いがらしみきお作品を4作読んだ/『お猫見』『お人形の家 寿』『今日を歩く』『あなたのアソコを見せてください』

いがらしみきお作品を4作読んだ

いがらしみきおの漫画は、ある時期のオレにとって聖典に近いものだった。それは誰もが知る大ヒット作『ぼのぼの』では決してなく、『ネ暗トピア』に代表される初期の、ルサンチマンニヒリズムが全てを覆い尽くす暗黒の4コマ漫画時代の作品だった。あの頃のオレは、いがらしのそれら4コマコミックを舐めるように読み返しながら、「ヌヒヒ」と暗く笑うのが日常だった。

しかし『ぼのぼの』を境にいがらしの漫画は新たな道を切り開くことになる。それは『3歳児くん』や『たいへん もいじーちゃん』のような『ぼのぼの』的な「無意識の意識」を扱うギャグ漫画の他に、『Sink』や『I【アイ】』、『かむろば村へ』や『羊の木』などのホラー/ストーリー漫画への変転である。そしてオレはそんないがらしの転身を諸手を挙げて受け入れた。これらいがらしの新境地にはより一層研ぎ澄まされたニヒリズムが存在したのと同時に、そのニヒリズムを突き抜け「生」そのものを真摯に模索しようとする態度を感じたのだ。

とはいえ、その後いがらしの新作はしばらく読むことが無かった。行きつくところまで行っちゃったような気がしたからかもしれない。で、ふと「最近何描いてるんだ?」と気になり、2015年から2019年までに描かれた4作の作品を見つけ、これを読んでみることにしたのである。それはいがらしの日常を切り取ったエッセイ漫画『お猫見』『今日を歩く』、いがらし家の人形たちを主人公にした『お人形の家 寿』、いがらし的に愛と性を扱った『あなたのアソコを見せてください』である。

お猫見/いがらしみきお

「ネコは見るもの愛でるもの」 『ぼのぼのいがらしみきおが贈る、笑いあり涙あり流血ありの実録猫エッセイコミック♪ 描き下ろし漫画・コラムに加えコミックス未収録作品3篇収録。 LOVEと狂気とモフモフが渦巻く、いがらしみきおワールドをたっぷりご堪能ください!

いがらし一家と飼っている猫との日々を描く猫漫画である。世には大島弓子が自らの飼い猫との生活を描く『グーグーだって猫である』という名作猫漫画があるが、いがらしが猫を描くとこれがやはり一筋縄ではない。飼い猫を溺愛するいがらしの行動と心理が不気味極まりなく、そして描かれる猫があまり可愛らしくない。これは愛する猫と溺愛する自分自身の情緒にきっちり距離を置き、あくまでもギャグタッチで描いているからだが、それにしても描かれるいがらし本人が本当に気持ち悪い。それはその気持ち悪さに意識的だからだ。いがらしの実存は猫漫画を描いてもこのように奇怪なのである。そしてこれこそがいがらし漫画の面白さなのだ。

今日を歩く/いがらしみきお

晴れの日も雨の日も雪の日も、 あるいは実母が亡くなった翌日も、 毎朝同じ道を散歩する著者。 いつもと同じ人とすれ違い、 いつもと同じ犬を見る。 でも、考えることはいつも違う。 新たな発見が、毎日ある。 『ぼのぼの』『かむろば村へ』『I【アイ】』で、 世代を問わず注目を集めているいがらしみきおによる 日常哲学エッセイコミック!

いがらしは15年間、早朝ウォーキングをしていたらしい。一度体を壊し、それから健康のために始めたのだという。いがらしは雨の日も風の日も雪の日も歩く。ただただ歩く。その歩いている時に目撃するもの、頭に妄念となって浮かぶもの、それらを描いた作品である。しかしそこはいがらし、単に「徒然なるままの自己」を描いたものでは決してなく、所々で黒々としたルサンチマンが顔を覗かせる、といった内容になっている。年を取り丸くなったように見せかけながら、いがらしの視線にはやはりどこか底意地の悪いものがある。だがそこがいい。そして同時に、この作品で描かれるのは、年を取ることのぼんやりとした虚無と抗えない絶望なのだ。

