ヴァーチャル世界を描く旧西ドイツのSF映画作品『あやつり糸の世界』

■あやつり糸の世界 (監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 1973年西ドイツ映画

f:id:globalhead:20190224183655j:plain

■『あやつり糸の世界』

「1973年旧西ドイツ製作、『マトリックス』や『インセプション』に先駆けたヴァーチャル多層世界を描くSF映画」という触れ込みの作品『あやつり糸の世界』を観た。

監督はニュージャーマンシネマの鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー。とかなんとかコピペしつつ、オレは「ニュージャーマンシネマ」とは何かまるで知らないし、ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督作品もこれまで一作も観たことがなく、この監督がどう鬼才なのかも分かってない。ただ「ちょっとカルトっぽいヨーロッパの古いSF映画である」というただ一点が気になって観てみようと思ったのだ。

物語の舞台は近未来のドイツ。そこにある「未来予測研究所」なる機関がサイバースペースに現実とよく似た仮想現実を作り、そこに住む1万人の仮想人格の動向を解析することで政治経済の未来を予測しようとしていた。しかし開発者であり研究主任でもあるフォルマーが怪死、主人公シュティラーはその後任となるが、度重なる奇妙な出来事に遭遇することになる。真相を追うシュティラーは、もう一つ高次元に本当の現実世界があり、自分の存在するこの世界もまた仮想現実であることを知ってしまうのだ。

■世界は虚構か現実か

「この世界は現実ではなく虚構ではないのか」という感覚はだれしも抱いたことがあるのではないだろうか。フィクション世界でも前述の『マトリックス』『インセプション』をはじめさまざまな作品の題材として取り上げられているが、この『あやつり糸の世界』では1973年に既にコンピューターによるヴァーチャル・リアリティ世界を取り上げた映画作品である部分で画期的だと言えるかもしれない。

この映画にはダニエル・F・ガロイのSF小説『模造世界』という原作があり、発表が1964年とこれも古い。同時代のSF作家にあのフィリップ・K・ディックがおり、ディックもまた「この世界は虚構か現実か」という作品を多く物していた。電脳仮想世界というと現代的だが、根底にあるのは認識論であったり心理学や精神病理学的な側面だろう。世界にリアリティを感じることの出来ないという感覚は慢性的になると離人症や現実感消失障害という精神疾患に繋がる。今目の前にあるものは現実ではない。では「本当の現実」はどこにあるのだろう?

■分断された世界

映画という形で紹介されているが、この『あやつり糸の世界』は実際はTV番組として企画され放映された作品である。作品は2部構成となっており、それぞれを足すと上映時間は212分、優に3時間半あまりある作品となっている。第1部はミステリータッチで進行し、第2部は逃走劇として展開しメリハリがついている。ただやはり3時間半は長い。構成は密であり無駄を感じさせないが、単なるSFサスペンスとして観ようとすると冗漫で理屈っぽく、娯楽性の乏しい退屈な作品に思えてしまう。むしろこれはひとつの不条理劇として観るべきだろう。

1973年、東西に分断されたドイツという国で製作された作品だという事を考えると、これは東西ドイツという政治的不条理を描いたものと見る事もできる。多重世界というテーマはまさに東西に分断されたドイツであるし、現実世界と仮想世界とでアイデンティティを引き裂かれる主人公の姿はそのまま東西ドイツ国民のアイデンティティに繋がるだろう。人間消失、さらにその人間のデータすら消失する映画世界の内容は秘匿と情報改竄と疑心暗鬼の横行する当時の政治的暗部をうかがわせはしないか。

こういったテーマの在り方とは別に目を引くのは鏡やガラスを利用した奇妙な撮影と美術の在り方であったり、必要以上に妖艶な女優であったり(関係ないが主演女優の一人バーバラ・ヴァレンテインはかつてフレディー・マーキュリーの恋人であったという)、時折噎せ返るように噴出する頽廃の匂いだったりする。室内プールに立ち尽くす人々はアラン・レネ監督作品『去年マリエンバートで』を思い起こさせ、リリー・マルレーンが歌われるステージ・シーンはアンニュイさ満ちている。白塗りの男たちが時折現れ無表情に消えてゆく幾つかのシーンも異様でありデカダンだ。これら頽廃性は物語とその描く世界の閉塞感を一層引き立てることになるのだ。

