マイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』を聴いていた

死刑台のエレベーター(完全版)

以前村上春樹原作の韓国映画『バーニング 劇場版』を観てたいそう感銘を受け、まだ読んでいなかった原作短編を読んだだけではなく、劇中で使われていたマイルス・デイヴィスの曲『死刑台のエレベーター』が収録されたアルバムまで買って聴いていた。映画ではこの『死刑台のエレベーター』が非常に不穏かつ美しいシーンで使われていて、とても印象に残っていたのだ。

改めて書くと、マイルスの『死刑台のエレベーター』はルイ・マル監督による1958年のフランス映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックとなる。曲はマイルスが映像を観ながら即興で演奏したものなのだという。映画自体は子供の頃TVで観たことがあるが、モノクロ映像の非常に暗い映画で子供のオレには意味がよく分からなかった思い出がある。しかしテーマ曲である『Generique』は非常にポピュラーな曲として受け入れられ、聴いたことがある方も多いんじゃないかと思う。


miles davis "generique"

そもそもジャズという音楽ジャンルで初めて「これは凄い」と思いアルバムを買ったのがマイルスの『カインド・オブ・ブルー』だった。20代の頃仕事中聴いていたラジオのFEN番組で(調べたら今はAFNって呼ばれてるんだね?)恐ろしくクールな音楽が流れてきて「一体何だこれは?」と仕事の手を止めて聴き入ってしまった曲があった。曲が終わりDJが紹介したタイトルがマイルスの『カインド・オブ・ブルー』だったのだ。

早速CDを購入しその得も言われぬ演奏を堪能した。なんだか「静寂を音にしたような音楽」だと思えた。語義矛盾してるけど、本当にそんな具合に聴こえたのだ。しかし、それからマイルスのアルバムを何枚か聴いてみたけど、どれも「所謂ジャズ音楽」でしかなくて、『カインド・オブ・ブルー』みたいな突き抜けた音を聴かせるアルバムは無かったんだよな。もともとジャズ自体にそれほど興味が無かったのもあって、オレにとってマイルスというのは『カインド・オブ・ブルー』であってそれ以外ではなかったのだ。

しかし今回、アルバムでこの『死刑台のエレベーター』を聴いてみたら『カインド・オブ・ブルー』に通じる「静寂を音にしたような音楽」が流れてきて驚いた。ジャズ・ファンにとってこのアルバムがどういう捉えられ方をしているのかオレは知らないが、ジャズ・ファンではないオレにとっては『カインド・オブ・ブルー』に次いで好きなアルバムとなった。それはひとえに、これがサウンドトラック・アルバムであり、サントラによく見られる「アルバム1枚に同一モチーフが繰り返し繰り返し使われる」部分で気に入ったのだと思う。

要するにアルバム全篇が似たような曲で占められているので、全26曲がたったひとつのムードで聴き通せるのである。これ、クラブ・ミュージックを聴く時のセンスに通じるものがあって、延々同じリズムとフィーリングで繋いだMIXは聴いていて邪魔にならず、聴き流せると同時にいつ音楽に集中しても金太郎飴的に楽しさが持続している、という部分で似ているのだ。それとなにしろ今作は「完全版」ということで収録時間が75分と長いので、いつまでも流しっぱなしにしていられる、というのがいい。

そんなわけで最近はリラックスしたいときは朝晩関係なくこの『死刑台のエレベーター』を聴いている。

死刑台のエレベーター(完全版)

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久しぶりに村上春樹を読んでオレはモニョッてしまった

■蛍・納屋を焼く・その他の短編 / 村上春樹

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

先日、韓国映画『バーニング』を観てその冷え冷えとした不気味さに感銘を受け、原作である村上春樹の短編『納屋を焼く』を読んでみることにした。『納屋を焼く』は短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録されている作品だ。