お人形の家 寿/いがらしみきお

いがらしみきおの家はお人形の家だった!! 『ぼのぼの』『忍ペンまん丸』『羊の木』『かむろば村へ』『誰でもないところからの眺め』など、数々の名作を描いてきた漫画家いがらしみきお。その最新作はお人形! お人形は長年連れ添う妻が収集してきた実際にあるものをキャラクター化。 サバを読んで50体(妻談)というお人形たちから、選りすぐりの子たちが登場。 いがらし家を舞台に、家族の近況をネタにお人形たちが駆け巡ります。 画業40年、いがらしみきおの到達点。

いがらしの嫁は膨大な数の人形を収集しているらしい。そしていがらし自身もその人形を可愛らしく思っているのらしい。この『人形の家 寿』は、そんないがらし家にある人形を主人公とし、いがらし一家が外出した後に彼らが動き出し遊び始めるさまを描いたものだが、決してホラーではなくギャグ漫画である。

主人公は「おねーちゃん」と呼ばれる上沼恵美子似の人形と「コトブキ」と呼ばれる兎耳をした下膨れ顔の子供の人形である。この2体が漫才よろしくボケとツッコミを延々とカマすのだ。ツッコミ役の「おねーちゃん」はいつもしつこく意地悪で、ボケ役の「コトブキ」はたいてい追い詰められて脂汗を流し、そして毎回意味不明のオチで終わる(人形だから意味なんて考えないのだ)、という大変楽しい作品だ。

他にもいる大量の人形も動き回るのだが、これがどうやら知能が低いらしくいつも「りゅーりゅー」としか言わない部分も可笑しく、同時に気持ち悪い。また、小さな人形だからこそ大きな人間の家は冒険の場所となり、このスケール感の違いが愉快なアクションへと繋がる。

ページ構成は扉絵を除き全ページ12コマの正方形で描かれその中で物語が進行するが、この様式性の高さが展開にリズムを生み大いに効果を上げている。総じて非常によくできていて楽しく、同時にいがらしらしい薄気味悪さもきちんとある良作であった。

あなたのアソコを見せてください/いがらしみきお

大学へ行かずにコンビニでアルバイトをしているミコは、幼少期に見た光景が頭から離れずにいた。 ある日、バイト先の常連客からとあるクラブへの参加を持ちかけられ…… 本当に好きな人ってどんな人なのか。 欲情するってどういうことなのか。 あの光景から自分を解き放つことができるのか。 松尾スズキ、感服!!!「もっと欲情しろ、深く生きてみろ。」 セックスの根源に肉薄する、いがらしみきお渾身の大作!

読み始めて最初の印象はいがらしらしい露悪と虚無の変態話なんだが、次第にこれは他人に対して不器用な人間たちが「他人とは地獄だ」と延々言い募る話だというのが見えてくる。そして同時に、その地獄と性交し、あらんことか愛したりもしなければならない、人間という生き物の性(さが)に途方に暮れてしまう、という話でもあるのだ。

「愛している人のアソコを見たいというのが欲望なのだ」とは言いつつ、アソコと言うのは基本的にグロテスクなものであり、そんなグロテスクなものを見て欲情しなければならないのも実のところ不条理だ。主人公が好きだった、あるいは気になった男たちの性器を見てもただ幻滅するのはそういった理由からだ。

しかしアソコ=性器と解釈するのではなく、他者の内実ととらえるならどうだろう。すなわちこれは「他人という名の(グロテスクな)地獄」に欲情する・せざるを得ない人間というものの本質を描いたものだとは言えないか。そしてそれを愛し、または愛していると思い込まねばならない、その哀しみや可笑しみや不可解さを抉り出した作品だとは言えないだろうか。グロくてお下劣だけどこれはやはりいがらし一流の哲学漫画なのだ。

といった面から見るなら、この漫画の惹句にある「もっと欲情しろ」だの「セックスの根源に肉薄する」だのの言葉は、どれも的外れなものだと思えてしまうのだ。なお物語は殺伐としていつつも結構な頻度で笑いがあり、ある意味(かつてのいがらし4コマのような)黒いギャグ漫画として読めるし、またそう読むべきものなのだと思う。主人公女子は不細工に描かれているが、読んでみると愛嬌があるばかりか、段々と好きになってくるのがまた不思議な漫画だった。

