祝・緊急事態宣言解除

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Photo by pan xiaozhen on Unsplash

関東の緊急事態宣言がようやく解除されたというので土曜日の夜は相方と焼肉屋に行こうじゃないかという事になった。焼肉は好きだがビール無しの焼肉はなんだか様にならない。だからもう半年以上焼肉屋に行ってなかったのだ。

相方はこの日も出勤で6時頃帰ってきたのだが、宣言解除の現在も飲食店営業は時短、酒類提供は8時までだから急いで出かけなければならない。

そしてようやく念願の焼肉屋に辿り着きあらん限りの焼肉と、当然ビールも生で注文、早速届いたジョッキを手に取り乾杯した後ゴキュゴキュと喉に流し込む。

「ぶっはー!うっめー!」そうそうこれだ、生ビールはこれなのだ、家でいくらビールを飲めても外で飲む生ビールとはまた別なのだ、久しぶりのビールにオレも相方も陶然とする。

続いて焼肉が次々と届きそれらをジュウジュウと焼きハフハフ言いながら頬張る。ああ焼肉うめい、久しぶりの焼肉が本当にうめい。

注文した肉があらかたはけたので次はどうしようかとホルモン4品セットを注文した。しかし最初は皿一つに4種のホルモンがちんまりと乗って出てくるのかと思ったら、なんと4皿別々にこんもり盛られたホルモンが出てきたのだ。

いやあこれはしくじった。相方はもうお腹一杯だというし、オレはそこからホルモン4皿とさらに同時に注文したカルビをあたかもベルトコンベヤー作業のように焼いては喰い焼いては喰いと機械的に口に入れる羽目となってしまった。まあしかし全部平らげたから無問題だ。食い過ぎていささか気持ち悪いが。

さて勘定を済ませ外に出るとなんと土砂降りの大雨、先日の台風一過の後にまた雨が降るとはよもや思わず、こりゃどうしたもんだべと店先で二人で途方に暮れていた。スマホで調べるとあと30分は降り続いているらしい。

雨宿りして30分待つか―と思っていたら焼肉屋の店員さんが扉から顔を覗かせよかったら使ってくださいと傘を差し出すではないか。おおありがとうありがとう、世の中捨てたものではないね、と相方と相合傘で土砂降りの歩道に足を踏み出す。

まあしかしなにしろこれでもかとばかりに降りしきる雨に傘はそれほど役に立たず、ズボンも靴もすっかりずぶ濡れだ。にもかかわらずなぜかそんなに悪い気分でもない。相方と二人「すっごい雨だね!すっごい雨だね!」とギャアギャア笑いながら雨の中を歩いてゆく。

外を歩く人はほとんどおらず、ただ車だけが車道を大急ぎで走ってゆく。車のヘッドライトに照らされた雨の雫は白くとても透明で、水煙に濁った外の光景は擦りガラス越しに覗いたかのようなもやっとした光の反射を見せていた。

10分ほどでようやくバス停に辿り着くとタイミングよくバスが来た。相方とバスに乗りやっと人心地着く。バスはやはり雨を避けようとして乗り込んだのであろう乗客で一杯になっていた。

見ると相方はオレの傘の差し方が悪かったらしく結構雨に濡れていた。「相合傘って難しいんだよ」と相方が言う。「スマンスマン」とオレは謝る。

こうしてなんとか家に辿り着き、すっかり雨水を吸ってしまった運動靴に新聞紙を詰め、酔っぱらっていたこともあり体を拭いてさっさと寝についた。翌朝は半乾きのまま寝てしまった頭髪が大爆発していてそれを見た相方がポカーンとしていた。ちなみに焼肉屋で借りた傘はお昼に返しに行った。

再び、ブライアン・フェリーの季節。【後編:全アルバム紹介】

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前回に引き続き『再び、ブライアン・フェリーの季節。』、その後編となる。この後編ではザックリとフェリーさんのソロ・アルバムの数々を年代順に紹介してみようと思う。

フェリーさんのソロ・アルバムは個人的に思うに3期に分かれると思う。それはカバーソングを中心としロック展開させていた前期、ロキシー・ミュージック解散前後の脂の乗った時期であった中期、老境に入りジャズアレンジアルバムを出し始めた後期である。それと併せライブアルバム等も紹介する。

