『イット・フォローズ』監督によるLA地獄巡り/映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』

アンダー・ザ・シルバーレイク (監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル 2018年アメリカ映画)

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ロサンゼルス在住の冴えない青年が忽然と消えたアパート隣人の美女の行方を追ううち、街に巣食う名状しがたい秘密を知ってしまう、というサスペンス・スリラー映画である。主演は『ハクソー・リッジ』『アメイジングスパイダーマン』シリーズのアンドリュー・ガーフィールド、ヒロインに『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』のライリー・キーオ。監督は『イット・フォローズ』のデヴィッド・ロバート・ミッチェル

(というか『アンダー・ザ・……』と聞くとオレはどうしてもプリンスの『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』を思い出しちゃうんだよね)

物語には幾つかの要素が含まれている。

  • まずメインとなる「失踪した女の捜査」という探偵スリラー的な要素。
  • 次に虚栄と背徳の街ロサンゼルスに蠢く人々の姿を描写する「ロサンゼルス地獄巡り」。
  • そして調査の段階でぶち当たる数字や文字に隠された本当の意味、サブリミナル操作と陰謀論、それらをひっくるめた「都市伝説」。
  • アメリカのアンダーグラウンドに連綿と存在する「カルト」。
  • これらに通底するデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督のホラーテイスト。

 「失踪した女の捜査」においては主人公サムのグダグダなひ弱さ、ダメ男ぶり、女好きがなかなかいい味を出している。LAで探偵の真似事をするわりには往年のハードボイルド探偵の如きタフさなど微塵も存在しないのだ。これは演じるアンドリュー・ガーフィールドの味という事もできるだろう。また、この作品は「デヴィッド・リンチ的」「裏『ラ・ラ・ランド』」という形容がされているが、むしろオレはデヴィッド・クローネンバーグの『マップ・トゥ・ザ・スターズ』を思い出した。

「ロサンゼルス地獄巡り」においては映画産業や性風俗に関わっているのだろう得体の知れない男女が数多く登場する。虚栄と背徳の街に蠢く彼らはただそれだけで亡霊の如き実体のない存在にすら思える。そして主人公ですら何を生業としてこの街で生活しているのか全く描かれない。キャンプだのヒップだのクールだのと、そういった浮ついた言葉で言い表されるのであろう彼らのライフスタイルはそれだけで物語の非現実感を煽っている。

物語では冒頭から幾つかの「都市伝説」が提示される。それは後に捜査に行き詰まった主人公を浸食し、いつしか彼は「数字や文字に隠された本当の意味」から捜査の糸口を掴もうとし、あろうことがそれが真実への突破口となるのだ。正直な所サブリミナルや陰謀論への言及は映画『陰謀のセオリー』や『ゼイリブ』、TVドラマ『Xファイル』などのほうが遥かに洗練された切り口を見せるのだが、この作品においてはむしろ主人公の錯綜した心理が都市伝説への傾倒を生み出した、と見る事が出来る。さらに言えばLAという街の非現実性の生む歪んだ時空の形が「都市伝説」へと結びついたのだ。

そして「カルト」だ。アメリカはカルト教団、新キリスト教団が百花揺籃な印象があるが、ここにはピューリタンによるアメリカ建国、新宗教運動、それによるナショナリズムとヒッピー・ムーブメントに代表される反ナショナリズムといった歴史がある。多様化が飽和したアメリカおいてカルトはそれら小さなセクトの受け皿として機能するのだ。そしてアメリカンドリームと自由を謳歌する楽園世界とも言えるLAで、そのカルトがじっくりと息づく環境は既に出来上がっていたのだ。

この作品はホラーではないが、今作においてもデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督のホラーテイストはそこここに見え隠れする。明るい陽光の輝くLAの街並みですら、ミッチェル監督の手になると出世作『イット・フォローズ』の如きもの寂しい荒廃したデトロイトの情景とどこか重なってしまうのだ。これは意識したものというよりもミッチェル監督の皮膚感覚がそうさせてしまうのだろう。

