オルダス・ハクスリ―のディストピア小説『すばらしい新世界』は実はユートピア小説だった?

すばらしい新世界 / オルダス・ハクスリ―

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

すべてを破壊した“九年戦争”の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする清潔で文明的な世界が形成された。人間は受精卵の段階から選別され、5つの階級に分けられて徹底的に管理・区別されていた。あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界で、孤独をかこっていた青年バーナードは、休暇で出かけた保護区で野人ジョンに出会う。すべてのディストピア小説の源流にして不朽の名作、新訳版!

先日『1984年』 を読み終わったのでついでと言ってはなんだが同じくディストピアSF小説の古典として名高いオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んでみることにしたのだ。

オルダス・ハクスリーは1894年イギリス生まれの作家。この『すばらしい新世界』は1932年、『1984年』刊行の17年前に出版された長編小説であり、アメリカのモダン・ライブラリーが選ぶ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」では『ユリシーズ』『グレート・ギャツビー』『若い小説家の肖像』『ロリータ』に次いで第5位に選ばれた高い評価の小説なのだという。

物語は破滅戦争終結後の26世紀の未来が舞台となる。この世界では共生と安定のスローガンのもと人類初のユートピア社会が生み出されていた。人は全て試験管によって生み出され、育児・教育は一括管理され、条件付けされた人々による社会は平和そのもので、病気も老いもなく、フリーセックスと安全なドラッグにより誰もが幸福極まりない生活を営んでいた。しかしそこに保護区に住む「現世種」の青年が現れることにより新たな混乱が生み出されるのだ。

人間が皆オートメーションシステムによって生み出される。知能や身体能力は遺伝子操作により出生前に決定され、出世後はそのランクごとに階級社会が形成される。条件つけられているがゆえに人々は自由意志を持つ必要もなく、予め決定された生を何一つ疑問も持たず生きることになる。これにより社会は安定し、誰もが一見幸福そうに生きるけれども、これは本当にユートピアなのか?誕生から死まで全てが管理され条件付けられた社会、「自分で決定できる自分自身の生の無い世界」、それはディストピアなのではないのか?というのがこの『すばらしい新世界』である。

とまあこんな「全てが完全管理されたディストピア」を描いている筈の『すばらしい新世界』だが、オレには「いやこれ普通にユートピアじゃん?」と思えてしまった。妊娠出産から開放されているといった点で女性には楽園だし、育児教育は国家が行うので家族といった概念が存在せず当然結婚も存在せず、そういった部分で家族と結婚にまつわる全ての病理が存在せず、自由恋愛でフリーセックス社会だから性と男女の問題も一切存在せず、副作用の無いドラッグがやり放題なので誰もが皆精神状態が安定していて、医学の発達により病気も老いも無く、仕事は遺伝子操作により出生前から能力別にカーストが存在して、その決められた仕事をこなせば生活ができるので、就職や失業や収入についての不安も存在しない。ただし60歳になったら全員安楽死ということになっているけれど、そもそもそういう社会だから誰も疑問にも思わない。

これら「幸福の名の下に全てが管理された社会」というのは、そもそもにおいて、現在の人類社会の目標じゃないか。しかしこの物語において何が問題となっているのかといえば、それは「自分の人生を自分で決定できる自由が存在しないこと」となる。物語はここで「保護区に生きる昔ながらの出産の形で生まれた野人(現生人)」を持ち出し、自由意志を尊ぶ彼の行動と物語におけるユートピア社会とを対比させることにより、「自由意志の可否」を浮き上がらせる。野人の青年バーナードは「自由意志の為ならどんな不幸になってもいい」と豪語するけれども、自由意志など無くても誰もが幸福な社会でそんな意思など本末転倒に過ぎない。そもそも現実の社会においてさえ、自由意志などどれだけ有意なのか?実は「自由意志だと思い込める範囲の自由意志」を持たされて管理されているだけではないのか?この物語にはそういったぎりぎりのアイロニーが込められているように思う。

