砂漠を愛し、アラブの民を愛した男/映画『アラビアのロレンス』【デヴィッド・リーン特集その2】

 ■アラビアのロレンス (監督:デヴィッド・リーン 1962年イギリス・アメリカ映画)

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デヴィッド・リーン監督作『アラビアのロレンス』。やっと観た。やっと観た、というのは要するに生まれて初めてやっと全篇通して最後まで観た、ということである。子供の頃TV放送していたのを最初だけ観た記憶があるが、なにしろ全部観てない。とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

その後いい歳のオッサンとなり「やはりこの作品だけは観ておかないとまずいか」と思いソフトを買ったのが2012年10月(アマゾンに履歴があった)。その時買ったのが「アラビアのロレンス 製作50周年記念 HDデジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション」というヤツで、これはオリジナル207分より長い227分の「完全版」だった。観始めると、雄大な砂漠と広大な砂漠と遠大な砂漠がどこまでもどこまでも……。気が遠くなったオレはディスクをバカ映画に替えて気持ちを取り直し、それ以降観る事は無かった。ただ、とりあえずロレンスがバイクで事故死することだけは分かった。

そんな『アラビアのロレンス』をソフト購入後8年経ってようやく観終ったという訳なのである。感想?面白かったに決まってるじゃないか!しかしロレンスが最後バイクで事故死するなんてショック!……それにしても、この作品くらい有名で不動の評価を得ている名作中の名作について、今更何か書くのって無意味なような気さえするのだが、とりあえずなんか思いついたことを書いておこうと思う。

この映画、なにしろビックリさせられるのは本当にどこまでもどこまでも続く砂漠のロングショットなのだ。地の果てまで続くかと思わせるその砂漠の地平線の彼方に、なにか豆粒みたいなものがゆっくりゆっくり動いている……と思ったらそれはラクダに乗った人影なのだ。画面全体が巨大な窓の様になり、その向こうに実際の砂漠が広がっていて、そこに本物の人がいるようにすら見えるのだ。その圧倒的な臨場感がこの作品のひとつのキモとなるのだ。こんなの見せられると、「劇場の、なるたけ巨大なスクリーンで観たい!」と思うに決まってるじゃないか。こんなにTV画面で観るのがもどかしい作品は他にない。

この遠景ショットは一つの人影から小隊へ、さらに何百というラクダ騎乗部隊へと描かれるたびに増えてゆき、今度は画面を埋め尽くすそのモブの数に驚嘆させられる。画面いっぱいに写し出される雄大な砂漠の次は画面いっぱいの、見渡す限りの人、人、人!特にロレンス軍のアカバ奇襲作戦シーンは、膨大なラクダ兵の群れが砂漠の彼方から大津波の如く町に押し寄せ町を飲み込んでゆくという様子を遠景から写し、その凄まじい臨場感にTVの前で「あ・あ・あ!!」と変な声を出してしまったぐらいである。

大昔の超大作はエキストラの数で驚かされることがあるが、この『アラビアのロレンス』もまた迫真の撮影法も相まってその圧倒的な量に兎に角驚かされる。昨今の映画は砂漠もモブもCGでなんとかしてしまうのだろうが、やはりホンモノは歴然と違う。映画監督クリストファー・ノーランはホンモノを使った撮影にこだわることで有名だが、『アラビアのロレンス』を観れば分かる、ホンモノは違う、だからホンモノで写すんだ!少なくとも映画を志し『アラビアのロレンス』に感銘したことのある者ならば、誰もが皆そう思うのではないか。スピルバーグやスコセッシを始めとする有名監督がなぜデヴィッド・リーンを支持し尊敬するのか、この『アラビアのロレンス』を観れば理解できる。

この作品における「異文化とのコミュニケーション」は言うまでもなく英国人であるロレンスとアラブの砂漠の民とのコミュニケーションである。『ドクトル・ジバゴ』を観た時も思ったが、リーン監督は画面に現れる異文化、異邦人をあくまで対等の相手として、歪みや曇りの無い目で映し出そうとする。それ自体がリーン監督の物を見る目、他者に対するポリシーであるかのようだ。当時アラブの民をこの作品の様に人間性溢れた者として描くことの出来た欧米映画はあったのだろうか。