しかしこれらの物語を通してミッチェル監督は何を描き出したかったのか。物語それ自体は緩くダルく続いてゆき、奇矯な人々の様子も非現実的なLAの街並みもそれはそれで目を引くにせよ、特別に強烈な印象を残すようなものではない。「都市伝説」はどこか唐突で牽強付会に感じるし「カルト」の描かれ方も特に新しい訳でもない。むしろこの作品は、斜陽の工業都市デトロイトから陽光溢れる歓楽都市LAに移り住んだミッチェル監督の、LAそれ自体の印象を、その異様と思われる体験を描こうとしたものだったのではないか。それにミッチェル監督自身の個人的趣向を加えて味付けしたのが今作だったのではないか。今作『アンダー・ザ・シルバーレイク』はミッチェル監督自身の心理的LA地獄巡りの様を描いた作品だったのではないか。


『イット・フォローズ』監督の新作『アンダー・ザ・シルバーレイク』日本版予告編 

"退職刑事ホッジズ"シリーズ3部作完結編にして最高傑作の登場/S・キング長編小説『任務の終り』

■任務の終り(上)(下)/スティーヴン・キング

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6年前に暴走車を駆って大量殺人を犯した男、ブレイディは、いま脳神経科クリニックに入院していた。第二の事件を起こす直前で捕らえられたブレイディは、その際に脳に負った重傷による後遺症で、意思疎通も困難な状態にあった。だが、その周囲で怪事が頻々と発生する。看護師、師長、主治医……いったい何が起きているのか?
一方、相棒のホリーとともに探偵社を営む退職刑事ホッジズのもとに、現役時代にコンビを組んでいたハントリー刑事から、ある事件の現場に来てほしいという連絡が入った。事件は無理心中だった。6年前に起きた暴走車による大量殺傷事件で重篤な後遺症を負った娘を、母親が殺害後に自殺したものとみられた。だがホッジズとホリーは現場に違和感を感じる。やがてふたりは少し前にも6年前の事件の生存者が心中していたことを突き止める。これは単なる偶然なのか?
傑作『ミスター・メルセデス』でホッジズと死闘を演じた〝メルセデス・キラー〟が、いま静かに動き出す。恐怖の帝王がミステリーに挑んだ三部作完結編、得体の知れぬ悪意が不気味な胎動をはじめる前半戦がここに開始される!

『任務の終わり 上』スティーヴン・キング 白石朗訳 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

”ホラー小説の帝王”スティーヴン・キングが自らの独壇場であるホラー・ジャンルから離れ、果敢にもミステリー小説に挑戦した”退職警官ホッジズ”シリーズ3部作の第3弾にして最終章の登場である。

第1弾である『ミスター・メルセデスではメルセデス・ベンツを奪い大量殺戮を起こし、さらなる大量殺人を計画するサイコキラーを退職警官ホッジズが追う姿が描かれた。

第2弾『ファインダーズ・キーパーズ』では殺された有名作家の現金と未発表原稿を巡る凶悪犯罪を解決すべくホッジズとその仲間たちが奔走した。

第3弾であるこの『任務の終り』では、『ミスター・メルセデス』における真犯人であり現在植物人間と化した男ブレイディを再び登場し、強力な悪の力でもってホッジズと仲間たちを翻弄するのである。

そして第1弾、第2弾とミステリー小説の体裁をとってきたこのシリーズ、この第3弾ではなんとキング十八番のホラー小説ジャンルに立ち返り、全てのキング・ファンが狂喜乱舞する死と暗黒に彩られた恐怖世界を創出するのだ。

個人的に言うなら、シリーズ1作目2作目はあまり楽しめなかったのが正直なところだ。完成度というよりも自分の趣味に合わなかったという事なのだろう。ところが、第2作『ファインダーズ・キーパーズ』のラストにおいて、キングは突如超常の世界の胎芽を挿入し、3作目のホラー展開を予感させた。読んでいたオレもここで腰を抜かし、「どうなってしまうんだあああ!?」と期待に舞い上がりまくっていた。

