『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その③ 恐怖と哀愁の内田百閒

文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒/内田百閒(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒 (双葉文庫)

夏目漱石江戸川乱歩に続く、〈文豪怪奇コレクション〉の第三弾。漱石に学び、芥川龍之介と親交を結び、三島由紀夫らにより絶讃された、天性の文人。日本語の粋を極めたその文学世界は、幻想文学の一極北として、今もなお多くの読者を魅了してやまない。史上最恐の怪談作家が遺した、いちばん怖い話のアンソロジー。幽暗な魅力にあふれる百閒幻想文学の作品が満載の一冊。

例によって内田百閒、きちんとまとめて読んだのは今回が初めて。今回『文豪怪奇コレクション』を読もうと思ったのは、以前たまたま内田百閒の幻想短編をどこかで読み「これはとんでもない作家だ、なぜ今まで知らなかったんだ」と驚嘆させられたからというのもあった。夏目漱石一門の内田百閒は名文家であり随筆文で一般に知られているようだが、怪奇恐怖小説も多くしたためているのだ。

内田百閒の描く怪奇幻想譚の特徴はちぐはぐで辻褄の合わない事象の中に突然放り出され、それに何の説明もないまま物語が終わってしまう、その突然梯子を外されたような不安感、不安定感にある。何かが起こった、しかしそれが何なのか分からない、何かがおかしい、しかしそれが何故なのか分からない。その薄気味悪さ、居心地の悪さが内田怪奇小説の醍醐味だろう。この辺り、以前読んだ山尾悠子の源流だったりするのだろう。

内田怪奇小説では常にはらはらと雨が降りごうごうと風が吹き、庭には得体の知れない黒い塊がぼわぼわと蠢き廊下の先には漆黒の闇が物質のようにみっちりとひしめく。他者とは常に得体が知れず意思疎通が不可能な存在である。こうしたある種神経症的な現実認識が内田怪奇小説に顕著であるが、それは案外そのまま内田の現実世界への嫌悪/恐怖の表れだったのだろうと思えた。

例えば鈴木清順監督により『ツィゴイネルワイゼン』のタイトルで映画化されたサラサーテの盤は、亡くなった知人の遺品を家に取りに来るその妻の話だが、この妻というのが言動や行動がなにか微妙に「奇妙」で「非現実的」なのだけれど、なぜ、どうして、どういう理由なのかは説明されず、ラストにおいてさらに壮絶な意味不明の会話がポン、と放り出され、読む者は「今のはなんだったんだ」と不安の中に取り残されて終わるのだ。この絶妙さが内田怪奇小説だ。

なにしろ内田百閒のことを何も知らなかったのであれこれ調べたが、黒澤明晩年の映画作品『まあだだよ』が内田百閒を主人公とした物語だったと知って驚いた。それと、オレの相方さんのブログ「とは云ふものヽお前ではなし」のブログタイトルが内田百閒の歌から採られていることを相方さんの口から知り、しばらく内田百閒話で盛り上がったことも付け加えておこう。

 

『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その② 猟奇と妖美の江戸川乱歩

文豪怪奇コレクション 猟奇と妖美の江戸川乱歩江戸川乱歩(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 猟奇と妖美の江戸川乱歩 (双葉文庫)

日本人に最も親しまれてきた作家の一人である江戸川乱歩は、ミステリーや少年向け読物のみならず、怪談文芸の名手でもあった。蜃気楼幻想と人形からくり芝居が妖しく交錯する不朽の名作「押絵と旅する男」、斬新な着想が光る「鏡地獄」や「人間椅子」、この世ならぬ快楽の世界へと誘う「人でなしの恋」や「目羅博士」など、残虐への郷愁に満ちた闇黒耽美な禁断の名作を総てこの一冊に凝縮。巻末に「夏の夜ばなし──幽霊を語る座談会」を文庫初収録!

