『デス・レース4 アナーキー』がリリースされたのでこれまでの『デス・レース』シリーズをおさらいしてみよう

デス・レース4 アナーキー (監督:ドン・マイケル・ポール 2017年アメリカ映画)

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デス・レース4 アナーキー』がリリースされたのでこれまでの『デス・レース』シリーズをおさらいしてみよう

ロジャー・コーマン製作の伝説的カルトSF作品『デス・レース2000年』をあのポール・”嫁はミラ・ジョヴォヴィッチ”・W・S・アンダーソンが監督し、ジェイソン・ステイサムを主演に据えて映画化された作品『デス・レース』。オレは非常に好きな作品で、ステイサム主演映画としても相当上位に入るお気に入りである。実はこのアンダーソン版『デス・レース』、その後もビデオスルーながら続編が作られ続けており、オレもそれら作品を結構楽しんでいるのだ。いわばオレは『デス・レース』ファンなのである。そして今回その第4作目となる『デス・レース4 アナーキー』が晴れてソフトリリースと相成った。これを記念して、歴代『デス・レース』をここでザックリと紹介し、皆さんをめくるめくデス・レース・ワールドへといざなおうというのが今回の目的である。では行ってみよう!

まず最初にロジャー・コーマン版を紹介してみる

デス・レース2000年 (監督:ポール・バーテル 1975年アメリカ映画) 

デヴィッド・キャラダイン主演作品だが、『ロッキー』でブレイク直前のシルヴェスター・スタローンが出演しアホアホなドライバーを演じていることで知られている作品でもある。時は西暦2000年、政府公認の通行者ぶっ殺しまくりレースを描くディストピア映画なのだが、大昔観た切り全く内容を忘れていたので数十年ぶりに再見した。するとどうだ、以前は単なるおバカ映画だという印象だったのだが、確かにお下劣殺戮シーンとお下品エロを下世話に見せつつも、その見せ方は皮肉と批評を存分に効かせ、アナーキズムという裏テーマを持った素晴らしくバランスのいい娯楽作でありカルトムービーだったじゃんかよ!あと ↑ のアマゾンのBDジャケット、「殺戮エディション」のBDでは ↓ の画像を使用しており、これがまた最高なんだぜ!みんなもBDで買って部屋に飾ろうぜ!

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◎デス・レース2050 (監督G・J・エクターンキャンプ 2015年アメリカ映画) 

『デスレース2000年』は2008年にアンダーソン監督によってリメイクされたが、それとは別に2015年、本家本元のロジャー・コーマン自身が正統リメイクしたのがこの『ロジャー・コーマン デスレース2050年』。粗筋も物語の流れも『2000年』と殆ど一緒だが、この『2050年』は前作を上回るお下劣お下品サイテー展開が炸裂する!エロと切り株と毒々しさも一層増大!移民や障碍者児童をターゲットにしたりとか、やっていいのかそれ!?そして同時に、皮肉と批評と冷笑ぶりもさらにパワーアップし、このスタンスがこの作品を単なるB級おバカ映画に留めていない所が素晴らしいんだね。今日的要素としてはドローンやVR、AIマシーンの登場やビデオゲーム的演出がここかしこに採用されているという部分で、これがまた結構イイ感じでSF的雰囲気を醸し出しているんだよ。低予算映画なんだろうがオレにとって映画ってこの程度でいいって思えたぐらいだな。ひょっとしてアンダーソン版より出来がいいって思っちゃったぐらいだ?!意外と隠れた傑作かもしれないのでこういうのがお好きな方は是非ご覧になっていただきたい。

さてお次はアンダーソン版を紹介してみる

デス・レース (監督:ポール・W・S・アンダーソン 2008年アメリカ/カナダ/ドイツ映画) 

オレの大好きなジェイソン・ステイサム主演作品であるというだけで既に1億点ぐらいの点数を上げたい作品である。ステイサムは『トランスポーター』(2002)あたりで既にブレイクしていたが、オレにとってのステイサムはなんといっても『アドレナリン』(2006)とこの『デス・レース』 のステイサムなんだよ!物語はオリジナルの「公道一般人殺しまくりレース」から「刑務所内における終身刑受刑者同士の殺し合いレース」という形にシフトしているが、むしろアンダーソン版はよりシリアスでダークなバイオレンス作品を目指したということなんだろう。出て来るマシーンも『マッドマックス』を彷彿させるモンスターカー揃いでその辺りもgood。相手レーサーの派手な死にっぷりも楽しい。こういった部分にオレは大いにハマったんだねー。アンダーソン映画としても完成度高いんじゃないかな。

