ラテンアメリカ文学短編集を3冊読んだ

ラテンアメリカ短編集:モデルニズモから魔術的レアリズモまで/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ短編集―モデルニズモから魔術的レアリズモまで

ラテンアメリカ短編集―モデルニズモから魔術的レアリズモまで

 

モデルニズモから魔術的レアリズモまで、ラテンアメリカの作家たちは、民族や国境を超えた新しい文学、新しい魂を表現しようとした。豊穣なラテンアメリカ文学の生成と発展、多面的な文学空間へ招待する短編集。

ラテンアメリカ傑作短編集:中南米スペイン語文学史を辿る/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ傑作短編集: 中南米スペイン語圏文学史を辿る

ラテンアメリカ傑作短編集: 中南米スペイン語圏文学史を辿る

 

スペイント語圏ラテンアメリカ短編文学のはじまりともいえる重要作品「屠場」をはじめ、幻想的な「ルビー」「赤いベレー」「新しい島々」、大地の渇きが伝わる「インディオの裁き」「その女」など、ロマンチシズムからモデルニズモ、クリオーリョ主義、実存主義までの多彩な傑作短編を、文学の発展過程を見通せるように編纂。本邦初紹介作品を含む、心を打つ名作18編。

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉:中南米スペイン語圏の語り/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉: 中南米スペイン語圏の語り

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉: 中南米スペイン語圏の語り

 

マジックリアリズムだけじゃないラテンアメリカ文学の内省と豊穣。多彩な情景、多様な手法。深まる内省、増しゆく滋味…幻想と現実のあわいで揺れる多彩な作品群。10カ国にまたがる作家たちが紡ぐ、16のきらめき。日本初紹介作家を含む、短編アンソロジー

 ちょっと前にラテンアメリカ文学短編集を集中して読み、沢山の面白い作品に触れることが出来たのだが、こんな短編集が他にも出版されていないものだろうか、と探して見つけたのが今回紹介する3冊である。

いずれも彩流社というオレにはあまり馴染みの無い出版社から出版されており、その全てにおいて野々山真輝帆という方が監修されている。この野々山真輝帆氏(故人)、スペイン文学者で筑波大学名誉教授だった方なのらしい。収録されている作品はどれもイリノイ大学大学院ラテンアメリカ文学講義に用いられたリーディングリストから採用、訳出者は朝日カルチャーセンターのスペイン文学翻訳教室の有志によるものなのだとか。

で、まあ、読んでみたのだが、正直なところ、大変申し訳ないのだが、全体的に、面白くない作品が多かった。面白くなかった、というよりも、オレがラテンアメリカ文学にイメージする類の作品とは違う作品が殆どだった、ということになるだろう。

まず、セレクトがイリノイ大学ラテンアメリカ文学講義用であった、ということで、これはつまり作品として面白いとか面白くないとかではなく、文学史の流れの中での代表的な作風、もしくは変節点にある作品、を多く取り上げることになったのだろう。

さらに、なにしろ文学史的に訳しているので、ラテンアメリカ文学黎明期の非常に古い作品から掘り起こされている、ということが挙げられるだろう。これはラテンアメリカ文学が生まれたとされる19世紀半ばから20世紀初頭にかけての作品であり、文学史的には「モデルニズモ(モダニズム近代主義)」と呼ばれる文学運動を経て発生したものであるのらしい。

オレが慣れ親しんでいるラテンアメリカ文学はこのモデルニズモ運動の後に登場する作家のものばかりであり、これは20世紀中期に登場することになるのだ。例えば代表的な作家作品としてはボルへスの『伝奇集』が1944年、ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』が1955年、バルガス・リョサの『緑の家』が1966年、そしてマルケスの『百年の孤独』が1967年と、いわゆるラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした作家作品が殆どこの20世紀中期のものであることが分かる。

