最近読んだコミックあれこれ

■そせじ (4) /山野一

そせじ(4)

そせじ(4)

 

特殊漫画家・山野一ねこぢるとの出会いからその後「ねこぢるy」としてねこぢるの遺志を継いできたが、山野一名義で書き続けているコミック『そせじ』はかつての山野とねこぢるとの折衷的な旨味の詰まった作品となっている。そもそもこの『そせじ』は山野夫妻による双子娘の子育てコミックなのだが、世に数多ある凡百の子育てコミックとは大いにその味わいが違う。なにより「ねこぢるy」テイストのグラフィックはシュールかつ軟体動物的な美しいフォルムを見せ、一方そこで展開するシニカルさや生活臭に満ちたリアリズムは山野自身のテイストなのだ。ここで山野は「ねこぢるy」である自分から一歩踏み出し、新たなオリジナリティを獲得しようと模索しているように見える。まあゴチャゴチャ書いたが山野家の双子娘は火星からやって来た異生物のように可愛らしいし、子供らしい突拍子も無さ、理屈の通ら無さも実に楽しませてくれる。それに対する山野父さんのインチキさもまた素晴らしい味わいだ。またこの第4巻では双子の難産の経過を山野的リアリズムによって描いて行き、このシリーズの新たな展開をうかがわせる。電子出版のみの作品となるが、この『そせじ』はオレにとって早く続きが読みたい漫画の上位に位置している愛すべき作品なのだ。 

ゴールデンカムイ(22)/野田サトル

いよいよ金塊の在り処の真実に近付き、杉元/アシリパ一行の向かうべき先が見えてきて、物語はまさに佳境である。これまで敵味方入り乱れ、離合を繰り返してきたばかりに人間関係描写が複雑煩雑になり、最初の爽快感が薄れて来たなあと思っていたが、前巻ラストから杉元チームの人数と目的がシンプルになったことでそれが払拭されることになった。そういった意味で原点回帰的な構成になり実に快く読めるのだが、後半の「砂金掘り」のエピソードは一種のサイコサスペンス仕立てになっていて、いやこれはこれで今度は新しいぞ、とも感じた。次巻も期待だ!9月18日発売だぞ!ところであんまり関係ないけど、こないだユニクロアシリパさんTシャツ買ってしまった。漫画Tシャツを着る50代後半老人、どうよ。

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アオイホノオ (23)/島本和彦

アオイホノオ (23) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

アオイホノオ (23) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

  • 作者:島本 和彦
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: コミック
 

めでたく漫画家としての人生を歩みはじめたホノオ君だが高橋留美子に嫉妬の炎を燃やし映画『うる星やつら オンリーユー』に完膚無きまで打ちのめされあだち充に闘魂を燃やす、と相変わらずのルサンチマン展開だ!しかし今さっき調べたら島本和彦って実は父親から2社の社長職を継いで今大忙しというじゃないか。この『アオイホノオ』はそんな島本の漫画人生の総集編的な作品になるのかな。

■RaW HERO(5)/平本アキラ

平野アキラのエロエロ超人戦隊モノ第5弾、相変わらず意味もなくエロな露出とエロなドアップを繰り返すが、逆にこの「当為と化したエロ」の見せ方自体にエロなコミックへの批評性を感じてしまうのだ。そして今回も絶妙なタイミングで起こってはいけないことが起こり、このストーリーテリングの緩急の在り方には天才的なものすら感じる。平野の前作『監獄学園』は高校生が主人公という事からか露骨なセックスへの導入は控えていたように感じたが、この作品は社会人が主人公なのでモロにセックスの匂いを感じさせる展開が多く、その使い分け方と描写の違いにも平野の職業漫画家としての自負を感じる。

ダンジョン飯(9)/九井 諒子

ダンジョン飯 9巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 9巻 (HARTA COMIX)

 

ダンジョン飯』も9巻になるが、どんどん新キャラが増えその背景が語られてゆき、これら長編化の水増し要素ともなる部分を逆に物語世界をより奥行きのあるものとして描くことに成功している。もとより作者はファンタジー造詣に並々ならぬ資質を持っており、ディテールの上にディテールを重ねてゆくことで最初の印象とはどんどん違う、王道かつ肉厚なファンタジー作品としてこの物語を完成させるだろう。

聖☆おにいさん (18)/中村光

いつも「よくもまあこんな細かいネタを!」と楽しんでいた『聖☆おにいさん』だが、どうもこの巻から「細かすぎて伝わらない」ネタが多くなってきたように思える。ネタが尽きないマンガだなあ、と思ってたがいよいよそのネタが尽きて来たか。