デス・レース2 (監督:ロエル・レイネ2010年アメリカ映画) 

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ここからシリーズはビデオスルー作品としてリリースされることになる。アンダーソン版2作目(2作目からは製作のみ)となるこの『デス・レース2』、実は前作の続きではなくて前日譚という形を取っている。そして「デス・レースとはなぜどのように誕生したのか」「主人公フランケンシュタインはどのようにして生まれたのか」が描かれることになるのだ。ステイサムは出演していないが、今作から主演を務めるルーク・ゴスが意外とイイ味を出している。それと今作からダニー・トレホが出演、トレホ好きのオレにとって今作の好感度を上げることとなった。作品としてはアンダーソン版1作目を引き継ぎダーク&シリアス路線で、ビデオスルー作品ながらなかなか魅せるものとなっていた。 それと1作目に出演の敵ドライバーも登場するのでこれもお楽しみ。

デス・レース3 インフェルノ (監督:ロエル・レイネ 2012年アメリカ映画) 

アンダーソン版3作目は『2』から物語を引き継ぎ、出演者もルーク・ゴス、ダニー・トレホ含め殆ど一緒。そしてこの『3』、これまでよりさらにパワーアップし、舞台を刑務所から南アフリカの砂漠地帯へと移してオフロード大殺戮レース大会が開始されることとなるのだ!これまでは相手レーサーとの殺し合いだったものが今回さらに過酷な熱砂の環境が殺しにかかってくるというダブルにデンジャラスなレースになってるんだね。こうしたロケーションの転換がマンネリ化を回避し、新たな「デス・レース」展開を楽しませてくれる。例によってビデオスルー作品なんだがなかなか頑張ってくれてると思ったね。

そして『デス・レース4 アナーキー』だ!

といわけで『デス・レース4 アナーキー』である。2作目3作目が1作目の前日譚の体裁を取っていたものを、今作は1作目の後日譚の物語ということになっているんだね。ただしステイサムが出演しているわけではなく、「その後のデス・レース」を描いている。

1作目の後、アメリカではさらに犯罪者が増え、刑務所に収容しきれずに広大な工業地帯跡地を壁で囲い、そこに犯罪者を閉じ込めていた。いわゆる『ニューヨーク1997』方式という訳だ。そしてここで犯罪者たちは自発的にデス・レースを行って放送し、資金源としていた。しかし犯罪者が英雄視されることに危険を感じた政府はここに暗殺者を送り込み、デス・レースのヒーロー、フランケンシュタインを抹殺しようと画策した……というのが物語。

これまでのデス・レースが「権力によって死のレースを強制される犯罪者たち」という抑圧の物語だったものが、今作では「己の強大さを誇示するために犯罪者同士が行う刑務所内権力闘争としてのレース」という形でシフトチェンジしている部分が今作の面白さだ。広大な刑務所は犯罪者たちが巣食うひとつの街と化しており、その光景はあたかも『マッドマックス』の如き世紀末無法地帯だ。

だからこの物語、『マッドマックス』フォロワー作品として色彩が濃厚だ。犯罪者は誰もが皆けばけばしいパンクなファッションに身を包み、そこここにモンスターカーが走り回り、死と暴力に塗れた狂った世界に生きている。そこではフランケンシュタインという絶対的な権力者が君臨し、犯罪者たちに崇められているんだ。エロとバイオレンスはこれまで以上に過激に描かれ、文字通り「アナーキー」な世界を表出させている。バイオレンスはともかくエロに関しては多分「デス・レース」史上最多と思われるエロエロネーチャンの群れが登場しており、時折意味もなく大股開きなどを見せてくれてサービス満点である。

とはいえ精一杯過激さを演出しつつも、結局『マッドマックス』を始めとするポスト・アポカリプス世界観の使いまわしでしかないと言われればそれまでだし、それらを模倣した安っぽい映像が並べられているだけという見方もできてしまう。物語性も人間関係の描き方も、キモである筈のレースシーンですら、これまでの「デス・レース」の中で一番薄っぺらい。

しかしね。模倣でも安っぽくても薄っぺらくとも、やはり【ヒャッハー!】な世界観というのは十分魅力的なのは確かで(オレにとっては)、もうこんなのを観られるだけでいい具合に満足できるんだよね。逆にとことん馬鹿馬鹿しくなった分、ゲラゲラ笑って楽しめるお気楽B級映画としての消費の仕方が可能となっている。特にお勧めもしないし好きな人だけ観れば?という作品だけど、オレ自身にとってはこれはこれでアリ、って感じだったな。この続編がまた出たら迷わず観るよ!

