大人になるということ、家族であるということ。/映画『シャザム!』

■シャザム! (監督: デヴィッド・F・サンドバーグ 2019年アメリカ映画)

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■DCヒーロー『シャザム!』見参!

アメコミヒーロー映画『シャザム!』、実は最初あまり観る気がしなかった。

オチャラケ気味の予告編があまりにも軽い。軽い。「子供が大人の体のヒーローになって云々」という物語に興味が湧かない。湧かない。当のヒーロー、シャザムのコスチュームがダサい。ダサい。そしてその顔があまりにおマヌケだ。おマヌケだ。しかもバカな話だがオレはこの作品をマーベル作品だと勘違いしてて、「マーベルはこないだ『キャプテン・マーベル』観たから『エンドゲーム』までいらないよう」とまで思っていた。

しかしだ。オレが最も信頼する映画ブロガーの一人、Taiyakiさんの『シャザム!』評を読んで「ううむこりゃ観に行かなきゃあかんかのう」と思ったのだ。同時に、マーベルじゃなくてDCだったということをやっと知り、「DCだったら何かやらかしてくれるんじゃないか」と思えたのだ。

そして劇場で観た『シャザム!』は、予告編の軽さや陳腐に思えるテーマや主人公の見た目のダサおマヌケさといったイメージを、あっという間に吹き飛ばした。物語進行につれ次々と予想を覆す展開に、オレは「あわわあわわ」と驚愕しながら観ていた。これは、傑作じゃないか。王道であると同時に、深いアレゴリーに満ちた作品じゃないか。

■「力が欲しいか?」

『シャザム!』は主人公ビリーがとある大魔術使いによって「選ばれし者」となるお話だ。この辺の流れはTwitterでたまに見かける「力が欲しいか?」ネタを思い出させてちょっと可笑しい。スーパーヒーロー、シャザムに変身することができるようになったビリーは、最初その強大な「力」を自己満足や自己顕示欲の為に使う。「すっげー俺サイコーに強いじゃん!あんなこともこんなこともできんじゃん!みんな俺に注目じゃん!ついでに小銭も稼げてウハウハじゃん!」。スーパーパワーを獲得したビリーはその力を「透明人間になれたら……まず女湯を覗く!」程度の下世話なものにしか使わない。まあだって、中身は子供だからさ。子供が思うようなことしかやらないわけだよ。

しかしそんな彼の前に凶悪な魔法生命の憑依したヴィラン、Dr.シヴァナが現れ、彼のスーパーパワーを奪おうとする。それにより、ビリーの家族が(里子なんでいわゆる疑似家族ではあるが)危機にさらされ、ここでやっと自らの真の使命に気付くのだ。

■大人になるということ

『シャザム!』の物語に見られる「子供が大人の肉体を獲得し、その大人の肉体が持つ力を行使する」というのはどういうことか?

映画やコミックで活躍する多くのスーパーヒーローは殆どが最初から大人だ。スパイダーマンは少年/青年だが、少なくとも「子供」ではなく、いわゆる「若者」で、コスチュームを着けても「若者」のままのスーパーヒーローだ。バットボーイは「子供」だが、これはずっと「子供」のままだ。

実は「子供が大人の肉体を獲得する」というヒーロージャンルがひとつ存在する。それは「ロボットSF作品」だ。日本のロボットSFは、少年/青年が強大な力を持つ鋼鉄の巨大ロボに乗り込み、あるいは操作し、悪を倒すという形でその力を行使する。さてここで「鋼鉄の巨大ロボ」とはなんなのか?それは、「大きく、強い、大人の肉体」というメタファーなのだ。すなわち多くの「ロボットSF作品」は、「子供が大人の肉体を獲得する」という【願望】を視覚化したジャンルである、という事が出来るのだ。

大人になりたい。大人になって、その強さや大きさによって、自分の成したかったことを成したい。そう【願望】するのは、「自分の成したいこと」が、肉体的にも社会的にも非力な子供のままではどうにも無理だからである。

こうして「大人の肉体」を獲得したビリーは、あらゆる「大人だったらできること」を試して悦に入る。確かに人間の大人であってもビームを出したり空を飛んだりは出来ないが、これは「大人というものが持つ万能感」のメタファーであると捉えればいい。