スタジオ・アルバム (前期)

『愚かなり、わが恋』 - These Foolish Things (1973年)

フェリーさんのソロ第1弾は最初からその方向性を明確に打ち出したアルバムとなっている。それはアルバム全体がカヴァー曲であり、なおかつフェリーさん独自の解釈でもって生まれ変わらせたものであるということだ。ロックのみならずオールディーズの名曲をヘナヘナと歌うその様は、ロックなのかなんなのか分からなくなってしまうのだが、実はこの批評性こそがフェリーさん流のロックであるという事なのだ(単なる変態さんなのかもしれないが)。1曲目ボブ・ディランのカヴァー「激しい雨が降る」からフェリーさん節炸裂、むしろ原曲よりも親しみやすく歌詞の切迫さが伝わってきはしないか。逆にオレはこの曲を聴いて「ボブ・ディランの詩って凄い」と驚愕したぐらいなのだ。


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『アナザー・タイム・アナザー・プレイス(いつかどこかで)』 - Another Time, Another Place (1974年)

ソロ2作目は1作目の「デラックス版」である。より演奏はしっかりし歌声には深みが増し、曲それぞれに強い陰影がもたらされてる。そしてこの辺りから「伊達男のふりをした怪しいおっさん」のルックスで攻めまくるフェリーさんだ。タキシード着てオールディーズ歌っていったいどこがロック?いいやそうではない、「ロックとはこういうもの」という固定観念を全部裏返したところにフェリーさんの曲はある。さすがひねくれ者の英国人だけある。ちなみにアルバムジャケット写真はアラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』を意識したものだという。


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『レッツ・スティック・トゥゲザー』 - Let's Stick Together (1976年)

ソロ第3弾はアルバム未収録曲、シングル曲、ロキシー・ミュージック曲の再演など、言ってみれば寄せ集めの企画盤といった内容なのだが、デコボコしている分フェリーさんの変態的な曲作りの在り方が伝わってきて嫌いになれないアルバムだ。七三頭にちょび髭生やしスーツ姿でクネクネ踊るという、カッコイイんだか悪いんだかわからないフェリーさんのキャラクターが明確になったアルバムでもある。ちなみにちょび髭はこの時だけのようだ。


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『イン・ユア・マインド(あなたの心に)』 - In Your Mind (1977年)

ソロ第4弾はこれまでの「変なおじさん」路線を後退させ、よりストレートにロックっぽくして見せたアルバムだ。そういった部分で「ロック的に分かり易い」作品という事もできる。音的には中期ロキシー・ミュージックのパワフルな音と通じる部分もあるが、それよりもアメリカン・ロック的な日向臭い明快さを感じ、個人的にはちょっと戸惑ってしまったのは否めない。


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『ベールをぬいだ花嫁』 - The Bride Stripped Bare (1978年)

Bride stripped bare

Bride stripped bare

  • アーティスト:FERRY BRYAN
  • UNIVERSAL spa - Italia
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フェリー・ソロの中では地味目な作品であり、キャリア的にも私生活においても低迷期であったようだが、それでもこのアルバムが無視できないのは、フェリー・ソングの名曲の1つとして挙げられるであろう「Can’t Let Go」が収録されていることだ。「(この嵐の中)君を行かせられない、(逃げることも隠れることもできない場所で)君を行かせられない」と繰り返し歌うこの曲の恐るべき切迫感、尋常の無さは、愛の無常に追い詰められた者の狂気さえ感じさせる。そしてこのアルバムは中期フェリー・ソロへの橋渡し的作品でもあるのだ。


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スタジオ・アルバム (中期)

『ボーイズ・アンド・ガールズ』 - Boys And Girls (1985年)

ボーイズ・アンド・ガールズ

ボーイズ・アンド・ガールズ

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『アヴァロン』を完成させロキシー・ミュージックが解散した後のこのソロ作品は、『アヴァロン』の延長線上にある透徹した完成度を持ち、もちろんフェリーさんのキャリア頂点にある最高傑作と言っても過言はないだろう。ダンサンブルでシンプルに徹しながらも細かな音のトリートメントに余念がなく、ヨーロッパの憂愁に満ちたメロディは静かに心を揺さぶるだろう。特に『Slave To Love』『Don’t Stop The Dance』はいつ聴いても強力な酩酊感を持つ名曲だと思う。また、ここからの中期フェリー・アルバムは、美しく物憂げなメロディが特徴となるヨーロピアン・シンセ・ポップの片鱗もうかがう事ができる。