文豪怪奇コレクション第2弾は江戸川乱歩。誰もが知る日本大衆文学黎明期の大有名作家であるが、これも実は今まで一作も読んだことがなかった。子供の頃「怪人二十面相」あたりのジュブナイル版に挑戦したこともあったが、どうも当時から推理モノが性に合わないようで、結局これまで縁がなかった。しかしそんなオレですらタイトルだけは知っている作品が多々あり、なるほどこんな話だったのかと確認することができた。

なにしろ「文豪怪奇コレクション」なので、本アンソロジーは乱歩の推理モノではなくあくまで怪奇モノを中心に編纂される。「鏡地獄」「人間椅子」「押絵と旅する男」「人でなしの恋」「踊る一寸法師などお馴染みの作品が並ぶが、どれも「怪奇」というよりも「変態」だなあという気がした。抑圧によって歪められた性欲、アンモラルな快楽、爪弾き者たちの孤独な淫夢、捻じ曲がっていることをむしろ愉しむような変態性、それが乱歩怪奇小説なのだろう。

そんな中で最も猟奇的で気にいったのは「蟲」「芋虫」か。展開が分かっていても描写の徹底した厭らしさに粟立ってしまった。一方防空壕」「お勢登場」は幻想譚やスリラーの体裁を取りながら最後に黒い笑いを持ち込んだ作品で、こういった作品も書けるのかと感心した。「夏の夜ばなし―幽霊を語る座談会」は乱歩の珍しい座談会を収めたもので、怪談に関するあれこれの蘊蓄が読めて楽しい。

乱歩のこういった作品の多くは、煎じ詰めるならオブセッションの物語であるが、乱歩はそれをグロテスクに戯画化し暗く湿った変態小説として組み立てることが巧みだったのであろう。こういったエログロナンセンス路線は作品発表当時の世情不安の反映なのだというが、同時に、例えば浮世絵で言うなら江戸期の春画や幕末から明治にかけて描かれた無惨絵など、日本では割と連綿と続いたエログロナンセンス文化があり、それを踏襲したものなのかな、とも若干思った。

 

『文豪怪奇コレクション』全5巻を読んだ/その① 幻想と怪奇の夏目漱石

文豪怪奇コレクション 幻想と怪奇の夏目漱石夏目漱石(著)、東雅夫 (編集)

文豪怪奇コレクション 幻想と怪奇の夏目漱石 (双葉文庫)

いまなお国民的人気を誇る文豪・夏目漱石は、大のおばけずきで、幻想と怪奇に彩られた名作佳品を手がけている。西欧幻想文学の影響が色濃い「倫敦塔」「幻影の盾」から心霊小説の名作「琴のそら音」を経て、名高い傑作「夢十夜」、さらには今回初めて文庫化される怪奇俳句や怪奇新大詩まで、漱石が遺した怪奇幻想文学作品のすべてを1冊に凝縮! 怖くて妖しい文豪名作アンソロジー

以前読んだ『もっと厭な物語』で日本文芸作家の怪奇幻想譚もよいものだなあと思い、東雅夫・編集による「文芸怪奇コレクション(全5巻)」を手にしてみた。まずは「夏目漱石編」となるが、実はオレは夏目漱石をちゃんと読んだことがなく、これが初めて漱石をまとめて読む体験となった。始めての漱石が「怪奇コレクション」でいいのかとも思うが、まあオレなんだからしょうがないのである。

文豪として知られる漱石だが、意外と怪談・怪奇譚好きで、本人もそんな作品を多数書いていたのらしい。有名なのはまず夢十夜だろう。どこかモワモワモヤモヤとした得体の知れない、不気味で辻褄の合わない「夢」の物語が10話続く。その続編で本アンソロジー収録作となる「永日小品(抄)」も含め、鬱蒼たる不安を駆り立たせる。この不安感は神経衰弱に悩んでいた漱石自身の不安感であるのだろう。

同様に「琴のそら音」「趣味の遺伝」も意識の流れを描いたのかどこかフワフワと不安定な物語運びで、白日夢的な眩暈を感じさせる。また本アンソロジーには吾輩は猫である(抄)」としてあの名作の一部抜粋が掲載されるが、「吾輩は~」のどこに怪奇要素が?と思ったら読んでみるとちゃんと不気味な話で、編者の目の付け所のよさを感じた。他にも漱石の怪奇詩「鬼哭寺の一夜」「水底の感」、怪奇俳句漱石幻妖句集」など珍しい作品も収録されている。

その中でも驚かされたのは「幻影の盾」「薤露行」といったアーサー王伝説を題に採った暗く美しい文章の幻想譚だ。ロンドン在住時の幻想を描く「倫敦塔」シェイクスピア戯曲を扱ったマクベスの幽霊に就いて」も含め、これが漱石とは思えないようなガチな怪奇ゴシック文学が展開していて、漱石の印象がちと変わった。とはいえ全体的に擬古文体で(ルビはふってあるが)難読漢字も相当に多く、正直読むのにかなり苦労したことは白状しておく。