囚われの料理人は女海賊の舌を魅了できるか!?/海賊冒険×お料理小説『シナモンとガンパウダー』

シナモンとガンパウダー/イーライ・ブラウン(著)、三角和代(訳)

シナモンとガンパウダー (創元推理文庫)

「命が惜しければ最高の料理を作れ!」1819年、イギリスの海辺の別荘で、海賊団に雇い主の貴族を殺害されたうえ、海賊船に拉致されてしまった料理人ウェッジウッド。女船長マボットから脅されて、週に一度、彼女だけに極上の料理を作ることに。食材も設備も不足している船で料理を作るため、経験とひらめきを総動員して工夫を重ねるウェッジウッド。徐々に船での生活に慣れていくが、やはりここは海賊船。敵対する勢力との壮絶なる戦いが待ち受けていて……。面白さ無類、唯一無二の海賊冒険×お料理小説!

名うての料理人ウェッジウッドが海賊団に拉致され海賊船に乗せられる!彼が命令されたのは首領の女海賊に週に一度極上の料理を作る事!しかーし!ここはむさ苦しい海賊船、ろくな食材も無きゃろくな調理器具も無い!こんな厨房で料理なんか作れるのか?そもそもウェッジウッドはここから生きて帰る事ができるのか!?こんなひたすらユニークな設定の海賊冒険×お料理小説、『シナモンとガンパウダー』の始まり始まり!

というわけで『シナモンとガンパウダー』を読み終えたんですが、これがもう!最初の予想を遥かに飛び越える展開&最初の予想を遥かに超える面白さでおったまげてしまいました!

まずはお料理小説としての側面なんですけどね、19世紀が舞台なもんですから船の厨房に新鮮な食材を置いておけないのがまず最初にあるんですね。だから極上の料理の基本材料となるであろう卵やバターがまず存在しません。新鮮野菜もありません。魚は獲れますが、動物の肉は干したものだけです。小麦はありますがパンを作ろうにもパン種がない!厨房のストーブはボロでまともな火力を出せません。調理器具は推して知るべしです。

この「ないない尽くし」の中で主人公ウェッジウッドがどう機転と想像力を働かせ、単なる料理ではなく「極上の料理」を作り上げるのかがまず読み所なんですね。そして実際作り上げてしまうその描写は圧巻の一言です!物語はウェッジウッドが苦労に苦労を重ね週に一度、女船長に極上の料理を献上してゆく様子が描かれますが、これがまるで「自らの延命の為に毎夜極上の物語を語る千一夜物語のシェヘラザード」を思わせるんですね。

しかし驚かされたのはこうしたお料理小説としての充実だけではなく、海賊小説としても相当の完成度を持つ物語という事だったのですよ!

それは海賊行為の中で行われる戦闘であり、海軍や敵海賊との戦いであったりするんです。19世紀において海戦とは、海の上で船と船同士が戦うというのはどういうものだったのかを垣間見せられるんですね。それもただ銃剣や砲弾、肉弾戦のみならず、海の潮目を読み鮮やかな帆さばきによって船を優位に立たせるという戦術の在り方がもう痛快至極で血沸き肉踊らされるんですよ!そもそも「海賊小説」なんて読んだことがないので比較対象は出来ないんですが、非常にエキサイティングな読書体験でした。

さらに物語を面白くしているのは、海賊船女船長ハンナの、その真の目的なんですね。彼女は大英帝国と中国との阿片貿易を心の底から憎んでおり、これを叩き潰そうと画策していたんです。しかしその阿片貿易に実の息子が、しかも海賊となって絡んでいる、という部分が物語を困難にしているんですね。

そしてこの女船長ハンナ、第2の主人公とあってか、実に魅力的な存在です。なにしろ初登場時は2丁拳銃で現れ、そのあまりのカッコよさにニマニマさせられます!性格は残忍かつ無慈悲ではありますが、それは後に語られる彼女の地獄のような生い立ちと、海賊船という熾烈な場所で命を張っていればこそなんです。しかして裏の顔は美意識に溢れ、繊細で高い知性を持っている事も分かってきます。この二面性が彼女を複雑で芳醇なキャラクターにしているんですね。このハンナとウェッジウッドが料理を通して次第に心通わせて行く描写も読み所です。

海洋冒険小説としての醍醐味、お料理小説としての楽しさ、そして一癖も二癖もある海賊たちとヘタレの主人公によるドラマ、これらが混然一体となって得も言われぬ味わいを醸し出す物語『シナモンとガンパウダー』、興味の湧いた方は是非ご賞味あれ。

 

 

宇宙一の映画がやって来るアール!アール!アール!/映画『RRR』

RRR (監督:S.S.ラージャマウリ 2021年インド映画)

あの『バーフバリ』監督による話題の新作映画!