同じディストピア小説1984年』と比べてどうだろう。『1984年』は人間の愚かさから生まれた地獄を描くけれども、『すばらしい新世界』は人間の公正さによって生まれた非人間的社会であるといっていいだろう。『素晴らしい新世界』の物語は『1984年』よりもはるかに合理的であるからこそよりおぞましい。文学として優れているのは『1984年』だが、SF的思考実験小説として楽しめるのは『すばらしい新世界』だといえるだろう。さらにこの物語、後半は相当にスラップスティックな展開を見せ、「ディストピア小説」といったジャンルから感じる陰鬱さがまるで無い部分が面白い。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 
すばらしい新世界

すばらしい新世界

 
すばらしい新世界 (中公文庫)

すばらしい新世界 (中公文庫)

  • 作者:池澤 夏樹
  • 発売日: 2003/10/01
  • メディア: 文庫
 

リュック・ベッソン印のビューティー・アサシン映画『ANNA/アナ』を観た

■ANNA/アナ (監督:リュック・ベンソン 2019年アメリカ・フランス映画)

f:id:globalhead:20200607123207j:plain

例のアレによる緊急事態宣言が解除され、「久しぶりに映画でも行くか」と公開情報を漁っているオレの目に飛び込んできた映画タイトルが『ANNA/アナ』。なにやら女殺し屋が主人公の映画なのらしい。「女殺し屋・・・・・いまどきありふれてんなあ・・・・・・それに『アナ』ってなんだよ?『雪の女王』かよ?シアーシャ・ローナンの出てた『ハンナ』のパチモンかよ?え、監督リュック・ベンソン!?いやこりゃ観なきゃだわ!」とオレは秒速でチケットを予約したのだ。

リュック・ベンソン、『グラン・ブルー』や『レオン』で注目を浴びたものの、その後の活躍は評論家にはあまり芳しくない印象を受ける。所詮ハリウッドのモノマネ監督、薄っぺらい作風、B級アクション専門製作者、なんてイメージがベッソンには付きまとってないか。実のところオレも特に注目すべき監督ではないと思っていた。しかしここ最近では『LUCY/ルーシー』は評判ほど悪い作品ではないと思ったし『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』は最高に面白かった。そしてオレは気付いたのである、「オレ、実はベッソン映画好きなんじゃないか?」と。『フィフス・エレメント』とかもサイコーだったじゃないっすか?

今作『ANNA/アナ』はなにしろ女殺し屋が主人公となるアクション映画である。舞台は80年代、KGBの殺し屋として訓練を受けた女アナは、パリでファッション・モデルとして活躍しながらその裏で諜報・暗殺活動を続けていた。しかし過酷な任務の連続にアナの心は次第に疲弊し、さらにCIAが彼女にスパイ疑惑を持ち始めていた。追い詰められたアナの打って出た手とは?

さてこの『ANNA/アナ』、「女殺し屋」が主人公なれど、確かに今更感が強いのは否めない。そもそもベッソン出世作ニキータ』がそうだったし、『レオン』にもその匂いを感じる。同工異曲の作品は他にも沢山あり、『ハンナ』もそうだったが『コロンビアーナ』やら『ウォンテッド』やら『アトミック・ブロンド』やら『レッド・スパロー』やらと枚挙に暇がない。そんな作品をまたぞろベッソン自身が撮るとはよっぽどイマジネーションが枯渇したか柳の下の二匹目を狙ったか、どちらにしろまるで新鮮味が感じないと言えない事もない。

しかしだ。前述の『ハンナ』にしても『アトミック~』、『レッド~』にしても、実は結構楽しめたしオレは大好きな作品だ。「女殺し屋」ジャンルは作りようによっては面白いジャンルなのだ。例えば「カンフー映画」と一口に言ってもその内容は千差万別であるように、「女殺し屋」というジャンルの中でその内容を差別化し面白さを見出せばいいだけの話なのだ。