■『13F』

f:id:globalhead:20190227202642p:plain

実は『あやつり糸の世界』と同じ『模造世界』を原作にしたSF映画が存在している。それはローランド・エメリッヒ製作、ジョセフ・ラスナック監督による1999年アメリカ公開作品『13F』だ。

物語のアウトラインは同様だが、仮想現実世界として1937年の”古き善き”ロサンゼルスを舞台としており、大掛かりなセットを使用したこの仮想のロサンゼルスがひとつの見所だろう。物語は殺人犯に疑われた主人公の真相解明のためのミステリー仕立てとなっており、アクションやロマンスも盛り込まれた娯楽作品として仕上がっている。

例えば週末ビール片手に観るのであれば『あやつり糸の世界』よりも『13F』のほうをお勧めするし、一般に受け入れやすい作品という事もできるだろう。ただし今観るならやはり多少地味で古臭いし、B級臭も否めない。ハッピーエンドのラストも予定調和的だ。そこそこ楽しめはすれ、次の日には忘れているような作品ではある。

こうして二つの作品を並べてみると、お気軽な娯楽作に徹した『13F』と比べ、『あやつり糸の世界』はどこか妙に引っ掛かり脳裏に澱の様に残ってしまう癖の強さがある。これはファスビンダーという監督の監督主義的な作品だからなのだろうし、不条理劇的な側面のせいでもあるのだろう。映画『あやつり糸の世界』は万人に勧めたい作品とは思わないが、これもSF映画ファンであれば頭の隅にちょっとだけ入れておいてもいい作品かも知れない。


『あやつり糸の世界』予告

あやつり糸の世界 Blu-ray 初回限定生産版

あやつり糸の世界 Blu-ray 初回限定生産版

 
13F [Blu-ray]

13F [Blu-ray]

 
模造世界 (創元SF文庫)

模造世界 (創元SF文庫)

 

 

粛清!粛清!また粛清!/映画『スターリンの葬送狂騒曲』

スターリンの葬送狂騒曲 (監督アーマンド・イアヌッチ 2017年イギリス・フランス映画)

f:id:globalhead:20190401090500j:plain

いやー【粛清】、コワイ言葉っすよねー。専制的な独裁国家がたてつく連中を芝刈り機で芝刈り取るみたいに右から左へ大量に逮捕!監禁!暴行!殺戮!しちゃうってェんですからね。歴史上幾多の粛清が行われ幾多の惨たらしい行状が成され幾多の命が奪われたのか、考えただけで具合が悪くなってきそうです。この文章書く前にちょいと粛清の歴史を調べようとWikipedia先生のページに行ったんですが、どうにも膨大過ぎてその血生臭さに怖気立ち途中で見るの止めたぐらいです。

そして!粛清と言えばこの人、その悪逆非道さで人類史に名を残すヨシフ・スターリンさんでありましょう。なんたってアナタ、この人のやった粛清はとんでもなく大規模過ぎて単なる粛清じゃなく【大粛清】と特別に名前が付いているぐらいなんですよ。スターリンさんと配下の秘密警察による大粛清で殺害された人の数は100万人とも言われ、さらに強制収容所や農業政策の失敗で死亡した人が2000万人、第2次大戦の戦死者まで入れたらスターリン体制化の死者は1億1000万人になっちゃうなんて計算もあるらしいですね。これが日本だったら人口が空っぽになっちゃう数ですが、実際当時のソ連の人口統計を見ても気持ちの悪いくらい人間の数が減っているのだそうです。

そしてこんな【恐怖の大魔王】みたいなスターリンさんが死んじゃった!?おいおいどうしたらいいんだ!?と側近連中が上を下への大騒ぎを演じちゃう、という史実をもとにしたブラック・コメディ作品がこの『スターリンの葬送狂騒曲』なんですね。主演はスティーブ・ブシェミ、サイモン・ラッセル・ビール、オルガ・キュリレンコ、ジェフリー・タンバー。この作品、あまりにブラック過ぎてお膝元であるロシアでは上映禁止になったという話があるぐらいですが、製作はイギリスとフランスになっています。原作は ファビアン・ニュリとティエリ・ロビンによる同タイトルのグラフィック・ノベル作品。