ロックよもやま話:オレとファクトリー・レコード

オレとファクトリー・レコード

ファクトリー・レコードは1978年、イギリス・マンチェスターのTVマンだったトニー・ウィルソンによって設立されたインディー・レコード・レーベルである。ジョイ・ディヴィジョンニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラム、ア・サータン・レイシオといった美しいメロディを持つバンドを擁し、マーティン・ハネットによるプロデュース、ピーター・サヴィルによるグラフィック・デザインなど、アーティスティクなプロダクションとレーベル・イメージを展開するレコード・レーベルだった。

80年当時のオレはラフ・トレードと並んでこのファクトリー・レコードが大のお気に入りだった。というより、当時最も傾倒していたのはこのファクトリー・レコードだった。なんといっても、あの「80年代ニューウェーブの悲劇の烙印」、ジョイ・ディヴィジョンが在籍していたからである。

ジョイ・ディヴィジョン

Joy Division

18歳の冬、オレはジョイ・ディヴィジョンの2枚のアルバムと何枚かのシングル・レコードを買った。そしてその時オレは、多分一度死んだのだと思う。

まあ、なんというか、80年代ニューウェーブ・バンドで最もヤバかったのは、このジョイ・ディヴィジョンにおいて他に無いのではないだろうか。確かに当時も、スロッビング・グリッスルとかアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンとか、ヤバいパフォーマンスをするバンドはあった。だがジョイ・ディヴィジョンはそういったパフォーマンスではなくて、「これ以上覗いちゃうと生の領域から乖離してしまうであろう暗黒の深淵」を音にしてしまったバンドだったのだ。要するにとてつもなく【暗かった】のである。そしてその音は限りなく【死】に近かったのである。だいたいバンドのヴォーカル自体が首つり自殺してるしな。そしてその音は、同時に美しかったのだ。甘美なる死、というヤツなのだ。涅槃の向こうでチラチラと蠢く鬼火のような音、それがジョイ・ディヴィジョンだった。

こんなのを多感な10代の頃に聴かされた日にゃあ堪ったもんじゃなかった。というより、その後20代の頃のオレを見舞う精神的破瓜に、このジョイ・ディヴィジョンの音はあつらえたかようにぴったりとフィットしてしまった。気鬱に塗れた日々を気鬱に塗れた音を聴いてやり過ごしていたのだ。だがそれは、その漆黒のような暗さは、あの頃のオレにとってある意味安らぎだったのだろうと思う。

そして何年か前までは、ブログを書く時にはヘッドホンで彼らのアルバムを最大ボリュームにしてかけながら書いていたものだった。それは知る人ぞ知るウィリアム・ギブソンという名のサイバーパンクSF作家のメソッドを真似たものだ。ジョイ・ディヴィジョンの音には、安易な情緒性を拒否し、ただゴロリと転がる陰鬱な実存があった。多分人は、裸に露わにされた現実とか真実に近付くほど、死を許容してしまうものなのだろう。その殺伐とした実存を噛み締めることでオレは文章を書いていた(まあまるでふざけた内容だったが)。

そんな【暗黒のバンド】ジョイ・ディヴィジョンであるが、一番好きな曲はダンサンブルな曲調の『トランスミッション』である。この曲を聴くと今でも辺りのものを破壊してしまいたくなる。消失点に向かって高速で疾走してゆくかのような質量ゼロの虚無、この曲はそんな輝きを秘めている。

Closer

Closer

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ニュー・オーダー

New Order

イアン・カーチス亡き後残ったメンバーにより結成されたのがこのニュー・オーダーだ。ニュー・オーダーの音はジョイ・ディヴィジョンとは真逆のデジタルなダンスミュージックとリリカルなロックサウンドで構成される。

いつまでも病的に気鬱と戯れていても人生どうしようもない。どうにかしなければ。明日も生き延びて未来に繋げなければ。そういった、もがきながら前に進もうとする意志がニュー・オーダーの音からは感じる。だかこそ彼らはあれだけリリカルなメロディに満ち、全てを振り切るためのように狂騒的にダンサンブルなのだ。

しかしそれはジョイ・ディヴィジョンから遠く離れようとしながら、かえってジョイ・ディヴィジョンの輪郭を強烈に浮かび上がらせるもののような気がしてならない。だからニュー・オーダーの音は煌めくようなデジタルビートを鳴らしていてもどこか陰りがある。