しかし、「大人になる」ということは、単に「大きくて強くなる」だけなのだろうか?その「大きさと強さ」を使って好き放題をすることなのだろうか?そうではないだろう。そしてビリーは「凶悪なヴィラン」と対峙することで、「自分の力は何の為に使えばいいのか」を【認識】する。つまり、「大人であるということは、大人としての【責任】を持ち、それを果たすことでもある」ということだ。

即ち、映画『シャザム!』は、「子供がスーパーヒーローになっちゃう!?」という奇想天外な物語の裏に、子供の「大人になりたい」という【願望】を描き、さらに、「では大人になったら何をしなければいけないのか?」という大人の【責任】【認識】するというテーマを孕んだ物語だったのである。いわゆる成長譚というジャンルの物語は数あるが、多くは内面的成長を描いたものであり、しかし『シャザム!』では肉体的成長に伴う精神的成長を描き、それを空想物語らしく詳らかに視覚化している部分で画期的であるといえるのだ。

■家族の物語

そしてこの『シャザム!』は【家族についての物語】でもある。いや、【家族についての物語】など世に数多溢れ返っており、ただそれだけなら特筆すべきものではない。しかし映画『シャザム!』においては、まず主人公ビリーは孤児であり、彼が里子という形である家族の元に預けられる。しかしその家庭は「元里子」の夫婦が、多くの里子を家族として抱えた家庭だったのである。即ち、この家庭は誰も血が繋がっておらず、さらに孤児ないし後見人の存在しない孤独な存在たちの集まりだったということだ。しかも、夫婦も、預けられた子供たちも、それぞれに人種が違うのである。

つまり『シャザム!』の物語では、従来的な【家族】という定義が揺らぎ消滅し、さらに再構築されているのだ。ここでは「血の繋がり」の持つ気安さや連帯感、その逆の逃れられないしがらみが一切存在しない。ビリーの預けられた家庭は個々に他人でしかなく、彼らを繋ぎとめるものは【信頼】【愛】だけなのである。

しかし「血の繋がった」家族であるならそれは必然として【信頼】と【愛】が存在するのが【自明】だろうか?いわゆる「家族主義」の弊害はこの無批判であらかじめ当為として受け入れなければならない【自明】の部分にある。そして「家族主義」は「排外主義」に容易くシフトする。どこぞの国で国策に謳われる「家族主義」の危うさはここにある。このどこぞの国の国策では「家族とみなされない」立場にあるものは容易く否定の対象になる。

『シャザム!』の物語ではこの【自明】を否定する。そして【信頼】と【愛】のみで再構築された新しい【家族】を提示する。しかし、聞こえはいいけれども、無批判で楽に受け入れることのできる【自明】を手放し、新たな家族のあり方を生み出そうとすることには、実は多くの労苦が存在するのだ。それは【信頼】や【愛】が容易く生み出されるものでは決してないからだ。そして『シャザム!』の物語は、「僕は、僕らは、どうしたら【信頼】と【愛】を手に入れる事が出来るのだろう?」と模索する。その解法にはまたもや奇想天外な展開が待っているのだが、これは観てのお楽しみという事にしよう。

そして、血の繋がらない、人種も性別も年齢も多種多様な人々が、【信頼】と【愛】を生み出そうと尽力することの重要さは、それは実は、【家族】という枠組みだけのことではなく、この社会と、世界についても言える事なのだ。それは決して容易くない、多くの労苦が存在することだけれども、『シャザム!』の物語は、小さな「新たな家族」の在り方を提示することにより、その大きな理想を提言してゆくのだ。


映画『シャザム!』60秒予告【HD】2019年4月19日(金)公開

シャザム! :魔法の守護者(THE NEW 52! ) (DC)

シャザム! :魔法の守護者(THE NEW 52! ) (DC)

 
シュライヒ ジャスティスリーグ シャザム フィギュア 22554
 

熊男デイヴ・バウティスタが大いに暴れまわる”ダイ・ハード”ムービー『ファイナル・スコア』!!