そして遂に、情け容赦無くホラー展開を迎える『任務の終り』登場である。これが、もう、1、2作目が単なる助走、単なる肩慣らしとしか思えないほどの、最高に面白いホラー作品だった!!キングほど長いキャリアを持つ作家だと代表作も大傑作も数々存在するのだが、こと近年の作品で言うなら、あの超名作『11/22/63』と並び比すほどの大傑作として完成していたと思う。

まず特記すべきは作中の生き生きとした登場人物描写であり、彼らの抱える痛みや苦悩が身に迫るほど読む者に伝わってくるという部分だろう。

なによりまず主人公ホッジズは末期癌を患っており、病の苦痛と死の不安に文字通り満身創痍になりながら事件を追おうとする(死期の近付いた主人公、なんてのはキングの夢遊病を思わせる)。そして彼の業務パートナーであるホリーの存在だ。鋭敏な知性を持ちながら社会に馴染むことが出来ず、労苦に満ちた人生を歩む彼女に明光をもたらしたのがホッジズだった。そのホッジズが死病に冒されていることを知った彼女の悲痛な思いが読む者の胸に迫る。

ホッジズとホリーは親子ほども年が離れており、恋愛感情はとりあえず描かれない。しかし、二人のパートナーシップは魂の双子の如き強力なものだ。この「恋愛感情ではなく魂の部分で共感しあう強力なパートナーシップ」の在り方が物語に独特の面白さと胸の張り裂けそうな哀切をもたらしているのだ。また、この「魂のパートナーシップ」という部分は、キングによる『シャイニング』続編、『ドクター・スリープ』の主人公ダンと超能力少女アブラに通じるものを感じた。この二人を追い詰めるのが植物状態サイコキラー、ブレイディだ。ブレイディは植物状態ではあるが、 担当医師の実験薬物の投薬と思われる理由から超能力を獲得するのである。サイコキネシスから始まる彼の超能力は、ゲーム機器を通じて相手の意識を乗っ取り意のままに操る能力へと強大化する。これによりブレイディはベッドに横たわりながら次なる大量殺戮の計画を進行してゆくのだ。ちなみにこの「薬物投薬による超能力獲得」という部分はキングの初期名作『ファイヤースターター』を思わせるし、ICガジェットによる人格乗っ取りという部分は映画化もされた『セル』を思い起こさせる部分がある。そして今回のこのブレイディ、「単なるこじらせ野郎が駄々こねてる」だけでしかなかった『ミスター・メルセデス』のキャラクターから遥かに凶悪なサイコキラーへと進化しており、その歪みきった狂気は「暗示による自殺者大量生産」という形で再び世界に恐怖をもたらそうとするのだ。

さて今回キングは再びホラー小説ジャンルへと立ち返ってきたわけだが、しかしミステリーとして書かれたシリーズ1,2作の在り方を帳消しにした訳では決して無いとも思えた。それは登場人物たちの行動・行為を結果から遡りフラッシュバックの形で逐一きちんと説明している部分に感じたのだ。

超常現象の渦巻くホラー作品なら出来事の細かな理由付けや説明はホラーとしての興を削ぐが、この作品ではミステリーとして始まったシリーズであることからか端折ったり想像に任せたりする部分が皆無なのだ。この辺にキングの作家としての律義さと筋の通し方を感じたし、また、ミステリーを書いたことによるキングの新たな筆致の獲得とも取れた。さらに言ってしまえば、フラッシュバックの汎用は物語のスピード感を削ぐことが多いが、キングの文章ではフラッシュバックの挿入タイミングが「今丁度それを知りたかった!」と思わせるほど絶妙であり、当然物語の流れを滞留させることなど皆無で、この辺りの技巧の確かさは流石天下のベストセラー作家だと思わせるのだ。

また、物語内ではアクション映画を思わせる大立ち回りもあり、一瞬「主人公、カウボーイだよ……」とすら思わされた。死期を悟った主人公のニヒルな言動はハードボイルドだし、この辺りにもミステリー小説の片鱗は見え隠れするんだよな。