そしてニュー・オーダーの音には「狂気」がある。狂った事をしている訳では全く無く、むしろ整然としたデジタルビートの饗宴に耽溺したような音を構築しているにもかかわらず、その音は今自らが置かれている実存からひたすらどこまでも逃走し、常に閾値を超えた狂騒へ、自らを現実に押し留めようとまとわりつく忌まわしい重力から解き放たれ、ここより遥か遠い場所に安寧を見出そうとする狂おしいまでの意思を感じる。

ニュー・オーダーで最も好きな曲は『Regret』だ。別れた恋人に「もう後悔してないさ」と強がる歌詞なのだが、オレにはこの曲がイアン・カーチスの死を歌った名曲『Blue Monday』のアンサーソングに聴こえてならないのだ。

「僕はどう感じたらいい?」と繰り返す『Blue Monday』の歌詞に対して『Regret』では「もうみんな忘れてしまった、もう後悔はない、この心の傷も悪くない」と歌う。友の死は忘れることなどできないだろうが「忘れてしまった」と言えるほど遠い過去のことに感じられるようになったということなのではないのか。そして「この心の傷も悪くない」と言えるほどに傷は癒えたのだ。流れるのはどこまでも切なく眩い程に美しいメロディ。メンバーたちが遂に辿り着いた境地を歌ったのがこの曲だと思うのだ。

シングルズ

ドゥルッティ・コラム

The Durutti Column

ファクトリー・レーベルで忘れてはいけない存在がこのドゥルッティ・コラムだ。客演もあるがヴィニ・ライリーによるほぼ一人のユニットで、彼の奏でるギター(時としてピアノ)にドラムマシーンが被さってゆくという極めてシンプルなサウンド構成となっている。

なによりドゥルッティ・コラムはそのギターサウンドの静謐な美しさ、メランコリックな繊細さが特色だろう。触ると壊れてしまいそうなこの繊細さこそがドゥルッティ・コラムであり、心の奥底の柔らかく傷付きやすい部分に優しく鳴り響く理由だろう。オレもあれやこれやで疲弊しきっていた20代の頃にドゥルッティ・コラムの音を聴いて存分に癒されていた。

そしてドゥルッティ・コラムが幾多のニューエイジミュージックやアンビエントサウンドと全く違うのは、これがヴィニ・ライリーの非常にパーソナルな内世界であることをしっかり感じさせてれる音を持っている事だ。余談となるが、1stアルバムの初回配布レコードは、ジャケットの内側が紙やすりになっていたのだという。つまり聴くほどにレコードは傷付き雑音交じりとなるのだ。この「詫び錆び」なコンセプトもまたドゥルッティ・コラムらしい。

LC

ア・サーティン・レイシオ

A Certain Ratio

ジョイ・ディヴィジョンと共にファクトリーを支え、そして最も実力を持っていたアーチストはこのア・サーティン・レイシオに他ならない。ファクトリーが最初にリリースしたシングルが彼らの『All Night Party』だったことを考えてもその立ち位置がうかがえるだろう。

彼らの音を特徴付けているのはその浮遊感溢れる幻惑的なファンク・サウンドだ。それは一般的なジャズ・ファンクサウンドが持つ熱気から遥か遠く乖離した「コールド・ファンク」と呼ばれるものだった。熱くもなく冷たくもない白いファンクのノリは、肉体よりも精神を痺れさせるビートに満ちていた。打ち寄せる波のように延々と繰り返される電子音とベースのフレーズが催眠術のように思考を酩酊させるのだ。

ストパンクがそれまでのロックへの批評で成り立っていたように、このア・サーティン・レイシオのサウンドジャズ・ファンクへのポストパンク的な批評で成立していたのだろう。オレは大昔、今は無きインクスティック芝浦ファクトリー彼らのライブを目撃したことがある。アルバムではクールな音を鳴らせていた彼らだったが、ライブ演奏はさすがに熱いものがあった。ちなみに奇妙なバンド名はブライアン・イーノの『Taking Tiger Mountain』収録曲「The True Wheel」の歌詞の一節からとられている。

To Each

To Each

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SEXTET

SEXTET

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ファクトリーのコンピレーション・アルバム

ファクトリーを描いた映画『24アワー・パーティ・ピープル』

 

映画『ウェスタン』を観ながらオレはなぜ西部劇が苦手なのか考えた。

ウェスタン (監督:セルジオ・レオーネ 1968イタリア・アメリカ映画)

