ミシェル・ウエルベックの評論『ショーペンハウアーとともに』を読んだ

ショーペンハウアーとともに / ミシェル・ウエルベック

ショーペンハウアーとともに

《世界が変わる哲学》がここにある! 現代フランスを代表する作家ウエルベックが、19世紀ドイツを代表する哲学者ショーペンハウアーの「元気が出る悲観主義」の精髄をみずから詳解。その思想の最奥に迫る! 

アルトゥール・ショーペンハウアーは19世紀のドイツ哲学者である、らしい。オレは名前程度は知っていたが、なにしろ哲学とは無縁な浅学菲才の徒であるゆえ、どのような思想哲学を展開していたのかはまるで知らない。というわけで例によってWikipediaなんぞを引用する。

カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉を説いた。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理でありこの世界は最悪、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の諦観・絶滅以外にないと説いた。この厭世観的思想は、19世紀後半にドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった。当時支配的だったヘーゲル哲学に圧倒されてなかなか世間に受け入れられなかったが、彼の思想は後世の哲学者や文学者、とりわけニーチェワーグナー、トーマス=マンらに大きな影響をあたえている。

アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia

ショーペンハウアーとともに』はこのショーペンハウアーミシェル・ウエルベックが紹介した評論集だ。上梓は2017年、『服従』(15)と『セロトニン』(19)の間に発表されたものだが、実際は『ある島の可能性』(05)を脱稿した頃から書き始められ(そして途中で投げ出され)たものであるらしい。

評論集ではあるが、ショーペンハウアーを徹底的に分析しその哲学を詳らかにしたもの、というわけでもないようだ。20代半ばにショーペンハウアーの著作と出会ったウエルベックが、いかにその哲学に衝撃を受けたのか、そのどの部分がウエルベックの心を掴んだのかを書き連ねたのが本書となるのだ。だから書籍は150ページ程度の薄いもので、ショーペンハウアー理解というよりはウエルベック理解の副読本として読むのが正しいのだろう。

そんなわけでこの本に挑んでみたオレではあるが、ウエルベックの語るショーペンハウアー哲学の神髄とその内容について理解できたかというと、よく分かりませんでした、というのが正直なところである。面目ない。ウエルベックショーペンハウアーの「世界は私の表象である」という命題に感銘を受けたのらしいが、なにしろショーペンハウアー哲学の中心となる「表象」「意思」「観照」といった抽象的な哲学術語がオレには無理だった。重ね重ね面目ない。

とはいえ分からないなりに、ショーペンハウアーの厭世主義とウエルベック厭世観が非常にマッチしたのだな、ということは理解した。というよりも、ウエルベック作品はその根底において、ショーペンハウアー哲学を展開したものだったのではないかと思えた。オレはウエルベック作品からヨーロッパ資本主義社会の没落を読み取っていたが、それよりもショーペンハウアー的な厭世主義を文学的に実践したものが彼の作品の本質だったのではないか。

併せて、芸術の真の美を無私に感受するという「観照」なる術語があるが、これなどは『地図と領土』における「芸術に対するアティチュード」の在り方が「観照」そのものを体現したものだったのではないかと思えた。そういった部分で、ウエルベック作品の解像度を上げる副読本としては最適かもしれない。うーむ、今度ショーペンハウアーを何か一冊読んでみるか……(絶対読まない)。

 

ミシェル・ウエルベックの評伝『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』を読んだ

H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って / ミシェル・ウエルベック

H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って

服従』『素粒子』で知られる《世界一センセーショナルな作家》、ミシェル・ウエルベックの衝撃のデビュー作、ついに邦訳! 「クトゥルフ神話」の創造者として、今日の文化に多大な影響を与え続ける怪奇作家H・P・ラヴクラフトの生涯と作品を、熱烈な偏愛を込めて語り尽くす! モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングによる序文「ラヴクラフトの枕」も収録。

様々な問題作を上梓してきたフランス人作家ミシェル・ウエルベックだが、実質的なデビュー作となるのはH・P・ラヴクラフトに関するこのエッセイ集、『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』(91)となる。しかしウエルベックによるとこのエッセイ集は「ある種の処女小説として書いた」のだという。

ただひとりの主人公(H・P・ラヴクラフトその人)が出てくる小説。伝えられる事実のすべて、引用される文章のすべてが正確でなければならないという制約を与えられた小説。とはいえ、やはり一種の小説なのだ。――『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』序より