それではこの『ANNA/アナ』は「女殺し屋ジャンル」としてどう差別化を図っているのだろう。それはまず「殺し屋はスーパーモデル」という設定だ。有り得んわ!アホやん!しかしそれがいい。映画ではモデルを営む主人公とそれを取り巻くファッション業界とがコミカルに描かれ、モードの世界の煌びやかさも相まって見た目がなかなかに楽しい。なにより、今作でアナを演じたサッシャ・ルス自身がロシア出身のスーパーモデルなので、そのルックスとモデル身長を生かしたアクションとが実に魅せるのだ。彼女がむさ苦しい男どもを相手に鉄壁の無双振りを見せるシーンは当然今作のハイライトとなる。いやーオレもサッシャ・ルスにフライングニードロップぶちかまわれた後のボディーシザーズを喰らってみたい・・・・・・(ウットリ)(おい)。

もうひとつは作品全体を通して頻出する時制の巻き戻しだろう。シークエンスごとに「3ヶ月前」だの「1年前」だのと時間が巻き戻され、「実は現在こういったことが起こってるのは、過去にこんな出来事があったからなんだよ!」と細かなネタバラシをして物語に驚きを与えようとしているのだ。観る人によっては「鬱陶しい!」と苦言を呈するかもしれないし、評論家筋なら「馬鹿の一つ覚え」と冷笑するだろう。ただ実際観終わってみると、「全編フラッシュバックで構成する実験だったのかな」と思わされ、それは大成功とまでは言わないが、作品に独特の風味を与えており、目先の変わった「女殺し屋ジャンル」となっていることは確かだと思う。

もうひとつは脇を固める演者の面白さだろう。主演にモデル出身の新人を起用している分、脇をしっかりした俳優でまとめてあるのだ。まずはKGB上官の役を勤めるヘレン・ミレンだ。今作では黒縁眼鏡にブラウン系の髪の色で、パッと見ヘレン・ミレンに見えず、驚かされた。狡猾で抜け目無いKGB職員のキャラはヘレン・ミレンには当たり役だったと思う。他にもKGBの同僚をルーク・エバンス、CIAエージェントをキリアン・マーフィーが演じ、それぞれに強い存在感を与えることに成功している。細かいところでは『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』で主演だったアレクサンドル・ペトロフがアナの元恋人役で出演していたりする。

確かにいまどきKGB対CIAの抗争が物語の背景ってなんじゃいな?とは思うが、これはフランス人監督が撮っている事を思い出して欲しい。NATO同盟国の出身ではあろうが、リュック・ベッソンにとってKGBもCIAも絵空事であり、政治的意図も皆無で、どちらの陣営にも描写は加担しない。要するにこれは無邪気なコミックであり、それがリュック・ベッソン映画の皮相的な部分ではあるが、だからこそ他愛なく楽しめるという側面も持っている。で、それでいいんじゃないかな。

( ↓ 予告編はちょいネタバレ含まれてるので注意!)

www.youtube.com

今更ながらジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだ

■一九八四年 / ジョージ・オーウェル

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

 今頃、今更、やっと『一九八四年』(以下1984年)を読んだ。そう、ジョージ・オーウェルによるディストピア小説の金字塔、村上春樹の『1Q84』の土台となり、「英国人が読んだふりをしている小説No.1」と言われる問題作『1984年』である。これでオレも遂に「読んだふりをしている」状況から抜け出せたという訳である。オレ、オライ。

この『1984年』、SF好きだった10代の頃「なにやら最高にオソロシイディストピア小説」という噂を聞いて文庫本を入手していたのだが、出だしから晦渋過ぎてガキンチョのオレには読み通せなかった。それを60に近い今読み終えたわけだから、いわば「40年に渡る積読の消化」ということもできる。我ながらスゲエ。それと、オレの大好きなロック・アーチスト、デヴィッド・ボウイが『1984年』を題材にした『ダイヤモンドの犬』というアルバムを大昔に製作しており、その辺の絡みにおいてもようやく溜飲を下げる事が出来た。

