ホラーアドベンチャーゲーム『Alan Wake 2』をクリアした

Alan Wake 2  (PS5, PC, Xbox Series X/S)

《物語》一連の儀式的殺人を調査するため、太平洋岸北西部にある小さな町ブライトフォールズへやって来た優秀なFBI捜査官サーガ・アンダーソン。自身の言葉によって姿を変える恐ろしい異界、闇の世界に何年も閉じ込められた作家、アラン・ウェイク。一度も会ったことのない2人が2つの現実をまたいで結びつき、それぞれの行動がもう一方の世界に影響を与えていく。 

Alan Wake 2 | ゲームタイトル | PlayStation (日本)

2010年に発売されたTPSタイプのサイコロジカル・ホラーアドベンチャーゲーム、『Alan Wake』の続編。パッケージ版はリリースされておらず、ダウンロード販売のみとなる。

1作目『Alan Wake』の物語は、作家である主人公アラン・ウェイクが悪夢的な世界に放り出され、自分が書いた小説の登場人物に命を狙われるといったもので、スティーヴン・キングモダンホラー小説から大きな影響を受けていた。戦闘システムがちょっとユニーク。夜の山の中を亡霊から延々逃げ惑いながら戦うのだが、亡霊は光に弱いという設定で、出遭ったらまずフラッシュライトでひるませ、そこを銃器で攻撃する、というシステムになっている。また、家の中や街燈の下など光のある場所に逃げ込むと亡霊は手出しできない。これをうまく組み合わせながら攻撃・逃走を組み合わせてゆくのだ。

この『2』は1作目からストーリーを引き継ぐが、今作では悪夢世界の中に取り込まれたアラン・ウェイクと、カルト教団による猟奇殺人事件を捜査するFBI捜査官サーガ・アンダーソンの二人の主人公の物語を交互にプレイすることになる。今作でのシステムは前作を引き継ぎながら今作独特のものが打ち出される。まずサーガ・アンダーソンでのプレイでは、プレイ中に沢山の証拠を集め、その証拠を元にした「プロファイリング」という作業をしなければゲームを先に進めることができない。アラン・ウェイクでのプレイでも同様で、様々な証拠を集めそれを基に「現実を書き換える」という作業が必要になる(作家なので)。

この「プロファイリング」や「現実の書き換え」がゲーム世界の雰囲気を盛り上げ、深みのある物語にしている。ただ、これにより作業が煩雑になりテンポが悪くなっており、あまり楽しめるシステムではなかった。こうして盛り上げたストーリー自体も、どうにも複雑すぎるだけで、それほど面白いとは感じなかった。最もうんざりさせられたのは敵となる亡霊の存在で、これは場面によって倒す必要もなく、倒しても爽快感はなく、さらにどれも変わり映えがせず、ただ邪魔なだけなのだ。

グラは相当にリアルで、また登場人物とそっくりの実写映像が用いられている(というか3Dスキャンされたアクター自身なのだろう)。章が終わる毎にそれぞれ新しい楽曲が流れるなど、かなり野心的な部分も見られた。そういった面で完成度も評価も高いゲームなのだが、オレにはどうも今一つだった。オレ向きじゃなかったということなんだろうなあ。クリア時間約40時間。

 

意識と無意識の領域に切り込んだ怪奇小説『ジーキル博士とハイド氏』

ジーキル博士とハイド氏 /スティーヴンスン (著), 村上 博基 (翻訳)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。二人にどんな関係が? 弁護士アタスンは好奇心から調査を開始する。そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる! 高潔温厚な紳士と、邪悪な冷血漢――善と悪に分離する人間の二面性を追求した怪奇小説の傑作であり、「悪になることの心の解放」をも描いた画期的心理小説、待望の新訳!