オレはかつて結構な村上春樹ファンだった。最初に読んだのは当時刊行されたばかりの『羊をめぐる冒険』(1982)だった。読み終わって、胸のザワザワが止まらなかった。映画『バニシング・ポイント』のような、消失点へ消失点へと疾走してゆく物語に慄然とさせられた。その後処女作『風の歌を聴け』(1979)で魅せられた。映画化作品のDVDも購入した。こうしてオレは村上ファンとなったわけだ。

そして『ノルウェイの森』(1987)。頭を鈍器のようなものでぶん殴られたような衝撃だった。これもまた消失点へと疾走する物語だったが、物語の研ぎ澄まされ方が半端なかった。村上小説のエッセンスを、まるで蒸留中のスピリッツの様に純度を高め濃縮したのがこの作品だったと思う(これ、映画化作品も本当に素晴らしい)。

しかし『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)あたりから「なんか違うなあ」と思うようになった。そういや『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)辺りにもちょっと違和感を感じた。そして『国境の南、太陽の西』(1992)を最後にオレは村上作品を読むのを止めてしまった。

今挙げた村上作品の後ろにいちいち発表年代を入れたのは、それらの作品が「結構昔の作品」だった、ということを言いたかったからだ。最初に読んだ『羊をめぐる冒険』はもう40年近く前の作品だし、最後に読んだ『国境の西~』ですら30年近く前のものだ。要するに、もう30年近く村上作品は読んでいない、ということなのだ。

村上の、いわゆる「激しい隠喩」とされる表現の在り方は、即物的なオレに取ってみると、単に「下手な隠喩」だなあ、と思えてしまうのだ。その難解さを、オレはあえて読み解こうとする気が起きないのだ。それと、村上作品の多くは「生(性)と死」を取り扱うが、クローズアップされる「性」の部分が、生々しすぎて(その生々しさが”文学”なのだろうが)苦手だったというのもある。

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』は1984年刊行の短編集だ。長編『羊』と『世界の終り』の中間ぐらいに出されたものとなる。この短編集には5つの短編が収められている。このうち『蛍』は『ノルウェイの森』の元となった作品だ。この作品では主人公の出会った女性が「消失」するまでが描かれることになる。『納屋を焼く』でも出会った女性は「消失」し、不安で不気味な読後感を残す(相変わらずたっぷり缶ビールを飲んでいた)。『踊る小人』は童話風のモチーフを使った作品だが、やはり不安感に満ちた作品だ。『めくらやなぎと眠る女』は村上風「激しい隠喩」の張り巡らされた難解な作品だが、基本は「生の不確かさ」なのだと思う。多分。『三つのドイツ幻想』は「僕はセックスから冬の博物館を想像する」といった冒頭から難易度が高い。そうなんだ、と思ったけど。

とまあ久々に村上作品を短編集という形ではあるが読んだわけだが、やっぱり、なんだかモニョッてしまった。村上春樹の短編は昔からつまらなかったが、これも同じだなあ、と思ってしまった。実のところ、村上短編は実験的手法を試すような部分が多いように感じられ、長編作品とはどうしても趣が違う。だいたい、「長編『羊』と『世界の終り』の中間ぐらい」に刊行されていたなら当時ファンだったオレは読んでいたような気がするが、まるで記憶にない。

村上作品の特徴である「平易な文章」は時として雑炊を啜っているかのように歯応えが無い。なにかぬるぬると手元をすり抜けてしまう。直喩を用いないからなのだろうが、じれったく感じるし、めんどくせえなあ、と思えてしまう。面倒臭がっては文学など読めないのだろうが、オレはラテンアメリカ文学ならガシガシ噛みしだいて読むことはできるから、単に村上手法が肌に合わないだけなのだろう。という訳で久々に村上作品を読んだらモニョッてしまった、というお話だった。

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奴は武闘派エクソシスト!?/映画『ディヴァイン・フューリー/使者』