■ファイナル・スコア (監督:スコット・マン 2018年イギリス映画)

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■オレとデイヴ・バウティスタ

最近デイヴ・バウティスタのことが気になって仕方がない。

最初「誰だこいつ」と思ったのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のドラックス役だった。全身刺青の相当ガタイのいいおっさんが「わっはっは」とか笑ってる。今まで見たことがなかったが、強烈な個性を醸し出しているではないか(後で調べたらちょい役で出た映画はあれこれ観ていたようだが、そんなに意識していなかった)。その時これがデイヴ・バウティスタという名のおっさんで、本業はプロレスラーだということを知った。

その次は『ブレードランナー2049』冒頭に登場するレプリカント役だ。『ガーディアンズ~』の時はなんだかひょうきんだったが、この作品では本業を彷彿させる殺気の漲った役柄だった。いいな。こいついいじゃないか。そして今年に入り、『大脱出2』『イップ・マン外伝 マスターZ』と立て続けにバウティスタ出演映画を観てしまう。

「ん?なんだなんだ?」とオレは奇妙な縁を感じた。実はオレは相方から「熊」というあだ名で呼ばれていて、それは熊みたいにでっぷりのっそりした体型をしているからなんだが、同じく熊みたくデカくてのっそりした外見のバウティスタにどこか親近感めいたものを感じた、というのもあった(まあオレの場合ただ単に不摂生だからでっぷりしているのであって、あんな引き締まった格闘家体型じゃないけどな!)。

デイヴ・バウティスタ主演作『ファイナル・スコア』

そしてそんなオレにバウティスタが主役を張った映画が公開されるという情報が入った。オレは悟った。「ああ。これはもう運命なんだ」。こうしてオレは自分がバウティスタにすっかり魅せられていることを認め、その映画を観に行く事に決めたのだ。タイトルは『ファイナル・スコア』、なんだか大味なタイトルだが、バウティスタの主演振りを堪能したくて劇場に足を運んだのだ(一応書いとくがバウティスタの初主演作は『ブッシュウィック-武装都市-』という作品らしいがこれは観ていなかった)。

というわけで『ファイナル・スコア』だ。実はバウティスタを見たくて観に行っただけで、映画の評判はまるで知らないし、そこそこにB級なアクションを見せてくれるのだろうが、内容それ自体はそんなに期待していなかった。ところがだ。

なんだよメチャクチャ面白い映画じゃんかよこれ!?

今作におけるバウティスタの役どころはアメリカ海軍特殊部隊の元軍人ノックス。彼は今ロンドンを訪れていた。戦友を死なせた負い目から、その戦友の愛娘ダニーになにかと世話を焼いてあげていたのだ。この日も二人はフットボール試合を観戦しに満員のスタジアムに出掛けていた。だが、そこでは今、テロリスト集団が恐るべき計略を進行させていたのだった(※”戦友”は”弟”だったかもしれないがオレの記憶が……)。

■さながら『ダイ・ハード』を思わせる展開

いや、何と言ってもですね。なんとこの作品、まるで『ダイ・ハード』1作目そのものなんですよ!?

テロリストによって35000人の観客を入れたまま閉鎖されたフットボール・スタジアム、という密閉空間はさながらナカトミ・ビルを思わせる。その施設内を縦横無尽に駆け巡り、様々な設備を利用して敵と対峙するする様も『ダイ・ハード』的だ。なにより、敵の無線から彼らの名前を把握したりとか、外部にテロ進行を知らせるために使ったある手段とか、もう『ダイ・ハード』そのものなんっすよ。

しかしただそれだけだと『ダイ・ハード』コピー、『ダイ・ハード』フォロワーでしかないんだけど、後半からどんどんアプローチを変え、フットボール・スタジアムの構造を生かしたとんでもないアクションをつるべ打ちに投入し、「ここまで無茶しちゃうんだ!?」と唖然呆然させながら、それが一瞬後狂喜乱舞させるというとことん魅せるアクションを展開してるんですよ!なんつーったってアナタ、フットボール・スタジアムの屋根でバイク・チェイスしてくれたりするんっすよ!?

