崖の上のポニョ (監督:宮崎駿 2008年日本映画)

■崖の上にいるもの

それは…暗く冷たい深海に潜んでいた。いつの頃からそれが存在していたのかは誰も知らない。しかし、人類が大地をくまなく闊歩し、生態系の頂点として君臨する遥か以前の、名も無き古き時代より、それらの眷族は地球の支配者として存在していたのだ。邪悪な力を持つこれらの旧支配者は、再び地上を我が物にせんと、闇の中で異形の瞳を輝かせていた。
きっかけは、邪神崇拝者に身を堕し、自らも異形たちの能力を身に着けたフジモトと呼ばれる男の、不気味な海底祭祀場で起こった。かつて彼が太古の神グランマンマーレとのおぞましい交合によってもうけられた半人半魚の生命、Ponyoが、人類との接触を果たし、人間の肉体を得ることで、これと同化する事を選んだのだ。
フジモトはほくそえんだ。人類への逆襲という遠大な計画が、これで一つ駒を進める事が出来る。Ponyoの無垢を装った相貌に人類は何一つ警戒しようとしない。Ponyoが人類の共同体の中に入り込み、受け入れられた時、血も凍るような破壊と蹂躙が、人間どもの身に起こる事となるのだ。
そして今まさに、Ponyoの巻き起こした嵐と高波が、人類たちの居住区を、玩具の城を蹴り崩すように、ばらばらに引き裂いていた。成す術も無く海へと飲み込まれてゆく人々。破壊の歓喜に咆哮をあげるPonyo。人類たちの悲鳴に哄笑をあげるフジナミ。忌まわしき時代の到来に艶かしく身悶えする古代神グランマンマー。
邪神たちの恐怖に満ちた侵略が今始まろうとしている。クトゥルフ神話の新たなる物語、この夏最大のホラー映画『Ponyo:崖の上にいるもの』、ただ今絶賛ロードショー中!

■顕世と幽世

…えー、以上は冗談です。しかし、宮崎駿の新作アニメ「崖の上のポニョ」は、こんな冗談を言いたくなるほど、実は不気味で異様な要素を孕んだアニメーションなんです。この物語が、アンデルセンの「人魚姫」を、現代の日本に移し代えた物語であることは、大体の方はご存知かと思いますが、宮崎駿が作り上げたものは、「リトル・マーメイド」なんかでは全く無く、スチュアート・ゴードンも真っ青の異形たちの饗宴だったのです。言ってみればこれは、性格の明るくなっちゃったラブクラフトが、パステルカラーで描いたかのようなクトゥルフ神話なんですよ。映画自体は面白く出来ていて、オレは結構好きだったんですが、しかしなんでこんな映画になっちゃったんでしょう?

例えば宮崎アニメの文脈から観ると、これは現実世界と異界、顕世(うつしよ)と幽世(かくりよ)を行き来する物語だということが出来るんではないかと思います。宮崎アニメで描かれる異界は、ファンタジー物語でよく描かれるような、単なる「もう一つの(逃避的な)別世界」というよりも、「人間の理(ことわり)の通用しない、現実とは対立した世界」として描かれているのではないか。そしてそれは同時に存在しつつも共存を拒みあっている世界のような気がします。さらにそれはどこか「死」の匂いをさせていると思うんです。

風の谷のナウシカ」では腐海に侵され滅亡しかけている人間世界、というのがあったし、「天空の城ラピュタ」のラピュタ城は、既に死に絶えた世界です。「となりのトトロ」は一見異界と現実世界が共存していますが、「さつきとメイは実は死んでいた」という都市伝説があります。死んでいたかどうかはともかくとして、幽界に飲み込まれるという怖さがあの物語のどこかにあったのではないか。「もののけ姫」は顕世(うつしよ)と幽世(かくりよ)というモチーフがかなり顕著な作品であることは説明するまでも無いでしょう。「千と千尋の神隠し」もまさしく異界に連れ込まれて帰ってこられなくなる物語。こんなふうに、宮崎アニメには、常に現実と相容れない異世界の存在が描かれていたのではないか。

アニミズム的世界

それにしても、子供たちも多く観るであろうジブリアニメ作品に、なぜ宮崎はこれだけ死の匂いと異様な別世界を顕在させようとしているのでしょう。それは宮崎の持つアニミズム的世界観にあるのではないか。

宮崎が作品の中で頻繁にテーマとするアニミズム的な世界観は、世界を人間中心とは捉えていません。むしろ、自らを世界の中心であるとする人間を、奢ったものであると考えているのかもしれない。生命というものの価値がどれも等しいのだとすれば、同様に、死もまた等しくそれら生命に与えられる。即ち、死とは、常に顕在するものである。そして、人間の理(ことわり)のみがただ一つの理(ことわり)でなく、そしてまた最も正しい理(ことわり)ですらない以上、人間には相容れることの無い異様な世界の理(ことわり)も、それもまた正しいものであり、それが人に理解され得るかどうかは別の話である。

単純に”アニミズム”の括りだけで宮崎アニメを分析してしまいましたが、宮崎アニメに存在する死生観と異世界、というのは、宮崎のこういった相対主義的な世界観があるからなのではないか。

■生への希求

映画の冒頭では、無数の生物がみっしりと海中を漂う様が描かれます。それは幼生であるプランクトンから成体となった軟体生物、魚類、甲殻類まで様々です。これら海中に遍く存在する生命は、それが単純なものであろうと複雑なものであろうと等しく一つの生命です。そして生命に満ち溢れている、ということは、それらが己の生命を存続させる為に他を貪るという、死と危険の存在する世界でもある。生の溢れている所には死も溢れている。これが生物界であり、生と死もまた常に同等なんです。即ち宮崎アニメで描かれる死とは、常に遍在するものであるということなんです。

そして人間になり、主人公の少年と寄り添いたい、と願うポニョが、あたかも両生類が変態するが如く奇怪に体形を変えてゆくのは、激烈に躍動する生命力を視覚化しようとしたものなのでしょう。また、少年に恋焦がれ、生き物と化した大波の上を駆け続けるポニョの姿は、まるで恋に狂った鬼女を思わせます。しかし、恋、そしてそこから導き出される生への渇望というのは、このように激烈なものであるんです。これもまた、一つの強烈な生命力を表現したものであると思います。

このアニメが、不気味で異様なものを孕んでいるとすれば、それは、生というものを生々しく描こうとしたからなのではないのでしょうか。生々しい生は、時として奇怪であり、奇態なものであったりもします。しかしだからこそ神秘的であり、美しくもあるのです。「崖の上のポニョ」はこのように、死と異界とをモチーフにしながら、生と生命力への、強い希求と喜びを描こうとした映画だったのではないでしょうか。

■〈Perfumelove the world崖の上のポニョ

Perfumeの曲とポニョの唄のマッシュアップ!これがまた実にぴったりはまってます。
http://jp.youtube.com/watch?v=gG1ch86XDmA&feature=related:MOVIE