そしてこの出入り口をチンピラどもが押さえて、誰も出入りできなくしている。また、現在の日本の電車と比べると一つの車両が短く、狭苦しい。こういった面から、チンピラどもが籠城したこの電車車両は、ひとつの密室として機能する。確かに大の男が何人もいるはずの乗客たちが、何故他人がいたぶられているのを手をこまねいて見ているのか、疑問に思うのも確かだ。しかし、このドラマは、暴力に巻き込まれた人々の物語というよりも、むしろこういった、都会で生活する人間たちの、他人への無関心を描いた物語であると言えるのではないか。

ある意味、密室も、狂ったチンピラも、実は異様な状況を作る”装置”ともいえる。列車車両という日常的な場所で、突如として異様な状況が起こる。その異様な状況の中で、普段は表面に出ない人の弱さが顕わにされる。この映画で最も恐ろしいのは、実は暴力に巻き込まれることではない。暴力に巻き込まれている人間を目の当たりにして、それを他人事のようにやり過ごし、恐怖の虜となったまま、自らに累が及ばないようじっとうつむいていることしかできない、そういった人間の弱さを、映画を観ることによって自らの中にも見出してしまうこと、それがこの映画の恐ろしさなのではないだろうか。ちなみにこの映画、マーティン・シーンのデビュー作でもある。

■『ある戦慄』よりワンシーン


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トラウマ映画館

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