そして面白いのは、ノックスVSテロリストの血で血を洗う攻防が展開してるにも関わらず、35000人の観衆は一切それを知らないまま、物語の最中は延々フットボール試合が進行して盛り上がっているってことなんだよね!逆にそれは、スタジアムに閉じ込められテロが進行していることを観客たちが知り大パニックに陥ることを防ぐためでもあったんだ。そしてこの呑気に試合を楽しむ大観衆と血みどろの戦いを繰り広げるノックスという対比がまた面白さを醸し出しているんだね。

■「命を懸けて誰かを守るというのはどういうことなのか」

この物語でノックスがテロリストと戦う理由、それはただ正義のためとかではなくて、戦友の娘ダニーをテロリストの手から守るためだった。自分の責任で戦死してしまった戦友の娘まで死なせるわけは行かない!とノックスは決死の覚悟でダニーを守ろうとするんだ。

 しかしダニーは、「誰かのために命を落とした父は愚か者だ、父の死は無意味なものでしかなかった」と頑なになっている子だったんだね……。ノックスはそんなダニーに、「命を懸けて誰かを守るというのはどういうことなのか」を身をもって教えようとする。それは、自ら命を懸けることによって、ダニーの父は愚か者なんかではなく、その死が決して無意味なものであるはずがない、という事を伝えることでもあったんだ。……くうう!泣かせるじゃあーりませんか!

こんなダニーの存在がノックスを不屈の戦士として戦わせているのと同時に、ダニーが敵のターゲットとなってしまうことでノックスの弱点となる、という部分がまた面白い。 主演のバウティスタはあのガタイだしもともとプロレスラーだし、これまで出演していた作品でも殴っても蹴ってもびくともしない鋼鉄男ってな役回りが多かったが、この作品では決してそうじゃなく「弱さ」もまた併せ持つ人間として描かれる。そこが映画『ファイナル・スコア』を単なるランボースタイルのマッチョ映画にしていない部分でもあるんだね。

しかし、こうして文章に起こせば起こすほどこの映画がどんどん好きになっていく自分がいるなあ。どれだけの話題の作品なのかは分からないけど、アクション映画として実にカタい、イイ仕事している作品だから、とりあえずオレを信じて!劇場に足運んでもらいたいと思っちゃいまっす!いやマジ面白いから!

■以下、蛇足。

とまあそんな訳でバウティスタの熊っぷりをたっぷり堪能できた『ファイナル・スコア』だったが、蛇足ながら個人的に注目した部分を幾つか書き足しておこう。

・イギリスのちょいと老朽化しつつあるスタジアムって舞台がなーんかいい味出してるんだよね。屋台なんてもう掘っ立て小屋みたいなんだよ。これがアメリカだとピカピカキラキラしちゃってなんだか趣が欠けるんだ。同様にスタジアムを舞台にしたアメリカ製のアクション映画『サドン・デス』があったけど、イメージが全然違うんだよね。

・ノックスは孤立無援で戦う訳じゃなくて、会場整理係のカーンという名前の青年の助けを借り共に戦う。このカーン君、ガチムチのノックスとは真逆のヒョロヒョロ野郎でこの対比が実に可笑しい。とはいえ一見非力なカーン君が時々イイ仕事っぷりを見せてくれてギャップ萌えさせてくれるんだ。

・映画の冒頭と中盤で使われる音楽が80年代イギリスのロック・バンド、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの『トゥー・トライブス』!いやー大好きだったんだよこの曲!映画館で一人でノリノリになってたよ!こういった曲のセンスもイギリス映画ならではだよなあ。


Frankie Goes To Hollywood - Two Tribes (ZTIS 119)

■『ファイナル・スコア』予告編

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世界の危機はジェラルド・バトラーにまかしとけ!?/映画『ハンターキラー 潜航せよ』

■ハンターキラー 潜航せよ (監督:ドノバン・マーシュ 2018年アメリカ映画)

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潜水艦攻撃事件に端を発する米ソ軍隊の睨み合い!迫りくる第3次世界大戦の危機!このまま人類は戦乱の炎に焼き尽くされるのか!?この事態を収めることのできる者はいないのか!?そこに現れた一人の男!その名は……ジェラルド・バトラー!!

ジェラルド・バトラー!!『300(スリーハンドレッド)』『キング・オブ・エジプト』では古代、『GAMER』では未来世界で戦い、『エンド・オブ・ホワイトハウス』『エンド・オブ・キングダム』ではアメリカ合衆国大統領をたった一人で守り抜き、『ジオストーム』では衛星軌道上から地球滅亡の危機を救った男!そんなジェラルド・バトラーの今度の戦場は暗く深い海の中だ!その映画のタイトルは、『ハンターキラー 潜航せよ』!!

