水曜どうでしょうDVD・Blu-ray第29弾『原付日本列島制覇』がメチャ楽しかったッ!

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水曜どうでしょう』DVD・Blu-ray第29弾は『原付日本列島制覇』である。

ここでまず注目してもらいたいことは「DVD・Blu-ray」、すなわち「どうでしょう」ソフト初のBlu-ray作品ということである。2011年に放送されたこの企画、番組史上初のハイビジョン撮影であったのらしく、このBlu-rayでは16:9のHDワイドスクリーン画像を初めて体験することができるのだ!そしてなにしろHD画像!「どうでしょう」でHDいるかな、と思っていたが、実際観てみるとこのスッキリクッキリした画像はやはりイイ!

さて今回はなにしろ 『原付日本列島制覇』である。「前もやってなかったっけ?」と思われるかもしれないが実は微妙に違うのだ。確かにこれまで「72時間!原付東日本縦断ラリー」「原付西日本制覇」というタイトルで列島縦断企画は行われていたが、この2つの企画で回っていなかった東京~高知の区間を回り、それにより「日本列島完全制覇」を完成させるのが今回の企画なのである。だから放送時には「原付日本列島制覇 東京-紀伊半島-高知」というタイトルになっていたらしい。

内容はと言えばなにしろ相変わらずの「どうでしょう」である。藤村Dが行き当たりばったり過ぎる大雑把な計画を立て大泉君が愚痴を垂れ鈴井さんがニッコリ笑ってぐっとこらえ、あれやこれやの波乱はあるものの旅は淡々と続いてゆくといういつもの「どうでしょう」である。派手に盛り上げるでもなくローカルにちまちまやるのとも違う「どうでしょう」独特のゆったりした空気感とスタッフ全員の気の置けないグルーヴ感が限りなく心地いい、そして大いに笑える、日本でも稀有なTV番組であるとオレは思う。

しかし「相変わらず」といいつつ実は今回、いつもと若干違う編成だ。これまでと違い専属のカメラマン・ドライバー・音声係の3名が追加され企画が進行するのだ。これにより藤村Dはより気ままにディレクターしまくり、嬉野君も参加するが殆どお客さん状態となっている。しかしこの「専属」を導入することで、番組がより「締まった」ものになっていたように思えた。さらに藤村Dのナレーターが入らない、というのも新しかったし、今まで画面にチラリとしか映らなかったその藤村Dが、今作では結構な頻度で全身を現すのも新鮮だった。

こんな具合に、「相変わらず」であるにも係わらず細かいところで「いつもと若干違う」ことが功を奏したのか、今回の『原付日本列島縦断』、これまでの「どうでしょう」企画と比較しても、群を抜いて楽しめる作品となっている。オレは「どうでしょう」企画の最高傑作は『原付ベトナム縦断1800キロ』だといまだに思っているが(オレが「どうでしょう」を愛するようになる決定打だった)、それに匹敵するとまでは言わないけれども、ビックリするほど楽しめた作品であったのは確かだ。

実は今回楽しめた理由はもうひとつあって、出発地点の大田区やその後通る神奈川県の道々はオレにとって結構馴染み深い土地であったのと、その後にカブが通る場所も、自分が旅行で行ったことのある土地となんとなくかすっていたので妙に懐かしく思えたこともあった。まあもちろんオレはカブでなんか行ってないけどね!

