ブッカケでゾンビ!?エログロ悪趣味ゾンビ小説『ブッカケ・ゾンビ』を読んだ!?

ブッカケ・ゾンビ/ジョー・ネッター (著)、風間賢二 (訳)

ブッカケ・ゾンビ (扶桑社BOOKSミステリー)

美しい妻と娘に囲まれ、満ち足りた生活を送る男には、やめられない悪癖があった。 エロ動画だ。 今日もまた家族の目を盗んでアクセスしたポルノ掲示板に大ニュース。 憧れのセクシー女優が主演するAVがこの町で撮影され、エキストラ男優を募集しているのだ。 家族に知られたら終わりだが、あの女優にブッカケる機会を逃す手はない!  しかし、撮影現場の墓地で起きたのは―― そう、ゾンビの襲撃だ。 食人集団も現われ地獄と化した町を行く彼の、そして愛する妻子の運命は? 超絶エログロ・ホラー。

『ブッカケ・ゾンビ』である。それは「少し濃い目のつゆがぶっ掛けられたゾンビ」というわけでは全くない。それは知ってる方なら激しく知っているであろうポルノ用語の「BUKKAKE」であり、知らない人は全く知らなくともこれからの人生でなんの支障もきたすことが無いので検索無用である。そう、『ブッカケ・ゾンビ』とはお下劣お下品な下ネタがベトベトグジュグジュに塗りたくられたエロエロ・ゾンビ小説なのである。

主人公はポルノ大好きのエロエロおじさん、そんな彼が素人参加OKのポルノ撮影にいろいろな部分をギンギンにさせながら出向くところから物語は始まる。撮影現場は夜の墓地、セクシー女優を前にしてエロエロおじさんを含めた大勢の素人参加者がいろいろな部分をギンギンにさせていた時にそれが起こったのである。なんと埋葬されていた死者たちが蘇り、前をはだけてその気になっていた参加者の皆さんのアレにかぶりついたのだ!エロエロおじさんはこの窮地を逃れられられるのか!?愛する家族の待つ家に辿り着けるのか!?

とまあそんなお話なのだが、実のところお下劣お下品展開は冒頭のポルノ撮影の辺りまでで、あとはよくあるゾンビ物語の定石通りに進んでゆくだけであり、正直「出オチ感」たっぷりな平凡で残念な構成であることは否めない。途中思い出したようにお下品ネタを突っ込んだり、テコ入れとして「カニバル人間集団」を登場させてはいるけれども、「全編に渡ってギンギンにドエロ!」というものでは全くない。そういった部分でがっかりさせられる作品ではあるが、「なんだか変なもん読んじゃったなあ」という気にさせられる「怪作」としての貫録はそれなりにあるだろう。

それよりもこの作品、実は訳者が海外ホラー・幻想小説の翻訳者・研究者として名高い風間賢二氏なのである。以前読んだ氏の評論『スティーヴン・キング論集成』は圧倒的な内容と分量を誇る素晴らしい評論集であった。『ブッカケ・ゾンビ』の巻末にはその風間氏による「トロマ映画も顔負けの悪趣味エログロ・ホラーの快作」と名付けられた《訳者あとがき》が掲載されているが、この内容がとても優れているのだ。

こんな「怪作」を翻訳することになった裏話も楽しかったが、氏の博覧強記なホラー知識をうかがわせるホラー映画・ホラー小説史におけるエログロナンセンス作品が列挙され、この『ブッカケ・ゾンビ』へと繋がる文脈を浮き彫りにしているのである。風間氏のこんな文章を読んじゃうと、『ブッカケ・ゾンビ』が結構凄い作品だったような気がしてしまうから不思議なものである。いや、実のところホントにしょーもない小説だよ!誰にも勧めないからね!?

生の復権とマチズモへのアイロニー/チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』を読んだ

ファイト・クラブチャック・パラニューク(著)、池田真紀子(訳)

ファイト・クラブ〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

おれを力いっぱい殴ってくれ、とタイラーは言った。事の始まりはぼくの慢性不眠症だ。ちっぽけな仕事と欲しくもない家具の収集に人生を奪われかけていたからだ。ぼくらはファイト・クラブで体を殴り合い、命の痛みを確かめる。タイラーは社会に倦んだ男たちを集め、全米に広がる組織はやがて巨大な騒乱計画へと驀進する――人が生きることの病いを高らかに哄笑し、アメリカ中を熱狂させた二十世紀最強のカルト・ロマンス。

チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』といえばデヴィッド・フィンチャー監督×ブラッド・ピットエドワード・ノートン主演の映画化でご存じの方も多いだろう。オレもこの映画が大好きで、一時は熱狂的なファンだった。そしてここから多くのチャック・パラニューク作品を読むようになったのだが、『ファイト・クラブ』の原作自体は読んでいなかった。オレはあまり映画の原作を読まないタチなのだ。

とはいえ、前回チャック・パラニュークの初期作品『インヴィジブル・モンスターズ』を読んだときに「そういやまだ読んでいない『ファイト・クラブ』を読んだらパラニュークの翻訳作品を全コンプリートで読んだことになるな」と思い、遂にこの作品を読むことになったというわけである。

物語は説明するまでもないだろう。何不自由ない生活に虚無感を覚える不眠症の主人公が、タイラー・ダ―デンと名乗る謎の男と知り合い、「ファイト・クラブ」と呼ばれるただただ殴り合いをするだけの結社を結成する。「ファイト・クラブ」は多くの男たちを呼び寄せ活況を呈し、そして殴り合う事で「生きることの本質」に目覚めた主人公だったが、しかし秘密結社「ファイト・クラブ」は思わぬ方向へと暴走し始める、といったお話だ。特にタイラー・ダ―デンの正体が判明した後のドライブ感に満ちた目くるめく展開が凄まじい作品だった。

資本主義社会に飼いならされただ安穏と草を食む羊のように生き、そうして生きることの本質を失ってしまった人々だけが暮らす現代社会への痛烈なアンチテーゼ。制御され安定した社会システムの中でブロイラーのように生かされている人間存在に暴力による苦痛を与えることで「己の肉体性」を再認識させること。自らがなにかの構成品や蓄積した情報の堆積物なのではなく確固とした一個の肉体を持つ紛れもない「生命」であること。そしてそれらに「覚醒」し、その肉体性を疎外し続けてきた社会システムに「叛逆」すること。社会に対してあくまでアナーキーであること。

ファイト・クラブ』はこういった、非常に鮮烈なアレゴリーを豊かなイマジネーションでもって描き切った秀作だ。その文章はひたすらリリカルであり、虚無と混乱と輝きに満ち、時として皮肉で、救済への血みどろの切望が渦巻いている。『ファイト・クラブ』においてパラニュークはその後の作品にみられる錯綜した時間軸を展開に持ち込まず、御家芸の「現実世界の些末な情報」も物語内できちんと消化されたものとして用いられる。物語はテーマが明確であり力強く確信的で、最後まで構成が崩れることがない。そういった意味で、この『ファイト・クラブ』はパラニュークの最高傑作と言っていいだろう。

しかし最後まで読み終えて思ったのは、これをただ単に「生の復権を謳った物語」だと単純に捉えていいのだろうか、ということだった。それは暴走したファイト・クラブが騒乱計画に乗り出し、精神のアナーキズムであったものが現実社会へのアナーキズムへとすり替えられ、社会システムそのものを灰燼に化そうとする展開への奇妙な違和感からだった。エスカレーションした物語のアイロニカルな帰結点だともいえるが、ではそれは何に対するアイロニーなのか。

そのアイロニーとは「男」というものに対するアイロニーなのではないか。「男」が、ファイト・クラブと名付けられた「暴力の殿堂」を経て「男としての肉体性」を獲得した時、その「肉体性」は再び暴力という形へと還元する。モノを作ってそして壊す。実に「男らしい」光景ではないか。

すなわちこの物語は、「男が先鋭化すること=マチズモについての危険性」を炙り出したものだとも言えるのではないか。文明批判であると同時に、返す刀でそもそもその文明を培ってきた「男」そのものを切りつけているのだ。翻って、作者パラニュークはゲイであることを公言しているが、そういった「一つ引いた視点」から見えてくる、容易くマチズモ化する男性性の本質、危険性、そしてアイロニー、それが『ファイト・クラブ』のもう一つの、あるいは隠されたテーマなのではないかと思うのだ。

参考:これまでブログで書いたチャック・パラニューク小説の感想文

※『サバイバー』も読んでるんですが、ブログ開設前に読んだ本なので記事を書いていません。

 

最近ダラ観したDVDとかブルーレイとかサブスクとか

ヘルドッグス (監督:原田眞人 2022年日本映画)