ジェラルド・バトラーさんの今回の役回りは攻撃型原潜「ハンターキラー」の艦長ジョー・グラス。彼はロシア近海で攻撃され破壊された米ソそれぞれの原潜を調査中だった。その最中、ロシアでは軍事クーデターが勃発、ロシア大統領が拘束される!そしてジョー・グラスに命令が下された!「ロシア大統領を救出せよ!」しかし、海中ですら鉄壁の防衛を誇るロシア海域にハンターキラーは潜入することができるのか!?潜航せよ!深く潜航せよ!行け、行くんだハンターキラー!そしてジェラルド・バトラー!!!

緊張に満ちた原子力潜水艦の戦いを描くミリタリー・アクション・サスペンス『ハンターキラー 潜航せよ』であります。あ、さっきタイトル言いましたか。潜水艦を舞台とした軍事サスペンスとしては『U・ボート』や『レッド・オクトーバーを追え!』なんて映画が有名ですが、共通するのは一切の視界が無く、ソナーだけで敵や周囲の海域を探知しなければいけないこと、潜水艦という狭苦しい密閉空間の中でサスペンスが進行し続けるということ、さらにそれが暗く冷たく高圧の海中であり、ほんの少しの損傷ですら容易く危機に繋がること、などなどが挙げられるでしょうか。しかし逆に、見えない海中という利点を生かし、敵に隠密に近づき強力な武器で一撃必殺の攻撃を仕掛けられる、という潜水艦海戦独特の醍醐味もあるんですね。

さらーに!今作ではハンターキラーの海中作戦だけではなく、現地にHALO降下した4人の精鋭特殊部隊による陸上作戦も展開されるんですな!これにより地上・海中の二つの隠密作戦が展開されることとなり、サスペンスは2倍!美味しさは10倍!となるわけなんですよ!緊張に継ぐ緊張の中じわじわと敵の懐に侵入してゆく二つの作戦行動が終局で交わり、これまでの緊張を一気に弾き飛ばすような熾烈な戦闘が勃発する時の興奮といったらあーりゃしません!即ち決して隠密作戦だけで終始した作品じゃないってことなんですよ。ここで登場するアレやコレやの武器兵器は軍事オタクの方なら垂涎モノでしょうし、あんまりそうじゃないオレですら「ヤベー帰ったら『CoD』やらなきゃ……」と思っちゃったぐらいでアリマス!

こういった物語の中でジェラルド・バトラーさんは、どこまでも熱く濃く艦長としての任務を遂行し、 それがどれほど上層部の逆燐に触れようとも、あくまで己の勘と信念を信じ、軍務という枠組みから離れて、人として漢(おとこ)としてやるべきこと、やらねばならないことを押し通し、徹底的に「漢光り」するキャラクターを演じているのですよ(あ、「漢光り」って今オレが適当に考えた造語です)!そしてそれによって描かれる国境を超えた熱く濃いい漢の友情の炸裂に、観る者皆胸のときめきを押さえる事が出来なくなることでありましょう!もはやジェラルド・バトラーさんの映画に間違いはない!それは「俺を信じて生きろ」と言っているか如きものなのであります!確かにこの物語は「ふつーありえねーだろ」の連続ではありますが、「ありえねー」話だからこそフィクションは面白いのだし、その馬鹿馬鹿しさも含めてとことん楽しめる、映画『ハンターキラー 潜航せよ』 はそんな映画なんざますのよ!

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ハンターキラー 潜航せよ〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ハンターキラー 潜航せよ〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

 
ハンターキラー 潜航せよ〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

ハンターキラー 潜航せよ〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

 
ハンターキラー 潜航せよ

ハンターキラー 潜航せよ

 

文化大革命と中越戦争の狭間の青春/映画『芳華 Youth』

■芳華 Youth (監督:フォン・シャオガン 2017年中国映画)

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■”文芸工作団”たちの青春

中国映画『芳華 Youth』は、1970年代の激動の中国を舞台に、歌や踊りで兵士たちを慰問する文芸工作団(文工団)と呼ばれる部隊に所属した男女の青春を描く物語だ。監督は『戦場のレクイエム』『唐山大地震』のフォン・シャオガン、主演は新進女優ミャオ ・ミャオ 、『空海 KU-KAI 美しき王妃の謎』のホアン・シュアン。原作・脚本に『シュウシュウの季節』のゲリン・ヤン。