あの超絶異次元アクション映画『バーフバリ』2部作を監督したS.S.ラージャマウリの新作が遂に公開される!と聞いたらこれはもう観に行くしかありません。タイトルは『RRR』、Rが3つで「アールアールアール」と読むんだそう。このタイトル、「Rise(蜂起)」「Roar(咆哮)」「Revolt(反乱)」の頭文字に由来しているのですが、最初は監督と主演俳優の名前に含まれるアルファベットから採った製作コードネームだったのだとか。

さてでは一体何に「蜂起」し「咆哮」し「反乱」するのか。映画『バーフバリ』ではいつとも知れぬ古代の架空インドが舞台でしたが、この『RRR』は1920年の近過去のインドを舞台にしています。その時代、インドは未だ英国による過酷な植民地支配を受けていました。その英国支配への反乱と蜂起がこの作品の大枠としてのテーマなんですね。そして反乱と蜂起に咆哮するのが相対する立場にある二人の主人公となるわけです。ちなみにIMAXと通常版とで既に2回観ました!

物語と出演者!

《物語》1920年、英国植民地時代のインド。英国軍にさらわれた幼い少女を救うため立ち上がったビームと、大義のため英国政府の警察となったラーマ。それぞれに熱い思いを胸に秘めた2人は敵対する立場にあったが、互いの素性を知らずに、運命に導かれるように出会い、無二の親友となる。しかし、ある事件をきっかけに、2人は友情か使命かの選択を迫られることになる。

RRR : 作品情報 - 映画.com

主演はビーム役に『バードシャー テルグの皇帝』のNTR Jr.。ラーマ役をラージャマウリ監督作『マガディーラ 勇者転生』主演のラーム・チャラン。この二人、日本では馴染みが薄いかもしれませんが、テルグ映画界では圧倒的な人気を誇る大スターなんですね。ちなみにテルグ映画とはこの作品が製作されたインド南東部で主に使われるテルグ語圏の映画という意味ですが、「南インド映画界のひとつ」ぐらいにふわっと理解してください。インドの映画産業ではボリウッドに次ぐ規模を持ち、トリウッドという通称があります。

共演としてアーリヤー・パット、アジャイ・デーブガンというボリウッドスターが出演しているのも嬉しいです。また、英国勢として『マイティ・ソー』シリーズのレイ・ステーヴンソン、『007/美しき獲物たち』『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のアリソン・ドゥーディが出演しております。

2人の男の友情と使命!

物語は英国人にさらわれた少女を救うためデリーに潜入した男ビームと、それを阻止する命を受けた警察官ラーマとの運命の綾を描くものとなります。この二人、ある災害救助劇を切っ掛けに、お互いが敵同士であることを知らないまま親友になってしまうんですね。黒くてムキムキで髭面のオッサン二人がキャッキャウフフする姿は大変微笑ましい光景です。この二人の「友情」こそがこの作品の最も大きなテーマとなります。しかしそれぞれに立場を異にする二人は、やがてお互いの正体を知ることになり、ここに身を割かれるような苦悩と逡巡のドラマが展開してゆくことになるんです。

ここで最初不思議に思わされるのは、警察官ラーマの、その行動の根拠となるものなんですよ。もう一人の主人公ビームは「さらわれた村の娘を取り返す!」という確固とした目的がありました。しかし警察官ラーマは、どこまでも権力に付き従い、有能な警察官であることをアピールしてみせ、ビーム捕縛に自ら名乗りを上げるという、奇妙に上昇志向の強い男なんですね。この上昇志向の強さのその理由が分からない、最初はそれが描かれないんですね。そしてその理由が明らかにされた時、あっと驚かされる事になるんです(ただしこの二人は実在の人物にモデルがあり、現地のインド人はとっくに知っていて観ているのでしょう)。

S.S.ラージャマウリ監督十八番の驚異に満ちたアクション・シーン!