お話はまず今日も粛清し放題でルンルン状態のスターリンさんと逮捕監禁拷問虐殺をスキップ踏みながらやってのける(まあ映画ではスキップしてませんが)秘密警察の皆さん、そしてそのスターリンに怯え毎日を戦々恐々として過ごす国民たちとが描かれます。しかーし!そんなある日スターリンさんは自室で脳卒中を起こしぶっ倒れちゃうんですね!

部屋の前で警備していた兵士たちは「なんか今(ぶっ倒れたような)変な音しなかった?」と気付きますがスターリンさんの邪魔しちゃあ処刑されるってんで部屋を見もしません。翌朝メイドのおばさんが小便垂らして昏睡してるスターリンを見つけソビエト連邦共産党の幹部たちが集まってきますが、「とりあえず医者呼ばなきゃ」と思うものの、有能な医者は全員粛清しちゃってるから医者を呼ぶことができないんです(これ、ネタじゃなくて実話)!そしてあれよあれよという間にスターリンさんは死んじゃいます。

スターリンの死の床に集まった幹部の名はフルシチョフスティーブ・ブシェミ)、ベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)、マレンコフ(ジェフリー・タンバー)、モロトフマイケル・ペイリン)、ミコヤン(ポール・ホワイトハウス)。彼らは絶対的独裁者の死を悲しむのと同時に、これからの政権争いを胸中で画策しながら、お互い虚々実々の駆け引きを開始するんですよ。

一応主演となるのは後にソ連の政権を握ることになるフルシチョフ党書記を演じるスティーブ・ブシェミなんですが、あの情けない骸骨顔にさらにつるっぱげメイクをして登場してくるので見た目のセコさもひとしおです。そして主人公とは言えなにしろフルシチョフ、政敵を蹴落とそうとあの手この手のエグイ手段を使って事態を掌握しようとする食えないヤツなんです。

その政敵というのが第一副首相ベリヤ。このベリヤさん、スターリン大粛清の主要な執行者だった人なんですね!テキパキと大量殺戮の陣頭指揮を執っていた忠誠心篤いベリヤさんですが、スターリンが死んじゃった途端に「粛清止めよう」と脱スターリン化を図るんですから歴史とか人間とかホント不思議なものです。一応スターリン死後の最高責任者となったのはマレンコフ首相なんですが、こいつがハリボテみたいな木偶の坊でいつも右往左往ばかりしており、実質的にはベリヤさんが最高責任者として動いていたんですね。

あとまあ他の幹部もあれこれいますが、どれも「勝ち馬に乗ろう」と虎視眈々としている「洞ヶ峠」な日和見主義者ばかり、フルシチョフが優勢と見るとわっとベリヤを裏切り糾弾に走る様は理想も信念も無く、ただ保身と既得権益をひたすら手放すまいとするだけの愚鈍な政治家ぶりをみせてくれます。

こういったスターリン政権時代のおぞましさ、その死後の幹部たちの醜い政権争いの様子を、スターリンの葬儀を中心としてスラップスティックに描いたのがこの『スターリンの葬送狂騒曲』となるわけです。リアルに描こうとするなら相当血生臭く陰鬱極まりないものになるだろう所を、イギリス人監督がイギリスらしいブラックさとクレイジーさで描いた所に面白さがありましたね。同じく実在の独裁者を主人公に据えた『帰って来たヒトラー』という映画もこれまたブラックでオレはたいそう好きなんですが、『帰って来たヒトラー』が歪んだヒトラーの目から歪んだ現実を炙り出していたように、この『スターリン~』は旧ソ連の醜い政権争いを通じて現代の政治世界に跋扈する魑魅魍魎たちの愚劣ぶりを嘲笑おうとする作品の様に思えました。


『スターリンの葬送狂騒曲』予告編

スターリンの葬送狂騒曲 [Blu-ray]

スターリンの葬送狂騒曲 [Blu-ray]

 
スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

 

 

 