映画『ヘルドッグス』観たがびっくりするほど面白かった。役者がいいロケハンがいい、セコさもあざとさも過度な情緒性も無い、シナリオは密で物語は濃厚かつクール、何より映画の従来的なヤクザ像を覆すスマートな描写が見惚れる程に素晴らしい。邦画ナメてたが監督スタッフ原作者全てにおいて最高の仕事をしている目の覚めるような映画だった。観ていて最初はハリウッド映画や韓国映画と比べていたが、途中から紛う事なく邦画の秀逸なる完成形の一つだと感じた。

ディパーテッド (監督:マーティン・スコセッシ 2006年アメリカ映画)

スコセッシ監督の『ディパーテッド』、実は初めて観たのだがいやこれ確かに面白い。潜入捜査物だからもっと重苦しい映画かと思ったら150分をサクサクッと軽やかに見せてゆく部分に逆に驚いた。思いっきり娯楽作として出来てるんだよね。これ、全編に渡り延々と流れ続けるロック&ポップソングの心地良さで観ている者の感覚を陶酔させてるからなんだろうな。それにしても凄い配役だな。特にデカプとニコルソンは完璧。

カジノ (監督:マーティン・スコセッシ 1995年アメリカ映画)

スコセッシ監督の『カジノ』、これも初めて観た。物語の殆どは性悪妻との生臭い諍いが中心だが、なぜか見入ってしまう。全体的にダラダラしつつも嫌な緊張感を帯びた展開が延々と続き、最後の最後で凄まじいカタルシスを見せるのは、もはやスコセッシ節とでも言うべき御家芸だな。この陶酔性も途切れなく続く音楽の賜物だろう。デニーロのよさは安定だがジョー・ペシのセコイ小悪党ぶりやシャロン・ストーンの蓮っ葉な演技も相当よかったな。

レーニング・デイ (監督:アントワン・フークア 2001年アメリカ映画)

イコライザー』シリーズのデンゼル・ワシントン&アントワン・フークワ監督作品だったので観てみた。現場の汚い仕事を知り尽くしたタフ&ストロングなベテラン先輩刑事が「正義が!道理が!常識が!」とピーチクパーチクさえずる糞ウザいひよっこ新人ちゃんをスパルタで現場に慣らす話なんだろうな、と思って観ていたが、実は本当に駄目な先輩でしたというお話で、いやそれだと意外性も何もなくて全然おもろないやんか。

インファナル・アフェア 無間道(監督 アンドリュー・ラウアラン・マック 2002年香港映画)

ディパーテッド』の元ネタということで「インファナル・アフェア三部作」を観てみることにした。まずは1作目『インファナル・アフェア 無間道』だが、なにしろアンディ・ラウトニー・レオンアンソニー・ウォンという鉄壁の布陣とも呼ぶべき出演者の豪華さにクラクラしてしまった。なんでこのメンツが共演している映画を今まで見逃していたのか!?さらに監督の一人であるアンドリュー・ラウはドニーさん主演映画『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』の監督ではないか。さて物語は先に観ていた『ディパーテッド』と同じ流れながら、こちらオリジナル版はより無常感を漂わせさらに独特の格調高さと美しさ、さらには非情なる哀感を感じる作品だった。いわば滅びの美学とも言うべきものか。主演の3人は男の色気たっぷり、あたかも生き急ぐかのような彼らの生き様に陶然とするものを覚えた。

インファナル・アフェア 無間序曲 (監督 アンドリュー・ラウアラン・マック 2003年香港映画)

さて続編となる『インファナル・アフェア 無間序曲』であるが続編と言いつつ物語は実は前日譚となっている。すなわち1作目であんなことやこんなことになってしまった登場人物たちが再び元気な姿で登場するわけなのだが、ただしアンディ・ラウトニー・レオンの役柄に関しては「彼らの若かりし頃」として年若い別の俳優が演じることになり、この2人の俳優は出演していない。物語は1作目の物語に辿り着くまでのドロドロの因縁とドロドロの人間模様が語られ、さらには1作目以上に非情極まりない香港闇社会の暗部が描かれ、想像以上に陰惨かつ凄みを増した作品となっていた。

インファナル・アフェア 終極無間 (監督 アンドリュー・ラウアラン・マック 2003年香港映画)