1984年』の物語は(1949年の刊行当時からは39年後の近未来である)1984年、核戦争終了後に3つの巨大陣営に分割統治された世界が舞台となり、その徹底的に非人間的で不合理な全体主義国家を描くものとなる。主人公はその国家のうちの一つ「オセアニア」に暮らす男ウィンストン・スミス。彼は冷徹な監視社会と謎の国家首領「ビッグブラザー」の眼に怯えながら極貧の配給生活体制の中で生きていた。ある日彼はジュリアという若い娘に出会い、禁止されている自由恋愛をしてしまう。さらに反政府組織が彼に接触を試み始める、といった内容だ。

1984年』はどこまでもひたすら陰鬱な物語である。窮乏にうちひしがれ密告に怯え、誰一人信じることの出来ないパラノイアックな社会の中で生きなければならない絶望と恐怖が延々と描かれてゆく。フィクションの色添えとしてロマンスや反抗組織の存在が描かれはするが、基本は一切の救いも無い限りなくペシミスティックな物語だ。主人公ウィンストン・スミスはヒーローでもなんでもなくただただ運命に翻弄されてゆく市井の市民の一人でしかない。この物語は究極まで推し進められた全体主義社会の恐怖それ自体を主題としているからだ。

こんな陰鬱なだけの物語ではあるが、しかしグロテスクなまでにカリカチュアされた全体主義国家体制の在り方そのものが限りなく面白い。なにより全体に用いられる「特殊用語」にいちいち黒い笑みを浮かべてしまう。それは「ビッグブラザー」「二重思考ダブルシンク)」「ニュースピーク」「イングソック」「二分間憎悪」といった用語であり、「戦争は平和である、自由は屈辱である、無知は力である」「2+2は5である」といった皮肉なスローガンであり、「ビクトリー・ジン」「ビクトリー・コーヒー」といった日用品の命名であったりする。

これらはただ単に物語世界の補完なのではなく、主題と構成そのものに大きく関わっている。そもそもこの『1984年』の構成はおそろしく綿密であり、例えば人工言語「ニュースピーク」はこの世界の言語である英語を、思想統制の目的によりその単語から文法までを改竄・廃棄する様が描かれ、なおかつ巻末に作者不詳の「ニュースピークの諸原理」なる解説文まで付記されている程だ。(同時にこの「ニュースピークの諸原理」が普通の英文体で記されていることが『1984年』の真の結末を表わしているという)。こういった細かな設定とその妥当性が『1984年』を歴史に残る傑作たらしめているように思う(ところでちょっと気になったのだが、原書自体は「ニュースピーク」で書かれているのだろうか?)。

さて『1984年』はこの現代においても「全体主義社会への警鐘」として称賛されているが、その点はどうだろうか。まずオレ自身はこの『1984年』を最初「反共小説じゃないか」というふうに捉えた。『1984年』執筆時にはまだソビエト連邦とその衛星国が存在し、その全体主義歴史修正主義の在り方などはまさに『1984年』そのものだったと言える。中華人民共和国の成立は1949年、『1984年』刊行のその年であり、その後の文化大革命の悲惨は『1984年』の予言するままとなった。原始共産制をしくカンボジアクメール・ルージュ政権は『1984年』以上の惨劇を生み出した。歴史は既に『1984年』の想像力さえ凌駕してしまっており、今読むとまだ大人しいのではとすら思わせる。

とはいえ、オーウェルは決して「反共」を標榜するために『1984年』を生み出したのではなく、ファシズムまで含めた全体主義批判をその根底として作品を生み出したのだという。ナショナリズムを胎芽としたファシズムの傾向は民主主義国家である筈の日本やアメリカですら感じるものがあるが、いずれにせよ、『1984年』の世界はいついかなる時代と国家であっても生み出される危険性がある、ということなのだろう。ただファシズムというものは、一人の狂った為政者が突然おっ始めることで成立するのではなく、フロム的に言うならば、孤独な個人が自らの不安を払拭する為に、権威や権力など外的な絆に帰属しようとして成り立つものなのではないか。すなわちファシズムとは人々の心の反映とも言えるのだ。