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妄執と強迫観念に彩られたダークファンタジーの傑作/竜のグリオールに絵を描いた男

■竜のグリオールに絵を描いた男/ルーシャス・シェパード

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

全長1マイルにもおよぶ、巨大な竜グリオール。数千年前に魔法使いとの戦いに敗れた彼はもはや動けず、体は草木と土におおわれ川が流れ、その上には村ができている。しかし、周囲に住むひとびとは彼の強大な思念に操られ、決して逃れることはできない――。奇想天外な方法で竜を殺そうとする男の生涯を描いた表題作、グリオールの体内に囚われた女が見る異形の世界「鱗狩人の美しき娘」、巨竜が産み落とした宝石を巡る法廷ミステリ「始祖の石」、初邦訳の竜の女と粗野な男の異類婚姻譚「噓つきの館」。ローカス賞を受賞したほか、数々の賞にノミネートされた、異なる魅力を持つ4篇を収録。動かぬ巨竜を“舞台"にした傑作ファンタジーシリーズ、日本初の短篇集。

全長1600メートルはあろうかという巨竜、その名もグリオール。かの竜は数千年前にある魔法使いとの戦いに敗れ仮死状態にあった。原野に横たわるかの竜の周囲には、巡る歳月の内に草木が生い茂り、動物たちの住処となりさらに村までが出来ていた。しかし決して動かぬグリオールではあったが、その昏く邪悪な思念は瘴気のように近隣に住む人々の心を侵していたのだ――。

ルーシャス・シェパード著によるダーク・ファンタジー中編集『竜のグリオールに絵を描いた男』である。「竜の登場するファンタジー?『指輪物語』みたいな剣と魔法の冒険譚なのか?」と思われるかもしれないがそれは当たっていない。むしろこの作品は、グリオールを背景としながらその妖しい存在に身も心も狂わされてゆく者たちの姿を描いてゆく幻想譚であり怪異譚なのだ。

この作品集には「竜のグリオール」シリーズ全7編の内4編の中短編、さらに作者による覚え書きが収められている。まずこの4編をざっくり紹介してみる。

表題作『竜のグリオールに絵を描いた男』は仮死状態のグリオールに毒素の混じった絵の具で絵を描くことによりグリオールを殺そうとした男の物語。絵を描くプロジェクトは膨大かつ長大なものとなり、男はあたかも取り憑かれたようにプロジェクトに全人生を捧げてしまう。

「鱗狩人の美しき娘」は暴漢に追われグリオールの体内に迷い込んでしまったある女がそこに閉じ込められ、グリオールの体内に巣食う異形の者たちと10年の歳月を過ごすことになってしまう怪異譚。怪物の体内に幽閉されそこで生きる物語はどこか神話的ですらある。

『始祖の石』はグリオールを崇める教団とそこで起こった殺人事件の犯人を弁護することになった男を描く法廷ミステリ。登場する者誰もがグリオールの存在により人生を狂わされたどこか心の歪んだ者たちばかりであり、その展開の異様さには心胆寒からしめるものがある。

『うそつきの館』は野獣のように粗野な男が巡り合ったドラゴンの化身の女との異類婚姻譚。なにもかもが破壊と破滅へと転がってゆく恐るべき展開は既にファンタジーの枠を超え、世に数多伝わる異類婚姻譚の中でも類を見ない異常な結末を迎える。

物語の背景であり真の主人公たる竜、グリオールは恐竜や猛獣の様なただ生身の体を持った「生物」ではない。生物が肉体に魂を宿しているのと違いグリオールは魂の中に肉体を内在させた霊的な存在として描かれる。即ち異次元の生物であり、むしろ肉体を使役する思念体と言ったほうが近い。それにより肉体が仮死であろうと死んでいようとその思念は近隣に住むあらゆる人間たちの思考と行動に影響を与え、人々はグリオールの理解不可能な計画のためにその人生を狂わされてゆく。