最終章となる第3部はアンディ・ラウトニー・レオンが再び登場し、1作目の背景に何があったのか、さらに1作目の後に何が起こったのかが描かれる。時間軸は錯綜し同様に主人公の心理も錯綜し、まさに1作目タイトル「無間道」の意味する「無限の苦しみ」を描くことになるのだ。作品的には1作目の追補編的な内容ではあるが、「インファナル・アフェア」の世界をさらに広げ膨らませることに成功した最終章だろう。ただちょっと「睡眠薬作戦」は無理があり過ぎたと思うぞ。

顔を失った女の凄惨な旅路/チャック・パラニュークの『インヴィジブル・モンスターズ』を読んだ

インヴィジブル・モンスターズチャック・パラニューク(著)、池田真紀子(訳)

インヴィジブル・モンスターズ

事故で顔を失ったわたしは、裏切った婚約者に復讐するため旅に出る。交錯する過去と現在、境界をなくす男と女、聞こえない叫びと悲鳴、見えない殺戮と破壊…。超過激ノヴェル。

この『インヴィジブル・モンスターズ』はパラニュークの第2長編『サバイバー』の後に出版されたものになるが、実は第1長編『ファイト・クラブ』以前に書かれた作品であり、実質的な処女作ということができる*1。ただしこの作品、「あまりに不愉快な内容」だとしてどの出版社も受け入れてくれず、結局『ファイト・クラブ』のヒットにより日の目を見ることができた、という経緯を持つのだ。

インヴィジブル・モンスターズ』は「銃の暴発により下顎全てが吹き飛ばされ、醜怪となったその顔を隠しながら生きる女」が主人公となる。もとより主人公は第一線のモデルとして活躍していたが、その「商売道具」の顔を無くすことにより、自らのアイデンティティそのものも失ってしまうことになるのだ。

物語はそんな主人公が友人や恋人とアメリカの各地を旅しながら「見えない怪物」として生きる自分自身に決着をつけるまでが描かれてゆく。その文章は苦痛と虚無、哄笑とアイロニーに満ち、同時にあからさまに性的で不道徳であり、物語には犯罪と薬物と暴力とが横溢する。それらは同時にリリカルで、気の滅入るような美しさを湛えている。それはまるでナボコフの陰鬱なパロディのようだ。

この物語の本質にあるのは「性的アイデンティティの喪失」ということなのではないかと思う。主人公は「モデルの顔」を失うことで「性的存在としての女性イメージ」を失うことになる。そして物語にはもう一人、性転換手術により女性になろうとしている男が登場する。彼において性転換手術は男性から女性へアイデンティティを移行することだが、同時にそれは男性性というアイデンティティを失うことでもある。こういった「性的アイデンティティの喪失」が人間心理をどう変えてゆくのかがこの物語に底流するテーマのような気がしてならない。

作品の最大の特徴となるのは時系列がシャッフルされた特異な構成だ。そして文章の頭ごとに【〇〇へ】という小見出しの形で「現在どの時間軸へ飛んだのか」が明記される。これはファッション雑誌の細切れの形で飛び飛びに掲載される記事を模したものなのらしい。同様に、物語内では「現実の些末で微細なデータ」が羅列され、物語に無機質で冷え冷えとした感触を与えることになる。

こういった「シャッフルされた時系列」「現実の些末で微細なデータの羅列」はその後の多くのパラニューク作品に頻用されることになる。とはいえ、こういった文体・文章構成は作品を読み難くしていることも確かだ。また、物語はエキセントリックな登場人物とエキセントリックな設定でもって描かれることになるが、その後のパラニューク作品がそうであるように、エキセントリックさと奇異な構成ばかりが目立ってドラマが薄い。これはもうパラニュークの手癖としか言いようがないのだが、むしろ提示されたグロテスクでヴィヴィッドな世界観そのものを楽しむ、というのがパラニューク作品の読み方になるのだろう。

*1:ただしちょっとややこしいのだが、出版されていない初期作品『Insomnia: If You Lived Here, You'd Be Home Already』というのが存在しており、本当の第1作はこの作品になっている記述もある

『アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション』を読んだ

アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション/岸本佐知子(訳)、柴田元幸(訳)

アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション

翻訳家・岸本佐知子柴田元幸が贈る、海外短篇小説アンソロジー。 日本にまだあまり紹介されていない英語圏の8作家による10篇を精選。 対談「競訳余話」も収録。

翻訳家・岸本佐知子氏はオレが最高に気にいっている翻訳家の一人で、彼女の名前が翻訳者にあったらジャケ買いならぬ翻訳者買いで本を購入してしまうほどだ。岸本氏は「奇妙な味」の短編翻訳に強く、そしてオレもこの「奇妙な味」の作品が好きなので、それで親近感がわくのだろう。それとオレは絵本作家ショーン・タンの著作が好きなのだが、このショーン・タンの多くの作品に彼女が関わっているという部分で、やはり彼女を贔屓にしてしまうのだ。

その岸本氏が「自分の好きな短編小説をほしいままに訳出した短編集」が出たというからこれは大いに興味をそそられるではないか。共訳者として名前が挙がっているのは柴田元幸氏。岸本氏ほど強烈に思い入れは無いものの(スイマセン)、翻訳書を調べるとエリック・マコーマックの『雲』やドン・デリーロの『天使エスメラルダ 9つの物語』などかつて読んで非常に印象に残った作品を見つけ、「これは柴田氏によるものだったのか!」と身を乗り出してしまった。

というわけで岸本氏、柴田氏という「文学界の端っこの変なところ」を偏愛する二人の翻訳者が発見し翻訳した、8人の現代英語圏文学作家の作品を収めたのがこの『アホウドリの迷信』となる。翻訳の基準は日本で全く、あるいは殆ど紹介されていない現代作家の作品を訳出するということ、そして当然だが両氏が「これは面白い!」と感じた作品であるということだ。もちろんこんな両氏が面白いと感じ訳出した作品はどれも「奇妙な味」の作品が中心となる。

ではザクザクッ!と作品を紹介しよう。まずは岸本佐知子訳のもの。「オール女子フットボールチーム」は女子フットボールチームのチアリーダーに選出された男子が、最初は不貞腐れながら次第に女装することの歓喜と法悦に随喜の涙を流すというビザールな逸品。彼の父親も女装好きというトドメの刺し方が素晴らしい。アホウドリの迷信」は望まない妊娠で結婚した少女が迷信好きのつれない旦那に辟易しながらその迷信に次第に憑りつかれてゆくという奇妙な作品。「野良のミルク」「名簿」「あなたがわたしの母親ですか?」は同じ作家の短編だがどれもシュールレアリスム文学といっていい幻惑的な言語感覚に満ちたやはりおかしな作品。一方「引力」池澤夏樹編集の海外短編作品集に収められてもおかしくない力強い文学作だ。

続いて柴田元幸訳作品。「大きな赤いスーツケースを持った女の子」考えオチ的な結末はどこか迷宮めいていて読み終わった後に気持ちがざわざわした。「足の悪い人にはそれぞれの歩き方がある」は物語それ自体よりも文章にカンマを一切使わずゴリゴリゴリ!と書かれた文体の異様さに面食らわされる。「アガタの機械」は二人の少女がある種の「幻惑機械」の虜になり、あたかも薬物中毒患者のように心も生活もボロボロになってゆくという面妖な物語。しかしこれは「10代の熱狂」と呼ばれるものを徹底的にネガティヴに描いた作品だと言えるかもしれない。二人の少女の下品さがまたいい。「最後の夜」は自殺願望者の治療センターに入所している少女たちが迎える「最後の夜」をヴィヴィッドに描いた文学作。少女たちの抱える鮮烈な心情がいつまでも心に残る作品だった。

個人的にお気に入りだったのは「オール女子フットボールチーム」「アガタの機械」かな。なお本短編集には幕間的に岸本・柴田両氏の「競訳余話」が収められ、それぞれが訳した短編への思い入れが語られていて、作品解題になると同時に両氏の「奇妙な味」の作品への偏愛が吐露されていて読んでいて楽しい。ここでも触れられているが、本短編集収録の作品のほとんどが女性作家のものであり、そういった経緯についても説明されていて参考になる。そういえばオレもここ最近読んだ「奇妙な味」の作家は女性ばかりだったからだ。

収録作品

岸本佐知子

「オール女子フットボールチーム」ルイス・ノーダン

アホウドリの迷信」デイジー・ジョンソン

「野良のミルク」「名簿」「あなたがわたしの母親ですか?」サブリナ・オラ・マーク

「引力」リディア・ユクナヴィッチ

柴田元幸

「大きな赤いスーツケースを持った女の子」レイチェル・クシュナー

「足の悪い人にはそれぞれの歩き方がある」アン・クイン

「アガタの機械」カミラ・グルドーヴァ

「最後の夜」ローラ・ヴァン・デン・バーグ