そういった部分でこの野々山真輝帆編によるラテンアメリカ文学短編集はラテンアメリカ文学ブーム以前のラテンアメリカ文学作品を網羅したものだということができ、エンタメとして楽しむ文学というよりはもっと学術的で史学的な位置にある諸作品ということになるのだろう。だから面白いとか面白くないとかそういった読み方をする作品集ではなく、文学史を紐解く形で接するべき作品集であるということなのだろう。

これら初期モデルニズモ文学がどうつまらなかったかということをあえて書くならば、まずマジックリアリズム的作品が皆無であること(そもそもそういった作風がまだ生み出されていない)、その代わりに今読むと古臭く感じる童話的であったり寓話的であったりする作品が散見すること、ラテンアメリカ世界の貧しさや暴力的気風、それらの果ての絶望的で救いの無い作品が多かったこと(映画もそうだが近代主義傾向の作品によく見られる)、要するにひねりがある訳でもなくそのまんま過ぎる生々しさに辟易させられた、ということがあった。

そういったわけでオレの如き半可通の文学好きにとってそれほど楽しめた短編集ではなかったけれども、はからずしてラテンアメリカ文学のその黎明期からの潮流を体験するいい機会とはなった。また、幻想的な作風の幾つかの作品は、これはオレの好みなので十分楽しめた。その中で、「ラテンアメリカ傑作短編集」収録エステバン・エチュベリーア作『屠場』は、ラテンアメリカ文学の嚆矢と呼ばれる重要作品で、これを読むことが出来たのは僥倖であった。さらに「ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉」あたりになってくると、後半から20世紀中期に活躍する作家がちらほら登場し始め、これらはやはりモダンな味わいがあって楽しめた。 

映画『ゾンビランド:ダブルタップ』は単なる同窓会映画だったなあ

ゾンビランド:ダブルタップ (監督:ルーベン・フライシャー 2019年アメリカ映画)

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「ゾンビ世界で生き残るにはルールが大事だッ!ヒヤリハットは命取り!日頃の点検怠るな!指差し確認で安全確保!ゼロ災でいこう、ヨーッシ!」というどこかの作業現場みたいにルール順守の連中がゾンビ世界をサヴァイブする映画『ゾンビランド:ダブルタップ』でございます。これ、2009年公開の映画『ゾンビランド』の続編なんですな。タイトルの「ダブルタップ」というのは「ルール2、二度撃ちして止めを刺せ」と2作目であることに準じているのありましょうや。

出演陣は前作と一緒、ジェシー・アイゼンバーグウディ・ハレルソンエマ・ストーンアビゲイル・ブレスリン。何故か前作でアレなことになったビル・マーレイも出演しているのでお楽しみに。監督も前作と同じルーベン・フライシャーが務めます。

それにしても『ゾンビランド:ダブルタップ』の出演陣、『ゾンビランド』後の10年で物凄く注目される俳優へと成長していて驚かせられますね。ジェシー・アイゼンバーグはなんといっても『ソーシャル・ネットワーク』だしDCEU映画『 バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』や『ジャスティス・リーグ』だし、ウディ・ハレルソンは『スリー・ビルボード』で『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』だし、エマ・ストーンは『ラ・ランド』で『アメイジングスパイダーマン』ですよ。アビゲイル・ブレスリンは……まあいいや。

しかし10年も経って続編というのもスゴイ、というかきっと監督ルーベン・フライシャーが2018年の『ヴェノム』製作の余勢をかって「おっしゃー!好きなことやるぞおお!」とか言いつつ作ったのではないか想像しております。とはいえそんなに続編が待たれた映画だったっけか?と思わないことも無いんですが……1作目、確かに面白いっちゃあ面白かったけど、あそこから何か膨らますようなお話だったけかなあ、という気がしないでもない。