■三大怪獣グルメ/ほりのぶゆき

三大怪獣グルメ

三大怪獣グルメ

 

イカ・タコ・カニが巨大化し、イカラ、タッコラ、カニーラという名の3大海鮮怪獣となって日本を襲った!現場に向かったSMAT(シーフード・モンスター・アタックチーム)が怪獣たちの手足を切り落とし、もしやと思って食べてみるとメッチャ美味い!?というギャグ漫画『三大怪獣グルメ』である。一応河崎実監督による映画『三大怪獣グルメ』のコミカライズである。漫画はほりのぶゆき、監修に久住昌之が参加しているが、久住さんがなにを監修したのかはよく分かんない……。それにしてもこの漫画、東宝怪獣映画『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ/決戦!南海の大怪獣』と怪獣設定が似ているんだがどうなってるんだろうか。パロディということでいいのだろうか。物語のほうもパロディ満載で、このテの特撮系のネタや、昨今の世相などがあれこれと盛り込まれてはいる。展開の在り方は相当ドタバタしているし、なんだか思い付きのままに進めている感じもするんだが、このナンセンスさを狙っているのかもしれない。

終わりなき戦いの果てにあるもの/ロシア産侵略SF映画『ワールドエンド』

■ワールドエンド (監督:イゴール・バラノフ 2019年ロシア映画

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ロシアのSF映画には意外と拾い物がある。

ロシアのSF映画と言えば古くには『惑星ソラリス』(1972)や『ストーカー』(1979)のような格調高い作品、『未来惑星キン・ザ・ザ』(1986)みたいなカルト作品もあるが、もっと最近だと『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』(2008)、『ダーケストアワー 消滅』(2012)、『ガーディアンズ』(2017)、『アトラクション 制圧』(2017)など、ハリウッド作品並みに派手なVFXを使用し大衆受けしやすいストーリーを持った作品が製作され、日本でも公開されている。

これらロシア産SF映画の特徴はいかにもロシアを思わせる武骨さであり、ハリウッド製のSF映画とは一味違う物語展開の在り方だろう。お国が違えば物語の切り口も自ずと違ってくるという訳だ。かつて社会主義連邦国家だったという政治的歴史性、広い国土と寒冷な気候、ロシア特有の文化風俗と人種構成、こういった背景が物語の色合いを独特のものにしているのだ。ロシア産SF映画には奇妙なエグみや泥臭さがあり、そういった「臭み」が逆に面白味へと繋がったりする。

最近日本でも公開されたロシア産SF映画『ワールドエンド』を観たが、これもなかなかの拾い物だった。SFジャンルとしては「侵略モノ」ということになるだろうか。ある日突然、世界中の全ての電力が喪失し、同時に人々も突然死し、あるいは謎の消失を遂げていた。地球でこの未曽有の危機を免れたのはロシアの一地域だけだった。ロシア軍特殊部隊は原因究明の為調査を開始するが、派遣された部隊はどれも全滅し音信不通となってしまう。そして混乱する軍部に1人の異星人が現れ、人類滅亡と地球移住計画について語り始める。その頃、消失した人間たちは異星人の操り人形となり、ロシアの都市を攻撃し始めたのだ。

こうした物語を背景にしつつ、作品においてはロシア軍対異星人に操られた人間たちとの凄まじい戦闘が徹底的に描かれてゆく。これら傀儡となった人間たちの様相はさながらゾンビである。死んではおらず人肉も食わないが、自分の意志を持たず死も恐れず圧倒的な数で相手に襲いかかる様子はゾンビ映画のそれだ。しかも彼らは銃を所有し、ロシア軍と銃撃戦を繰り広げるのだからゾンビよりもタチが悪い。殺しても殺しても後から後から雲霞の如くゾンビ人間が湧いて出る光景は、『ワールド・ウォーZ』のロシア篇が作られたらこうだったろうとすら思わせる。ロシア軍は次々と兵を失い、弾薬も尽き果て、希望無き敗走を余儀なくされてしまう。 人類に勝利の道はあるのか?