最近定番的な古典怪奇小説をぽつぽつと読んでいるのだが、今回選んだのはイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンにより1886年に上梓された『ジーキル博士とハイド氏』。これもタイトルだけは有名だがあまり読まれていない小説の一つだろう。翻訳は多数出版されているが、今回もKindle Unlimitedで読める光文社古典新訳文庫で読んでみた。ちなみに作者であるスティーヴンソンはあの『宝島』の作者でもある。

内容については今更述べる事もないだろう。善良な博士ヘンリー・ジーキルが自分自身を実験台にして、自ら開発した薬により邪悪な人格エドワード・ハイドを創り出すという物語だ。いわゆる「人間の二面性」あるいは「二重人格」を描く物語の嚆矢となった作品であり、「ジーキルとハイド」という言葉自体が二重人格を意味するものとして認識されるほどになった。

その後このテーマはスティーブン・キング作品『ダークハーフ』や『シークレットウインドウ』、 チャック・パラニューク作品『ファイトクラブ』、デニス・ルヘイン作品 『シャッターアイランド』でも扱われ、M・ナイト・シャラマン映画『スプリット』ではなんと23の人格を持つ男が登場する。一人の人間の中に別の人格が存在する、というのはやはり不気味であり、人を不安にするものなのだ。

小説それ自体はいわばミステリー的な体裁をとっている。まずは前半。時は19世紀、ロンドンの町にハイドという名の小柄で醜怪な男が徘徊し、道歩く人に暴力をはたらき、遂には殺人まで犯すが、その行方が掴めない。弁護士アターソンは目撃情報からある館を訪ねるが、そこにはジーキルという名の大柄な科学者がいるばかりだった。しかしアターソンはジーキル博士とハイド氏の関係を疑い始めるのだ。

ただし今現在であればもはや「ジーキル博士はハイド氏である」と”ネタバレ”しているので、前半部のミステリー構成は読んでいて退屈なのは否めないだろう。しかし後半、その真相が発覚してからの物語が逆に面白い。それは、そもそもなぜ善良な男ジーキルが、わざわざ薬物を開発してまで邪悪な別人格を持とうとしたのかが明かされるからだ。人は求めて邪悪になりたいなどと思わないはずではないか。

実はジーキル博士は善良な性格でありながらも、自らの中に悪辣な性質もまた存在することを自覚していた。そして彼は薬物によって自らの善と悪を分離することにより、罪悪感なく悪辣な行為を謳歌することを欲してしまったのだ。最初は「表の顔と裏の顔」を使い分け背徳的な生活を楽しんでいたジーキルだったが、次第に「裏の顔=ハイド」が勝手に現れて「表の顔=ジーキル」の日常を飲み込んでしまい、遂には破滅の日が訪れてしまうである。

即ちこの物語は、精神の裡にある鏡像のように相反する二面性をテーマにしたものというよりも、無意識下に抑圧された感情が人為的に顕在化したことによって意識が侵食され、最終的に自我が破壊されてしまう、という物語ではないか。解放された抑圧が破壊的に振舞ってしまったということなのだ。つまりあくまでフィクショナルではあるが、フロイトユングよりも早い時期に意識/無意識の領域に切り込んだ作品だという事ができるのだ。そういった部分においてこれは案外と史上初のサイコサスペンス小説だったのかもしれない。

映画『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』を観た

ゴーストバスターズ/フローズン・サマー (監督:ギル・キーナン 2024年アメリカ映画)

ゴーストバスターズ』も実に息の長いシリーズ物で、1984年に第1作『ゴーストバスターズ』、1989年に第2作『ゴーストバスターズ2』、その後しばらく音沙汰がなかったけれども2016年にリブート作の『ゴーストバスターズ』が公開され、これがたいそう面白い作品だったので今後に期待していた。

しかしこのリブート版『ゴーストバスターズ』は無かったことにされ、2021年に「正式続編」として『2』の続き『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』が公開、するとこれが箸にも棒にもかからない駄作映画でがっかりしていたところ、そのまた続きの作品としてこの『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』が今年公開が決まったのである。

前作『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』がつまらなかったのは、1,2作目のノスタルジーで作られたような内容だったからだ。一応新規キャラが配役はされているが、数10年前の前作キャラの俳優が引っ張り出され、数10年前とたいした代わり映えのしない展開を見せるだけだった。これだったら主要キャラが全員女性だったリブート版『ゴーストバスターズ』の方が100倍ぐらいマシな作品だった。