さて主人公であるロレンスだ。ロレンスは軍隊でも変わり者として描かれる。砂漠を愛し、砂漠の民を愛しているのらしい。彼の稚気に溢れ公平で屈託の無い態度はアラブの民の心を容易く開き友愛の念すら抱かせる。こんなロレンスのをピーター・オトゥールが演じるが、それにしてもなんてイイ男なんだ。オレはちょっと惚れそうになったぞ。しかし映画の中におけるロレンスは、風変わりが過ぎるのか、あまりに屈託が無く陰影に乏しく感じて、オレにはどこか理解しがたいものを感じた。なんだか人間離れしているというか、愛すべき人物の様には思えても、なにか血肉を持った人間の様に感じなかったのだ。

そのロレンスは後半捕虜となり虐待を受けることでダークサイドに入ってしまい、自傷を繰り返し遂にはオスマン帝国軍の虐殺まで指揮してしまう。しかしこのスイッチのオンオフみたいな機械的な変節の在り方は演出不足・説得力不足に感じてしまった。ラストは失意の中にあるロレンスが描かれることになるが、ある程度史実をなぞっていたのだとしても、前半の華やかなまでの瞬発力と躍動感が失われどこか尻すぼみになって終わるような印象になってしまい、この部分で不満が残るんだよなあ。なんかこう、カタルシスがさあ。とはいえこうしたアンチクライマックスの形をとることで、T・E・ロレンスという人物を神格化したヒーローではなく、アラブとの対話に最終的に失敗した軍人として描き、その後のアラブ外交の困難さまでうかがわせようとしたのだろう。

 

時代に翻弄され数奇な運命を辿る男女の愛を描いた歴史ロマン/映画『ドクトル・ジバゴ』【デヴィッド・リーン特集その1】

ドクトル・ジバゴ (監督:デヴィッド・リーン 1965年アメリカ・イタリア映画)

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ロシア革命を背景に、時代に翻弄され数奇な運命を辿る男女の、許されぬ愛とその行方を描いた作品である。197分。物語は帝政ロシア時代から始まり、第一次世界大戦を経て、ロシア革命、その後の暗い全体主義国家体制へと変遷しつつ、主人公ジバゴの流転する人生と、美しい娘ラーラとの秘められた恋とが、溢れ返るようなロマンで描かれてゆくのだ。

今回いろいろデヴィッド・リーン監督作を観たけれど、実はオレはこの作品が一番好きだ。『ロレンス』でも『橋』でもなく『ジバゴ』が好きなのだ。なぜかって、この作品にはロマンスがあるじゃないか。それと「ロシア革命」ってのがいい。革命前夜の異様な熱気と、革命が成就してもやっぱり嫌な社会にしかならなかったというアイロニーがいい。それとロシアの寒々しい雪の情景がまたいい。オレは北海道生まれだから雪原や雪に覆われた街並みを見ると妙に落ち着くんだ。これら雪の情景はデヴィッド・リーン印のロングショットでたっぷりと描かれ、あたかもその場所に居合わせたかのような臨場感を覚えさせるんだ。これがまたうっとりさせられるんだよ。素晴らしいよ。

この作品において主人公ジバゴは能動的な行動を殆ど起こさず、ただ流されてゆくだけのように見えてしまうが、それはジバゴもまたこの時代に生きた大勢の人々とまるで変わらない、巨大な時代の変換点の中で成す術もなく生きざるを得なかった人間だ、ということじゃないのか。「そんな運命だった」と言うしかない物寂しさ、悲哀がこの物語なんだと思うんだ。そしてラーラとの恋は、それは確かに不倫ではあるのだけれども、でもそれは医療班として前線に残された二人の、ぎりぎりの不安と孤独を払拭するために身を寄せ合った結果じゃないか。それは正しくはないのかもしれないけれど、でも、とても人間臭いことではないかとオレは思うんだ。

そしてロシアを舞台にしたロシア人が主人公のこの物語がどう「異文化とのコミュニケーション」なのか。それはこんな作品を、イギリス人監督がハリウッドで撮った、ということだ。米ソ冷戦下の時代に西側諸国の人間がロシア人の人生を美しくもまた高らかなロマンの薫りを込めて描き、それを西側諸国の観客が絶賛をもって受け入れたのだ。つまり映画自体がロシアという異文化とのコミュニケーションを促したということはできないだろうか。

そして時代は流れ、ジバゴの名も、ラーラの名も歴史の中から消えてゆき、また慌ただしく新しい時代と、新しい人々が生まれてゆく。映画は冒頭とラストにおいてそんな無常観と共に、彼らが育み橋渡しした新世代の胎動とを描く。生々流転する人生、運命、誰にも止められないそんな大きな流れの中で、ささやかな愛を語り合った二人の姿、それはこの世界で生きた、あるいは生きている誰もと同じ姿である、とオレには思えてしかたなかったんだよ。いい作品だよ!素敵だよ!オレは大好きだ!ちなみにあのキャスリーン・ケネディがこの映画が好き過ぎて25回だか観ているらしい!