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「バーグ&ウォールバーグ」によるネトフリ映画『スペンサー・コンフィデンシャル』を観た。

■スペンサー・コンフィデンシャル (監督:ピーター・バーグ 2019年アメリカ映画)

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Netflixのハリウッド有名映画監督登用作品はあまり期待しないことにしているのだが、今回の『スペンサー・コンフィデンシャル』の放送はちょっと楽しみにしていた。なんといっても監督ピーター・バーグ+主演マーク・ウォールバーグという鉄板コンビの作品だからである。

ピーター・バーグ監督がマーク・ウォールバーグを主演に据えて制作した映画作品は『ローン・サバイバー』(2014)、『バーニング・オーシャン』(2017)、『パトリオット・デイ』(2017)、『マイル22』(2019)の4作があり、今回の『スペンサー・コンフィデンシャル』ではまたまたタッグを組むことになったわけなのだが、相当に相性がいいということなのだろう。

マーク・ウォールバーグは特別に好きな俳優というわけではないのだが、「いけ好かない雰囲気を漂わせているからこそ妙に気になる俳優」ということになる。そもそも最初ウォールバーグ主演作品を観たときは「なんでこんなヤツが俳優やってるんだ?」とすら思った。とはいえ意外と話題作に出演しているから何度も観掛ける事になる。しかし何度も「またコイツか!?」と思うたびに段々気になって仕方ない俳優になってしまったというわけである。

ピーター・バーグ監督作品の特徴は非常にシリアスでリアリスティックなミリタリー/クライム作品を得意とすることだろうか。しかし一方、大人気ボンクラ映画『バトルシップ』(2012)やヒーロー物のコメディ『ハンコック』(2008)なんかも監督していて、実は色々な可能性を持っていることも伺わせるのだ。そしてこの監督ピーター・バーグ+主演マーク・ウォールバーグ作品を度々観ていくうちに、「このタッグの作品はガチだな」と思うようになってきたのだ。

というわけで『スペンサー・コンフィデンシャル』である。物語は「元警察官のスペンサーは5年の刑期を終えて出所後、ひょんなことから同居人となったホークと共に、自身が投獄されるきっかけとなった殺人事件の謎を調査する。 やがて2人は、その裏に潜む汚職警官や麻薬カルテル、大物政治家らの絡む巨大な悪をつきとめるが、それによって命を狙われることになる。2人は悪党どもを相手に大暴れの肉弾戦を展開する」というもの(Wikipediaのモロコピー)。原作はエース・アトキンスの小説「Robert B. Parker's Wonderland」。

感想はと言うと、これが、面白い。スペンサー(マーク・ウォールバーグ)の単純明快な人物造形は物語にすんなり入っていけるポイントだし、そんな彼と黒人格闘家ホーク(ウィンストン・デューク)とのバディものとしても楽しめる。スペンサーの喧しい女房シシー(イライザ・シュレシンガー)や彼の後見人ヘンリー(アラン・アーキン)とのやり取りも可笑し味と人間味に溢れている。汚職警官やマフィアの絡む犯罪ドラマはありがちといえばありがちだが、安心して観ていられる要因でもある。全体的にコンパクトでスピード感がありキリッと締まった痛快さがある。 

作品としても及第点だったが、他にもいろいろな意味で面白い。まずこの作品、クライム・ストーリーではあるが、これまでの「バーグ&ウォールバーグ」作品のシリアス路線とは違い、コメディの味付けも成された軽妙さの漂う作品なのだ。それと、これまでのピーター・バーグ監督映画は重量級の内容を持つどちらかというと金の掛かったブロックバスター作品だったが、この『スペンサー・コンフィデンシャル』は軽快な小気味よさを感じさせるスマッシュヒット作品を目指したように思える。

これまで大作を担わされてきたピーター・バーグ監督にとって、Netflixという場所でこの程度の規模の作品を作り上げることは、結構な開放感や楽しさがあったのではないか、と想像してしまう。そこそこにTVサイズに合った物語展開からは、これまでシリアスでリアルな作品を求められてきた監督の、『バトルシップ』や『ハンコック』に通じる肩肘張らないフットワークの軽さを感じさせるのだ。そういった、監督のもうひとつの資質を確認出来たという部分で面白かった。