で、つまらなかった『ゴーストバスターズ/アフター・ライフ』の続きとなる『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』、予告編を観る限り意外と攻めており、「こりゃひょっとしたら割とイケてるかも」と観に行ったのだが。

《物語》真夏のニューヨーク。日差しが降り注ぐビーチで大勢の人々が海水浴を満喫するなか、海の向こう側から突如として巨大な氷柱が大量に現れ、街は一瞬にして氷に覆われてしまう。ゴーストバスターズとしてニューヨークの人々をゴーストたちから守ってきたスペングラー家は、その元凶が全てを一瞬で凍らせる「デス・チル」のパワーを持つ史上最強のゴーストであることを突き止め、事態を解決するべく立ち上がる。

ゴーストバスターズ フローズン・サマー : 作品情報 - 映画.com

結論から言うなら今作もダメだった、つまらなかった。予告編やあらすじでは「ニューヨークの街を最凶のゴーストが襲う!」というものだが、冒頭に予兆すらあれ最凶ゴーストが大暴れしてゴーストバスターズの面々がそれと戦うのは後半も後半。ではそれまで何をやっているのかと言うと器物損壊しまくりのゴーストバスターズがいつものように怒られていたりとか、新キャラのフィービーが若すぎるという理由でゴーストバスターズ・メンバーから外されしょんぼりしていたりとか、たいした盛り上がらないシーンを延々見せられるのだ。

最凶ゴースト・ガラッカにしても来歴はなんとなく語られはするのだが特に深く掘り下げられているわけではなく、『ゴーストバスターズ2』におけるボスキャラ・ヴィーゴのようなオカルティックな設定が抜け落ちているばかりになぜこんなに最凶なのかなんだかよくわからない。ビームの効かないガラッカへの対抗策も思い付きのようなものだし、火を操る助っ人キャラの登場は取って付けたみたいだし、最終対決ではメンバー全員デクの坊のように突っ立ってるだけで何の役にも立っていない。なにしろ全体的にシナリオが行き当たりばったりで物語が薄すぎる。そんな訳で相当退屈してしまった。

とはいえ、あまり悪し様に言うべき作品でもないようにも思えた。というのは、どうもこの作品、実は低年齢層向けに作られたものなのではないかという気がするからだ。映画館には結構家族連れの観客もいたのだが、やはりそういった層をターゲットにした作品なのだろう。そう考えるなら深みのないシナリオも人間関係も設定も、オチャラケたゴーストも、単純で分かり易くて刺激が強すぎなくて、家族が週末に観る映画としては悪くないではないか。

そういった部分で、個人的には楽しめなかったが、お子さんのいる家庭向けとしては、それなりに選択肢に挙げられる映画なのではないかと思う。だいたいゴーストをキャプチャーするのってポケモンの走りみたいだしな。

 

 

映画『オッペンハイマー』はクリストファー・ノーランの最高傑作だと思う

オッペンハイマー (監督:クリストファー・ノーラン 2023年アメリカ映画)

クリストファー・ノーラン監督の最新話題作『オッペンハイマー

クリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』は「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたものだ。アメリカで公開後凄まじい話題作となり大ヒットを飛ばしたが、日本では一部で皮相的なイデオロギー論争が起こり公開が危ぶまれていた所、本年度アカデミー賞最多7部門受賞という事もあってかようやく公開に漕ぎ付けた。

というわけでその『オッペンハイマー』を公開初日にIMAXで観てきた。『オッペンハイマー』を観るためだけに会社に有休を出した。アメリカでいったいどんな具合にこの映画が絶賛されたのかこの目で確かめてみたかったのだ。するとこれが、凄かった。ヤバかった。上映時間3時間があっと言う間だった。俳優、音楽、撮影、編集、どれをとっても一級品の素晴らしさだった。