《物語》1976年、文化大革命末期の中国。地方出身のホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)は憧れの歌劇団・文工団に入団するが、垢抜けない彼女は仲間達のイジメの対象になってしまう。そんな彼女の心の支えとなったのは団の模範兵、リウ・フォン(ホアン・シュアン)だけだった。そして毛沢東の死後、二人は別々の部隊に配属される。ホーは衛生兵として野戦病院へ、リウは兵士として中越戦争中のベトナム国境最前線へ。熾烈極まるその戦争は二人の運命を大きく変えてしまうこととなる。 

文化大革命中越戦争

映画『芳華 Youth』における「激動の時代」とは、1966年から1976年まで続いた文化大革命であり、その後1979年に起こった中越戦争が起こった時代である。文革は数100万人とも1000万人とも言われる犠牲者を出した非人道的な革命政策であり、中越戦争は大量虐殺で知られるカンボジアポル・ポト政権に肩入れした形で行われた中国対ベトナムの戦争であった。さらにこの中越戦争は中国側に壊滅的な打撃を与えたまま終了した。

つまり映画『芳華 Youth』における文工団の慰問とは、血塗られた文革の「愛国プロパガンダ」を行うことであり、主人公ホーとリウがその後送られた戦地は、中国の起こした「誤った戦争」の最前線であった。一見若者たちの瑞々しい愛と青春のドラマを描いているように見えるこの『芳華 Youth』は、裏を返せば無慈悲なる中国共産党の、その兵卒たちの日常を描いたものだということも出来るのだ。とはいえ、彼らもまた時代の犠牲者なのではあるが。

文工団のメンバーたちによる歌とダンス、そして伴奏は京劇に現代的味付けを加えたものだが、映画で観ることの出来るそれは、訓練と鍛錬の賜物による素晴らしいパフォーマンスであり、美しく目を奪われるものではある。華奢な体躯の俳優たちが軽やかに歌い踊るその情景はこの物語のハイライトの一つだろう。しかしその本質は「愛国プロパガンダ」であり、それを意識して見るならば途端に禍々しく硬直的なものにしか思えなくなってしまう。この作品での文工団の歌とダンスはどれも現代の北朝鮮を思わせる実に全体主義的な内容のものばかりだ。しかし、この作品は「愛国プロパガンダ」を華々しく謳う作品では決してない。

■「語られていること」と「語られていないこと」

この作品は「語られていること」よりもむしろ「語られていないこと」に意味が隠された作品なのではないかと思えた。 物語は当時の政治的状況や戦争の有様を批評も批判も無くそのまま描く。その中で登場人物たちは翻弄されてゆくが、しかしそれは政治的状況と切り離されあくまで「個人の問題」として描かれてゆく事になる。そこには「そういう時代なのだからそう生きていくだけでしかなかった」ということは描かれても「そう生きざるを得なかった政治的状況」への批判は無い。当然それは現在の中国共産党への忖度ということなのだが、作品の中の「描くべき部分で描かれないことの違和感」が逆に批評となっている、という微妙に捻じ曲がった製作態度が見え隠れするのだ。

その「語られていないこと」とは当然文革中越戦争の在り方への批判であり、党幹部子息への優遇や傷痍軍人に対する劣悪な補償の在り方への批判であったりする。物語では「そういうものだった」としてさらりと流されるが、当時を知る中国人が見るならば相当に思うことがあるのではないのか、と想像してしまう。映画はあくまで激動の時代を生きた中国人民のノスタルジーの形を取るが、あえて無批判に提示された物語と映像の背景にあるのはあの時代を生きてしまったことの暗い刻印なのではないかとオレは邪推してしまうのだ。

例えば劇中文工団のメンバーが当時流行していたテレサ・テンの曲を初めて聴きその歌唱法に陶然となる、というエピソードがある。劇中では単にロマンチックな挿話のひとつとして描かれるだけなのだが、実はテレサ・テンは台湾人歌手であり、当時中国では禁止されていた音楽だった。登場人物たちがテレサ・テンの歌に陶然となったのは、それは歌の美しさや技巧だけではなく、その新しさであり、世界に開かれた自由さの気風がそこにあったからではないか。そして文工団としての彼らが演じる古色蒼然とした京劇風の歌と踊りの窮屈さと退屈さを感じたからではないのか。これらは決して言及されないが、このエピソードの背後にあるのはそういったことではないのだろうか。