こうして超常能力を獲得したサイコキラー・ブレイディと病魔に侵された退職警官ホッジズとの最終決戦へとなだれ込むのだが、クライマックスに関わるから余り書けないけどこのシチュエーションはキングの超傑作『シャイニング』だろ……と誰もが思うだろう。このように『任務の終り』はキング傑作ホラー小説のあらゆる断片を散りばめながらも、シリーズのミステリー要素をしっかり背骨に兼ね備えることにより、これまでの数々の傑作とはまた違う味わいを持つ新たな名作として完成しているのだ。

という訳でキング・ファン必読の名著であることは確実なのだが、取り敢えずこの作品だけに興味を持った方は、シリーズ最後のこの3作目だけを読んでも通じるのか、あるいは『ミスター・メルセデス』もきちんと読んだ方がいいのか、お勧め方に悩むところもあるなあ。2作目『ファインダーズ・キーパーズ』は別の物語なのでこれは端折っていいとは思うが。最後に、翻訳の白石朗さん、素晴らしい翻訳をありがとうございました!

任務の終わり 上

任務の終わり 上

 
任務の終わり 下

任務の終わり 下

 
■退職刑事ホッジズ・シリーズ

エコエコアザラク……イコイコライザクッ!?/映画『イコライザー2』

イコライザー2 (監督:アントワン・フークア 2018年アメリカ映画)

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デンゼル・ワシントン主演による「DIY必殺仕置人」映画第2弾である。最初に書いておくが記事タイトルは単にダジャレが言いたかっただけのものであり深い意味も浅い意味もとりあえず意味は全くない。なあにいつものことさ。

なぜ主人公が「DIY必殺仕置人」かというと武器携帯無しに「その辺にあるもの」を的確に利用して殺傷武器に替え敵を殲滅するスキルを持った元CIAエージェントが主人公だからである。1作目は劇場公開を見逃しソフトが出てから視聴したのだが評判通りたいそう面白い作品だった記憶がある。

で、この2作目だが、退役CIAエージェントである主人公ロバート・マッコールが元上司の謎の死を知り、事件を追及するうちに自らも命を狙われる事になる、という物語である。まあなにしろ主人公は天下無敵の仕置人なので前作同様快刀乱麻に敵を血の海に沈めるであろう事は見るまでもなく明らかであるし、その奇想天外なぶっ殺しぶりをぐへへぐははと楽しめれば事足りる映画であることはある。物語それ自体は「諜報機関内で進行する権謀術策」というこのテのアクション・スリラーではお馴染みというかありふれたというか手垢塗れまくりのものに過ぎないので、映画のお楽しみの中心はなにしろ愉快痛快なぶっ殺し方の在り方へとシフトせざるを得ないのだ。

物語半ばまでは本筋とは離れてタクシーの運ちゃんとして日々平々凡々として過ごす主人公がすわ悪事と見ればバットマンの如きダークな一人自警団と化しクソ野郎どもに天誅を打ち据える場面なども描かれるが、基本的に正義とか悪とかカッタリー人間でしかないモラル性ゼロのオレとしてはこの辺りの流れは若干退屈して観てしまった事は否めない。悪くはないんだが、この程度ならソフトが出てから家でビールでも飲みつつダラダラ観てたほうが楽しめるんだがな、と思えたぐらいだ。

とはいえこの2作目には、それだけに留まらない奇妙な詩情とそれを生み出すことになるドラマの存在がある。それは近所に住む黒人青年マイルズと主人公との心の交流である。美術の才能がありながらギャング団に足を踏み入れそうになるマイルズをロバートは叱咤し、真っ当な道を歩む為の道しるべを差し出そうとする。これ自体も黒人コミューン内における成人と青年のドラマとしてありていのものであると言えば言えるのだが、逆にこのようなドラマを人気シリーズの第2弾の物語に挿入してきたことに自らもアフリカ系である監督アントワン・フークアの個人的内面とそれが併せ持つ詩情をなぜか感じてしまったのだ。浮いているわけではないし、ロバートとマイルズとのこの交流が後に危機を生み出すことにはなるのだが、ここだけ抜き出して別の物語にしても充分通用するような豊かな物語性を感じたのだ。