この『世界と人生に抗って』が小説なのかどうかは別として、ウエルベックは10代の頃より相当のラヴクラフト・ファンであったのらしく、その思いのたけが凝縮されたエッセイ集であるのは間違いない。ただし「ラヴクラフト評伝」ではあっても、そこはあくまでウエルベックらしい切り口でもって書かれることになる。

例えば一人の作家の評論、評伝を書くのならば、それを客観的事実に基づく客観的な分析を交えて書くものだろう。もちろんこの『世界と人生に抗って』におけるラヴクラフト分析は、それらを周到に展開したものではあるが、そこにはウエルベックならではの、生来ともいえるペシミズムが色濃く匂うのだ。それはウエルベック自身のペシミズムを、ラヴクラフト作品のペシミズムに、ひいてはラブクラフトの生涯を覆うペシミズムに重ね合わせたかのような評伝となっているのだ。

特に秀逸に感じたのはラヴクラフト作品において取り沙汰されがちな「人種的偏見」がなぜ生まれたのか、という箇所だろう。それは結婚しロードアイランドの片田舎から大都市ニューヨークに移り住んだラヴクラフトが、人生初とも言える幸福な生活から一転、貧困と度重なる職探しの失敗から、ニューヨークに安穏と住まう有色人種たちに次第に憎しみを募らせていった、という記述である。そして醸造されたその憎しみと破綻した結婚生活とが、その後一人孤独にロードアイランドへと帰ったラヴクラフトに、クトゥルフ神話のあの輝かしくもまたおぞましい傑作群を書かせたというのだ。

ウエルベックは一人の作家として、文学上における「人種的偏見」など問題にしない。もとより自身も作品において人種差別的な言及を成すウエルベックであるが、彼の注視するのはその絶望の在り方であり、その絶望がいかにして文学史上唯一無二の「コズミックホラー」を書かせたのかということなのだ。ウエルベックはそれを、あたかも自身の絶望とその発露である文学作品を語るかの如く記述する。ラヴクラフトに対するこの濃厚な感情移入の在り方とその描写は、確かに「小説」の在り方そのものであるのかもしれない。

もうひとつ面白かったのは、本書の序文を書いたホラー小説の大御所スティーヴン・キングとの温度差だ。序文においてキングはウエルベックラヴクラフト分析にやんわりとした疑問を投げかけているのだ。キングは一人の大成したホラー作家として、同様のホラー作家であるラヴクラフトに大いに一家言持っているだろう。しかしそこは「エンタメ作家」と「文芸作家」との視点の差なのだろう。キングの指摘はある部分正しいものなのかもしれない、しかしこの『世界と人生に抗って』を「一種の小説」としてとらえるなら、ウエルベックの描くラヴクラフト像もまた、一人の実存的存在としてのラヴクラフト自身であるのだ。

 

人類の歴史を見守ってきた"神々たち"の物語/映画『エターナルズ』

エターナルズ (監督:クロエ・ジャロ 2021年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20211107101819j:plain

マーベル・ヒーロー映画『エターナルズ』、IMAXで観てきました。物語は宇宙の彼方から地球に飛来し7000年もの間人類を見守ってきた10人の超人「エターナルズ」の活躍を描くもの。

悠久の過去から現代へ、歴史に残る様々な文明の中でエターナルズは戦いを繰り広げてきましたが、彼らの使命は「ディヴィアンツ」と呼ばれる宇宙からやってきたモンスターを殲滅することであり、技術革新には手を貸すけれども、人類の争いへの介入は許されていません。「7000年前からこんな凄いヒーローたちがいたのになぜ地球は平和にならないの?」「なぜサノスとの戦いには現れなかったの?」という事が全部説明されていてこれは上手いな、と思いました。

しかし既に殲滅したはずのディヴィアンツたちが再び現れ、それによりエターナルズに新たな危機が訪れます。また「セレスティアルズ」と呼ばれる宇宙の超存在から与えられた自らの使命にも波乱が起こってしまいます。そしてこの現代においてエターナルズは最も熾烈な戦いを強いられることになるのです。

文明の曙から人類を見守ってきた超能力を持つ英雄たち、さらに宇宙のシステムを司ってきた超存在、といった設定は非常に壮大で、様々な古代文明が現れては消えてゆく描写にもスケールの大きさを感じさせます。これらの設定はSF作品ではありふれたものではありますが、逆にMCU映画の中では最もしっかりしたSF設定を持った物語という事もでき、SF好きとしてはとても楽しく観ることができました。逆に、物語性が非常に完結しているため、MCU映画としての必然性をあまり感じない作品でもありました。