■うっすらと滲み出る「政治的忖度」

映画全体の流れとしてみると、多くのエピソードを掘り下げることなく端折ってしまったダイジェスト版のような物語のように思えてしまった。これは最初主人公がホーとリウの物語のように思わせながら、次第に他の登場人物個々のエピソードを、それぞれの独白を交えながら描かれだすためにとっちらかった印象を与えてしまっているからだ。そもそも文化大革命中越戦争という大きな時代の流れと30年あまりの歳月を群像劇的に描こうとしながら、135分の上映時間にまとめなければならないことに無理があったように感じる。しかしこれすらも政治的忖度があったばかりに相当のカットがあったせいだからなのではないかと思えてしまう。

そのひとつとして考えられるのが、「戦時において英雄的な行動を取った登場人物が戦闘ストレス反応を起こし精神に変調をきたす」というシークエンスを、たった一個の説明だけで終わらせているという部分だ。このシークエンスは物語全体に関わる重要なポイントであるにもかかわらず、素っ気無いほど単純に素通りしてしまい、映画を観ている最中呆気に取られたぐらいだ。実はこのシーン、「英雄が精神に変調をきたすとは何事か」と共産党から物言いが入り、一時上映が延期されることになった部分なのらしい。

こういった部分で、どことなく煮え切らない、もやもやとしたものを残す部分のある映画ではあるが、しかしこれをして凡作失敗作とも断言できないのだ。まず文革時の文工団のドラマ、という切り口が斬新であり、中越戦争の悲惨を正面から描いている部分で注目でき(ここにおける戦争スペクタクルの描写は半端ない)、なにより、文工団メンバーを演じる中国俳優たちの瑞々しさが素晴らしいのである。文工団を演じる俳優たちの容姿端麗さは、一瞬「これは中国のアイドル映画なのか?」と思えてしまったぐらいだ。確かに惜しい部分はあるにせよ、こういった部分で興味の尽きない、奇妙に心に残る作品であることも確かなのだ。

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橋本治の『いつまでも若いと思うなよ』を読んでオレも老人になることについて考えた

■いつもまでも若いと思うなよ/橋本治

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

若さにしがみつき、老いはいつも他人事。どうして日本人は年を取るのが下手になったのだろうか――。バブル時の借金にあえぎ、過労で倒れて入院、数万人に 一人の難病患者となった作家が、自らの「貧・病・老」を赤裸々に綴りながら、「老い」に馴れるためのヒントを伝授する。「楽な人生を送れば長生きする」「新しいことは知らなくて当然」「貧乏でも孤独でもいい」など、読めば肩の力が抜ける、老若男女のための年寄り入門。

橋本治の『いつまでも若いと思うなよ』を読んだ

橋本さんが亡くなって「この機会にまだ未読の橋本さんの本なにか読んでみるべか」と思い、アマゾンで何冊かまとめ買いしたのである。この『いつまでも若いと思うなよ』はその中の一冊で、オレももう若くないから丁度いいかも、と思ったのだ。

紹介文に「どうして日本人は年を取るのが下手になったのだろうか」などと主語の大きな惹句が書かれているが、まあそういった側面も無いことも無いのだが、基本は90年代以降の橋本さんの自叙伝的な内容だと思ったほうがいいかもしれない。

自らが老いてゆく過程とそのとき思ったことを書き記すことで、まだまだ自分を若いと思い込みながらも宿命的に老いざるをえない若い世代になにがしか参考になればと思って書かれたのがこの本なのだろう。だから何かの論旨が述べられてるようなコーショーなものを期待しちゃダメで、むしろ橋本ファンがしみじみと読むような内容のような気がする。

■90年代以降の橋本さんの自叙伝的内容

「90年代以降の橋本さんの自叙伝的」と書いたが、これはまず橋本さんがバブル期にうっかり1億6千万だかのマンション物件を買ってしまったことから始まる。これの月々の払いが150万円X30年、50万X4年ということらしく、まあ橋本さんが印税でどんだけ稼いでたのかは知らないが、やはり馬車馬の如く執筆活動を続けなければならなくなったのらしい。

