ブーリン家の姉妹 (監督:ジャスティン・チャドウィック 2008年イギリス・アメリカ映画)

■偏差値38から分かる「ブーリン家の姉妹」

昔々あるところに「ぶりてん島」という島がありました。そこには代々大猿が住み着いておりました。その島の猿を統べるボス猿は「えどわど」という名前で、とても逞しく力強く、そして狡猾で残忍な猿でした。
さて、「えどわど」にはメス猿の妻がおりましたが、これがなかなかオスの子を生みません。世継になるオス猿がいないと困った事になります。「えどわど」のおべっか使いで蚤取り役の猿の一家、「ぶうりん」の父猿は、「ウキキ、うちの娘猿を差し出して世継を生ませ、えどわど様に取り入ろう、キッキ」と、二匹いる娘猿のうち姉猿の「あん」を「えどわど」に差し出すことにしました。
しかし「ウッキー!このメスと交尾したい!キッキ」と「えどわど」が選んだのは妹猿の「めありい」でした。姉猿の「あん」は怒り心頭です。
「ウッキキー!妹のほうがえどわど様に気に入られるなんてありえないッキー!もっとえどわど様を誘惑して、そしてえどわど様の古女房も追い出して、このあたしがお后になるッキー!」。
しかしこれまで、つがい同士は終生連れ添うことが掟になっていた猿社会で、つがいが解消されるなどということは有り得ません。しかし姉猿あんの鼻息はどこまでも荒いものでした。「キキー!掟なんて変えちまえばいいのよー!ウキッキー!」こうして姉猿あんの野望は猿社会を乱すほどに大きく膨らんでいくのでありました…。

■アン…恐ろしい子ッ!

ナタリー・ポートマンスカーレット・ヨハンソンエリック・バナ主演でチューダー朝の英国宮廷物語と聞くと、ケバイ衣装とケバイ内装の虚仮脅かしぶりを競う、よくある大仰な歴史ドラマなのかと思って観に行ったが、どうしてどうして、嫉妬と奸計と野望渦巻く血なまぐさい権力闘争の物語で、黒い頭巾被った死刑執行人のおっさんが鼻歌で「与作」を唄いながら首ちょんぱの連打をかました頃には嬉しくてニコニコしながら画面を観ていたオレである (注:「与作」のくだりは単なる冗談である。信用しないように)。

なにしろナタリー・ポートマン演じる所のアン・ブーリンが「恐ろしい子ッ!」状態なのである。まあ要は「アタシのほうが出来る子だもん!」という些細な見栄とつまらん意地から始まったことなのではあろうが、その結果は歴史の示すとおりである。しかし女を武器に男社会にあれほど影響を与えるが、最後に女であるからこそ男社会から葬られたというのも哀れといえば哀れな話だ。男を焦らす狡知に長けていても、出産といういわば運任せの事柄を切り札にしてしまったのがそもそもの敗因ともいえるが。

■猿山の大将

娯楽映画である以上、メロドラマ風の描かれ方をされているのは致し方ないだろう。映画では愛に悩むヤサ男然として描かれるヘンリー8世は、歴史的に見ると結婚の為にローマ教皇と対立してこれと離反したり、お后を6人も娶ったり、側近やお后を次々と処刑していったりという史実から、苛烈で暴虐な人物のようにみられるかも知れないが、いってしまえば「そういう時代だったんじゃねーの」というだけの話なのだと思う。
家父長主義的な「家」単位の社会制度が重んじられていた封建制時代においては、「個人の自由」というものは圧殺されていたり顧みられていなかったりしていたように捉えられがちだが、実際は「個人の自由」という発想そのものがそもそも存在していなかったとも言えるのだ。個人主義というのは後世になって"発見"されることによって初めて存在したのだという事もできる。だから時代劇によくある「意思に反して知らない男と結婚させられる娘の悲劇」などというのは、現代的な自己観念の在り方を過去の風俗に投影しているだけの表現でもありうるのだ。
ただどちらにしろ、権力とそれを取巻く思惑、陰謀術策の物語というのは、いつの時代にも生々しく下世話で、そして仄暗い熱狂を帯びている。これらの情景にはいつも猿山で吼える猿の群れを想像してしまう。案外人間というのは、それほど進歩なんかしていないものなのではないかと、そんな時よく思うのだ。まあそういうオレも猿並みのアタマの男ではあるが。

■ブーリン家の姉妹 予告編