言葉の障壁、人種の障壁、女であることの障壁〜映画『マダム・イン・ニューヨーク』を「女性映画」と決めつけてはいけないこれだけの理由

■マダム・イン・ニューヨーク (監督:ガウリ・シンデー 2012年インド映画)


ニューヨークに住む姪の結婚式の為、インドからやってきた主婦シャシ(シュリーデーヴィー)。しかし彼女は英語が大の苦手であり、家族からも笑いの種にされ、ニューヨークの街でも災難続き。しかし彼女は決意した。英会話を習って、立派に英語を話せるようになろうと。

この映画は、一人のインド人主婦が困難を乗り越え自分自身の素晴らしさに気付くという物語であり、その主人公の女性ならではの心の機微を描く作品であり、脚本も務める女流監督ガウリ・シンガーによるデビュー作にして大ヒット作であり、「インド映画史100年におけるNo.1女優」とさえ謳われる美貌の人気女優シュリーデーヴィーの、結婚後半ば引退しつつ15年を経た復帰作であり、彼女の着こなす色鮮やかなサリーの美しさが話題の一つとなった映画であり、そういった部分で「女性映画」として人気を集め、喜ばしいことに日本でも大ヒットしているインド映画ではあるが、しかし「女性映画」と一括りにして一件落着するような作品では決して無いのだ。

『マダム・イン・ニューヨーク』はインドからニューヨークにやってきた主婦の物語であると同時に、彼女が英会話スクールで出会う様々な外国人の物語でもある。英会話スクールにやってきた生徒たちは、一人のフランス人男性を例外として殆どはエスニック系の人種だ。彼らもまた、アメリカにやってきて言葉の壁にぶち当たってしまった自分を抱えてここにやってきている。つまり大きな目で観てみるならば、この『マダム・イン・ニューヨーク』はシャシという一人のインド人主婦を代表例としながら、アメリカにやってきた様々なエスニックの姿を、彼らの胸の中に去来する様々な思いを描いているということもできるわけだ。彼らは人種的マイノリティであるが、その彼らを教えるのがセクシャルマイノリティ、すなわちゲイのアメリカ人男性である、という部分が実はこの作品のポイントでもある。

この作品であまりにシャシが家族から軽んじて見られている様子に疑問を持った方もいるようだが、インドにおける女性の立場は、現代でもヒンドゥー教に基づく強烈な家父長制などの理由から、差別や蔑視の中で生きることを余儀なくされていると聞く。そんなインドから言葉の通じないアメリカへ一人のエスニックとして訪れたシャシは、実は【二重の意味において疎外された存在】だということができるのだ。そういった部分を鑑みるなら、この物語が単に英語の苦手な外国人女性が英語を覚えて自分に自信を持つ、という単純な物語ではないことが分かってくる。

この作品で主人公シャシは、アメリカにおける人種的・性的マイノリティの人々と接し、彼らと共に言葉という壁を乗り越え、友愛の情を分かち合う。それにより自らの人種的マイノリティを乗り越えるのと同時に、インド女性という疎外された立場を乗り越える。それは「共感」という感情が育む自己肯定なのだ。それが最も端的に表現されているのが、あの素晴らしいクライマックスなのではないか。そういった、人間の普遍的な感情である自己肯定の欲求を描いているという部分で、この作品を単に「女性映画」の括りに落とし込むことで安心してしまう、もしくは興味が無いと無視してしまうのは大変もったいないことだと思うのだ。

なおこの作品をインドから買い付け上映までこぎつけた方の、上映までの並々ならぬ悪戦苦闘を書いたブログ「ボリウッド映画を買ってみました」が本当に素晴らしい。映画を愛するとはどういうことなのか、そしてある意味マイナージャンルな映画を上映するまでにはどんなことが待っているのか、インド映画に限らず、映画というものが好きな方なら読んで心熱くさせられること必至であろう。そしてこのブログ主の方の次の配給作品は、あの『ダバング 大胆不敵』だ!応援したい!
http://www.youtube.com/watch?v=Vc9olt8s2F4:movie:W620