昨今のハリウッド映画は製作主導のブロックバスター作品が求められ、監督の作家性がないがしろにされかけている部分を、Netflixが監督の企画を尊重させ傑作を生み出させている、といったパターンをよく見かけるようになったが、この『スペンサー・コンフィデンシャル』もそんな一作のように感じる。そしてオレも、こんな軽やかさのある作品のほうが疲れなくて好きだ。そういった部分で、この作品は「バーグ&ウォールバーグ」作品の新たな傑作のひとつに数えてもいいんじゃないかな。


そこに疎ましい因習や階級があったとしても/映画『あなたの名前を呼べたなら』

■あなたの名前を呼べたなら (監督:ロヘナ・ゲラ 2018年インド・フランス映画)

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■家政婦とその主人

映画『あなたの名前を呼べたなら』はインドの大都市ムンバイを舞台にした、一人の家政婦とその主人との物語です。

主人公の名前はラトナ(ティロタマ・ショーム)、彼女は若くして夫を失った農村出身の女性です。ムンバイに出て来た彼女は建築会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)のマンションで住み込みの家政婦として働くことになります。実はこのアシュヴィン、結婚寸前に破談になってしまい、傷心の日々を送ってたんですね。何かと気遣いながらアシュヴィンを世話していたラトナに、アシュヴィンは次第に心安らぐものを感じてゆきます。そしてある日二人の仲が接近します。

こんな粗筋だけだと「田舎から出て来たメイドと都会暮らしの社長の御曹司との玉の輿ラブロマンスなのねー」と思われるでしょうが、実はそんな簡単でラブラブハッピーなお話では決して無いんです。なぜならこれは古い因習と階級格差が未だ頑固に残るインドの物語だからです。

■インドで寡婦であるということ

まず主人公ラトナが未亡人であるという事です。ヒンドゥー教の古い因習(それは「マヌ法典」にまで遡ります)では未亡人は不吉な存在とされ、一生を喪に服し一般の人の様な生活を送ることを許されません。この「寡婦差別」についてはラージ・カプール監督による『Prem Rog』という作品があり、その差別の苛烈さ残酷さが徹底して描かれます。もちろんこれは「古い因習」としてであり、現代においては古い時代ほどの酷い差別は無くなったようですが、しかしこの現代の、そして都市部でさえ、やはり未亡人であることはそれ即ち未来を閉ざされたものである、というのがインドの現状のようです。そしてラトナが田舎を捨て都会に出て来たのも、旧弊な共同体の中で未亡人として生きる事の息苦しさがあったからだったのです。同じように生き難くても、まだ都会の方がまし、ということなんです。

そして当然インドならではの階級差があります。カースト/ジャーティによる階級差は昔のように強く残ってはいないということですが、それでも、「農村出の未亡人の家政婦」と「都会で家業を継ぐ御曹司」とでは歴然とした階級差があるでしょう。それは「そのような階級差を失くしてゆこう」という新しい社会にあっても、古くからの因習の中に長く漬かり切ったせいで「自らの身に沁みついてしまった階級差」でもあるんです。

■不可能な愛

物語が進む中で、アシュヴィンはラトナを愛し始めている自分に気付きます。それは破談した結婚の虚しさを埋めたかったのか、甲斐甲斐しく彼を世話するラトナに母性的なものを覚えたからなのか、それはわかりません。しかし、アシュヴィンはアメリカ在住経験があり、おそらく「自由と平等」を尊ぶコスモポリタンな気概を学んできた男であることは物語の端々から伝わってきます。それは一介の家政婦でしかないラトナの給仕に、いつも「ありがとう」と応えていた様子から伝わってきます。そんな彼のラトナへの愛は、階級差など気にしない、お互いが「自由と平等」であるからこその愛だったのでしょう。

しかし、ラトナは違うんです。確かに、ラトナはアシュヴィンの愛を、最初は拒みはしませんでした。それはたった一度のキスです。それだけなんですが、「ああ、この二人は間違いなく愛し合ってるな、そして今、それを確認し合ったんだな」と否応なく伝わってくる、お互いに身を任せ合ったキスでした(静かで、淡々としてるけど、今まで映画で観た中で最高に固唾を飲んだキスシーンかもしれないとオレは思った)。でもその後ラトナは現実に帰ってしまうんです。それはお互いには絶対に乗り越えられない階級差があり、この愛は不可能であるということです。