4月1日、ペット・ショップ・ボーイズ武道館公演。

f:id:globalhead:20190403201348j:plain

このあいだの4月1日はエレクトロ・ポップ・デュオ、ペット・ショップ・ボーイズ(PSB)の武道館公演を観に行った。会社帰りに行くのもかったるかったので、この日は有給を取り、余裕を持って臨むことにした。

実はオレはPSBデビュー時からのファンである。最初のアルバム『Please』が1985年発表という事だから、かれこれ30年以上ファンをやっていることになる。やはり大ヒットしたシングル『West End Girls』にやられた口だ。もともとシンセ・ポップやシンセ・ロックは好きだったので、この曲にもすぐはまった。

ただ、同工のバンドとPSBが微妙に違っていたのは、PSBの奏でるメロディが、非常に美しく、同時にメランコリックな翳りに満ちていたこと、そしてそのビートが、刹那的で、官能に溢れていたことだ。ああ、これはゲイの人の演奏する音楽なんだな、となんとなくピンときた。

PSBは、エレクトロ・ポップと呼ばれることが多いけれども、音と歌詞とイメージコントロールにおけるその批評性は、まぎれもなくロックの態度だった。軽くて甘く、明るくカラフルなだけのポップ・ミュージックでは全く無かった。そしてこれはPSBのファンになった決定的要素だけれども、実はPSBは、表面的なイメージとは裏腹に、暗くシリアスなものを抱えた音を出していた。そう、PSBは、オレにとって、【鬱音楽】だったのである。

当時20代そこそこだったオレは、その年代にありがちな、常に鬱々とした気分を抱えた人間だった。失望感やら孤独感やら空虚感やら、まあそんなことだ。あの時心療科に行ってたら、普通に鬱病診断してくれただろう。あの頃のそんなオレの気分に、ぴったりと寄り添うようにフィットしたのがPSBの音楽だった。あの頃、PSBの音楽を携帯音楽プレーヤーに入れていつも聴きながら街を歩いていた。ジグジグと痛む憂鬱な気分に彼らのメロディはよく沁みて、そのビートは痛みを忘れさせてくれた。そんな毎日を10年以上続けていた。まあ、やっぱり、いろいろ病んでいたんだと思う。

PSBが真に先鋭的なクリエティビティを発揮していたのはアルバム『Introspective』(1988)前後の頃までだろうと思う。デビュー・シングル『West End Girls』において「ウェストエンドはこの世の果て」と呪詛にも似た歌詞を吐いたPSBはアルバム『Introspective』ラスト曲において「It's Alright」と祈るように歌い上げる。ここでPSBはミュージック・アーチストとしての役割を一巡し、その才能を見事に昇華してみせたのだ。続く『Behaviour』(1990)はその余韻で作られた穏やかなアルバムで、次の『Very』(1993)はそれまで情念の底に溜まっていた毒を全て吐き出すためのアルバムだった。その後もPSBはアルバムを出し続けヒットシングルも連発したが、かつての自分たちの鋳型で量産品を作っているかのように鮮烈さと精度には欠けていた。だからオレも、ニューアルバムが出たらとりあえず購入してはいたものの、以前の様な求心力は感じられず、いわば「ファンの惰性」として消費していただけだった。

そんな惰性のファンとして、今回のPSB来日は、実の所とりたてて盛り上がる、といったものでもなかった。音楽的興味は別ジャンルに移っていたし、PSBのアルバムや曲を日頃聴くことも無くなっていた。ただ、あれだよ、懐かしかったんだよ。昔付き合っていた女の子が今どうしているのかな、とふと思い出しちゃうようなものだ。それとさ。オレはかつての病んでいた日々に、PSBと今再び対峙することで、引導を渡したかったんだよ。

というわけでやっとコンサートの話だ。4月1日、日本武道館、18時開場、19時開演。「The Super Tour」と名付けられたこのコンサートは、2016年から25か国90ステージを廻ってきたツアーの大団円となるものなのらしい。オレは開場と同時に入場し、武道館1階の硬くて狭い席で持っていた本を読みながら開演を待っていた。会場は満席。いつもPSBのファンってどういう人たちなんだろうなあ?と思っていたのだけれど、会場に訪れたのは、どれもごく普通な感じの人ばかりだった。変に尖がったりファッショナブルだったりした人はいないということだ。年齢は高めの人が多かったが、若い人も来ていた。会社帰りらしいスーツ姿の男性サラリーマンが一人で来ている姿を結構見かけた。