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『ベイト・ノワール』 - Bête Noire (1987年)

前作『ボーイズ・アンド・ガールズ』に強い手応えを感じ、同様な形で練りに練ったサウンドワークで制作された作品だが、逆にいじくり過ぎて迷宮化してしまった作品だともいえる。どの曲も完成度が高く『ボーイズ・アンド・ガールズ』よりもエモーショナルだとも言えるのだが、アルバム1枚聴き終えると妙に疲れるのだ。だから聴き流す程度のフィーリングで聴いたほうが楽しいという、緻密な音作りに対して逆説的な聴き方が正確な可哀そうなアルバムデアはある。


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『タクシー』 - Taxi (1993年)

タクシー

タクシー

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『アヴァロン』『ボーイズ・アンド・ガールズ』と破竹の勢いだったフェリーさんも息切れしてしまったらしく、ここでまた一度立ち止まりカヴァーソング集を出すことになったわけである。すると、これがいい。考え過ぎず捏ね繰り回し過ぎず、いつものフェリーさんらしくカヴァーに没頭できたことが功を奏したのだろう。オレはどの曲もお気に入りで、アルバム自体もフェリー・ソロの中で群を抜いて好きだ。なにしろ表題曲『Taxi』の、ひたすら弛緩し緩く緩く悲しみに沈んでゆく曲調がたまらなく好きだ。「タクシーよ、彼女の元に急いでおくれ」という歌詞にもかかわらず、曲はまるで急いでいる体ではなく、もはや「彼女の元」に行くことを諦めてすらいるように感じる。これが「フェリー・アレンジ」の妙味だ。しかもこの曲、よく聴くとレゲエなのだ。


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『マムーナ』 - Mamouna (1994年)

フェリーさんはロキシー時代から「ヨーロッパ退廃の美学」を追求する人でもあったが、この『マムーナ』はその結実点にあるアルバムではないかと思う。アルバム全体を通し、暗く淀み、にもかかわらず憂愁の美しさに包まれているのだ。あえてメリハリを排し、アトモスフィアの醸造に徹している部分は、ブライアン・イーノ参加のせいもあるかもしれない。それにしても『アヴァロン』において「もうこれ以上のものはない」と愛の成就を高らかに歌い上げた人が、この『マムーナ』では出口のない陰鬱に飲み込まれている。この辺りの気分的浮き沈みの激しさがフェリーさんらしくもあり、ファンとして共感できる部分でもある。


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スタジオ・アルバム (後期)

『アズ・タイム・ゴーズ・バイ - 時の過ぎゆくままに』 - As Time Goes By (1999年)

AS TIME GOES BY

AS TIME GOES BY

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「ブライアン・フェリー、スタンダード名曲を歌う」というアルバムである。もともとカヴァー曲を得意とするフェリーさんではあるが、ここでは従来の「フェリー・アレンジ」は影を潜め、スタンダードをスタンダードらしく古色蒼然とした曲調で歌っている。単なる懐古趣味ということなのだが、「ボクももう十分歳取っちゃったからあとは好きなことばかりやっていようかな」という開き直りなのだろう、それはそれでいいのかもしれない。


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フランティック』 - Frantic (2002年)

前作でとことん趣味に走ったので「今回はちゃんとロックっぽいことしようかな」ということで製作されたアルバムである、と思う。いつもの、仕事してるフェリーさんの曲ばかりではあるが、「いつもの」過ぎて驚きが無く、加えて声質が顕著に衰えてきており、全体に勢いがない。そういった部分でこれもあまり愛着のないアルバムではあるなあ。


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『ディラネスク』 - Dylanesque (2007年)