これが新しい国アメリカの映画であるなら、「階級なんてカンケーないね!僕らの愛は自由で誰にも縛られないのさ!」となるのでしょう。そしてそんな自由さや不屈の自己実現の意志に拍手喝采し、物語はハッピーエンドで終わるのでしょう。でも、ここは古の因習の残る国インドなんです。ラトナは「不可能な愛」に煩悶すらしません。乗り越えられるとも思いません。彼女に「愛の夢」はありません。あるのは自分の現実的な限界と、その現実の中で精一杯生きる事だけなんです。だから彼女は、この愛は、なかったことにしようとするんです。それは、なかったことにする以外にないからなんです。

ここが、オレには、とてつもなく切なかった。

■あなたの名前を呼べたなら

そんなラトナにはきちんとした夢があって、それは服飾デザイナーになることでした。それと、実家にいる妹に立派に教育を受けさせることでした。家政婦の仕事も、そんな妹の学費を稼ぐためでもありました。手に職を付けて自立して生きてゆくこと、そして家族のバックアップをするということ、それは社会生活者のひとつのあるべき姿ではあり、ラトナはそれを現実的にやり通せる女性として描かれます。不条理な因習があり、乗り越えられない階級差があったとしても、それでも彼女は自分なりの生き方を見つけ、生活してゆくことでしょう。

でも。もしも、下らない因習も、馬鹿馬鹿しい階級差も無かったとしたら。そうしたら、彼女はもっと幸せに、自分らしく生きていけたはずではないですか。変えられない現実に「もしも」と言ったところでなんの意味もないのかもしれない、けれども、こうではない現実を夢見てはいけないのか。彼女は夢見ることも許されないのか。そしてその「夢見ること」が、アシュヴィンが投げかけてくれた愛、彼が因習も階級も意に介す事なく届けようとした想いの中にあったことにラトナは気づき始めます。

とても素晴らしい映画でした。そして最高に素晴らしいエンディングを見せてくれた映画でもありました。ラトナとアシュヴィンの関係は、愛とか恋とか、まあそういった口幅ったいことよりも、それが成就するとかしないとかいうことよりも、自分はここにいていいんだ、という自己肯定感を与えあった者同士だったようにも思えます。それは相手を信頼し尊重し合うということであり、そうやってお互いを思い遣ることで得られる心の安らぎです。そういった二人の在り様が、なんだが胸に響いたんですよ。でもそれが、結局は愛って事なのではないですか?

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最近読んだミステリ/『ブルーバード、ブルーバード』『流れは、いつか海へと』 

■ブルーバード、ブルーバード / アッティカ・ロック

ブルーバード、ブルーバード (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

テキサス州のハイウェイ沿いの田舎町で、ふたつの死体があいついで発見された。都会から訪れていた黒人男性弁護士と、地元の白人女性の遺体だ。停職処分中の黒人テキサス・レンジャー、ダレンは、FBIに所属する友人から、事件の周辺を探ってほしいと頼まれて現地に赴くが──。愛と憎悪、正義の在り方を卓越した力量で描き切り、現代アメリカの暗部をえぐる傑作ミステリ。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞、英国推理作家協会スティール・ダガー賞、アンソニー賞最優秀長篇賞の三冠受賞作! 