19時にきちんと開演。細かい内容は書かないけれど、ヒット曲をきっちり網羅しコンサートのツボをきちんとついたそつのない内容だった。セットリストなんかはこちらで参照して欲しい。プロジェクターやレーザーを使ったシンプルな演出ながら、幻想的な映像の美しさで魅了させるコンサートだった。曲はほとんどダンス仕様で、武道館がクラブと化していたよ。『West End Girls』や『Domino Dancing』では会場のみんなで合唱した。『Home & Dry』で来場者みんながスマホライトをペンライト代わりにして振っていた時なんかは、武道館がまるで星の海になったようにすら見えた。これは本当に凄い光景だったよ。楽しかったし、踊れたし、オレも一緒に歌ったよ。56歳になったって外タレのコンサートで歌って踊るんだよ。「イェーイ!」なんて叫んじゃうんだよ。なんかざまあみろって感じだよ。何にざまあみろだか分かんないけど。

アンコールは3曲、1回やってきっちり終わり。こういう所はクールでドライな連中なんだよPSBは。充実したコンサートだったが、同時に破綻の無い、職人の伝統工芸を見せられているようなコンサートでもあった。ロック・コンサートみたいに熱狂したりはっちゃけたりしないんだ。やつらも年だし、枯れてるんだよ。遅くまで働くと疲れるんだよ。

病んでいた日々に引導を渡すつもりで来たこのコンサートでオレは何を見たのだろう。それは、ああ、あれはみんな昔の話だったんだな、っていうことだった。もうみんな終わったことだ。あの時のオレはもういなくて、今のまったり草臥れたオレがいるだけだ。PSBの連中と同じようにオレも年を取ったんだ。そろそろ体もキツイし頭も鈍ってきたが、でも昔みたいに気持ちが辛くなることはない。そしてまだ歌うことも踊ることもできる。だから、それでいいじゃないか。

コンサートが終わって武道館を出ると外は雨。でも心配していたほど寒くない。だってもう世間は4月だ。それにたっぷり音楽を聴いた熱量がまだ身体に残っている。しばらくコンサートなんてものには行ってなかったが、久しぶりのこの体験はなかなか換え難いものだった。ただやはり、混雑と移動は疲れるけどな!そんなPSBコンサートであった。

(コンサート会場はスマホ撮影OKだったので撮った写真)

f:id:globalhead:20190404234619j:plain

f:id:globalhead:20190404234634j:plain

f:id:globalhead:20190404234647j:plain

(武道館に行く道すがら撮った皇居のお堀に咲く桜)

f:id:globalhead:20190405002939j:plain

Inner Sanctum (Blu-Ray + DVD + 2 CDs)

Inner Sanctum (Blu-Ray + DVD + 2 CDs)

 

つれづれゲーム日記:『ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション』の巻

■ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション (PS4/Nintendo Switch)

f:id:globalhead:20190217091610j:plain

ハクスラがしてえな」オレは煙草の煙を天井に向けて吐き出しながら、ハードボイルドにそう呟いたのである。

ハクスラ。それはオニオンスライスをオニスラと呼ぶようにハクサイをスライスした食材の意である。というのは真っ赤な嘘で、ハックアンドスラッシュ(Hack and Slash)の略称であり、まあザックリ言うなら「モンスターを殺しまくってアイテムたっぷり戴き自分をとことん強化して悦に入るゲーム」ということだ。「RPGとどう違うの?」と思われるかもしれないがハクスラは物語をロールプレイングすることよりもひたすら戦闘しまくることに重点を置いているのである。

という訳で今回紹介するゲームのタイトルは『ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション』。ハクスラゲームである。「ヴィクター・ヴラン」だけだと「電気ブラン」みたいだがこれに「オーバーキルエディション」と付けられると途端に燃えてしまうではないか。なんたって「大量殺戮」で「やり過ぎ」だってぇんだぜ。