デヴィッド・リーンにハマってしまった【デヴィッド・リーン特集:序章】

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ついこの間まで家で積みDVDばかり消化していた。見栄を張って買ったはいいがまるで観ていなかった名作系の映画ばかり観ていたのである。その時に観た映画はこちらのエントリで紹介した。

とはいえ、観ていない積みDVDはまだまだ残っていて、「いやもうそろそろ観念してこれも観た方がいいんじゃ……」とDVDジャケットとしばし睨めっこした作品があった。それは映画史に燦然と輝くデヴィッド・リーン監督作品『アラビアのロレンス』、さらに『ドクトル・ジバコ』であった。『アラビア~』にしろ『ドクトル~』にしろ、冒頭をチョイと観て「おお、重厚だ、確かにこりゃ名作だ」と確認はしたのだが、なにしろ冒頭チョイのままずっと棚に仕舞われていたのである。だってさあ……長いんだもん……そして雄大な自然描写がさあ……ちょっとダルくなってくるんだもん……。

とかなんとかグズグズ言いつつ意を決して最後まで鑑賞したところ、これが、もう、半端なく面白かった。掛け値なく、これこそ名作だ、と思った。同時に、オレは実は、こんな映画をずっと観たかったんじゃないのか、オレが映画に求めていたのは、本当はこれだったんじゃないのか、とすら思った(熱くなりすぎ)。思い込みの激しいオレはすぐさま他のデヴィッド・リーン監督作のDVDやらブルーレイを買い揃え、いまやデヴィッド・リーン映画漬けである。

ところでデヴィッド・リーン作品に目覚めちゃったオレではあるが、これら過去の名作だけが真の映画だと言いたいわけではない。これら50~60年代に作られた映画の、そのテンポや話法やフィルムの質感が、子供の頃食い入るようにして観た「〇〇映画劇場」みたいなTVの映画番組を思い起こさせて、和むものを感じるということなのだ。ある意味年寄りの郷愁が混じっているのだ。だから若い人は過去の名作になんか拘らず、もっと現代的でビビッドな映画、それに限らずなにしろ自分の観たい映画を観ればいいんだと思う。「〇〇〇を観てないの!?」とか言う連中は単なるマウント廚だから当然全無視だ。

ちょっと脱線したが、明日から5日に渡ってグダグダとデヴィッド・リーン作品全7作を紹介してみようかと思う。なにしろ世界的巨匠による有名作品ばかりなので、オレごときが今更何か付け加えることも無いのだが、ひとつ気付いたのは、デヴィッド・リーンの監督作というのは、どれも「異文化とのコミュニケーション」を描こうとしたものだということだった。その辺も絡め、お暇な方はお付き合いください。

 

 

オルダス・ハクスリ―のディストピア小説『すばらしい新世界』は実はユートピア小説だった?

すばらしい新世界 / オルダス・ハクスリ―

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

すべてを破壊した“九年戦争”の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする清潔で文明的な世界が形成された。人間は受精卵の段階から選別され、5つの階級に分けられて徹底的に管理・区別されていた。あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界で、孤独をかこっていた青年バーナードは、休暇で出かけた保護区で野人ジョンに出会う。すべてのディストピア小説の源流にして不朽の名作、新訳版!

先日『1984年』 を読み終わったのでついでと言ってはなんだが同じくディストピアSF小説の古典として名高いオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んでみることにしたのだ。

オルダス・ハクスリーは1894年イギリス生まれの作家。この『すばらしい新世界』は1932年、『1984年』刊行の17年前に出版された長編小説であり、アメリカのモダン・ライブラリーが選ぶ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」では『ユリシーズ』『グレート・ギャツビー』『若い小説家の肖像』『ロリータ』に次いで第5位に選ばれた高い評価の小説なのだという。

物語は破滅戦争終結後の26世紀の未来が舞台となる。この世界では共生と安定のスローガンのもと人類初のユートピア社会が生み出されていた。人は全て試験管によって生み出され、育児・教育は一括管理され、条件付けされた人々による社会は平和そのもので、病気も老いもなく、フリーセックスと安全なドラッグにより誰もが幸福極まりない生活を営んでいた。しかしそこに保護区に住む「現世種」の青年が現れることにより新たな混乱が生み出されるのだ。