ディラネスク

ディラネスク

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今回個人的「ブライアン・フェリー再発見」の元となったアルバムである。「さ、前回はお仕事ちゃんとこなしたから今回はまた趣味に走るぞお!」というフェリーさん(分かり易い)、なんと今作は全編ボブ・ディランのカヴァーで占められた、いちアーティストとしてはある意味空前絶後と言ってもいいアルバムなのだ。趣味ここに極まれりである。しかし、1stソロからボブ・ディラン・カヴァーを歌い続けてきたフェリーさん、ぬかりは一片たりともなく、実は相当に完成度の高いアルバムである。心から敬愛するディランのカヴァーを手掛けるだけに全ての「ツボ」を心得ているのだ。演奏も歯切れがよくフェリーさんのヴォーカルも元気がいい。「おじいちゃんはまだまだイケるぞお」という意気たっぷりである。


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オリンピア』 - Olympia (2010年)

オリンピア

オリンピア

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「趣味の次はお仕事」ということで(律儀)、オリジナルアルバムである。ジャケットにスーパーモデル、ケイト・モスを起用し、例によって「おじいちゃんはまだまだイケるぞお」と怪気炎を上げるフェリーさんのガッツポーズが目に見えるようである。しかしやはり前回の「お仕事アルバム」『フランティック』同様、フェリー・ミュージックの再生産を行っているばかりで、それほど新鮮味はない。悪いアルバムではないだが、これもあまり聴かないんだよなあ。


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『ザ・ジャズ・エイジ』 - The Jazz Age (2012年)

Jazz Age

Jazz Age

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フェリーさん趣味アルバムシリーズ、今回は遂に「ブライアン・フェリー・オーケストラ」なるものを立ち上げ、20年代古典ジャズ・エイジ風味のアレンジを施したロキシー・ミュージック/フェリー・ソロ曲を演奏している。なにしろどの曲もあえて古色蒼然としたアレンジとなっており、風雅と言えば風雅だが、個人的にはまるで興味を覚えず、あまり通して聴くことがない。


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『アヴォンモア』 - Avonmore (2014年)

ルーティンとなった「趣味の次はお仕事」アルバムではあるのだが、実はこれが非常に良い出来なのだ。確かに『フランティック』『オリンピア』同様、『アヴァロン』『ボーイズ・アンド・ガールズ』的ゴージャス・サウンド展開を見せる作品ではあるのだが、演奏陣がよりタイトかつ技巧的になっており、全体的に澄んだサウンドを聴かせてくれるのだ。また、声質は相変わらず衰えたものではあるにせよ、その声質に合わせたキーの曲作りをしているように思える。無理を感じないのだ。これはプロデュース的な音響サポートもあるのだろう。楽曲も抜きんでており、後期フェリー・アルバムの最高傑作と言っていいだろう。


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『アヴォンモア:ザ・リミックス・アルバム』-Avonmore: The Remix Album (2016年)

Avonmore: The Remix Album

Avonmore: The Remix Album

  • BMG Rights Management (UK) Ltd.
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前作『アヴァンモア』のクラブ・アレンジされたリミックス曲集である。これはDL版しかリリースされていないようだ。そしてこれがまたもやいい。もともとオレはクラブ・ミュージックが好きなのだが、ここに収録されたどの曲も遜色ないクラブサウンドでありダンス曲であり、同時にフェリーらしさが縦横に漂うヨーロッパ的憂愁の美を兼ね備えているのだ。実は今回の「ブライアン・フェリー再発見」において最もよく聴いているのがこのアルバムだ。それにしてもフェリー曲はクラブ・アレンジが似合うな。


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『ビター・スイート』- Bitter-Sweet (2018年)

BITTER-SWEET/DELUXE ED

現在フェリーさんの最も新しいアルバムとなるのが2018年リリースの今作である。そしてなにしろ「お仕事の後の趣味アルバム」であり、「ジャズ・アレンジ版ロキシー&ソロ第3弾」である。今作は割とヴォーカルもフィーチャーされ、アレンジ自体も以前のような霞がかかったような音ではなくクリアーで、そういった若干の意趣変更もあるようだが、どちらにしろ「おじいちゃん楽しそうだね」と微笑んで聴いてあげるような作品である。


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ライヴ・アルバム

 『ライヴ・イン・ヨーロッパ 2015』- Live 2015 (2019年)