もう一つ、このゲームをプレイしてみようと思ったのはDLCダウンロードコンテンツのことね)として「モーターヘッド」というゲームエリアが追加されているということだ。モーターヘッド、ロックンロールでありスラッシュメタルなバンドの皆さんの事である。

DLCモーターヘッド」はこのバンドの世界観を元に製作されており、このDLCをプレイしている時は常にモータヘッドの楽曲がガンガンにかかり、ステージはロックンロールな悪魔が跳梁跋扈する地獄界であり、時にバンドのヘッドマンであったレミーさんが登場してプレイヤーに語り掛けてくるのである。

さらになんと武器はギター!持ってるギターからエネルギー弾を発射しちゃうんだからこりゃもう『マッドマックス/地獄のデスロード』のファイヤーギターマンもタジタジだね!おまけにギターソロを爪弾くスキルでは周りのモンスターたちが集団でヘドバンしちゃうから楽しいことこの上ない(ちなみにヘドバンってのはヘッドバンギング、頭をタテノリに振りまくる事ね)!モーターヘッドのアルバムジャケットになってるこの(↓)モンスターも登場して襲ってくるよ!

f:id:globalhead:20190316102054j:plain

しかしこう書くとオレがモーターヘッドスラッシュメタルの好きな人の様に思われるかもしれないが実は全然そういうことはなくオレ自身はレゲエ聴く人だったりするのである。

実際の所メタルは聴かないしよく知らない。なにしろオレはメロイックサインをしようとしてグワシをしてしまうような男なのである。一般人にとってメロイックとグワシの違いはアベシとヒデブ程度の違いにしか思えないだろうがメタルファンにとってはハーケンクロイツと寺院の地図記号ぐらい似て非なるものだ。しかもちゃんと調べるとモーターヘッドはメタルというよりはロックンロールなんだぜ、というのがファンにとって一般的なことなのらしい。

そんなオレがなぜモータヘッドかというと、音楽的趣味は違うのだがああいった世界観は楽しいな、と思うからである。オレはハードロックは聴かないがブラックサバスやグレイトフル・デッドのTシャツは所有しており気に入って着用している。まあファッションとして面白いってことで、そんなことを言うと実際のファンには怒られそうだが、共産主義革命に興味がない人でもチェ・ゲバラのTシャツ着てたりするぐらいだからそういうもんだと思って欲しい。

ハードロックやメタルのアイコンってのはこう言っちゃなんだがちょっとお馬鹿な雰囲気がして気取りが無い所がいい。これがレゲエのTシャツだと「ラブ&ピースでナチュラルバイブレーションねハイハイ」などとスピリチュアル界隈とごっちゃにされるからあまり着たくないし、あとオレはデヴィッド・ボウイが好きなんだがあの眉目秀麗なボウイ様のTシャツなんか実際のオレ自身が不細工なので対比が惨すぎて着られたもんじゃない。

ゲーム自体はアクション要素が多くて一般的なハクスラゲームよりも忙しいのだが、こういうもんだと思ってプレイすると慣れて来る。あとスイッチでやってるんだがスイッチのコントローラはちょっと操作し難いかもしれない。まあでも面白いよ。値段も安いし。そんな訳で今日もオレはヘドバンしながらタテノリ状態で『ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション』をプレイしているのであった。ロックンロォ~~~~ル!!!


ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション:ローンチトレーラー【NintendoSwitch/PlayStation®4】

ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション - PS4

ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション - PS4

 
ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション - Switch

ヴィクター・ヴラン オーバーキルエディション - Switch

 

ゴミ溜めに生きるクズどもに花束を/映画『ローライフ』

■ローライフ (監督:ライアン・プロウズ 2017年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20190301165045j:plain

貧困と犯罪がパンツの染みみたいにこびりついたアメリカ/メキシコ国境の街を舞台に、そこで生きる最底辺の連中が関わることになったある犯罪事件の顛末を描いたのがこの『ローライフ』である。