■ディヴァイン・フューリー/使者 (監督:キム・ジュファン 2019年韓国映画

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韓国はキリスト教信仰が強い国なのだという。2010年においてキリスト教徒の割合は29パーセント、それに対し仏教徒は23パーセントなのだそうだ。(iRONNA/なぜ韓国でキリスト教が爆発的に浸透したのか韓国映画を観るときに、このキリスト教信仰を足場にして考えると意外と見えてくるものがあったりする(もうひとつは儒教の影響だ)。韓国映画の持つ「苛烈さ」は、キリスト教(特にカトリック)が背景にあるからなのではないか、と思うことがあるのだ。まあ、知ったようなことを書いたけれども、韓国への知識以前にオレのキリスト教についての知識も大雑把なものなので、誤解している部分も多大にあるような気もしているのだが。

韓国映画『ディヴァイン・フューリー/使者』は悪魔祓い師をテーマにしたお話である。それも神父とキリスト教的な悪魔が登場するエクソシストのお話である。じゃあホラージャンルなのかと言うと、ただ悪魔祓いをするのではなくそこに格闘要素が絡んでくるのである。なんじゃいな、とは思うが以前観た韓国映画鬼手』も囲碁+格闘というハイブリッドな作品だったので、そういった面白さを追求した作品なのだと思われる。物語は突然片手に「聖痕(磔にされたキリストのように手から血が流れてくる)」が現れた格闘家とバチカンから派遣された神父とがコンビを組み悪魔に立ち向かう、というものだ。

その聖痕には悪魔を撃退する力があり、それにより格闘家ヨンフ(パク・ソジュン)はエクソシストであるアン神父(アン・ソンギ)に不承不承協力することになる。面白いのは主人公ヨンフが幼い頃父親を喪った恨みから神を信じておらず、そんな彼に聖痕が現れてしまうということである。そのためこのテのお話によくある「信仰の正しさ」を強調し過ぎることを回避している。むしろ強調されるのは「親子の愛」だ。ヨンフは彼が手助けすることになるアン神父に次第に喪った父の面影を見出し、頑なだった自分の心を解きほぐしてゆく。また、ヨンフの強力なサイキックパワーの背後には、亡き父の愛が係わっていることも描かれてゆく。「神の愛」ではなく「親子の愛」を強調する構成の在り方がこの作品をシンプルなエンタメ作品として楽しむことを可能にしている。

一方、魔族の代理人であり悪の中枢に鎮座している男が若き実業家ジシンだ。「悪魔の手先の正体は得体の知れない若造の実業家」というのは意外と韓国人の市民感情をくすぐるものがあるのかもしれない。自身の経営するクラブの地下に魔族を奉る祭壇を設えおどろおどろしい祭儀を執り行うシーンなどはホラー風味たっぷりでなかなかの見せ場だ。このジシンを演じるウ・ドファンの酷薄なキャラクターがこの物語をさらに盛り上げてくれる。また、悪魔に取り憑かれた人々の異様な行動は映画『エクソシスト』そのもので、あの作品の不気味さと緊張感を巧く再現していた。

シナリオ面では幾つかの面で練りこみ不足を感じた。まず、ジシンの正体と所在は最初の悪魔祓いで判明したはずで、ここが取りこぼされている。ヨンフとアン神父を対立させる陰謀も中途半端であり、これに係わった魔族と思われるプロモーターもいつの間にかいなくなってしまっている。最大の瑕疵は格闘要素がクライマックスを除き殆ど無かったことだ。そもそもヨンフには聖痕という最大の武器があるので、さらに格闘までさせるのは余計にも思えるのだ。この辺、聖痕で倒せる敵と格闘で倒せる敵の属性を分けるべきだったんじゃないか。

とはいえ、主演3人の魅力や過激過ぎないマイルドなホラー描写、しっとりと語られる「親子の愛」の描写の良さなどから、充分に楽しめる作品であった。続編もありそうなので、次はさらにパワーアップしたヨンフとアン神父の戦いを観てみたい。 エクソシストというテーマを中心としながらそこに「親子の愛」を代入する物語の在り方にはキリスト教儒教とのせめぎ合う韓国らしさがあったような気がした。