とまあ長々と前置きを書きましたが、なんでこんなに長々と前置きをして回り道をしたかというと、ええっと、実はそれほど面白くなかったからで……いやあどうもスイマセン。

いや、面白くなかった、というのは言い過ぎで、映画館にいる間はそれなりに楽しめた、あれやこれやの小ネタに終始クスリとさせられた、というのが正確な所ですが、いわゆる「映画のデキ」として全体を眺め回して見るならば、なんかこうシナリオにインパクトがない、練られてない、エピソードをあれこれと無理矢理ヒリ出してなんとかお話を繋いでいる、なんだかその場の思い付きで特に吟味せず勢いだけで作ってしまった、そんな印象なんですよ。ゾンビ映画だけに「死に体」な映画になってしまってるんですな。

まず舞台ですよね。冒頭のホワイトハウスやその後のエルヴィスの聖地やクライマックスの「バビロン」や、まあロケーションとして面白いっちゃあ面白いんですが、で、なんでそこなの?という必然性があんまり感じないんですよ。その「バビロン」に住む連中、いわゆるニューエイジな皆さんなんですが、それで?と思うけど特に話が膨らまない。見た目はおかしいですが批評性があったり皮肉であったりというものでもなく、ただニューエイジってだけ。

そしてこの2作目から登場する「進化したゾンビ」ね。これ、ルール順守の連中によりゾンビ討伐がやり易くなってしまったがために、敵をパワーアップさせなきゃバランス取れなくなるってことで登場させたんでしょうね。でも結局「カタイ敵」以上の特徴のない芸の無さで、拍子抜けさせられる。エルヴィスの聖地で登場したあの二人も「主人公二人と似ている」という設定が何の役に立ったのかさっぱりわからない。なんかこー、「続編」というよか「二次創作」みたいな映画なんだよな。これじゃあ単なる同窓会だよなあ。

そんなションボリさせられる作品ではありましたが、見所が無いわけでもない。それは、ゾーイ・ドゥイッチ演じる新キャラ、大バカ女のマディソンなんですね!このマディソンさん、ひたすらフワフワチャラチャラした脳みそお花畑で人生全てナメ切ってるアッパラパー女なんですよ。普通こういうキャラが映画に登場したら、見ているだけで苛立たせられること必至の上、この映画みたいなホラーテイストの作品やサスペンス作品であれば、主要人物の足を引っ張ってさらに苛立たせられるもんです。ところが、この『ダブルタップ』では奇跡のように物語を風通しよくさせ、なおかつ心憎いフックをもたらしてくれる存在となってるんですよ!

そもそもこのマディソンさん、こんな大バカ女がゾンビアポカリプスな世界で今までどうやって生き延びてたんだ、と眉間に皺寄せさせる存在であると同時に、物語の中でもこんな大バカ女がなんで生き延びられるんだ、と呆れ返ってしまうキャラクターなんですよ。ゾンビ映画で有り得ないですよこんな人。で、そこがいい。ゾンビとの熾烈な戦いをマジぶっこいて繰り広げるわけでもなく、フワフワヘラヘラと適当にクソナメ切った生き方だけでゾンビ世界を生き延びてしまう。これ新しい。最強。そしてこういうキャラが登場できるからこそのコメディ作なんですね。もうこのマディソンさんを主人公にして作品作った方がよかったかもしれないとすら思わせました。そう、ゾンビ世界も人生も、ナメ切ってナンボ!!ここ、大事な所ですよ!

ワッシュさんの《映画テン年代ベストテン》に参加するよ

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■《映画テン年代ベストテン》

ワッシュさん主催のはてなブログ『男の魂に火をつけろ!~はてブ地獄変~』恒例のベストテン企画、今年は《映画テン年代ベストテン》だ!!この企画は「2010年から2019年に公開された映画のベストテンを挙げる」というものなんだね。詳しいことはワッシュさんのブログを見てもらうとして、今回の企画にオレも参加してみるよ! 

というわけで早速本題に行ってみよう!  

■オレ的映画テン年代ベストテン!!