しかし、物語の中でグリオールの思念の在り方は直接的に描かれることは無く、それぞれの物語において破滅してゆく主人公たちが、その理由の中にグリオールの存在を「感じた」そして「利用された」と思い込むだけでしかない。なんとなればそれは個々の登場人物たちの幻影、錯覚、妄想に過ぎないのかもしれないのだ。ここからひとつのアレゴリーが導き出される。即ち、竜のグリオールの物語とは、人が時として心の中に抱える、妄執と強迫観念についての物語であり、そこでグリオールとは、妄執と強迫観念を言い換えた名前なのであると。そして妄執と強迫観念の先にあるものとは、狂気である。

さらにグリオールの物語とは、「抗うことの出来ない呪われた運命の物語」であると言う事もできる。それが祝福であろうと呪いであろうと、運命とは人の力でどうにもすることのできない偶然と蓋然の集積である。そしてその運命を司る者が、この物語シリーズにおいてはグリオールということになるが、そのグリオールとはこの世界の理の外にある超自然の存在という事になっている。人々の運命を司り、そして超自然の存在である者、そういった存在には実はよく知られた名前が付けられている。それは【神】である。そう、竜のグリオールの物語とは、もうひとつの、冷徹で邪悪な神が運命を支配する世界の物語でもあったのだ。

これら重厚かつ熾烈極まりない物語をさらに奥深くしているのが作者ルーシャス・シェパードの極めて文学性の高い文章にある。妄執に取り憑かれ破滅してゆく人々を描く物語のその文章は、それ自体が妄執に取り憑かれたかのようなうねるような熱情に満ち、昏く眩く表情を変えてゆく細やかな表現力を兼ね備えているのだ。これまでこの作家の名前を全く知らなかったことにしみじみと不覚を覚えたほどだ。

そして最後の作者による『作品に関する覚え書き』である。表題通り作品の着想と背景を単に説明するだけのものだと思って読み進めてゆくとその恐るべき内容に唖然とすること必至である。ここで書かれているのは確かに個々の作品を書いた時の作者の当時の様子であるが、これが荒廃と冷笑と虚無に満ち溢れた凄まじいギャングスタ・ファンタジイとして成立しているのだ。巻末の解説において「実はルーシャス・シェパードという人は自分の人生をフィクショナルに語る”盛っちゃう”タイプの人」と書かれていなければ信用していたことだろう。しかしこの『覚え書き』ですらやはり昏い熱情に満ちた文学性を感じさせるものであった。既に故人となってしまったようだが、驚嘆の作家ルーシャス・シェパードの「竜のグリオール」シリーズはあと3篇が残されている。追って単行本化を切に切に希望する次第である。 もうこれ「今年度ナンバーワン・ファンタジー作」ってことでいいんじゃないかな。

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 
竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 

 

ゴッホの死の謎に肉薄した驚異の油絵アニメーション/『ゴッホ~最期の手紙~』

◾️ゴッホ~最期の手紙~ (監督:ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン 2017年イギリス・ポーランド映画

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ゴッホといえば知らない者などいないであろう美術界の鬼才であり天才画家であるが、彼が「自分の耳を削ぐ」などの奇行を持つ精神的に不安定な男であったこともよく知られたことであろう。彼は拳銃自殺で亡くなったとされる。フィンセント・ファン・ゴッホ、37歳没。

この映画『ゴッホ~最期の手紙~』はそのゴッホの死から遡り、「彼は何故自殺したのか?」という謎に迫ったミステリ仕立ての物語となって居る。しかしこれら物語よりもまず目を引くのは、この作品が全て油絵で描かれた「油絵アニメーション」という点であろう。

なんとこの作品、1秒につき12枚、全篇においては62,450枚の油絵を使用しそれをアニメーションさせた作品なのである。しかもその油絵のタッチ、構図、色彩は全てゴッホのそれを模したものとなっており、作中では至る部分でゴッホの名作絵画が登場しそれが舞台背景となりうねうねと動き回る。もう誰もが知るゴッホのあの絵やこの絵が次々と登場しうねうねとアニメーションしまくるものだから絵画ファンでなくとも驚嘆しない訳にはいかない。