人間が皆オートメーションシステムによって生み出される。知能や身体能力は遺伝子操作により出生前に決定され、出世後はそのランクごとに階級社会が形成される。条件つけられているがゆえに人々は自由意志を持つ必要もなく、予め決定された生を何一つ疑問も持たず生きることになる。これにより社会は安定し、誰もが一見幸福そうに生きるけれども、これは本当にユートピアなのか?誕生から死まで全てが管理され条件付けられた社会、「自分で決定できる自分自身の生の無い世界」、それはディストピアなのではないのか?というのがこの『すばらしい新世界』である。

とまあこんな「全てが完全管理されたディストピア」を描いている筈の『すばらしい新世界』だが、オレには「いやこれ普通にユートピアじゃん?」と思えてしまった。妊娠出産から開放されているといった点で女性には楽園だし、育児教育は国家が行うので家族といった概念が存在せず当然結婚も存在せず、そういった部分で家族と結婚にまつわる全ての病理が存在せず、自由恋愛でフリーセックス社会だから性と男女の問題も一切存在せず、副作用の無いドラッグがやり放題なので誰もが皆精神状態が安定していて、医学の発達により病気も老いも無く、仕事は遺伝子操作により出生前から能力別にカーストが存在して、その決められた仕事をこなせば生活ができるので、就職や失業や収入についての不安も存在しない。ただし60歳になったら全員安楽死ということになっているけれど、そもそもそういう社会だから誰も疑問にも思わない。

これら「幸福の名の下に全てが管理された社会」というのは、そもそもにおいて、現在の人類社会の目標じゃないか。しかしこの物語において何が問題となっているのかといえば、それは「自分の人生を自分で決定できる自由が存在しないこと」となる。物語はここで「保護区に生きる昔ながらの出産の形で生まれた野人(現生人)」を持ち出し、自由意志を尊ぶ彼の行動と物語におけるユートピア社会とを対比させることにより、「自由意志の可否」を浮き上がらせる。野人の青年バーナードは「自由意志の為ならどんな不幸になってもいい」と豪語するけれども、自由意志など無くても誰もが幸福な社会でそんな意思など本末転倒に過ぎない。そもそも現実の社会においてさえ、自由意志などどれだけ有意なのか?実は「自由意志だと思い込める範囲の自由意志」を持たされて管理されているだけではないのか?この物語にはそういったぎりぎりのアイロニーが込められているように思う。

同じディストピア小説1984年』と比べてどうだろう。『1984年』は人間の愚かさから生まれた地獄を描くけれども、『すばらしい新世界』は人間の公正さによって生まれた非人間的社会であるといっていいだろう。『素晴らしい新世界』の物語は『1984年』よりもはるかに合理的であるからこそよりおぞましい。文学として優れているのは『1984年』だが、SF的思考実験小説として楽しめるのは『すばらしい新世界』だといえるだろう。さらにこの物語、後半は相当にスラップスティックな展開を見せ、「ディストピア小説」といったジャンルから感じる陰鬱さがまるで無い部分が面白い。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

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すばらしい新世界

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すばらしい新世界 (中公文庫)

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  • 作者:池澤 夏樹
  • 発売日: 2003/10/01
  • メディア: 文庫
 

リュック・ベッソン印のビューティー・アサシン映画『ANNA/アナ』を観た

■ANNA/アナ (監督:リュック・ベンソン 2019年アメリカ・フランス映画)

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例のアレによる緊急事態宣言が解除され、「久しぶりに映画でも行くか」と公開情報を漁っているオレの目に飛び込んできた映画タイトルが『ANNA/アナ』。なにやら女殺し屋が主人公の映画なのらしい。「女殺し屋・・・・・いまどきありふれてんなあ・・・・・・それに『アナ』ってなんだよ?『雪の女王』かよ?シアーシャ・ローナンの出てた『ハンナ』のパチモンかよ?え、監督リュック・ベンソン!?いやこりゃ観なきゃだわ!」とオレは秒速でチケットを予約したのだ。

リュック・ベンソン、『グラン・ブルー』や『レオン』で注目を浴びたものの、その後の活躍は評論家にはあまり芳しくない印象を受ける。所詮ハリウッドのモノマネ監督、薄っぺらい作風、B級アクション専門製作者、なんてイメージがベッソンには付きまとってないか。実のところオレも特に注目すべき監督ではないと思っていた。しかしここ最近では『LUCY/ルーシー』は評判ほど悪い作品ではないと思ったし『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』は最高に面白かった。そしてオレは気付いたのである、「オレ、実はベッソン映画好きなんじゃないか?」と。『フィフス・エレメント』とかもサイコーだったじゃないっすか?