テキサスを舞台に黒人男性、白人女性、二つの殺人事件を追う黒人テキサス・レンジャーの物語なのだが、これが無類に面白い傑作ミステリだった。まずテキサスという閉鎖的で人種差別の横行する土地、そこで職務を遂行しなければならない黒人主人公ダレンの苦闘、という全体的なテーマが惹き付けられる。さらに「テキサス・レンジャー」というテキサス独特の法執行部門の在り方とその活躍という部分にも興味を掻き立たされる。また、ダレンの生い立ちや暗礁に乗り上げた結婚生活などが背景として描かれ、厚みのある人物造形とドラマを生み出すことに成功している。さらに二つの殺人事件の背後には黒人たちと白人たちそれぞれの、愛憎の入り混じった複雑な人生が横たわっていて、それらは、運命だったとしか言いようのないやるせない悲哀に満ちたものなのだ。こういった人間ドラマの巧みな描写が、単なるミステリに終わらない主流文学的な味わいをもたらしている。そしてなんといってもブルースだ。タイトル『ブルーバード、ブルーバード』はブルースの巨人ジョン・リー・フッカーの曲名から採られたものだが、作中に度々現れるブルースの流れるシーンやブルースマンの存在が作品に独特の空気感を生み出し、この物語そのものがブルースであるかのようにすら思わせる。展開は緩急に満ち時としてアクションが炸裂し、描写は映像的であたかも映画を見せられているかのようであり、感情表現は豊かで登場人物は誰もが共感を生む者たちばかりだ。もうオレベタ褒めじゃないか。「アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞、英国推理作家協会スティール・ダガー賞、アンソニー賞最優秀長篇賞の三冠受賞作」というのも頷ける傑作であり、オレはこの作品を読んでからブルースにハマり、今も聴きながら書いている。なんだ、ブルースって最高だな。

■流れは、いつか海へと / ウォルター・モズリイ 

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

身に覚えのない罪を着せられてニューヨーク市警を追われたジョー・オリヴァー。十数年後、私立探偵となった彼は、警察官を射殺した罪で死刑を宣告された黒人ジャーナリストの無実を証明してほしいと依頼される。時を同じくして、彼自身の冤罪について、真相を告白する手紙が届いた。ふたつの事件を調べはじめたオリヴァーは、奇矯な元凶悪犯メルカルトを相棒としてニューヨークの暗部へとわけいっていくが。心身ともに傷を負った彼は、正義をもって闘いつづける―。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞受賞作。

 何者かにハメられ職務を追われた黒人警察官が探偵となってある事件を捜査する、という物語なんだが、主人公の造形や行動原理がどうにも好きになれず、総じて物語が全然楽しめなかった。主人公ジョーってェヤツは物語内ではタフなコワモテであると同時に娘や仲間には信頼され尊敬される男であり、さらに微妙にモテ、時に悪漢にしたたかに痛めつけらるが、常に逆襲に転じ八面六臂で事件を追ってゆく、いわゆる切れ者でデキる男として描かれる。しかし一歩引いてみると、主人公のこの造形、なんかその辺の勘違い中年男の願望充足キャラとしか思えないんだよな。いわゆるおっさん版チート満載異世界転生モノ小説といったところか(異世界じゃないけど)。離婚した元妻はボロクソに描くが娘は父親である主人公をとことん愛している、なんて実に離婚者にありがちな願望充足だし、そもそも職務を追われた理由が逮捕状の出てる女とイタしてしまいそれをレイプだと偽証されてしまったからなんだが、いやいや、逮捕状出てる女性とイタしちゃう段階で既にダメでしょ。物語展開も「事件の真相を知ってそうな人間にアポ無しで突撃、コワモテぶって突破」「あちこち電話を架けてるうちに事件の真相が判明」の連続で、あんまり頭使ってない割には鬱陶しいぐらい読書通を気取る、という見栄の張り方もまたいじましすぎて笑えない。退職の理由がレイプ疑惑で悪漢がことごとくレイプ好きとか、レイプに妙に執心し過ぎているのもなんだかイヤ~ンな感じ。クライマックスも結局『特攻野郎Aチーム』みたいな力技でやっぱり頭使ってない。

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 
流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ミステリ)

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ミステリ)

 

『地獄の黙示録 ファイナル・カット』を観た。

地獄の黙示録 ファイナル・カット (監督:フランシス・フォード・コッポラ 2019年アメリカ映画)