同時に、今作はやはり何故か奇妙にロケーションの美しさを感じた。それは海辺の光景のような自然の美しさだけではなく、主人公の住む街の街並み、彼の住むアパートのブロック塀にまつわるある風景、主人公の部屋のリアルな質素さ、さらにはクライマックスとなるあのロケーションとシチュエーションの光景の、荒々しさと侘しさを同時に併せ持つ様など、どれも瑞々しさとささやかな生活感とを感じるのだ。特に書店のシーンなど、本筋とはあまり関係無いのにもかかわらず妙に記憶に残るのだ。オレはアントワン・フークア監督作品の熱心なファンではないので判らないのだが、この人は意外とこういった豊かな映像性を持ち合わせた監督なのかな、とちと思った。

そういった部分で、アクション・スリラーとして前作を超えたとか超えて無いとかいうことは別として、本筋とは関係ない部分で個人的な面白さを感じた作品だった。ところで主人公は読書好きという設定であれこれ本を読んでいたのだが、あっちの国ではプルーストの『失われた時を求めて』がハードカバー本1冊に納まっちゃうものなのか?

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映画『ランペイジ 巨獣大乱闘』は「3大怪獣大決戦」だったッ!?

ランペイジ 巨獣大乱闘 (監督:ブラッド・ペイトン 2018年アメリカ映画)

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巨大怪獣が3匹も現れて街中大騒ぎさ!という映画『ランペイジ 巨獣大乱闘』でございます。

この巨大怪獣、秘密の遺伝子実験の暴走が普通の動物を巨大化させた!という特に深いことなど何も考えていない理由から生まれたものなんですな。だいたい一昔前のSFモンスター映画といえばなんでもかんでも原水爆と宇宙人が悪い!って事でしたが、昨今のSFモンスター映画は遺伝子操作と巨大企業が悪い!って所で落ち着いてるようですな。 

で、この巨大怪獣になっちゃった元の動物というのがゴリラとオオカミとワニ。なんか関連性が無いというか行き当たりばったりな組み合わせですが、実はこの映画、同名タイトルのアーケードゲームが原作(?)らしく、そこに登場するモンスターをそのまま映画に登場させただけなのでしょう。

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しかし、なんだかショボそうなゲームのモンスターも最新技術のCGIで再現するとこれがかなーりリアルで相当に凶暴、こんなモンスターたちが街をメチャクチャに壊してゆく様はモンスター映画のカタルシスたっぷりです。

とはいえ、この3匹のモンスター、なんかこー既視感を覚えてたまりません。

まずゴリラの巨大化したヤツはどう見たってキングコング じゃないですか。

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そしてワニのデカクなったヤツ、コイツは『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966)でガメラと戦うバルゴンじゃないっすかね。

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一方オオカミなんですが、これがなんと巨大化するとムササビみたいな飛行膜を持っている!なんでオオカミが!?と思う以前にコレ、東宝の怪獣映画『大怪獣バラン』(1958)そっくりなんですよ。

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 で、こんなオッカナイ怪獣どもが3匹集まって大暴れするとなるとこれは『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(1970)ですね!f:id:globalhead:20181001104900j:plain

もしくはゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘(1966)という言い方もできるかもしれない!

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 それにしても東宝怪獣って、なんで南海に集結したがるんですかね。

 そしてそんな大怪獣と戦うのがロック様ということなんですな!

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「俺の妙技をたっぷりと味わうがいい!」

カリフォルニア・ダウン』(2015)では地震と戦い、『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』(2017)ではゲーム世界と戦い、つい最近では『スカイスクレイパー』で絶賛炎上中の高層ビルと戦い、そのどれもで勝ち星を挙げ続けるロック様にとって、怪獣如きなど赤子の手を捻るようなものでしょう。もはやロック様は娯楽アクションのアイコン的存在、かつてのチャールトン・ヘストンのような役割を昨今のハリウッド映画で成し得ているのかもしれません。

ただちょっと残念だったのはこの『ランペイジ』、折角なんだからロック様も巨大化して怪獣と戦ったほうが100倍ぐらい面白かったんじゃないかということですね! 