Live 2015

Live 2015

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ブライアン・フェリー、2015年ヨーロッパツアーのライブ盤である。実は長きに渡るキャリアの中でフェリーさんのライブアルバムはこれが初めてとなる。曲はソロ曲、アレンジ曲、ロキシー曲と順当に収録され、CD2枚組に渡ってたっぷり楽しむことができる。ベスト盤とは違うライブならではの面白さ、躍動感というのがあり、フェリーファンなら持っていていいアルバムではないか。録音もいい。


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『ライブ・アット・ローヤル・アルバート・ホール 1974』- Live At The Royal Albert Hall 1974 (2020年)

Live At The Royal Albert Hall 1974

Live At The Royal Albert Hall 1974

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これはびっくり、フェリーさんの1974年ロイヤル・アルバート・ホールのライブを収録した貴重アルバムの登場だ。1974年というと初期のフェリー・ソロ『愚かなり、わが恋』『アナザー・タイム・アナザー・プレイス』のリリース後、ロキシーは3枚目『ストランデッド』リリース後であり、すなわちフェリーが最も若々しく勢いがありヤンチャ盛りだった頃の時期を真空パックしたかのような演奏が聴けるのだ。殆どの曲はソロ曲から、ロキシー曲は一曲のみだが、初期フェリー・ソロに相当の思い入れがあるオレとしては、大好きなあの曲この曲が連打のように飛び出し、実に嬉しいアルバムだった。


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『ライヴ~ローヤル・アルバート・ホール 2020』- Royal Albert Hall 2020 (2021年)

Royal Albert Hall 2020

Royal Albert Hall 2020

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アルバムタイトル通り「2020年ロイヤル・アルバート・ホールでのライブ」を収めたものだが、前回リリースした「1974年ロイヤル・アルバート・ホールでのライブ」と呼応した形になっているのが面白い。確かに既に「2015年ライブ」もリリース済みだし間隔が近すぎるようにも思えるが、実はかの新型コロナによって中止を余儀なくされたライブの演奏メンバー救済目的であるのらしく、1枚組なのに3600円余りという高額アルバムなのだが、寄付と思って購入するのが吉。それと今作で面白かったのは、声質の衰えたフェリーさんの為にバックコーラスがユニゾンでヴォーカル参加し、ヴォーカルの弱さを補っていた部分だろうか。フェリーさんももう75歳、無理をせずに活躍し続けて欲しい。もう隠居されてもいいし。


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 日本特別企画盤 

『ガール・オブ・マイ・ベスト・フレンド・アンド・レア・トラックス』- Girl Of My Best Friend (1993)

ガール・オブ・マイ・ベスト・フ

ガール・オブ・マイ・ベスト・フ

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アルバム『タクシー』からリリースされた3枚のシングル曲とそれ以前にリリースされたシングル曲B面、それと多数のライブ曲で構成された日本独自編集盤。『タクシー』自体は陰鬱な緊張感の漂うアルバムだったが、このアルバムは逆に落ち着いた解放感に満ちた曲が並んでおり、非常にリラックスして聴けるという点で「寄せ集め」に止まらない愛着を感じさせるアルバムとなっている。アルバム未収録曲もあり、これはこれで必携なのではないか。


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再び、ブライアン・フェリーの季節。【前編:オレとブライアン・フェリー】

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ブライアン・フェリー。イギリスのロック・バンド、ロキシー・ミュージックのリーダーにしてヴォーカルだった方である。ロキシーは既に活動を停止しているが、このフェリーさんは最近でも精力的にソロアルバムを制作し続けている。

ロックを聴き始めた10代の頃、アホみたいにロックばかり聴いていた20歳の頃、それはもう沢山のバンド、アーチストを聴いたが、オレの中で核というか芯となっていたのはデヴィッド・ボウイロキシー・ミュージック/ブライアン・フェリーだった。そしてロキシー・ミュージックとフェリーさんのソロのどちらが好きかといえば、オレはフェリーさんのソロだった。