主人公となるのがロシア兵であり、銃撃戦をメインとする攻防が描かれてゆくこの作品は、ある意味ミリタリーSF作品と呼ぶこともできる。その終わりの無い熾烈な戦闘の描写は『ブラックホーク・ダウン』すら思わせる。時代背景は近未来に設定されており、車両や装備も近未来風だ。しかしそのデザインはハリウッド的なスマートさではなく、あくまで武骨で重厚な、実にロシア風のものになっている。兵士たちの行動や性格設定も武骨そのものであり、ヒロイックなキャラも存在せず、華がないと言えばそれまでだが、こういった泥臭い地味さが実にロシアのミリタリー作品だなと感じさせる。近未来と言えば途中描かれる近未来ロシアの都市は実に『ブレードランナー』しており、こういった部分のSF的楽しさもある。

終盤においては人類と異星人との太古における関係性が言及され、あたかも『プロメテウス』を思わせる真実が描かれることになるが、この辺は話を膨らませるための大風呂敷程度に思っておけばいいかもしれない。なにしろこの映画のキモは徹底的な銃撃戦なのだから。とはいえ「人間はなぜ殺し合うのか、なぜ殺し合いを止めないのか」という暗い問い掛けは、実はこの物語の背景の根本となっているもののような気がする。それはなにか。

意志を持たないゾンビの如き大群とロシア軍との終わりなき戦い、というモチーフの背景にあるものはなんなのか。これは1979年から1989年にかけて行われたソ連アフガニスタン侵攻を揶揄したものではないだろうか。10年に及ぶ長期の戦闘、ソ連側戦死者1万4000人以上、アフガン側はその数倍の戦死者を出したというこの紛争は「ソ連ベトナム戦争」とまで呼ばれた。そして経済的にも対外的にも疲弊したソ連が遂に崩壊する原因を生み出した紛争でもあった。映画『ワールドエンド』の物語は、アフガン侵攻におけるソ連軍の泥沼の如き戦闘と、絶望的で虚無的な結末のアレゴリーであったのかもしれないとオレは思うのだ。

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デヴィッド・リーンの初期の作品『旅情』と『逢びき』を観た【デヴィッド・リーン特集その5】

■旅情(監督:デヴィッド・リーン 1955年イギリス・アメリカ映画)

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アメリカに住む独身女性ジェーン(キャサリン・ヘプバーン)が念願のヨーロッパ旅行に出かけ、最終目的地である水の都・ヴェネツィアで一人のイタリア人男性と恋に落ちる。しかしその男性レナード(ロッサノ・ブラッツィ)は妻子ある身だった、というデヴィッド・リーン1955年監督作『旅情』である。

なにより目を惹くのはこれでもかとばかりに美しく撮影されたヴェネツィアの情景だろう。オレもこれまで映画や記録フィルムでヴェネツィアの映像を見たことはあるけれども、ここまで魅了させられる映像は無かったかもしれない。それはただ単に名所や美景を羅列するのではなく、映画ならではのアングル、カット割り、光線、編集で見せてゆくのだ。当然これらの映像には、作品の主役たる二人の男女の心理情景も加味され、それゆえのロマンチックさなのだろう。

さてこの作品は単純に言うなら「不倫モノ」でしかないのだが、デヴィッド・リーンの手にかかると格段の文学性を感じさせるものになる。ジェーンは気が強く物事をはっきり言う典型的なアメリカ女として描かれ、一方レナードは人生と愛をあけすけに楽しもうとするこれも典型的なイタリア男だ。ここにもデヴィッド・リーンの「異文化とのコミュニケーション」が描かれるのだ。

恋に憧れながら自らの頑なさで恋を逃してきた女ジェーンは最初レナードを許さないが、人生を愛する彼の態度にいつしか心を開く。この恋は許されないものではあったが、レナードに人生を愛することを教えられたジェーンは、彼と別れ、そこからまた新しい一歩を歩み出すのだ。これもまた、人生の発見ではないか。ニューヨーク映画批評家協会賞監督賞受賞作。

旅情 [Blu-ray]

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  • 発売日: 2012/06/08
  • メディア: Blu-ray
 

■逢びき (監督:デヴィッド・リーン 1945年イギリス映画)

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駅の待合室で出会った男女が恋に落ちる。しかし、二人は互いに配偶者を持つ者同士だった。そんな二人の狂おしい想いを描くのが1945年に公開されたデヴィッド・リーン監督作『逢びき』である。モノクロ。実際のドラマ構成は、二人の別れから始まり、その二人の出会いから別れまでを、主人公女性ローラ(セリア・ジョンソン)が回想する形で描かれる。そしてその回想は実は、夫への、声に出さない懺悔の形で行われるのだ。