登場キャラクターには映画俳優を使いその実写映像から油絵を起こしている。アニメ技法で言うロトスコープである。これは古くはディズニーのアニメーション映画『白雪姫』(1937年)、ラルフ・バクシのアニメーション映画『指輪物語』(1978年)などでも使用された技法である。また、出演俳優にはダグラス・ブース、ヘレン・マックロリーシアーシャ・ローナン、エイダン・ターナーの名がある。

油絵アニメーションという技法自体は実はアート・アニメーション界では既に存在し確立された技法であり、映画でも『春の目覚め (監督:アレクサンドル・ペトロフ 2006年ロシア映画)』という作品が存在している。とはいえこの『ゴッホ~最期の手紙~』はより商業的な作品であり、その貴重性は高い。

そもそもゴッホの絵とはそれ自体が静止した絵画なのもかかわらずどこか生命を持っているかの如くうねうねと蠢いているかのように見える作品であり、この映画における表現法とは非常に親和性が高かったと言えるだろう。むしろゴッホがテーマだからこそマスマーケットに対応しうる娯楽アート作品として製作することが出来たのだ。

しかもこの作品の凄みはそのアニメーション技法だけではない。ゴッホの死の謎に肉薄してゆくミステリ仕立ての物語構成は非常に重厚であり、最後まで興味を尽きさせない。ゴッホは一般的に「拳銃自殺した」とされているが、実際には不明点が多く、断言し難い部分があるという。さらに証言者の言質がいちいち異なっていたりするのだ。映画はそれらの謎を巧みにすくい上げ、作品の中に盛り込む事で当時のゴッホの複雑な人間関係を迫真的に描く事に成功しているのだ。

こういったミステリ展開だけではなく、ゴッホ個人の内面を追及する演出がとても素晴らしい。ゴッホという不世出の天才画家が、その死の前に何を思い、何を悩み、何を愛し、何を欲していたのか。物語が進むに連れそれらが次第に明らかになり、それにより、観る者は人間ゴッホのその核心と、その孤独と悲しみの在り処に触れることになるのである。この哀惜に満ちた物語の体験は、よりゴッホの絵画とゴッホという個性への共感へと繋がることは間違いないだろう。芸術性が高く娯楽性も優れアニメとしても楽しい。誰もに一度観てほしい作品である。


映画『ゴッホ ~最期の手紙~』日本版予告編

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アウトロー刑事集団v.s.アウトロー銀行強盗団の息詰まる死闘!/映画『ザ・アウトロー』

■ザ・アウトロー (監督:クリスチャン・グーデガスト 2018年アメリカ映画)

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無頼派刑事集団と知能派銀行強盗団の手に汗握っちゃう攻防を描くアクションサスペンス映画『ザ・アウトロー』でございます。

この映画、なんといっても主演があのジェラルド・バトラーなんっすよ!そう、『300〈スリーハンドレッド〉』、『エンド・オブ・ホワイトハウス』、『エンド・オブ・キングダム』、『キング・オブ・エジプト』、『ジオストーム』と、暴力ならなんでもござれな映画でお馴染みの、あのジェラルド・バトラーさんです!こりゃあ観る前から盛り上がりまくりですよ!

今回のジェラルドさんの役どころは銀行強盗団を追い詰める(例によって)暴力三昧な刑事ニック・オブライエンとなります。そしてこのオブライエン刑事のキャラがとことんいい!!不健康な顔つきとどんよりした眼、放蕩三昧みたいなだらしない格好、口を開けば汚い言葉と皮肉塗れのいやったらしい言動、そして当然暴力の匂いがプンプンする態度、もう絶対近くにいてほしくないタイプの人間ナンバーワンの主人公を演じまくってくれております!正直、今回の敵役である強盗団よりもずっと悪党の風格を漂わせちゃってるんですよ。映画の日本タイトルが『ザ・アウトロー』というのも非常に頷けます。