なんだろう、フェリーさんの音楽は、どこかヘナヘナとしながら、核心の部分は強固な美意識と歌心に満ちていて、そのバランスが絶妙なのだ。フェリーさんと言えばラブソングなのだが、あたかもドンファンの如き愛の狩人的な歌を歌いながら、同時に愛の不在の根源的な悲しみを限りなく真摯に歌い上げる。おそろしくエモーショナルに沈溺しているように見えて実は技巧的に研ぎ澄まされている。とかくラブソングは若者のリビドーの婉曲された発露ではあるんだけれど、ことフェリーさんに関しては求道的とすら思える一大ライフワークとしてのラブソングなのだ。むしろフェリーさんは「恋愛ジャンキー」と言ってもいい。どこか危ういのである。

そんなに愛してやまなかったフェリーさんの音楽を、30代を過ぎたころから聴かなくなっていた。それは、10代20代の頃に聴いていたフェリー・ソングが、その頃のオレの惨めったらしい恋愛体験とあまりにもシンクロしすぎていて、聴くのがちょっとキツかったからなのだ。ナイーヴ()な青年だったんだよオレは。それと併せ、後期のアルバムでのフェリーさんの声質が、年齢による衰えが顕著過ぎて聴いてて辛くなる、というのもあった。そんなわけだったから、このブログを書き始めて18年も経つというのに、一度もきちんとフェリーさんのことを書いたことがなかった。

しかしそんなフェリーさんの音楽を、最近突然再発見してしまい、興奮気味に全てのアルバムをCD購入してしまったのだ(初期のはレコードで持っていたが数枚は買い直していなかった。また、後期アルバムは殆ど聴いていなかった)。その切っ掛けとなったのは、発売時購入したものの面白くなくて数回しか聴かなかったアルバム『ディラネスク』(2007)だ。

理由は忘れたのだが、このアルバムを唐突に聴き直してみたら、これがもう非常に素晴らしかったのだ。「え!?なんでなんで!?なんでこのアルバムを無視していたの!?」と自分で自分に驚愕してしまったほどである。さらにやっぱりつまらなくて無視していたアルバム『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』(1999)を聴き直したら、これがまたよくって……。そこからは一気呵成、全フェリー・アルバムのCDコンプとなったわけだ。

『ディラネスク』にしろ『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』にしろ、やはり声質の衰えたヴォーカルではあるのだが、今聴くとそれがまるで気にならなかったのだ。ロックアーチストが歳をとるようにロックファンも歳をとる。歳をとり枯れたフェリーさんのヴォーカルを、枯れながらも十分に憂愁の美しさを湛えるその歌声を聴きながら、オレは同じく老境に足を踏み入れた自分自身と重ね合わせてしまったのだ。それは寂しく、侘しいものではある。だが、にもかかわらず、フェリーの歌声は、こんなにも美しい。なぜこんなことが可能なのだろう?それが、人生、ということなのだろうか。オレはフェリーさんに人生を見てしまったのだろうか。

というわけで次回後編は「ブライアン・フェリー全アルバム紹介」をお届けしますのでお楽しみに!

(続く)

 

ミシェル・ウエルベックの『地図と領土』を読んだ

地図と領土/ミシェル・ウエルベック

地図と領土 (ちくま文庫)

孤独な天才芸術家ジェドは、個展のカタログに原稿を頼もうと、有名作家ミシェル・ウエルベックに連絡を取る。世評に違わぬ世捨て人ぶりを示す作家にジェドは仄かな友情を覚え、肖像画を進呈するが、その数カ月後、作家は惨殺死体で見つかった―。作品を発表するたび世界中で物議を醸し、数々のスキャンダルを巻きおこしてきた鬼才ウエルベック。その最高傑作と名高いゴンクール賞受賞作。

2010年に発表された『地図と領土』はウエルベックの長編第6作となる。物語は一人の芸術家の生涯を通して彼の精神的彷徨を描くものとなっている。主人公ジェドは写真・絵画の領域で天才的才能を発揮し一躍美術界の寵児となる。巨万の富を得、究極の美女を恋人としながらもジェドは現実社会とコミットすることを疎み孤独な生活を楽しんでいる。そんな彼がある日有名作家「ミシェル・ウエルベック」と出会い、彼に仄かな友情を感じはじめる、というのがこの物語だ。