ところで、うんざりするほどしょーもない映画撮らせたら世界でも右に出る者のいないドイツのしょーもない映画監督ウーヴェ・ボルがこの映画に訴訟起こそうとしたというからびっくりですよ。

2018年3月下旬、ドイツ人映画監督のウーヴェ・ボルは映画のタイトルを変更しない場合、ワーナー・ブラザースに対して訴訟を起こすと主張した。彼は自身が監督した『ザ・テロリストシリーズ』(原題:Rampage)とタイトルが同じため、『ランペイジ 巨獣大乱闘』によって今後の収入に悪影響が出ると指摘している(ただし、タイトル以外に映画の類似点はない)。また、タイトルが同じため「観客が混乱する」と述べた他、『ランペイジ 巨獣大乱闘』について「映画スタジオがアメリカ人を洗脳する典型的なポップコーン馬鹿映画の一つ」と酷評している。

ランペイジ 巨獣大乱闘 - Wikipedia

「映画スタジオがアメリカ人を洗脳する典型的なポップコーン馬鹿映画の一つ」ってねえ、まあ間違いはないんですが、

ウーヴェ・ボル、お前が言うな。


巨大化生物が大暴れ! 映画「ランペイジ 巨獣大乱闘」予告編

人類滅亡5000年後、残された人々の未来を描く最終編『七人のイヴ III』

■七人のイヴ III / ニール・ステーヴンスン

七人のイヴ III (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

月の無数の破片が落下する“ハード・レイン”により地球が滅亡し、それから5000年の月日がたった。その直前に宇宙に脱出して生き残った人類、「七人のイヴ」の子孫たちは、月が元あった軌道上に無数のハビタット宇宙エレベーターを建設して、七つの人種による新しい文明を築きあげていた。一方、いったんは不毛の地と化した地球では、ふたたび地上で暮らすために、テラフォーミングが進められていた。だが、思いがけない発見により、“ブルー”と“レッド”二陣営に分かれた地球の覇権をめぐる戦いへと発展していく…。全滅の危機に立ち向かう人類の未来を描き上げたSF巨篇、堂々の完結へ!

破壊された月の破片が巨大隕石となり地球に降り注ぎ、地球は死の惑星と化した。災厄を察知した人類は少数の人間を宇宙ステーションに送り込んだが、生き延びたその末裔たちが地球に再び降り立つのは、月破片が降り止む5000年後を待たねばならなかった……というニール・ステーヴンスンの長編ディザスターSF小説『七人のイヴ』、全3巻の最終巻第3部が発売された。

そしてこれまでの1,2巻は近未来を舞台に地球滅亡と最後に生き残った人々の姿までを描くこととなったが、この第3巻ではいきなり「5000年後」である。即ち人類が再び地球の地を踏む場面からが描かれるという訳である。

とはいえ、なにしろ第3巻ともなると物語全体の3分の2を過ぎてからの物語であり、その第3巻の内容をあれこれ書くとなるともはや物語の殆どを語ってしまうことになる。いわゆるネタバレ必至ということである。ではあるがこの3巻にはいろいろ思うことがあるので書いておきたい。というわけで、今回はラストまで触れるネタバレ全開の記事になりますので、そういうのを避けたい方はここで止めておきましょう。

じゃあ書くよ!