回想における、ローラが出会った男性アレック(トレヴァー・ハワード)との心ときめく日々、それと同時に、嘘を重ねてゆくことへの罪悪感、それらがない交ぜになった心理描写がこの作品のメインとなる。つまり「不誠実ではあったが一線は越えなかった妻の懺悔」という形で、この当時の映画的なモラルとしてはギリギリに格調高い描写で押さえているような気がした。古い作品であり今現在観るとありふれたロマンス映画にも見えてしまうが、非常に抑制された感情表現の在り方にイギリス映画らしさを感じる事が出来るだろう。また作品内で描写される駅待合室(お茶や軽食を出すのだ)や映画館、レストランなどの風俗も観ていて楽しい。

しかし、それにしてもデヴィッド・リーンはなぜにこれほどまでに「不倫モノ」ばかり描きたがるのか。リーン監督自身が人生で6度の結婚を経験した恋多き男で、「恋に制約があることが許せない」ことが「不倫モノ」へと帰結させたのか。デヴィッド・リーンの多くの作品は「異文化とのコミュニケーション」で成り立っているが、非常にこじつけがましく書くけれども、「女性という他者=異文化」とのコミュニケーションの模索が、そもそもの原動力だったのではないだろうか。英国映画協会「イギリス映画100選」第2位、カンヌ映画祭グランプリ受賞。

逢びき [DVD]

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  • 発売日: 2002/12/20
  • メディア: DVD
 

 

 

引き続きデヴィッド・リーン監督作『ライアンの娘』『インドへの道』を観た【デヴィッド・リーン特集その4】

■ライアンの娘 (監督:デヴィッド・リーン 1970年イギリス・アメリカ映画)

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映画『ライアンの娘』は20世紀初頭のアイルランドの寒村が舞台となる。当時イギリス領であったアイルランドはイギリスに対して独立運動を繰り広げていた。物語の主人公は若き人妻ロージー(サラ・マイルズ)、彼女は赴任してきたばかりのイギリス人将校ランドルフ(クリストファー・ジョーンズ)と恋に落ちてしまう。そこにパルチザンによる武器搬入が発覚し村は大きく揺れ動く。

例によってリーン監督お得意の不倫ドラマだが、不倫であると同時に本来であればイデオロギー的に対立するもの同士の密会という事実がクライマックスに大いなる波乱を呼び込むことになる。つまり二重の意味で道義か愛かを突きつける物語なのだ。スパイ疑惑の掛かったロージーを裏切る父、吊るし上げる村民といった中で、不貞を働かれた夫だけは彼女を守り通そうとする。夫チャールズ(ロバート・ミッチャム)は妻の裏切りに苦しみながらも、人として彼女を守るのだ。ここにも愛と道義の確執を見て取ることが出来る。

こうして物語は人の心の醜さと尊さを同時に描き切り、強烈な印象を残して幕を閉じる。この物語における「異文化とのコミュニケーション」はイギリス人将校とアイルランド人の娘ということになるだろう。許されない恋ではあるけれども、二人は強烈な欠落感を胸裏に持ち(ロージーは結婚への失望を、ランドルフは戦争のトラウマを)、それを埋め合わせるために求め合ってしまう。二人のこの欠落感が道ならぬ恋をなおさら遣る瀬無いものにする。

今作ではアイルランドの寒々しく荒々しく、しかしどこまでも澄み切った美しい自然の描写がとことん描きつくされることになる。特に嵐のシーンでは、これはいったいどうやって撮影したのかと驚嘆した。195分。

■インドへの道(監督:デヴィッド・リーン 1984年イギリス・アメリカ映画)

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『インドへの道』は第一次世界大戦後の時代を背景に、当時英国植民地だったインドへ英国人の娘アデラ(ジュディ・デイヴィス)とその婚約者がやってくることから始まる。インド滞在の英国人たちはインド人に侮蔑的だったが、アデラは対等に接しようと心掛け、インド人医師アジズ一行と洞窟見学旅行に出る。しかし洞窟の中で「何かを見た」アデラは錯乱し、アジズはレイプ疑惑をかけられ裁判となるが、それはインド人差別だとして街は巨大な騒乱となる。

ここでの「異文化とのコミュニケーション」はイギリスとインド、宗主国と植民地との困難な対話を描くこととなる。物語では双方が歩み寄りを見せつつまた破綻し、英国とインドの一筋縄ではいかない関係を伺わせる。

そしてもう一つ、作品内では明瞭に描かれない「アデラが洞窟で見たものは何か」ということだ。これは物語を注意深く観てゆくと分かるのだが、婚約者との間で積もり積もったアデラの性的欲望/欲求不満が異邦の男アジズとの行動により発露し、しかしそれがなんなのか理解できない為に心理的に破綻を起こしたと言う事なのだろう。つまりアデラが洞窟で見たものは己の性的幻影だったのだ。