オブライエン刑事が人食い熊の如き凶暴さを兼ね備えているなら、対する銀行強盗団は人喰い蛇の如き爬虫類的な酷薄さとじっくりじわじわと確実に目的に迫る冷徹さを併せ持っています。そしていざ戦闘開始ともなると正確無比な戦闘兵器となって相手を完膚なきまでに壊滅させてしまうのです。しかし、映画ではその強盗団の中で一番ひ弱そうで戦闘能力の低そうなドライバー、レヴィ(オシェア・ジャクソン・Jr )がクローズアップされながら物語は進んでゆきます。この、鉄壁の刑事VS鉄壁の強盗団というわけではない描写のアンバランスさが従来的なクライムアクション映画から微妙に違ってて面白いんですね。

映画で展開するアクションをあれこれ並べて説明したりはしませんが、この映画のアクションでなにより印象が強かったのは銃撃戦の良さでしょう。延々と続く熾烈な銃撃戦シーンの迫力は、オレなんかは「うお、これ、『コール・オブ・デューティー』じゃないかよ!?」と映画館で鼻息荒くしながら思っちゃいましたね。もうFPSゲームやっているような強烈な迫真性と臨場感があるんですよ。次々と登場する銃器のバラエティもよかったですが、劇場に鳴り響く雨あられの如き銃声の炸裂音がとにかく派手でいい!兎角「映画は劇場で観るべきか否か」の論議はありますが、この「爆音で響く銃撃音」を堪能したいなら、やはり劇場で観る事がマストでしょう!家じゃこんなデカイ音だせないし!

それと面白いのは刑事オブライエンと強盗団とが、作中何度も顔を合わせ、相手の素性を知ったうえで睨み合いを繰り返す、という展開です。相手が強盗団だってわかってるんなら別件でなんでもとっつかまえて締め上げればいいじゃね?とも思っちゃいますが、そもそもこの映画、アウトロー刑事という存在を中心に置くことで、「正義vs悪」「法vs悪」の戦いと言うよりはむしろ傭兵同士の戦闘、ヤクザ同士の抗争、格闘家同士の挑発戦、サムライ同士の鍔迫り合いを思わす演出となってるんですね。この辺りの従来的な刑事モノからの逸脱ぶりが面白いんです。

映画の尺は130分、このテのたいした筋のややこしいわけでもないアクションにしてはちと長いのですが、それはアクション以外の要素が多々挿入されているからでしょう。それは前述の「じわじわと緊張感を高めてゆく睨み合い」の描写もそうなんですが、主人公オブライエンの妻との離婚騒動なんていう本筋とはあんまり関係ない要素が持ち込まれてもいるからなんです。ここはいらない、という人もいるでしょうが、一見野獣にしか見えない主人公に人間的要素を加味し、彼の存在感に厚みを持たせようとしたのでしょう。人食い熊みたいな主人公が奥さんに頭が上がらないなんて!

もうひとつ興味を惹かれたのは、その空撮の美しさです。舞台となるロサンゼルスとその近郊の様々な街や場所が写し出されるのですが、これが観入ってしまいそうなぐらい綺麗。しかもちょっと『ブレードランナー』が入ってます。なんかバカみたいなんですが「ロサンゼルスって広い……」としみじみ思わせてくれたばかりか、ちょっとロス行ってみたくなりました。まあこんだけ銃撃戦があって銀行強盗多くて人食い熊みたいな刑事がいたりするロスは嫌だけど!

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カンニングという名の階級闘争/映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』

■バッド・ジーニアス 危険な天才たち (監督:ナタウット・プーンピリヤ 2017年タイ映画)

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超秀才少女を中心とした高校生グループによる大規模なカンニング事件を描く青春クライムドラマである。物語は中国で実際に起こったカンニング事件をモチーフにしているという。そしてこの映画、タイで製作された作品なのだ。

物語の主人公の名はリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)。優秀な頭脳を認められ名門高校に特待生として迎え入れられた彼女だが、家計の苦しさをいつも憂いていた。ある日、已むに已まれず親友であるグレース(イッサヤー・ホースワン)のカンニングに手助けしてしまった彼女は、その手際の良さを知った金持ちバカ学生パット(ティーラドン・スパパンピンヨー )に高額の報酬と引き換えに集団カンニングを要請される。家計の足しにと引き受けてしまったリンだが、カンニングビジネスは見事に成功、そして遂にアメリカ留学の為の大学統一入試「SITC」においてカンニングを成功させるためシドニーへと飛ぶことになる。