2時間35分という長い尺を使い、丹念に映像を見せ、じっくり物語を語る様は最近公開された傑作SF映画『DUNE/デューン砂の惑星』と同等の、【エピック】としての貫録を十分に感じさせていました。その分いかにもヒーロー映画的な派手派手しいスペクタクルには欠けるかもしれませんが、クライマックスの壮絶な戦いはそのフラストレーションを全て解消してくれるはずです。

10人という大所帯のヒーローの登場は、誰が誰やらと言った混乱を招きそうに思えますが、前述した通りじっくりと語られる物語は、それぞれに登場する彼らの印象を観る者にきっちりと印象付けています。多少危うい部分もあるにせよ、10人それぞれがいなければ成り立たたない物語として作り上げられており、この辺りのバランス配分も絶妙です。それぞれのキャラをここでいちいち取り上げませんが、アンジェリーナ・ジョリーの「大女優感」は格別でしたし、ドン・リーことマ・ドンソクの登場はファンとしてとても嬉しいものでした。

さて、「エターナルズ」とは何なのでしょうか。観た方なら誰でも気付くでしょうが、これは【神々】であり【神話】という事なのでしょう。神々にしては泥臭い関係や離反が目に付くかもしれませんが、ギリシャ神話の昔から、神々というのは泥臭い=人間臭い存在であり、数々の離反や権力闘争を繰り広げてきたのです。「SF作品ではありふれたもの」と思える『エターナルズ』の設定は、それが神話として普遍的な物語性を持つからだとも言えるのです。古色蒼然とした過去の神話を刷新し、この現代に物語ろうとするとき、小説や映画、コミックはその絶好の媒体となるということなのでしょう。

それにしても、「様々な能力を持つ様々な国籍のキャラが集まり地球を守る、その中にはカップルがおり、コミックリリーフがおり、永遠に子供のキャラが一人いる、神のような敵が出現し戦う羽目になる」って、要するに石ノ森章太郎の『サイボーグ009』なんですよね。多様性について取り沙汰される『エターナルズ』ですが、才能のある作劇者がこういった物語を成立させようとしたとき、このような設定になるのは必然のような気がしました。

エターナルズ

エターナルズ

Amazon

スタニスワフ・レムのSF長編『インヴィンシブル』を読んだ

インヴィンシブル / スタニスワフ・レム

インヴィンシブル (スタニスワフ・レム・コレクション)

ソラリス』で知られるSF小説界の巨匠、スタニスワフ・レム。哲学的思弁を持った彼の作品はオレも大好きであれこれの作品を愛読していた。そのレムの選りすぐりの作品を国書刊行会が「スタニスワフ・レム・コレクション」として刊行し、第Ⅰ期6冊の配本は完了していたが、このたび第Ⅱ期の配本が決定、そのめくるめくラインナップにウキウキしていた。そしてその第Ⅱ期・第1弾の配本となるのが『インヴィンシブル』というタイトルのSF作である。

『インヴィンシブル』、聞いたことのない作品であったが、実はこれ、早川書房から『砂漠の惑星』というタイトルで刊行されSFファンにはお馴染みの作品の新訳なのらしい。ただし単なる新訳ではなく、これまでがロシア語版からの重訳であったものを、オリジナルであるポーランド語原典からの翻訳となるのだ。『砂漠の惑星』は随分昔、10代の頃に読んでいたが、これは読み直したくなった。なにより『砂漠の惑星』自体、オレの中では『ソラリス』よりも好きなレム作品だからだ。ちなみに「インヴィンシブル」とは「無敵」「不死身」「不屈」といった意味になるらしい。

物語は消息を絶った僚機コンドル号を捜索するため、巡洋艦インヴィンシブル号が琴座の惑星レギスIIIに降り立つところから始まる。惑星レギスIIIは砂漠と岩場の広がる荒涼とした星で、地上には一切の生命反応がない(後に海にだけ生命が発見される)。捜索隊一行はこの星で荒れ果てた謎の都市、さらに乗員の全滅したコンドル号を発見する。そしてある日隊員の一人が痴呆状態となる事件が起きる。不可思議な謎に満ちたこの惑星で捜索隊が次に直面するのは、雲霞のように空一面を覆って飛び交う不気味な黒い雲の姿だった。

(以下ネタバレあり注意)

 

『インヴィンシブル(砂漠の惑星)』は『ソラリス』『エデン』と並んでレムの「ファーストコンタクト3部作」と呼ばれる作品である。『ソラリス』が惑星全体覆う海の如き生命体を、『エデン』では労働部分と思考部分が分かれた人工生命をそれぞれ描いていたが、『インヴィンシブル』で描かれるのは機械生命体である。『インヴィンシブル』における機械生命体は一個がコイン大の飛翔可能な機械であり、それが数千万数億の群体となって惑星レギスIIIの空を飛び交っているのだ。