こうした物語の合間にも、S.S.ラージャマウリ監督十八番の驚異に満ちたアクション・シーンがこれでもかと盛り込まれることになります。冒頭の雲霞の如く襲い掛かる暴徒をラーマがたった一人で鎮圧するシーン、森の中でビームが猛獣を捕縛するために疾走するシーン、ビームとラーマの出会いとなる燃え盛る事故列車からの少年救出劇、どれもがたっぷりに力がこもっており、筋肉が波打ち汗がほとばしり、岩をも砕くが如き凄まじい量のエネルギーがぶつかり合うその様に、スクリーンを観ながら「ファイト―!いっぱつぅーー!!」と思わず掛け声を駆けたくなる程です。

そして今ネットでも話題になっている「動物大襲撃」シーンとそれに続く大バトルは、『バーフバリ』を彷彿させる物理法則を無視したアクロバティックなシーンと、外連味に溢れた華麗なる大技と、あたかも歌舞伎の大見得を思わせるキメッキメのポーズが乱れ打ちとなり、その畳みかけるアクションシーンの妙味に、変な脳汁がドバドバ出始めていることに気が付かされます!アクションだけじゃない!NTR Jr.とラーム・チャランがタッグを組んでウルトラダンスを踊りだし、身も心も蕩けさせられること必至!あとちょっぴりロマンスシーンもあるよ!そして何よりも驚愕させられるのは、ここまでの展開で、実はまだ映画の前半でしかなかった!ということです!

驚愕の真相と急展開!

インド映画では通常映画の途中に休憩が入るのですが、だいたいが綺麗に上映時間の半分で入れてくるんですね。そしてこの休憩時間を境にして物語が急展開したりとか、前半で触れられなかった驚愕の真相が語られたりする、という仕掛けになっているんですよ。この『RRR』でも、日本の映画館では休憩にはなりませんでしたが、「INTERMISSION」の文字が途中で入るので「ああここで休憩なのね」と分かります。つまり「ここから物語が急展開しますよ!驚愕の真相が明かされますよ!」と大いに期待を膨らまされるわけなんです!

後半の詳しい内容には触れませんが、やはりね、来るんですよ、来やがるんですよ、驚愕の真相と急展開が!それは血反吐を吐くかの如き辛く厳しく残酷な過去の事件であり、例え結果がどうなろうとも己の成すべきことを成すべしという強烈な意志と決意との物語です。その意志とはインドの聖典『バガヴァッド・ギーター』に記されたものであり、監獄のラーマが呟くのはこの聖典の言葉なんです。熱く暗い情念が津波のように叩き付ける中で、主人公たちは正義と真正さの為に鬼神と化してゆくのです。そう、インドアクションお馴染みの、「神の如き無双状態」の始まり始まりです!ただでさえ凄まじかった前半を、さらに凌駕する怒涛の展開が後半に待ち受けており、あたかも巨大ハリケーンのように銀幕を揺さぶるんです!

前半が『伝説誕生』なら後半は『王の凱旋』だ!

観ていて思ったのですがこの『RRR』、前半が『バーフバリ 伝説誕生』で後半が『バーフバリ 王の凱旋』なんですね。前半では『伝説誕生』のような伸びやかな雄々しさと力強さを印象付け、後半において『王の凱旋』の如き悲痛なる過去と全てを真正に導くための大戦争とが描かれるんです。つまり2作合計6時間余りある『バーフバリ』シリーズを3時間に煮詰めて1本の映画にしたものがこの『RRR』というわけなんですね!あの濃いい『バーフバリ』をさらに煮詰めているわけですからその濃さは既に宇宙最強!こうして完成した物語はブラックホールのように全てのものを引き込んで放しません!