この作品の見所となるのはまずそのカンニング方法の面白さだろう。予告編で見る事ができる「ピアノの運指を利用したキーサイン」にも度肝を抜かれるが、本編ではまだまだ様々なカンニング方法が披露される(だからあとは観てのお楽しみ)。しかし重要なのはカンニングのサインを送ることになる主人公少女が超秀才であるという点だ。

物語において彼女はどのテストでもスラスラと問題を解いてゆき、それをカンニンググループにサインとして送るのである。つまりリアルタイム進行のカンニングであり、テスト前日に職員室に忍び込んで……などというのとは訳が違うのだ。とはいえクライマックスでは「完璧なはずの計画」に少しづつひびが入り、あたかも完全犯罪の瓦解を描くクライムサスペンスの如き手に汗握る怒涛と緊迫の展開を迎える事になる。人によっては胃が痛くなりそうになるかもしれないほどだ。

しかし「ユニークなカンニング方法」だなんだといっても結局はれっきとした不正行為である。要するに悪事である。それが出来心ならまだしもグループとなり金銭を授受しあまつさえ数度に渡り繰り返すとなると既に確信犯的な犯罪行為である。この「アンモラルである題材」であること、さらにそれが「未成年の行為であること」にどう落とし前を付けようとするかが今作の本質となってくる。

主人公リンは頭脳優秀とはいえ、家計の苦しさとそれをおくびにも出さず彼女を支援する父親の隠れた苦労に引け目を感じていた。特待生として授業料が免除になったにも関わらず、裏では父親が多額の寄付金を学校側に供出していたことにも理不尽さを覚えていた。また、名門進学校である高校には多数の富裕層の子息が通っており、「成功とは金でどうとでもなること」を目の当たりにさせられていた。彼女は優秀であり、そのための努力も惜しまなかっただろう、しかし年若くして既に彼女は、いかに優秀であろうとも努力を惜しまなくとも、この社会ではどうにもならないことを身をもって知ってしまっていたのだ。

主人公リンのキャラクターはどこか不透明な所があり、彼女の本来のモラルの在り方が示されることなく冒頭からいきなり「金銭の為にカンニングビジネスを始める」ことになる。ここで彼女自身のモラルの在り方は一切揺れ動くこと無く一気にアンモラルへと振り切るのだが、ここには彼女自身の、己の社会的不平等への【怒り】が、既に心の内に存在していたという事なのだろうと思うのだ。そして「成功とは金でどうとでもなること」が当たり前の裕福な級友たちにあえてカンニング協力し、「しかしその成功は自分=主人公リンがいなければ成し得ないこと」「そんな彼女に裕福な連中がひれ伏すこと」を、彼女はどこか暗い復讐心を持って受け入れていたのではないかと思うのだ。

その心情は主人公リンと、彼女と同じく貧しい片親の元で育ちながらやはり超秀才級の頭脳を持つ協力者バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)とのやりとりの中で明かされることになる。リンはバンクに「私たちは負け犬なのよ」と告げる、それはまだ高校生でありながら、リンは自らが、そして友人バンクが、経済的弱者である以上この社会で這い上がることなどできないと痛いほど実感していた証だったのだ。しかし二人が大学統一入試「SITC」カンニング作戦の為シドニーへと飛び、ささやかな息抜きをするシーンで、リンは再びこう言うのだ、「今世界は私たちのもの」と。カンニングを成功させることで世界が我がものになるのではない、カンニングを成功させることで、リンは裕福な連中どもに貧民でしかない自らの圧倒的な才覚を見せつけたかったのだ。

ここで物語は「モラルとは何か」にやっと気づくことになり、「カンニングとは不正であり犯罪である」ことへと揺れ戻るのだが、実のところこれら結論付けは「物語を物語として終わらせるための口当たりのいい方便」に過ぎない。しかも主人公らは「まだ子供」なのである。そういった「収まりのいい結論」には不満を感じるかもしれないが、それよりもオレは、主人公リンの、彼女を演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの、常に冷静でありながらもその眼の奥で冷たく燃える格差社会への怒りと階級闘争への意思を、ひしひしと感じて止まなかったのだ。一見「お行儀のいい子」になった彼女は、きっと別の形で再び戻ってくる。大人になり、遥かに真っ当でありながら、しかし強力な方法で。そんな、「物語の先の描かれはしない未来」まで夢想してしまった作品だった。


映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』予告篇