で、多忙極まりないまま60歳にもなった頃に身体の不調で病院に行ったら今度は「数万人に一人の難病」であることが発覚。過労もあったのか他にもあちこちに併発症が出て、どう考えたって身体はガタガタ。入院は数ヶ月に及んだというからこれは普通に重篤な症状だろう。でも借金返さなきゃならないから指先が痺れてるのに病室で万年筆握って原稿用紙を埋めてたという。結構昔から橋本さんの本はよく読んでいたが、新刊の空白期間があって、それがこの時期だったのだろうけれど、オレは全然知らなかった。

原稿自体は2014年に執筆連載されたもので、それに終章の書下ろしを加えて2015年に刊行されたのがこの本ということになる。その4年後、2019年に橋本さんは亡くなるわけだが、この本を読むと、どう考えたって橋本さんは過労と借金苦で亡くなったとしか思えないんだよな。いみじくもその終章のタイトルは「ちょっとだけ『死』を考える」だった。

とはいえブラック企業のサラリーマンでもあるまいし、病気でも仕事を止めなかったのは、借金があるからというのもあるが同時にそれだけ執筆意欲もあった、頭に書くべきことが溢れてた、ということでもあったんだろう。仕事、好きだったんだよ。書くことが好きだったんだ。「過労と借金苦」とは書いたけど、同時に「執筆家という職業に殉じた」ということもできるかもしれないんだよね。オレは執筆家でもなんでもないからそれの良し悪しはわかんないけどさ。

■そしてオレももはや若くないのであった

そんなオレといえば、現在56歳で、今年は57になる。いやー、もうすっかりジジイですよ。ジジイだし、サラリーマン的に定年間近ということであり、さらに定年後の自分の人生を考えなきゃならないということでもある。

オレは以前から「若く見える」なんて言われててさ、割とそれが嬉しかったりしたもんだが、50過ぎてから「いやちょっと待てよ、調子に乗って若ぶるのは危険だぞ」と思い始めるようになった。「自分が若い」と思うことで、実際はどんどん年を取っているにもかかわらず、「若い連中と同じように仕事が出来て生活も送れる」なんて思い込むのは危ないんじゃないか、と思えてきたんだよ。

それは「まだ若い」から「若いヤツと同じような無理が出来る」と思い込んじゃうことの危険さだ。実際、身体のあちこちにガタがきているのは自覚していたけど、「いやまだまだイケる」と思うのは大間違いなんだ。ガタがきてるんだから「若いヤツと同じ」な訳は無いんだよ。そしてそれは仕事だけではなく、生活習慣のことでもある。「生活習慣病」ってあるじゃないですか。あれって、「自分は若いときと一緒」と思って無理や負担を身体に課すからなるもんじゃないかと思うんですよ。

それに気付いてからオレは職場ではなるべく年寄りアピールしはじめるようになった。それに実際、疲れやすくなってきててて、以前より無理が利かないし、残業が続くと相当ヘタるようになっていた。だから現実の姿を示しただけなんだが、まあ職場の皆も理解してくれているように思える。大事なのは今の健康で、今の健康が無いと将来も判んないじゃないか。

■ちょっと社会の話になっちゃうのだった

それとさ。年取った人間は、基本、どんどん無能になってゆくよ。これはどんな仕事の出来る人間でも間違いなくいつか到達することだ。ボケとかそういうことじゃなく頭も働かなくなってくるし、新しい案件には容易に適応できないし、当然スタミナはジリ貧だし、併せて性格はどんどん頑迷になってくし、だから「シルバー世代を生かしてバリバリ働いてもらおう!」なんて幻想というか妄想というか戯言でしかないと思ってる。働かせても、たいしたことできないんだよ。

で、ちょっと社会の話になっちゃうけど、そういった「どうせたいしたことのできない年寄り」がきちんと引退して生活できる世の中のほうが正しいとどう考えても思っちゃうんだ。「働けないから社会にはいらない人間」ってェのは、多分に【会社経営的】な話でさ、確かに「会社」には仕事の出来ない人間は要らないだろうけど、「社会」は「会社」じゃないんだよ。そういった「働けない人」をどう人間らしく生活させるのかが「社会」の在り方じゃないか。それは年寄りだけじゃなく、低所得者障碍者も一緒だ。こういった部分でケアできる社会のほうが全然健全じゃないかと思うんだけどな。

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)

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