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しょうもない連中が主人公の『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』はうんざりするほどしょうもない映画だった。

■ディック・ロングはなぜ死んだのか? (監督:ダニエル・シャイナート 2019年アメリカ映画)

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ちょっと前に話題になった映画に『スイス・アーミー・マン』という作品がありましてな、これは無人島に流された青年が、ダニエル・ラドグリフ演じる死体のこく屁の力によって無人島から脱出する、という相当しょうもない作品なんですが、あまりにしょうもなさ過ぎて逆に感心してしまう、といった作品でもありました。で、この『スイス・アーミー・マン』の監督の片割れであったダニエル・シャイナートによる新作映画が公開されるというから、まあこりゃちょっと興味が沸いちゃうじゃないですか。その映画のタイトルは『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』、なにやらダークコメディなんだとか。

物語の舞台はアメリカ南部の田舎町。ここにジーク、アール、ディックという3人のアホタレどもが住んでおったのです。ある日、何らかの理由で重症を負ったディックをジークとアールが病院の前に置き去りにし、そのままディックは死んでしまいます。警察は猟奇殺人として捜査を開始し、町中は大騒ぎ。それを知ったジークとアールは懸命に証拠を隠そうとしますが、そもそもアホタレなんでボロが出るばかり、二人はどんどん追い詰められてゆくのです。それにしても、友人を捨て置き死なせてしまうほどの理由はなんだったのか?それは・・・・・・・。

 ええと、最初に書いちゃうと、残念ながら相当つまんなかったです。主人公となるジークが単なる意志薄弱なボンクラ野郎で、あまりに注意散漫かつ頭が悪いので事件の証拠をまるで隠せないばかりか、隠そうとすればするほどボロが出て、観ていて相当イラつかされるんですよ。きっと物語は、このジークのボンクラ振りと情けなさにアイロニーを見出そうとしたのでしょうが、観ているこっちはただ残念な人の残念な行動に逐一つきあわされるだけの話で、うんざりさせられるんですよ。

それと物語の初動の段階で矛盾があって、それはジークとアールは負傷したディックが死にはしないだろうと思っていた(そのうち回復して連絡があるだろうと考えていた)にもかかわらず、身元が判明しないようにディックの財布を抜き取っていたことなんですね。殺したわけでもなく、あとから回復すると思っていたのなら身元を隠す必要なんか無いじゃないですか。それとも内心では死ぬかもなあと思っていたということでしょうか。そもそもジークとアールが考えの足りないボンクラどもだからこそこんな行動を取ったともいえますが、なんだか釈然としない行為なんですよね。で、この財布の存在により後々一波乱起こるのですが、結局この一波乱を起こす為に整合性が無いにも関わらず財布を抜く描写を入れたと思えてしまう、その辺で、下手糞なシナリオだなあと感じるのですよ。

それといくら「とんでもない理由」が背後にあったとしても、瀕死の友人を病院前に置き去りにし、その後自己保身と無関心を決め込む段階で情けないダメ人間確定で、そういったダメ人間の行動を「人間の持つ愚かさ」として許容して見る気が起きないんだよなあ。確かにこの映画を観ている自分もこういった「愚かさ」を持っているだろうということは否定しませんが、それをそのまんま映画で観せてしまうのは単に芸が無いと思えてしまうんだよなあ。

結局、頭は空っぽだけれども、大きな図体して大きな車と大きな家を持ってさらには家族まで養っていて、裕福ってわけでもないが悠々自適には生きていけてしまう、そんなアメリカの田舎町に棲息する益体も無い馬鹿のどうしようもなさを描いた作品なのだろうと思うのですが、馬鹿が否応もなくただ単に馬鹿であった、という自明極まりない話を見せられて面白いのか、ということなんですよねえ。少なくともオレは全然面白くなかった。そんなわけでダークコメディとか言いつつ少しも笑えないし楽しめない、ホントにしょうもない映画ではありました。 