オッペンハイマーの罪と贖罪

物語はオッペンハイマーが第2次世界大戦前後を通じて関わった原爆開発により、数奇な運命を辿る様を描いたものだ。戦況を有利に導くため、アメリカはドイツ(や当時は同盟国だったソ連)よりも早く究極兵器・原子爆弾を開発する必要があった。オッペンハイマーは物理学者としての知識を総動員して原爆開発に勤しむが、そこには「どこまでも理論を突き詰めてゆき最適解を得てそれが形となる事」という学者ならではの愉悦もあったのに違いない。

しかしそれが結果的に「大量破壊殺戮兵器」としてどれだけの惨禍を生み出すことになったかをオッペンハイマーが理解した時には全ては遅きに失していた。良心の呵責に苛まれるオッペンハイマーはその後の水爆開発に反対するが、政府にとってそれは軍拡競争の否定に繋がり、オッペンハイマーマッカーシズムの嵐に巻き込まれる形で弾劾されることになってしまう。

物語ではこういった形でオッペンハイマーの罪と贖罪とを適切な配分で描いている。それにより、オッペンハイマーが呪われた所業を成した男なのでは決してなく、物理学を突き詰めた先に結果的に原爆を生み出してしまった男なのだということを詳らかにする。原爆開発はオッペンハイマー一人が成したものではなく、歴史がそうさせたものでもあるからだ。

オッペンハイマーが存在しなくとも誰かが必ず原爆を生み出していただろう。その原爆は日本で使用されなくとも世界のどこかの国で必ず一度は使用されていただろう。それはヒトラーが存在しなくても大規模なユダヤ人排斥はヨーロッパで必ず起こっていただろうことと同じだ。オレは人間の歴史というのはそういうものではないのかと思うのだ。

クリストファー・ノーラン監督の最高傑作

映画においてオッペンハイマーを演じるキリアン・マーフィーは常に大きく目を見開き感情の読めない表情をしている。彼の周りで感情を爆発させる多くの登場人物とは対比的だ。その表情はどこか虚ろですらある。それは彼が現実世界ではなく理論と知識の中でのみ生きていたことを言い表しているかのようだ。原爆投下の苦悩の中でも彼の表情は虚ろであり、運命に翻弄される男の姿が痛々しく迫ってくる。大きなアクションがなくともキリアン・マーフィーの演じ方は物語に強い迫真性を持たせている。

サウンドトラックの使い方も的確であり、過不足なく映画を引き立ている。特に音響の扱いは絶妙だった。原爆実験の際の爆発の光線と爆裂音との時間差は強烈な緊張感を生み出していた。また、あたかも背景音のように常にガイガーカウンター放射線検出ノイズが横溢し、不気味さを醸し出す。核分裂反応や原爆爆発の特殊効果は抽象的な用いられ方をするが、扇情的なキノコ雲映像を用いるよりも深い印象を残す。

何よりも凄かったのは3時間に渡り一時たりとも緊張を絶やさない編集の妙だ。それにより、映画への素晴らしい没入感を得ることができた。アカデミー賞作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・撮影賞・編集賞・作曲賞受賞、というのも納得の作品だった。これはクリストファー・ノーラン監督の最高傑作と断言していいのではないか。同時に、映画芸術の高みまで押し上げられた作品だと言っていい。そして隙のない完成度を誇る作品だからこそ、物語のテーマが観る者の心に深く突き刺さるものとなっているのだ。これは映画史に残る作品なんじゃないかな。

オッペンハイマー』が素晴らしかったのは、作品の完成度のみならず、クリストファー・ノーラン監督“らしさ”が全てにおいて見事に功を奏していた、監督の才能が遺憾無く隅々まで発揮されていたことへの賞賛もあるんですよ。

柴田元幸 編訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読んだ

ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) /柴田元幸 (翻訳)

ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) (Switch library)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ 待望の第5弾! 】 11名の作家による、英文学の名作中の名作を選りすぐった贅沢極まりないアンソロジー。 好評既刊『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編となる一冊。