この物語を面白くしているのは時間軸も主要人物も違う4つのエピソードが最終的に絡み合うことにより一つの大きな物語をなしていることだ。いわゆるグランドホテル形式ということもできるが、むしろクエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』のストーリー構成方法をそのまま踏襲したような作品だと言ったほうが近い。ちなみにこの映画、かのタランテイーノも絶賛だという。

主役となるのはこの連中。

  • テディ……誘拐・売春・麻薬・臓器売買となんでもござれな悪党の総合商社みたいな街の顔役。キチガイ
  • モンストロ……マスクマン。ちょっと頭が足りない上に怒ると記憶が飛ぶほど暴れまわる。テディの部下。
  • ケイリー……元売春婦のヤク中女。モンストロの子を身ごもっている。可愛そうな境遇の人。
  • クリスタル……元アル中だったが今はモーテルの管理人に。夫は腎臓病で瀕死の状態。可愛そうな境遇の人。
  • ランディ……刑務所から出所してきたばかりのオニーチャン。顔にドデカイ鍵十字の刺青をしている。気のいいバカ。
  • キース……ランディの友人。何するにもインチキな嘘つき会計士。うざったい。 

そんな「最低の人生=ローライフ」を生きる彼らの4つの物語がこんな感じ。

  •  「MONSTERS(怪物)」……偉大なルチャドールだった父に強大なコンプレックスを抱くモンストロは今は悪党テディのしがない使い走り。彼は愛するケイリーとの間にもうけた子にモンストロの名を継承したがっていた。
  • 「FIENDS(悪魔)」……クリスタルは腎臓病患者の夫のために闇の臓器売買移植をテディに依頼してしまう。そしてそのターゲットとなったのがモンストロの妻ケイリーだった。
  • 「THUGS(ならず者)」……自分の身代わりで服役したランディの出所を出迎えたキースは今度はケイリーの誘拐を持ちかける。
  • 「CRIMINALS(無法者)」……全ての諸悪の根源は街の顔役テディだった。モンストロら”ローライフ”に生きる主人公たちはテディへの反撃に出る。

もうね。登場人物誰も彼もがダメでクズで最低で、掃き溜めみたいな街で明日をも知れぬ希望の無い人生を送っている連中ばかりなのだ。しかしそれは犯罪と貧困以外何も無い地獄の1丁目みたいな土地で生まれ育ってしまったからであり、決して彼らが根っからの悪党だったり犯罪者だったりするわけではない。彼らはそれぞれに最後の希望に似たものを持ちつつも、邪な運命が賽の河原の鬼のように彼らの希望を打ち砕こうとしている。

とはいえ、こんな物語ながら雰囲気は決して陰鬱だったりうんざりするほど暗いといったものではない。むしろそれは逆で、登場人物誰もがタガが外れたみたいに素っ頓狂か考えなしのバカな行動ばかりとりたがるものだから、ブラックながらも奇妙なユーモアが物語全体を覆う。その最たるものがマスクマン・モンストロで、こいつブチ切れて暴れたときの記憶が飛ぶもんだから、気付いたときにはあたりは嵐が通った後みたいなメチャクチャな状況になっている。顔に鍵十字の刺青をしているランディもネオナチとかではなく単なるクルクルパーで、オマケに変なところで前向きだったりするから妙に憎めなかったりする。

そんな彼らが自らの全ての不幸の集約点が、実は街の顔役テディにあった、と知ったときにどう反撃に出るのか、最低でしかなかった自分の人生や運命や宿命にどうやって落とし前をつけようとするのか、どうそれぞれの不幸の連鎖を断ち切れるのか、というクライマックスに向けての疾走感がなかなかに見所となる作品なのだ。

確かに構成は『パルプ・フィクション』的なのだが、『パルプ・フィクション』が華のある俳優たちの出演とタランティーノ的なファナティックさが圧縮された作品だったのとは違い、この『ローライフ』は現実に塗れた底辺の人間たちが、殺伐とした人生の中でイタチの最後っ屁みたいなギリギリの戦いを演じる、といった部分で対比的だと思えた。そんなに名を知られていない作品のようなのだが、これは結構な拾い物なんじゃないですかね。 

ローライフ [Blu-ray]

ローライフ [Blu-ray]

 
ローライフ [DVD]

ローライフ [DVD]