映画はよく観るほうではあるが、ジャンルによっては苦手なものもある。恋愛モノや人間ドラマはあまり観ないかな。社会派映画も観ないぞ。そんな苦手な映画ジャンルの一つに西部劇がある。

名作と呼ばれるような作品を幾つか観たことはあるが、あまりピンと来なかった。とりわけ苦手なのはマカロニ・ウェスタンだ。ハリウッド製の西部劇自体たいした興味が湧かなくて観ていない。「修正主義西部劇」と呼ばれる作品(最近では『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』がそれに当たる)も多く作られるようになったが、それもあまり観る気がしなかった。

(ただし『シェーン』や『荒野の7人』、『西部開拓史』あたりの古い作品は楽しんで観た記憶がある。タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』や『ヘイトフル・エイト』も面白かった。ただこれはタランティーノが好きだからで、他のタランティーノ作品と比べたら愛着度は低いかもしれない。他に、ゴア・ヴァービンスキー監督の『ランゴ』や『ローン・レンジャー』は楽しかったな。)

そんなことを言いつつ、この間Blu-rayセルジオ・レオーネ監督による1968年公開の西部劇『ウエスタン』を観た。マカロニ・ウェスタンである。ちなみにこのBlu-rayは、かつて短縮版で公開されたものと違い、2019年に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』というタイトルで日本公開された165分のオリジナル版と同等の尺を持っているので、実質『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』オリジナル版だという認識でいいだろう。

【物語】荒れ果てた砂漠の土地に敷かれた鉄道の駅。水源を確保できる砂漠の土地を買ったアイルランド人マクベイン一家は、冷酷で腹黒い殺し屋フランクの一味に情け容赦なく惨殺される。悪名高い山賊のシャイアンは濡れ衣を着せられ、そしてこの砂漠にやってきたハーモニカを吹く凄腕ガンマンはある恨みを晴らすため、秘かに復讐を計画していた……。(Amazonより)

物語では荒涼とした西部の土地を舞台に、謎めいたガンマンたちの殺戮劇と、その男たちを追撃するやはり謎めいた主人公が登場する。そしてそこに元娼婦の女が絡み、これが土地の利権を巡った血腥いいざこざを描いたものであることが次第に判明してゆく。

監督はセルジオ・レオーネ。原案がセルジオ・レオーネダリオ・アルジェントベルナルド・ベルトルッチ。音楽にエンニオ・モリコーネ。主演俳優はチャールズ・ブロンソンヘンリー・フォンダクラウディア・カルディナーレ。こういった、そうそうたるメンツにより制作された作品だ。

砂ぼこり舞う西部の町は、希望に満ちた開拓地というよりは倦み疲れ希望の見出せない流刑地のごとき世界だ。そこに集う男たちは擦り切れた衣服をまとい誰もが汗と埃と砂に塗れ、いつも重労働に勤しんでいる。その顔は陽に焼け、なめし皮のように黒々とした肌と深く刻まれた皴に覆われ、いつも寡黙で決して本心をさらけ出そうとしない。そこに登場するガンマンたちは死神のように人を屠り、ここが無法と無情の土地であることをあからさまにしてゆく。

でなあ、観ているオレはやはり、「ああ……やっぱりオレ西部劇苦手……」と思ってしまったのだ。

なぜ苦手なのか。それはなにもかにもババッチイからである。土地も町も人も、どれもが薄汚れていて、過酷だからである。そして、美しいものが一個も無いのである。もうそこで無理。さらに言うなら、なにもかにもがフロイト的な男性原理で覆われているからである。拳銃。馬。列車。当然ながらやさぐれオトコたち。なにもかにもが強力にバビューンと飛び出して帰ってこない。ああもうオトコなんて大嫌いだ(オレもオトコだが)。むさ苦しいし。臭そうだし。そしてそれが人を拒絶したような荒野に立ち現れる。ああいやだ。こんな世界いやだ。オレは好きくない。それら拒絶反応が西部劇を苦手にしているのだと思った。

もちろん、西部劇(マカロニ・ウェスタン含む)は映画史に残る多数の名作を生み出したジャンルであることは知っている。ただ、やはりオレはどうも苦手なんだ。あのマッチョでババッチくて臭そうな世界がな。とはいえこれが『マッドマックス』みたいなババッチイ・ポストアポカリプス映画だったら嫌いじゃないんだ。それって何が違うのかなと考えるに、現実と直結しない分、まだ見ぬ異世界の如く妖しくもまた美しく感じるからだろう。まあ単なる好みの問題ってことなんだけどな。