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■オレと『地獄の黙示録

泥沼のベトナム戦争を描く1979年公開のフランシス・フォード・コッポラ監督作『地獄の黙示録』が【ファイナル・カット】と銘打って再公開されるというので、バイ菌大パニックにより地獄の黙示録的様相を呈している街中(恐怖だ!地獄の恐怖だ!)へと勇んで出かけたオレであった。

この『地獄の黙示録 ファイナル・カット』、製作40周年を記念し、コッポラ監督自らが1979年版(147分)より36分長く2001年に発表された『特別完全版』(196分)より13分短いヴァージョン(183分)として再編集されたものだ。もちろんデジタル修復済み、さらに今回はIMAXでの公開であり、ランニングタイム云々よりも「あの『地獄の黙示録』がIMAXで観られる!」という興奮がなにより強かった。

というのも、オレが「戦争映画」というジャンルで最も好きな作品がこの『地獄の黙示録』だからだ。以前ブログ『男の魂に火をつけろ!』主催による「戦争映画ベストテン」に参加した時、オレがナンバーワンに推したのもこの映画だった。しかし、個人的な「ナンバーワン戦争映画」であり、相応に愛着のある映画であるにもかかわらず、それでもオレはこの映画が「壮大な失敗作」である、と思っている。「失敗作」という言い方が強すぎるなら、「どこか未完成な作品」であると言い換えてもいい。監督自身が全体をコントロールしきれていないように感じるし、テーマが前半と後半でちぐはぐになってしまっていると思えるのだ。特に後半のグダグダ感は賛否両論の元となっただろう。しかし、この「強烈なポテンシャルを帯びているにも拘らず、結果的に妙にイビツな完成度」であることの、その「イビツ」である部分に、なぜか惹かれてしまって堪らないのだ。このあたりの個人的な感想は以前【特別完全版】のブルーレイを観たときにブログで書いた。

■そして『ファイナル・カット』

そしてその感想は今回観た『ファイナル・カット』でもさして変わらない。今『地獄の黙示録』を観るならやはり『特別完全版』を観るべきだと思うが、劇場上映を考えるなら興行的にも『ファイナル・カット』の上映時間で妥当であるかもしれない。どこがどう違うのか全部は分からなかったが、『ファイナル・カット』では『特別完全版』にあった「プレイメイトのその後」が収録されていなかった。そしてラストの「空爆破壊」はこの『ファイナル・カット』でも削除されていた。これはあの「空爆破壊」が、実は「セット破壊の様子を収めた映像」であり、それを作品内で使用するのはもともとコッポラの意図したことではなかったからなのだという。

それはクライマックス、カーツを「排除」したウィラードが、遺跡の出口で武器を捨て、それを見た原住民たちも武器を捨てる、というシーンが、「戦争の終りであり新しい時代の始まり」を意図したものであり、そこに「空爆破壊」による大虐殺を持ち出してはテーマと真逆になるからということであったのらしい。

それよりもやはり盛り上がったのは、IMAXの映像と音響で観る、あの「ワルキューレの騎行」のシーンだな!ヘリのプロペラ音が映画館内をグルグルと回り、そこにワーグナーのあの曲が高らかに鳴り響き、そして爆撃と爆炎に塗れた大量破壊の有様が画面いっぱいに繰り広げられる時のあの恍惚といったら!もう戦争の恐怖とか狂気とか全く無視してただただ大量破壊大量殺戮シーンの愉悦に酔い痴れていたよオレは!『プライベート・ライアン』だってオープニングの地獄のオマハ・ビーチ・シーンだけが最高であとの物語は退屈だったもんなあ。いやあオレ、鬼畜だなあ。