実はデヴィッド・リーン作品の多くには「人間は性的存在である」というテーマが隠されているように感じる。人はそもそもが性的存在であるが往々にしてそれを無視してしまう。それによる軋轢もまたリーン作品に描かれる事が多いと思う。さて今作においてはインドがその舞台となるが、インド映画好きのオレが観てもその描写の在り方は的確だったのように思う。ちなみにこの作品は『ライアンの娘』から14年ぶりに製作された作品であり、そしてデヴィッド・リーンの遺作となった作品でもある。

インドへの道 [AmazonDVDコレクション]

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  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: DVD
 

 

戦争という名の虚無/映画『戦場にかける橋』【デヴィッド・リーン特集その3】

 ■戦場にかける橋 (監督:デヴィッド・リーン 1957年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』は観ていなくともこの『戦場にかける橋』を観たことのある方は多いのではないか。なぜならオレもその一人だからだ(全部自分基準かよ)(ロレンスとジバゴはこないだやっと観た)。 と言ってもオレが観たのは大昔、正月の晩か何かにTV放送していたものだった。そんな『戦場にかける橋』を最近のデヴィッド・リーン・ブーム(オレの中で)の一環として数十年ぶりにブルーレイで観直してみたのだが、いやーどうやら殆ど内容を忘れていたことが発覚、逆に新たな気持ちで鑑賞することが出来た。

『戦場にかける橋』は第二次世界大戦中、タイ/ビルマの国境地帯に置かれた日本軍管轄の捕虜収容所が舞台となる。この捕虜収容所にはイギリス兵らが収容され、強制労働によってクワイ川を渡る鉄道橋を建造させられていた。しかし新たに捕虜となったイギリス軍大佐ニコルソンと捕虜収容所長・斎藤との間に対立が起き、ニコルソンのサポタージュにより橋建設は暗礁に乗り上げる。斎藤はニコルソンを懐柔し建設は順調に進むかに見えたが、そこに連合軍による橋爆破計画が進行していた。

『戦場にかける橋』は戦争を題材にした映画ではあるが、戦闘シーンのスペクタクルを描くのではなくメインとなるのは捕虜と収容所側との対立である。こういった題材は映画『大脱走』をはじめあれこれあるとは思うのだが、『戦場にかける橋』は一種独特だと思ったのは、捕虜と収容所側とに「交渉の余地」が持ち込まれるといった部分だ(他にもそういった戦争映画があるのかもしれないけど知らないんだ、ゴメン)。

もうひとつ独特だったのはある意味敵役である日本軍を血も涙もない殺戮機械としては描いていないという部分だ。交渉する同士の立場がある意味同等に描かれるのである。日本軍大佐斎藤は喜怒哀楽を持ったキャラとして肉付けされ、冷徹ではあってもどこか人間臭い。例えば他の戦争映画であれば、これがドイツ軍だったらもっと冷酷無比な悪鬼の如きキャラとして描かれはしないか。またこれがベトナム軍だったら十把一絡げの有象無象として描かれないか。それは相手が一方的な「悪」だったり「敵」だったりするからだ。しかしこの作品では双方のコミュニケーションの在り方を描こうとする。ここでもデヴィッド・リーンらしい「異文化とのコミュニケーション」といったテーマが発露しているのだ。

逆に言うなら、融通が効かないとはいえ、この作品における日本軍は随分物分かりがいい描かれ方をしていて、実際の戦争ではこんなものだったろうか?という疑問も湧いたりはする。大日本帝国軍はもっと狂気に満ちた存在として描かれないとどうも納得いかない、というのは自虐史観か?とはいえ、なにしろ主題が「異文化とのコミュニケーション」なのだからこういった体裁になるのは当然なのかもしれない。映画というフィクションである以上、リアリズムそれ自体はまた別の話となるのだ。それと、この作品を観て思い出したのは『戦場のメリークリスマス』だが、テーマ的には似て非なるものがあるような気がする。

そしてやはり、あまりにアイロニカルなあのクライマックスだろう。「異文化とのコミュニケーション」をひとつのテーマとしながらもその最期に徹底的な死と破壊を持ち込むことでこの作品は戦争映画として一級の輝きに満ちている。それは戦争という名の虚無である。これはキューブリックフルメタル・ジャケット』でもコッポラ『地獄の黙示録』でも成し得なかった透徹した物語性なのではないのか。少なくともオレの中で「戦争映画」というジャンルの見方が刷新された作品であった。