というわけでジョージ・オーウェルの『1984年』、まとめるなら設定は最高、物語は平凡、イデオロギー的には時代に追い越されたかな、というのがオレの端的な感想である。ちなみに映画化作品もあるが、あれはつまらないから観なくてもいいと思う。ユーリズミックスのサントラはなかなかいい出来だったんだけどね。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 
一九八四年

一九八四年

 
1984 HDニューマスター版 [Blu-ray]

1984 HDニューマスター版 [Blu-ray]

  • 発売日: 2018/01/12
  • メディア: Blu-ray
 
1984: Music from Motion Picture

1984: Music from Motion Picture

  • アーティスト:Eurythmics
  • 発売日: 1998/09/22
  • メディア: CD
 

 

 

息子を亡くしたおじさんの話

f:id:globalhead:20200505180303j:plain

unsplash-logo mnm.all 

これはオレがいまの仕事に就いた20代終わりの頃の話だ。入社したばかりの会社の事務所には、嘱託で来ているおじさんが一人いた。

オレの会社は輸出入貨物の通関や保税蔵置を行う会社なのだが、この中で輸出貨物については「検量」というものが必要だった。20フィートや40フィートのコンテナに貨物を積む際、その貨物がどれだけの重量でどれだけの容積なのか検量し書類として作成する必要があるのだ。数件の顧客の小口貨物を主に取り扱っているため、それらを一つのコンテナにまとめて積もうとするとき、重量容積が積載可能な数字になっているのかも知らなければならなかった。嘱託のおじさんは、その「検量」を専門にやっている業種の方だった。

そのおじさんの年齢は60ちょっと前、とても小柄で眼鏡を掛け総白髪だった。いつもパリッとした背広を着ていたのが印象的だった。その頃オレの職場は割と暇で、特に仕事が無い時は現場でそのおじさんとよく世間話をしていた。オレとは結構年が離れていたが、人懐っこく話し好きのそのおじさんとオレは早速意気投合した。おじさんがオレと同じ北海道出身だったのも話が合った理由だった。

酒が好きだというから、同じく呑兵衛だったオレも、しょっちゅう一緒に飲みに出掛けるようになった。週に2回は行ってただろうか。たいていはおじさんのおごりで、給料の安かったオレは毎回図々しくおじさんに御馳走してもらっていた。なにしろ図々しいオレは、飲み屋でも何の遠慮会釈もなくおじさんと馬鹿話ばかりしていたし、おじさんのほうも、とても楽しそうにオレと飲んでくれていた。

実は周りからもなんとなく聞かされていたのだが、そのおじさんには一人息子がいたのだけれど、若くして亡くなっていたのらしかった。おじさんともその話をしたけれども、何の持病を持っていたわけでもないのに、ある朝なかなか起きてこないから寝室に呼びに行ったら、既に冷たくなっていたのだという。いわゆる突然死ということだろうか。おじさんはそんな話を、飲み屋のテーブルに目を落としながら、淡々と語ってくれた。

そんなおじさんからある日、「君、礼服なんて持っているか」と聞かれたのだ。なんでも、息子の持っていた礼服があるのだけれども、オレと体型的に合いそうだから、欲しかったら貰ってくれ、ということらしかった。その頃オレは礼服なんて持ってなかったし、例によって図々しい性格だったから、貰えるもんならなんでも!と答えた。とはいえ2,3日経ってから、「やっぱり形見として持っていたいと思うんだあ、申し訳ないなあ」とおじさんから告げられた。もともとおじさんの好意だったし、全然構いませんよ、オレは答えてあげた。

おじさんとは1,2年ほど飲み歩いていたが、そのおじさんも定年退職の時期がやってきて、オレの職場を後にすることになる。特に連絡先を交換する訳でもなかったし、それからおじさんはオレの人生から消えることになる。

とまあそんな、30年近く前のことを、この間オレはなんとなく思い出していたのだ。おじさん今でも元気かなあ、でも今生きてたら90近くだよなあ、なんて思いながら。そして30年近く経って、オレは突然あることに気が付いたのだ。いや、突然もなにも、やっと今頃気付いたのかよ、って感じなのだが。