レムの「ファーストコンタクト3部作」の醍醐味は「ファーストコンタクト」した人類・異星生命体間のコミュニケーションが殆ど不可能であるという「絶対的な断絶」を描いた部分にある。これは宇宙に他の知的生命がいたとしても、人類が想定できるような知性や理性、倫理、文化、生態などを当てはめようなどといった行為は全く通用しないということなのだ。その断絶の中で人類はあらゆることを試みようとするが、それが成功する事は決してない。このレムの態度は、後に執筆される『天の声』『大失敗』にも受け継がれることとなる。

その中で『インヴィンシブル』の際立った面白さはというと、まずこの作品が人間と機械生命体との大規模な戦闘が描かれるという部分にある。機械生命は超磁力を用いて生命体の脳機能、特に記憶を司る部分を破壊する能力を持ち、巨大な雲の如き群体として飛翔し、まるでとらえどころのないそれは、いくら撃退しても際限なく湧き出てくる。この機械生命と人間の持つ最終兵器「キュクロプス」との戦いの描写は黙示録的な大破壊の光景を見せて圧巻だ。

同時にこの作品は、ある種当為としてとらえていた事柄に揺さぶりをかけてくる作品でもある。そもそも「機械生命」というものが語意矛盾した存在だ。この「機械生命」が数万年をかけて「進化」した、と作中では推論されるが、「機械の進化」というのもよく考えると奇妙な話なのだ。それは機械であり生命ではないが、生命の如く進化し、思考は為されていないにもかかわらず意思を持つが如き動きをする。ではこれは一体何なのか?ここでレムは「では機械とは何か?生命とは何か?進化とは何か?」と問いかけてくるのだ。これは例えば「ウイルスは生命か否か」という議論にも通じ、そしてそれは「ではそもそも生命とは何なのか」という問い掛けにも繋がる。そういった部分で、レム作品は常に思弁的であろうとするのだ。

 

アラン・ムーアによるクトゥルー神話コミック『ネオノミコン』

ネオノミコン / アラン・ムーア(作)、ジェイセン・バロウズ(画)、柳下毅一郎(訳)

ネオノミコン (ネオノミコンシリーズ)

人間をチューリップ型に切り裂く異様な殺人事件、古い教会を改築したクラブに蔓延する謎の白粉……頻発する怪事件を解決すべくFBI捜査官メリルとゴードンはマサチューセッツ州セイラムのオカルトショップに向かうが……ラヴクラフトの内なる深淵に迫り、時空を覆す宇宙最凶の暗黒神話、ここに始まる!【2012年ブラム・ストーカー賞グラフィック・ノベル部門受賞作】

ウォッチメン』『フロム・ヘル』『Vフォー・バンデッタ』など、様々な問題作を生み出してきたアメコミ界の鬼才アラン・ムーアが、クトゥルー神話に挑戦したコミックである。クトゥルー神話の傍流作品は数あるが、アラン・ムーアがいったいどう料理するのか?が本作の見所だろう。タイトルは『ネオノミコン』、いわば「新たなるネクロノミコン」といったところだろうか。

物語は連続猟奇殺人事件を追うFBI職員が、不気味な男による情報に導かれ、怪しげなパーティーに参加するところから始まる。ここからもうずっぽりと「大クトゥルー大会」へと発展してゆくのは言うまでもない。実のところオレはラブクラフトクトゥルー神話の熱心な読者ではないのだが、クトゥルー神話のキーワードをあちこちに散りばめながら進行してゆく物語は昏い喜びに満ち、読んでいて実に楽しかった。

この作品におけるアラン・ムーアらしさは『フロム・ヘル』を思わす血腥さと淫蕩さだろうか。グラフィック・ノベル『フロム・ヘル』は切り裂きジャックの真相に迫る作品だが、陰惨な死と狂った淫蕩さを描き、それが黒魔術世界へと繋がってゆく恐るべき物語だった。おぞましい性的暴力を中心的にクローズアップしている部分は吐き気を催すほどの生理的嫌悪を感じさせ、ラブクラフト的なコズミック・ホラーであると同時にまた別種の恐怖をも描く作品となっている。

なおこの作品はアラン・ムーアクトゥルー神話4部作の第1巻目となるものらしい。続いて『プロビデンス』ACT1~3巻が順次刊行される予定だという。これは楽しみだ。