近過去が舞台の現代劇であったものがクライマックスに行くにつれて次第に時間軸がぼやけ、インド悠久の歴史の中の1ページのような、あたかも『バーフバリ』の架空の古代世界へと遡及してしまったかのような錯覚を起こさせるのは、それこそがインドという国の持つ時間感覚の為せる業なのでしょう。そしていつでも神々は人々の傍らにおり、それは真正を成す者の中に顕現して強力な力を振るうのです。なぜならヒンドゥー教はヨーガによって自らの裡にある神=ブラフマンを見出すことがその教義とされているからであり、『バーフバリ』にせよこの『RRR』にせよ、その「自らの裡にある神」を見出す過程を描いた作品だと言えるからなのです。

お好み焼き。

「ところで冷蔵庫にずっと残ってるソースを消費したいんでお好み焼きを作ってみようかと思うんだけどどう?」と相方は言った。

「あーいんじゃない?」とオレは答える。ただ、ここで問題があった。北海道生まれのオレと東北生まれの相方はどちらも関西に代表される「粉物文化圏」に属しておらず、お好み焼きを作ったり食ったりする習慣が全く無く、そもそも食物として興味が無かったのである。

お好み焼きもそうだがたこ焼きなどもその範疇に入るであろう。もんじゃ焼きというのは関西ではなく関東のもののような気がするが、あれも「南アジアの山岳地帯に住む少数民族が宗教的な禁忌がある日だけに仕方なく食すなにやら面妖な食物」の如きものであり、これに至っては話題に上る事すらない。

興味が無いとは書いたが、関西に旅行に行ったときは「関西と言えばお好み焼きだろう」ということでどこかで食べた。美味かった。関西のお好み焼きは美味かったね、というざっくりとした感想だけはあった。ただし現在住んでいる関東でお好み焼きが食べたいなどという事はオレも相方も全く思った事が無い。

ところでどうでもいい話だが、例えば「お菓子」は美化語の「お」を取って「菓子」でも通用するが、「お好み焼き」から「お」を取って「好み焼き」にしてしまっては意味が分からなくなってしまう。そもそも「このみやき」と入力しようとするとオレのPCの場合「木の実ナナ」と予測変換されてしまう。「お」も含めた熟語だからということなのだろうが、自ら「お好み」と名乗ってしまう「お好み焼き」はもう少々自らに謙虚であってもいいのではないか。

話は戻ってお好み焼きである。先の「ソースを消費したいんでお好み焼きを作る」という発言は、そもそもが「ソース」という単語に代表される日本のウスターソース類、即ち中濃ソースやとんかつソース、当然ながらウスターソースが、相方に関しては殆ど使用しない調味料であり、買って冷蔵庫には入っているんだが持て余している、ということなのである。

一般家庭に遍く存在すると思われる中濃ソースは、いったい何に使われるのか、といえば、それはフライに代表される洋風揚げ物であり、ソテーやハンバーグなど肉料理であり、あるいは焼きそばであり、今回懸案となっているお好み焼き、それに代表される粉物料理なのであろうが、実はこれら「一般的に中濃ソースを使うと思われる料理」を、相方は全く食べない・料理しないのである。だからこそ「持て余している」のである。たったひとつ、目玉焼きにだけはかけたかもしれないが、オレに言わせるなら目玉焼きは和風なら醤油、洋風ならケチャップであり、ソースなどの出る幕は一切存在しない、というかそもそも《有り得ない》のである。

そんなソースを消費するためにお好み焼きの名が挙がったのは、先に挙げた料理の中でお好み焼きが最も簡便かつ重くない料理だからであろう。しかし名は挙がったものの、作ったことはない。それが今回のブログ記事における核心的なテーマとなるのである。

とはいえ、ネットが光の速さで世界を駆け巡るこの現代において、お好み焼きの作り方などぐぐるさんあるいはやっふうさんに聞けばチョチョイのチョイで判明するのである。

というわけで調べた。それによるとお好み焼きは小麦粉とキャベツとネギと卵とあと肉的な何かがあればなんとかなるらしい。それにソースとマヨネーズとカツブシと紅しょうがをぶっかけると「お好み焼き状形成物」としてとりあえず完成するのらしい。なんだ、頭をひねる様なものではないではないか。青ノリもあればベストであったが、そもそも青ノリなどそうそう常備するものではないのではないか。それは一般家庭に対し桂花醤とフェンネルは台所に常備ですよね、と言うのと同程度の非現実的な選択であるのではないのか。

ぐぐるさんの伝令によりお好み焼きを、というかお好み焼きと思われる何かをじゅうじゅうと焼く相方。そして食卓に。多分お好み焼きなお好み焼きを食すオレと相方。「うん、これはお好み焼きなんじゃない?」とオレ。そして実は結構美味い。「いやでもお好み焼きのソースはもっと甘い気がするね」と相方。