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韓国90年代、14歳女子の多感な日々。/映画『はちどり』

■はちどり (監督:キム・ボラ 2018年韓国・アメリカ映画)

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14歳の少女・ウニの多感な日々を描いた韓国映画『はちどり』を観た。2018年製作の本作は日本でも今年6月に公開されて話題を集め、いまだにあちこちの映画館でロングラン公開されている。オレは最初ノーチェックだったのだが、最近韓国映画を多く観るようになったこともあり、この作品がまだ公開されている事を知って、観てやろうじゃないかと思ったのだ。

映画『はちどり』は1990年代の韓国を舞台にしているという。観る前に予習したのだが、この時期韓国は空前と言っていい程の経済成長を遂げ、人々の生活が徐々に変わっていった時期であったのらしい。生活が変わると、生き方や考え方も変わってくる。そういった、ある意味変遷期にあった韓国で、平凡な家庭の14歳の中学生少女はどのような生を生きたのか。これが『はちどり』の物語のテーマとなる。

主人公の名はウニ(パク・ジフ)、餅屋を営む両親の元、三人きょうだいの末っ子として生まれ、今は14歳の中学生だが、勉強はあまり好きではなく、漫画を描くことを趣味としている(ちなみに左利き)。物語で描かれるのはそんな彼女のありふれた毎日だ。共に暮らす両親、兄・姉との愛憎と対立、ボーイフレンドや友人たちとの楽しい日々と突然の仲違い、後輩女子からの告白、クラブに行ってみたり煙草や万引きをしたりの悪い体験、等々など。そんなありふれた毎日の中、ウニは飄々と生きる塾の女性講師へ憧れと信頼を寄せ始める。

映画は徹頭徹尾14歳女子の平凡な日常が淡々と描かれることになる。そして特別に強烈な映画的事件はクライマックスを除き殆ど起こらない。なので、かつて14歳女子だったこともなく、14歳女子に特に心情的共感が存在せず、実のところ14歳女子に別段関心も無い自分にとっては、ただ「ヘェー韓国の14歳女子ってこうなんだー、日本とあんまり変わらんかもなー」となんだかぼんやり観てしまった。ではかつて14歳男子だった自分を重ね合わせみるとどうかというと、「まーこんなもんだったかもねー」と思わないでもなかった。ただそれも、「14歳ってのはまだ子供でもあり既に思春期でもあるから、あれこれ心が不安定なんだよね」程度のものだろうか。だから「14歳あるある物語」みたいなもんだと思って観てしまった。

確かに90年代高度経済成長期韓国の世情、韓国の強権的な家父長制度と男尊女卑問題を物語から汲み取ることは出来はするけれども、日本の高度経済成長期も似たようなものだったろうし、家父長制度は未だに残っているのだろうしジェンダー問題すら手を付けられたのは最近なんじゃないのかという印象があり、この辺りだって日本でもあったしあるよなあと思えて、決して韓国独特のドメスティックな問題が物語の背後にあるととらえなくてもいいと思う。むしろやはり思春期特有のナイーヴさを描いたある意味普遍的な物語として観ておけばいい映画なんじゃないのかな。まあしかしなにしろオレ、もうすっかり年寄りなんで「思春期のナイーヴさ」ってあんまり興味無いのも確かなんだが。

とはいえ、主人公ウニを演じるパク・ジフの自然体な演技がすばらしく、それはむしろ演技とすら感じないほどだった。観ている間中、主人公ウニの側に寄り添って、さざ波の様に静かな彼女の感情の渦を観察しているような錯覚にとらわれた程だ。描かれる日常にも作り過ぎな部分は一切感じず、まるで実際に今このような事が進行しているのだとすら思わせた。こういったリリカルな感情表現とリアリティを感じさせる抑制された演出によって非凡な作品であると感じさせた。

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