作中に突然作者本人が登場する、という横紙破りな展開になにより虚をつかれるが、この「作者本人」が変人な上に極めてだらしない生活をしているヨレヨレかつグダグダの男で、現実かどうかは知らないが実に情けない男として登場する。ただし、小説、そして芸術というものに対する態度は限りなく真摯だ。そういった点で主人公ジェドと通じある部分があったのだろう。それにしても、この物語はいったいなんなのか?いったい何が主題なのだろうか。

例えばウエルベックの『素粒子』が、二人の主人公がそれぞれに作者ウエルベックの分身であったのと同様に、この作品においても架空の人物ジェドと「ウエルベック」は同一人物なのではないかと思うのだ。芸術に対して限りなく真摯で深い造詣を持ち豊かな才能を備える主人公ジェドは作者ウエルベックの分身であるが、それだけでは世界に対し超然とし過ぎてつまらない。そこにだらしなくヨレヨレのもう一人の「ウエルベック」を登場させることで生臭く現実まみれの反面も見せつけ、バランスをとっているのだ。

そしてこの「ウエルベック」同士の対話によって描かれる物語のテーマとは「芸術へのアティテュード」なのだ。これはジェドだけが語っても白々しいし「ウエルベック」が語っても嘘くさい。そもそも常に物議を醸しだし変態作家とまで呼ばれるウエルベックがいきなり「芸術とは」などとやっても誰も取り合わないだろう。それを半身同士の対話の形にすることで物語を膨らませテーマを豊かなものにしているのだ。

物語は「芸術へのアティテュード」だけではなく「世界に対する違和感」と「決して成就することのない愛」をも描き、そこからウエルベックらしい「孤独の物語」が導き出されてゆくのもまた定石だ。その中で物語内における「ウエルベック」の異様な退場の仕方は、これを「ジェドの物語」、すなわち「フィクション」として終わらすための小説的なテクニックだったのだろうと思う。サスペンスフルな展開の後半はウエルベックらしからぬ面白さを醸し出していた。

ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』を読んだ

闘争領域の拡大/ミシェル・ウエルベック 

闘争領域の拡大 (河出文庫)

闘争領域。それはこの世界、自由という名のもとに繰り広げられる資本主義世界。勝者にとっては快楽と喜びが生まれる天国、敗者にとってはすべて苦しみ、容赦ない攻撃が続くシビアな世界。日々、勝者か敗者かの人生が揺れている微妙な三十男の「僕」と、生まれついての容姿のせいで女に見放されている、完全な敗者のティスラン。彼らにとって人生は苦々しく、欲望はときに拷問となる。そんなふたりが出会ったとき、奇妙で哀しい、愛と人生の物語が生まれる―。現代フランス文壇で類を見ない才能を放つウエルベックの、若き哲学が爆発した初期の傑作小説。

ミシェル・ウエルベックの長編小説第1作である(実質的な作家デビューは前作の長編エッセー『H・P・ラブクラフト 世界と人生に抗って』)。そして長編第1作だけあってウエルベックのエキスがたっぷり凝縮された1冊となっている。

物語のテーマは「闘争領域」。そしてその「闘争」とは「性的対象を奪取するための戦い」である。経済的繁栄は富を元にしたあらゆる自由を可能にしたが、同時にそれは旧弊な倫理と宗教観を破壊し、これまで檻の中に閉じ込められてきた「性的自由」をも解放した。だがその「自由」は経済と同様「持つ者と持たざる者」の「冷酷な差異化システム」をも生み出してしまった。平たく簡単に言うと「モテと非モテの相克」である。

欲望の果てしなき拡大は許されながらも欲望の対象を奪取するためには熾烈な闘争を展開せねばならない。その戦いにおいて「引っ込み思案のブ男」のハンデは致命的である。即ち「引っ込み思案のブ男」はあらゆる「性的自由」を目の前のぶら下げられながら、彼自身における「性的自由」は「不可能」と宣告されるのだ。

よくある話じゃんか、と思われるかもしれない、しかしこれは「では自由とはなんなのか、何のための自由なのか」という激しい糾弾の書であり、「性の絶対的貧困を生み出さざるを得ない社会で生きること」への陰鬱極まりない呪いであり、その絶望と孤独とを謳った悲壮なる逸話なのである。このモチーフはそのまま次作である『素粒子』へと受け継がれ、さらに残酷で無情な物語が展開されるのだ。