今作『ANNA/アナ』はなにしろ女殺し屋が主人公となるアクション映画である。舞台は80年代、KGBの殺し屋として訓練を受けた女アナは、パリでファッション・モデルとして活躍しながらその裏で諜報・暗殺活動を続けていた。しかし過酷な任務の連続にアナの心は次第に疲弊し、さらにCIAが彼女にスパイ疑惑を持ち始めていた。追い詰められたアナの打って出た手とは?

さてこの『ANNA/アナ』、「女殺し屋」が主人公なれど、確かに今更感が強いのは否めない。そもそもベッソン出世作ニキータ』がそうだったし、『レオン』にもその匂いを感じる。同工異曲の作品は他にも沢山あり、『ハンナ』もそうだったが『コロンビアーナ』やら『ウォンテッド』やら『アトミック・ブロンド』やら『レッド・スパロー』やらと枚挙に暇がない。そんな作品をまたぞろベッソン自身が撮るとはよっぽどイマジネーションが枯渇したか柳の下の二匹目を狙ったか、どちらにしろまるで新鮮味が感じないと言えない事もない。

しかしだ。前述の『ハンナ』にしても『アトミック~』、『レッド~』にしても、実は結構楽しめたしオレは大好きな作品だ。「女殺し屋」ジャンルは作りようによっては面白いジャンルなのだ。例えば「カンフー映画」と一口に言ってもその内容は千差万別であるように、「女殺し屋」というジャンルの中でその内容を差別化し面白さを見出せばいいだけの話なのだ。

それではこの『ANNA/アナ』は「女殺し屋ジャンル」としてどう差別化を図っているのだろう。それはまず「殺し屋はスーパーモデル」という設定だ。有り得んわ!アホやん!しかしそれがいい。映画ではモデルを営む主人公とそれを取り巻くファッション業界とがコミカルに描かれ、モードの世界の煌びやかさも相まって見た目がなかなかに楽しい。なにより、今作でアナを演じたサッシャ・ルス自身がロシア出身のスーパーモデルなので、そのルックスとモデル身長を生かしたアクションとが実に魅せるのだ。彼女がむさ苦しい男どもを相手に鉄壁の無双振りを見せるシーンは当然今作のハイライトとなる。いやーオレもサッシャ・ルスにフライングニードロップぶちかまわれた後のボディーシザーズを喰らってみたい・・・・・・(ウットリ)(おい)。

もうひとつは作品全体を通して頻出する時制の巻き戻しだろう。シークエンスごとに「3ヶ月前」だの「1年前」だのと時間が巻き戻され、「実は現在こういったことが起こってるのは、過去にこんな出来事があったからなんだよ!」と細かなネタバラシをして物語に驚きを与えようとしているのだ。観る人によっては「鬱陶しい!」と苦言を呈するかもしれないし、評論家筋なら「馬鹿の一つ覚え」と冷笑するだろう。ただ実際観終わってみると、「全編フラッシュバックで構成する実験だったのかな」と思わされ、それは大成功とまでは言わないが、作品に独特の風味を与えており、目先の変わった「女殺し屋ジャンル」となっていることは確かだと思う。

もうひとつは脇を固める演者の面白さだろう。主演にモデル出身の新人を起用している分、脇をしっかりした俳優でまとめてあるのだ。まずはKGB上官の役を勤めるヘレン・ミレンだ。今作では黒縁眼鏡にブラウン系の髪の色で、パッと見ヘレン・ミレンに見えず、驚かされた。狡猾で抜け目無いKGB職員のキャラはヘレン・ミレンには当たり役だったと思う。他にもKGBの同僚をルーク・エバンス、CIAエージェントをキリアン・マーフィーが演じ、それぞれに強い存在感を与えることに成功している。細かいところでは『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』で主演だったアレクサンドル・ペトロフがアナの元恋人役で出演していたりする。

確かにいまどきKGB対CIAの抗争が物語の背景ってなんじゃいな?とは思うが、これはフランス人監督が撮っている事を思い出して欲しい。NATO同盟国の出身ではあろうが、リュック・ベッソンにとってKGBもCIAも絵空事であり、政治的意図も皆無で、どちらの陣営にも描写は加担しない。要するにこれは無邪気なコミックであり、それがリュック・ベッソン映画の皮相的な部分ではあるが、だからこそ他愛なく楽しめるという側面も持っている。で、それでいいんじゃないかな。

( ↓ 予告編はちょいネタバレ含まれてるので注意!)

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