そこに疎ましい因習や階級があったとしても/映画『あなたの名前を呼べたなら』

■あなたの名前を呼べたなら (監督:ロヘナ・ゲラ 2018年インド・フランス映画)

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■家政婦とその主人

映画『あなたの名前を呼べたなら』はインドの大都市ムンバイを舞台にした、一人の家政婦とその主人との物語です。

主人公の名前はラトナ(ティロタマ・ショーム)、彼女は若くして夫を失った農村出身の女性です。ムンバイに出て来た彼女は建築会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)のマンションで住み込みの家政婦として働くことになります。実はこのアシュヴィン、結婚寸前に破談になってしまい、傷心の日々を送ってたんですね。何かと気遣いながらアシュヴィンを世話していたラトナに、アシュヴィンは次第に心安らぐものを感じてゆきます。そしてある日二人の仲が接近します。

こんな粗筋だけだと「田舎から出て来たメイドと都会暮らしの社長の御曹司との玉の輿ラブロマンスなのねー」と思われるでしょうが、実はそんな簡単でラブラブハッピーなお話では決して無いんです。なぜならこれは古い因習と階級格差が未だ頑固に残るインドの物語だからです。

■インドで寡婦であるということ

まず主人公ラトナが未亡人であるという事です。ヒンドゥー教の古い因習(それは「マヌ法典」にまで遡ります)では未亡人は不吉な存在とされ、一生を喪に服し一般の人の様な生活を送ることを許されません。この「寡婦差別」についてはラージ・カプール監督による『Prem Rog』という作品があり、その差別の苛烈さ残酷さが徹底して描かれます。もちろんこれは「古い因習」としてであり、現代においては古い時代ほどの酷い差別は無くなったようですが、しかしこの現代の、そして都市部でさえ、やはり未亡人であることはそれ即ち未来を閉ざされたものである、というのがインドの現状のようです。そしてラトナが田舎を捨て都会に出て来たのも、旧弊な共同体の中で未亡人として生きる事の息苦しさがあったからだったのです。同じように生き難くても、まだ都会の方がまし、ということなんです。

そして当然インドならではの階級差があります。カースト/ジャーティによる階級差は昔のように強く残ってはいないということですが、それでも、「農村出の未亡人の家政婦」と「都会で家業を継ぐ御曹司」とでは歴然とした階級差があるでしょう。それは「そのような階級差を失くしてゆこう」という新しい社会にあっても、古くからの因習の中に長く漬かり切ったせいで「自らの身に沁みついてしまった階級差」でもあるんです。

■不可能な愛

物語が進む中で、アシュヴィンはラトナを愛し始めている自分に気付きます。それは破談した結婚の虚しさを埋めたかったのか、甲斐甲斐しく彼を世話するラトナに母性的なものを覚えたからなのか、それはわかりません。しかし、アシュヴィンはアメリカ在住経験があり、おそらく「自由と平等」を尊ぶコスモポリタンな気概を学んできた男であることは物語の端々から伝わってきます。それは一介の家政婦でしかないラトナの給仕に、いつも「ありがとう」と応えていた様子から伝わってきます。そんな彼のラトナへの愛は、階級差など気にしない、お互いが「自由と平等」であるからこその愛だったのでしょう。

しかし、ラトナは違うんです。確かに、ラトナはアシュヴィンの愛を、最初は拒みはしませんでした。それはたった一度のキスです。それだけなんですが、「ああ、この二人は間違いなく愛し合ってるな、そして今、それを確認し合ったんだな」と否応なく伝わってくる、お互いに身を任せ合ったキスでした(静かで、淡々としてるけど、今まで映画で観た中で最高に固唾を飲んだキスシーンかもしれないとオレは思った)。でもその後ラトナは現実に帰ってしまうんです。それはお互いには絶対に乗り越えられない階級差があり、この愛は不可能であるということです。

これが新しい国アメリカの映画であるなら、「階級なんてカンケーないね!僕らの愛は自由で誰にも縛られないのさ!」となるのでしょう。そしてそんな自由さや不屈の自己実現の意志に拍手喝采し、物語はハッピーエンドで終わるのでしょう。でも、ここは古の因習の残る国インドなんです。ラトナは「不可能な愛」に煩悶すらしません。乗り越えられるとも思いません。彼女に「愛の夢」はありません。あるのは自分の現実的な限界と、その現実の中で精一杯生きる事だけなんです。だから彼女は、この愛は、なかったことにしようとするんです。それは、なかったことにする以外にないからなんです。

ここが、オレには、とてつもなく切なかった。

■あなたの名前を呼べたなら

そんなラトナにはきちんとした夢があって、それは服飾デザイナーになることでした。それと、実家にいる妹に立派に教育を受けさせることでした。家政婦の仕事も、そんな妹の学費を稼ぐためでもありました。手に職を付けて自立して生きてゆくこと、そして家族のバックアップをするということ、それは社会生活者のひとつのあるべき姿ではあり、ラトナはそれを現実的にやり通せる女性として描かれます。不条理な因習があり、乗り越えられない階級差があったとしても、それでも彼女は自分なりの生き方を見つけ、生活してゆくことでしょう。

でも。もしも、下らない因習も、馬鹿馬鹿しい階級差も無かったとしたら。そうしたら、彼女はもっと幸せに、自分らしく生きていけたはずではないですか。変えられない現実に「もしも」と言ったところでなんの意味もないのかもしれない、けれども、こうではない現実を夢見てはいけないのか。彼女は夢見ることも許されないのか。そしてその「夢見ること」が、アシュヴィンが投げかけてくれた愛、彼が因習も階級も意に介す事なく届けようとした想いの中にあったことにラトナは気づき始めます。

とても素晴らしい映画でした。そして最高に素晴らしいエンディングを見せてくれた映画でもありました。ラトナとアシュヴィンの関係は、愛とか恋とか、まあそういった口幅ったいことよりも、それが成就するとかしないとかいうことよりも、自分はここにいていいんだ、という自己肯定感を与えあった者同士だったようにも思えます。それは相手を信頼し尊重し合うということであり、そうやってお互いを思い遣ることで得られる心の安らぎです。そういった二人の在り様が、なんだが胸に響いたんですよ。でもそれが、結局は愛って事なのではないですか?

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