 

5000年後の人類、それは2巻ラストで生き残った7人の女性が単為生殖を繰り返しさらに交配を重ねながら7つの氏族に分かれた社会だった。彼らは5000年のうちに高度な科学技術を発展させ工業化を可能とし、地球軌道上にリング状に連なるコロニーを形成し、その人口を億単位にまで増やしていった。彼らの目標は地球に再び降り立つこと。即ちテラフォーミングならぬテラ”リ”フォーミングである。地球壊滅から5000年たった現在、そのテラリフォーミングは大気と海、植物・動物の再生まで漕ぎ着け、移住は目前と考えられていたが、幾つかの問題が存在していた。それは軌道上の人類が「ブルー」「レッド」の二派に分かれ戦争状態である事、さらに地球上に軌道上人類とはどうやら違う人類の姿が発見されたことだった。こうして再生しつつある地球に7つの氏族で形成された監視団が派遣されることとなるのが本編の粗筋である。

まずなにしろ「壊滅した地球」の「テラリフォーミング」というアイディアが秀逸だ。そして5000年後という遠未来における変貌した人類の姿とその社会、さらにその驚くべき科学技術、という点に目を見張る。本作は1,2部が近未来が舞台のディザスター&サバイバルSFだったが、この3部で遠未来SFという形でいきなり趣が変わってしまうのも驚きだ。

とはいえこの変則的な構成が物語全体の流れを淀ませ読む者を戸惑わさせていることも否めない。まずこの第3部では「(5000年後の)現在起こっている事」の合間合間に「この5000年の間に起こった事」が小出しで語られる構成になっている為、「現在」の出来事がなかなか進まず、さらにその「現在」の驚くべきテクノロジーにしてもいちいち科学的な説明を差し挟むことになり、それはそれで必要なのだけれども物語展開がさらに停滞する、という悪循環に至っている。物語の3分の2を過ぎていよいよ興が乗ってきた段階でこのスピードダウンは物語全体の印象を悪くしてしまう。

これは3部構成に拘ったからの過誤で、むしろ災厄から5000年後の現在までの歴史は搔い摘んだ形で「間奏」的にもう一章割き、そして改めて「5000年後の現在」を時系列を追って書いた方がすっきりしたのではないか。これでは終章の筈の第3部が5000年間分の雑駁なまとめとエピローグ的な小振りな物語を混ぜこぜにしただけのカタルシスに乏しい文章になってしまう。

もうひとつ納得ができなかったのが「7人のイヴ」から派生した人類が5000年間の交配がありながらそれほどの交雑をせずあくまで7つの氏族であることに拘り原初のイヴの特性を今現在まで残している、という設定である。いや、遺伝子混ぜましょうよ。設定は珍奇ではあるが説得力が薄いのだ。さらに戦争状態って。これも「5000年の間にいろいろあった」ってだけの説明しかなくて、なんかもう設定のための設定としか思えない。

そして地球に残った人類が洞窟を掘ってその中で5000年生き永らえていた、という新事実だ。これは前の章で伏線が貼ってあったからその存在は理解はできるとしても、地球に雨あられと隕石が降っている中一歩も地下から出ずに数千人の人間が5000年間生き延びる、というのはいったいどういったテクノロジーや社会が必要なんだ。軌道上に人類が5000年間生き延びるテクノロジーは物語内であれだけきちんと説明しているのにこちらは説明がほんの少しで、なんだか誤魔化されているような気分になっちゃうんだよな。それと!ラストのあれ!海の!あれだってどういうことだよ。

結局、大団円である筈の第3章に過去と現在を詰め込んだ挙句物語性はエピローグ程度の薄さで、そこで発見された新事実にも何も説明が無い、というどうにもこうにも竜頭蛇尾な物語構成になってしまったのがこの『七人のイヴ』ということになってしまう。とはいえ作者のアイディアややりたかったことは実に分かるんで、駄作とか失敗作とも言い難い実に惜しい何かがある。結構イイ線まで行ってるんだけど噛み砕き不足で空中分解してしまった、あーこれニール・ステーヴンスンの長編によく見られる傾向だしある意味実にニール・ステーヴンスンらしい作品として終わっている、そしてニール・ステーヴンスンらしい作品ってどれもイマイチな微妙さを持ってるんだよなーとまたもや納得させられてしまった、なんとも歯痒い作品として終わっていた。悪くは無いんだけどなー!