8ビットゲームキャラに襲われた地球を救うのはオタク野郎だった!?〜映画『ピクセル』

ピクセル (監督:クリス・コロンバス 2015年アメリカ映画)


いつもゲームゲーム騒いでいるオレだが、実はファミコンをはじめとする8ビットゲームは殆どやっていない。ゲームをやりはじめたのは20代を過ぎてから、スーパーファミコンの頃だったのだ。20代を過ぎてからゲームをやり始めるというオレの人生の紆余曲折はさておき、スーパーマリオスペースインベーダーなどといったゲームにまるで思い入れが無いのである。ちょっとは触ったが、やってないに等しいからだ。そして実のところ、やってみてもたいして面白いと思わなかった。ゲームセンターにも行かなかったし、スーパーファミコンで遊びまくった後に「ファミコンのゲームというのもやってみるか」といって遊んだのは主に『ウィザードリィ』シリーズぐらいなものだ。だからいわゆる"レトロゲーム"と呼ばれるものを見ても懐かしいとかいった感情は無いのである。だがしかし、この『ピクセル』は面白く観ることができた。

映画『ピクセル』は「宇宙人が8ビットゲームキャラで地球を侵略しに来た!」という荒唐無稽な物語である。なんでも、NASAが"人類との友好のため地球文化を知ってもらいたい"とゲーム映像を宇宙に送り出したところ、どこかの宇宙人が「これは宣戦布告のメッセージだ!」と誤解したということなのらしい。それで地球の8ビットゲームキャラを侵略目的で送り込む、というのもよく分からないが、「最初に3回勝ったほうが勝利者。お前らが負けたら地球はおしまいだからな」とかいうルールまで勝手に押し付けてきているではないか。これを知ったアメリカ政府はてんやわんや、世界最強のアメリカ軍ですらゲームキャラには勝てる見込みはない。それでは…ということで担ぎ出されたのが子供時代に天才ゲーマーだったがいまやすっかり負け犬に成り果てたオタク野郎、というわけなのである。

オタク野郎サム・ブレナーは子供時代に「パックマン」の世界チャンピオンであり、「ドンキーコング」でも準優勝まで上り詰めた男だ。だがそんなゲームの優勝歴など社会生活に何の役に立つわけもなく、大人になった彼はしがない電気屋に身をやつしている。まあ、本人はそんなことなんとも思ってないようなのだが、やはり世間一般的には「負け犬野郎」扱いだし、この物語でも橙色の悪趣味なお仕着せ着た見るからにボンクラな格好で現れる。別にゲーム好きが全て負け犬野郎の筈もないが、ゲームぐらいしか取り柄が無いと「オタク」のレッテルを貼られ世間の認知度も低いということになるのだろうか。まあそういうオレも、30、40過ぎてから会社の上司に趣味を聞かれ、「ゲームです」と答えると生温い笑顔で迎えられるのが常ではあったが、50過ぎた今でも堂々と「趣味はゲームです」と答えてやはり生暖かい笑顔を浮かべられてる。

この『ピクセル』のテーマとなるのは、単に「8ビットゲームキャラが襲ってくる!」という絵空事のみにあるのではなく、例えばエドガー・ライト作品『ワールズ・エンド』と同様な、「人生の負け犬が地球を救う!」という、いわゆる「どん底に生きる男の敗者復活戦」にあるのである。この『ピクセル』にしても『ワールズ・エンド』にしても、宇宙の侵略者と最終的にタイマン張り、地球を救おうとするのは、「社会の落ちこぼれ」でしかない主人公だ。「社会の落ちこぼれ」でしかない主人公は、その敗者復活戦において、金持ちになるのでもなく、美女を手にするのでもなく、そういった社会的成功や利己的成功とは全く関係ない、「全世界の救済」という、文字通り無私の救世主的行動に命を張るのである。「落ちこぼれ」が「世界の救世主」に。これほどの大逆転が他にあるだろうか。画面に躍る8ビットゲームキャラよりも、この落差こそが、この物語を面白くしているのだ。

アメリカン・コメディの主軸となるテーマの多くは、この「負け犬の敗者復活戦」を描いたものであるといってよく、例えば『俺たち』シリーズなどでも知られるウィル・フェレル出演作品の大抵がそうだし、この『ピクセル』で主人公を演じるアダム・サンドラ―も、出演したその多くのコメディ作品の中で、常に「負け犬の敗者復活戦」を演じてきた。オタク、バカ、ブサメン、貧乏人、社会的弱者、こういったアメリカ社会の中で鼻もひっかけてもらえずとかく落ちこぼれてしまいがちな連中に「お前らだってチャンスがあるさ」と肩を叩いてくれるのがアメリカン・コメディだったりするのだ。これは同情や共感といった感情もあるのだろうが、むしろ「誰にでもチャンスはある」という実にアメリカらしい考え方がその根底にあるからのような気がする。

http://www.youtube.com/watch?v=_38VwIfWjg8:movie:W620