結局レシピがどうとかではなく、ソースやら小麦粉やらキャベツやらの、一般家庭なら必ずある様な食材や調味料を使って作れば形になるのがお好み焼きと呼ばれるもののいい所なんじゃないのか?とオレはちょっと思ったのだった。まあしかし、これからはいつもお好み焼きを食べたい!とはやっぱり思わなかったけどな!すまんのう。

ホレス・アンディのダブ・アルバム『Midnight Scorchers』が秀作だった

Horace Andy 

Midnight Scorchers / Horace Andy 

ホレス・アンディといえば実に長きに渡ってレゲエ・ミュージック・シーンのフロントに立ち活躍してきたベテラン・シンガーだ。今調べたら御年71歳、レゲエ・シンガーとしてのキャリアは50年に渡るというからぶったまげてしまった。そんなホレス・アンディがエイドリアン・シャーウッドのプロデュースによりOn-U Soundからリリースしたダブ・アルバムがこの『Midnight Scorchers』だ。そしてこれが、近年稀に見る素晴らしい傑作ダブ・アルバムとして完成していることに再びぶったまげてしまった。

エイドリアン・シャーウッドというのもこう言っちゃなんだがプロデュースの質にムラがある人で、On-Uだからって安心できない(というかOn-Uだからこそ安心できない)部分があるのだが、このアルバムにおけるエイドリアン・シャーウッドの手腕はひょっとしたらここ数年の自身の才能を全て使い切ってしまったんではないかと思うほどに充実しており、これも相手がホレス・アンディだったからこそのケミストリーだったのかなと思わせる。

レゲエ・サウンドは、ジャマイカ産とそれ以外では大きくテイストが違うのだが、例えばこれがUK産だとUKならではの鬱蒼とした暗さ、湿気、同時につややかさを帯びてくる。今作でも、エイドリアン・シャーウッドのUKならではの色彩、湿度、温度感覚のあるサウンドとなっているのだが、それはジャマイカ生まれのホレス・アンディの、その熱帯の資質がエイドリアン・シャーウッドの手癖を捻じ伏せた格好になったからなのかもしれない。つまり、ジャマイカ・UKの、レゲエ・サウンドのイイとこ取りとなっているのだ。この拮抗と和合の絶妙なバランスこそが、今作を傑作中の傑作ダブ・アルバムにしているのだと思うのだ。

「ダブは好きだけど、そういや最近ダブ・アルバムって聴いてないな」と思われた方、そんな方こそ是非このアルバムを聴くべきだ。

Midnight Rocker / Horace Andy 

ダブ・アルバム『Midnight Scorchers』のオリジナル・アルバムとなるのがこの『Midnight Rocker』だ。『Midnight Scorchers』と同様にエイドリアン・シャーウッドのプロデュースによりOn-U Soundからリリースされている。オリジナル・アルバムの充実があるからこそのダブ・アルバムの充実といえるが、当然ながらこの『Midnight Rocker』、実に素晴らしいルーツ・レゲエ・アルバムとして完成している。というかさ、オレも今まで膨大な量のレゲエ・アルバムを聴いてきたが、レゲエ・アルバムのハズレの無さというのは一種異様なぐらいで、それはもうレゲエという音楽ジャンルがスタイルとして究極なほどに完成しているからなんだと思えて仕方ないんだよな。

そしてなによりヴォーカルのホレス・アンディの素晴らしさだ。先ほどの『Midnight Scorchers』の紹介文で「御年71歳」と書いたが、いやちょっと待ってよ、71歳でこの朗々と響き渡るレゲエ・ヴォーカルってどういうことなのよ、と驚愕してしまう。例えばこれがロック・ヴォーカルなら枯れてきたり老成してきたり(実のところどっちも一緒なんだが)というのがあるのだけれども、ホレス・アンディのヴォーカルはそのどちらでもなく、かつての彼のヴォーカルが常にヒリヒリと現実の光景を切り裂いていたように、今このアルバムですら彼のヴォーカルはやはりヒリヒリと今この世界を覆う陰鬱さを切り裂こうとしているのだ。一人の表現者としてここまで突き抜けているという部分に、ホレス・アンディの凄み、そしてレゲエというものの凄みを感じてやまないのだ。