■西洋的なるものと東洋的なるものの拮抗

結局『地獄の黙示録』のチグハグさというのは、当初ジョン・ミリアスが書いた戦争スペクタクル風のシナリオを、監督コッポラがジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』と睨めっこしまくったあげく撮影中どんどん書き直していったからで、即ち即物的なスペクタクルで始まった筈のものが、いつの間にか文学的内省にすり替えられてしまったことの齟齬、ということではないかな。今で言うならスーパーヒーロー映画観に入ってスカッとしようと思ってたら途中からラース・フォン・トリアー風の鬱映画展開になって目が点になってしまう、みたいなもんだろうか(それはそれで観てみたい気も)。

ただこのチグハグささえ、テイストの違うものをそれぞれに味わう覚悟で観るなら、ではコッポラ自身は何を描きたかったんだろうか、という興味に変わってきて、エピソードが羅列されるだけのあのグダグダした後半の、そのグダグダすらも次第に心地よくなってくる。東洋の密林の中でグダグダになってしまう欧米白人、という意味においても。

前半において蠱惑的なまでに戦争の官能を描いたこの物語は、後半において東洋なるもの/あるいは排除できない鬱蒼とした自然というものに凌駕されてしまう欧米人の脆弱さを描く物語へと変貌してしまう。西洋の根本的な思想は自然を排除しコントロールする部分にあるのではないかと思えるからだ。その中で遁走/自壊したのがカーツだったということなのではないか。カーツは、一見コワモテの軍人のように描かれつつも、妙に繊細に過ぎるような描き方もされていた。彼は知的で繊細であるがゆえに、単細胞なキルゴア中佐の如き「自らの世界以外の徹底的な排除」ができなかった。カーツは、知的で繊細であるがゆえに、東洋的なるものに飲み込まれ、逃げられなくなってしまったのだ。

だから、東洋の中にいる欧米人の欧米的アイデンティティの喪失というのが(後半における)この物語の、多分監督すら認識していないであろう内在テーマであり、実は戦争の狂気とかいうのは隠れ蓑だったんじゃないのか。ウィラードはなぜカーツを排除しなければならないのか。それは西洋的なるものが東洋的なるものに敗北するのを認めず、圧倒的な優位であることを示すためだったのではないか。だからこそウィラードはカーツ排除後に王国の王に君臨すること無くそれを封印し、自らの国へ、欧米圏へと帰ってゆくのだ。というのがオレの『地獄の黙示録』の見方である。そして黙示録というのは、キリスト教圏の語句ではあっても、信仰の違う東洋では意味を成さない語句でもあるのだ。

■あれこれ蛇足

そういや今回この記事を書くのにあれこれ調べたんだが、『地獄の黙示録』って最初コッポラがジョージ・ルーカスに監督させようとしてたってのを知ってびっくらこいた。しかしルーカスは「ジャングルやだよう暑いし虫いるし」と拒否、そして製作したのがあの『スター・ウォーズ』だったのだという。まあこの辺はシネフィルな皆さんは既にご存知の事とは思うが。それと、14歳のローレンス・フィッシュバーンが出演していたことは『特別完全版』観た時知ったのだが、今回観て知ったのはハリソン・フォードの出演(チョイ役)もあったということだな。いたよ!若かったよ!

あとクライマックスのシーンで遺跡に「Apocalypse Now」と書かれていたのを発見して驚いたが、あれはオリジナル版からあったものなのかな。ちなみに「Apocalypse Now」というタイトルは、脚本のジョン・ミリアスが、当時ヒッピーたちに流行っていたピースマーク(円の中に鳥の足跡を逆さまにしたような形をしたアレ)に「Nirvana Now(極楽だぜ!)」と書かれていたのをもじって作った言葉なのらしい。これ、マメな。

そういえば劇中チャールズ・マンソンの話が出てくるのだが、その時ふと「あ、これはタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と同じ時間軸にある物語なんだ」ということに気付いて奇妙な感覚に捉われた。アレとコレが同時に起こってるなんて、世界ってのは(まあ映画だけれども)不思議なもんだなあ、と。

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