翻訳家・柴田元幸氏による翻訳叢書シリーズの1冊となるこの『ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース』は、以前ブログで紹介した『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編として同時に刊行されたものなのらしい。内容はタイトル通り、アイルランドも含む「英文学」の名作短篇を柴田氏の視点から編集したものとなる。そしてこれがまた古典英文学の大御所が大挙してピックアップされたお得感たっぷり・読み応えたっぷりの短編集となっており、これ1冊だけでも非常に読む価値があると言っていいだろう。

そして通読して思ったのは、オレは米文学と比べるならどちらかといえば英文学のほうが好みであるという事だ。『アメリカン・マスターピース』シリーズにおける錚々たる米文学作家のメンツにも十分満足させられたが、英文学にはどこか安心感を感じるのだ。それと同時に、英文学の方が読んだことのある作家・作品が多かった。柴田氏はこれら米文学と英文学の違いを、「遠心的なもの(米)と求心的なもの(英)の違い」とあとがきで述べられているが、要するに米文学は「世界は変わりゆくものであり変えるべきものである」という立場にあり、一方英文学は「世界とはこういうものでありいつまでも変わることなくこうなのだ」という立場にあるという事なのだろう。

それにしてもこうして眺め渡してもつくづく楽しいラインナップだ。猿の手」W・W・ジェイコブズ(これはもう「完璧な」怪奇小説だろう)や「信号手」チャールズ・ディケンズ「しあわせな王子」オスカー・ワイルドなんて子供の頃からお馴染みだったし、メアリ・シェリ「死すべき不死の者」)はついこの間『フランケンシュタイン』を読了したばかりだし、コンラッド「秘密の共有者」)やオーウェル「象を撃つ」)の著名な長編は読んでいるし、ジョナサン・スウィフトアイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」)は『ガリバー旅行記』の作者だし、サキ「運命の猟犬」)は本棚のどこかに短編集が転がっている筈だ。

ディラン・トマスウェールズの子供のクリスマス」)は読んだことはないがボブ・ディランの芸名の元になったのは初めて知った。デ・ラ・メア「謎」)も読んだことが無かったなー。そしてこれも英文学最後のボスキャラ(?)ジェームズ・ジョイスの名前があることに大いに挑戦心が湧く。総じて「奇妙な味」の作品が多かったのがオレ好みだった理由だろう。英国風味の強烈な皮肉(スウィフト)や薄暗い不条理感(デ・ラ・メア)が伺われる部分もよかった。作品として最も屹立していたのはコンラッドので、油断を許さぬ展開に手に汗握った。

とはいえ、この短編集最大の収穫は、やはりジェームズ・ジョイスを初めて読めたことに尽きる。この短編集にはジョイス作『ダブリン市民』から「アラビー」「エヴリン」の2編が収録されているが、これがもう、正直別格だった。もうちょっと書くと、実は衝撃的だった。短編という短い文章構成の中に、(ダブリンという)ひとつの世界がゴロンと、あるいはドテッと横たわっているのが如実に伝わってくるのだ。

ここには、「何もかもどうしようもない」という変えようのない現実が存在している。不幸ではないが、幸福でもない。貧しくはないけれど、豊かでもない。孤独ではないが、心は満たされてはいない。何もかもどうしようもなくて、そしてそう生きてゆくしかないのかもしれない。でもそれはあまりに切ないことだ。ジョイスの小説は「麻痺(パラライズ)の物語」と呼ばれるのだそうだが、それはつまり、「(麻痺しているかのように)何も変えようがない」という悲哀を指しているのだろう。そしてこれは、オレの事なんじゃないか、と思えて仕方がなかった。どこか、心の奥の一番柔らかい部分を掻き毟られたような気持ちにさえなった。

【収録作品】「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」ジョナサン・スウィフト/「死すべき不死の者」メアリ・シェリー/「信号手」チャールズ・ディケンズ/「しあわせな王子」オスカー・ワイルド/「猿の手」W・W・ジェイコブズ/「謎」ウォルター・デ・ラ・メア/「秘密の共有者」ジョゼフ・コンラッド/「運命の猟犬」サキ/「アラビー」「エヴリン」ジェームズ・ジョイス/「象を撃つ」ジョージ・オーウェル/「ウェールズの子供のクリスマス」ディラン・トマス