あのおじさんの息子さんは、亡くなった時、あの頃のオレと同じぐらいの年齢だったのだという。そして礼服のことも考えると、背格好も一緒だったのだろう。つまりオレは、亡くなったおじさんの息子と、それほど違わない年と背格好だった。おじさんはそんなオレと、毎週毎週、あちこちに飲みに出掛けていた。つまりおじさんは、もういない息子さんをオレに重ね合わせて、オレをその息子さんのように思いながら、毎回酒を酌み交わしていたのではないか。

そんなことを思いついたのがなんだか自分には衝撃的で、なぜ衝撃的だったかというと、そんなおじさんの気持ちなど、あの頃オレは全く想像した事がなかったからなのだ。ただ、想像できていたとして、オレはただ単に居心地が悪くなっていただけだろうけれど。ただまあ、それであの時のおじさんが、何がしかの慰めを感じてくれていたのなら、それでよかったじゃないか、としか言いようがない。オレみたいな益体も無い人間でも、人の役に立つことはあるということだ。まあそれにしたって、数十年も前の話ではあるが。

バルテュスの画集を購入した

バルテュス

「ああ、この絵、なんだろう、変だなあ、でも好きだなあ」と思っていた画家がいて、でも名前をずっと思い出せなくて、何年間も「あれって誰なんだろう?」と頭の片隅で気にしていた。その名前がこの間、何かの拍子で判明し、また忘れないうちに画集を買っておこうと思ったのだ。画家の名はバルテュス

バルテュスはフランス生まれの画家で、ピカソに「20世紀最後の巨匠」と称えられたという逸話がある。故人。最も有名なのは奇妙に不安定な構図とフォルムで描かれた少女画の数々だろう。シュルレアリズムの風味はあるがシュルレアリズムや近代絵画とは距離を置いた制作活動を送っていたらしい。若かりし頃から画家を目指すも両親に反対されたため、ほぼ独学で絵を学んだという。そういった部分でバルテュスの作品の微妙な不安定さにはアウトサイダーアートの風味も多少あるのではないかと思っている。

「この絵、なんだろう」と気になっていたバルティスの作品はこの「街路」というタイトルの作品だ。

f:id:globalhead:20200523163859j:plain

街角に様々な人々が闊歩しあるいは佇んでいるのだけれども、そこに配された人々の様子や仕草がどことなく奇妙であり、パースも微妙に狂い、デッサンすら歪められている。そもそも、これらの人たちが何をしているのか分からない。何か変だ。変だからこそ、なんなんだろうこれは、とついつい見入ってしまう。

この絵を見て思いだすのはドアーズのアルバム『幻の世界』のジャケット写真だ。取り立てておかしなものが写っているわけでもないのに、どこか不安にさせられるものがある。

f:id:globalhead:20200523164644j:plain

「美しい日々」と名付けられたこの作品もやはりどことなく異様なものを感じてしまう。鏡を見つめる少女は自分の世界以外興味が無いように見え、その姿勢はだらしなく弛緩し、もう現実には戻ってこないようにすら思える。それにしても奥に見える暖炉に薪をくべている半裸の男はなんだ。火はあまりに赤々と燃えすぎているが、男はその火をさらに燃え立たせようとしているように見える。これはなんだ。何をしているんだ。異様だし、不安になる。

f:id:globalhead:20200523170124j:plain

見ていて不安になってしまうような絵をなぜ見てしまうのだろう。どこかでバランスを欠いているような絵になぜ惹き付けられるのだろう。それは例えばロールシャッハ・テストのインク染みの絵の様に、自分の深層心理に埋もれている、自分でもはっきり認識していない何がしかの感情を呼び起こすからなのではないか。その感情が何で、どういうものなのかということは実は重要ではなくて、絵を見ることにより自らの深層心理に手を触れる事ができる、それがバルテュスの絵の魅力なのではないだろうか。