1位:マッドマックス 怒りのデス・ロード (2015)
2位:バーフバリ 王の凱旋 (2018)
3位:ブレードランナー 2049 (2017)
4位:銃弾の饗宴‐ラームとリーラ (2013)
5位:リアリティのダンス (2014)
6位:T2 トレインスポッティング (2017)
7位:アバター (2010)
8位:アナザー・プラネット (2012)
9位:華麗なるギャツビー (2013)
10位:アベンジャーズ/エンドゲーム (2019)

まあだいたいスンナリ決まったな。1位のマッドマックス 怒りのデス・ロード、そして2位のバーフバリ 王の凱旋、この2作はもうつべこべ言う余地など一切無いガチな名作でしょう。もはや21世紀を代表する作品として今後も長きにわたりベストテンに入り続けると思う。

3位以降はもっと個人的な好み。ブレードランナー 2049はSF好きのオレにとってテン年代のナンバーワンSF映画ってことでいいんじゃないかな。4位の『銃弾の饗宴‐ラームとリーラ』はインド映画祭で限定公開された作品だけどオレがインド映画に狂ったようにハマった切っ掛けとなった超名作。5位『リアリティのダンス』は言わずと知れたアレハンドロ・ホドロフスキーの奇跡のカムバック映画。最高!

6位『T2 トレインスポッティングの苦くて苦くて苦すぎる展開はむしろ年とってからのほうが共感度が高いと思う。7位アバターテン年代を象徴するSF映画だった。そしてこれを超えるIMAX作品は未だに観たことがない。8位『アナザー・プラネット』はDVDスルー作品だけど主演・脚本のブリット・マーリングの才気がほとばしるカルト映画。9位華麗なるギャツビーバズ・ラーマン監督のめくるめく映像とこれもまた苦く苦くどこまでも苦い物語がオレのハートを鷲掴み。10位のアベンジャーズ/エンドゲーム』は今世紀に入って大爆発したスーパーヒーロームービージャンルに止めを刺した決定作としてこれも長く語り続けられると思う。

続いて選外になった作品を挙げておこう。

■映画テン年代ベストテン次点作品

・PK (2016)
・ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う (2014)
・クロニクル(2012)
ダークナイトライジング (2012)
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q (2012)
・エンジェル・ウォーズ (2011)
・オーケストラ! (2010)

『PK』は超娯楽作であると同時にインテリジェントな作品でインド映画の持つポテンシャルの高さに驚愕させられた。『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う』はこのほろ苦さが一人の酔っぱらいとして忘れ難い。『クロニクル』は『AKIRA』『童夢』のテイストをとっととハリウッドで、しかもPOVで実写化してしまったフットワークの軽さがテン年代ぽかった。ダークナイトライジング』は伝説の3部作ラストとしてこれも有終の美を飾ったと思う。ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q、イビツな作品ではあるが、超高密度の物語と映像に酔った。『エンジェル・ウォーズ』、PV感覚な映像に特化したこの作品はもはや映画とは呼べない別のジャンルと化していた。『オーケストラ!』は笑いと涙、喜劇と悲劇、暗い歴史と輝くべき明日を描く畢生のヨーロッパ映画だ。

■《テン年代ベスト》作品のオレのレヴューを羅列してみる

それぞれの作品はオレのブログでレヴューを書いているのでそのリンクと文章を一部抜粋して紹介しておこう。 

1位:マッドマックス 怒りのデス・ロード (2015)

『怒りのデス・ロード』においてマックスたちは、人智を超えた恐るべき暴虐と不可能にすら思える試練を乗り越えギリギリの生死の境から生還を果たそうとする。そして神話は、その英雄譚は、困難の中に旅立ち、幾多の苦難に出遭いながら、それに勝利して生還する英雄の姿を描く物語である。その姿を通し、不条理な生と死の狭間に生きねばならない人の運命に、道筋を与え、その意味するものを掘り下げてゆくのがこの寓話の本質にあるものなのだ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はその神話に新たな章を刻み付けた作品であり、我々はそこで展開する原初の物語に、太古から無意識の血の中に存在している英雄たちの姿に、生の本質と、乗り越えるべき運命を見出す。だからこそ我々は魂をも揺さぶる大いなる感銘を受け、そして歓喜するのだ。

 

2位:バーフバリ 王の凱旋 (2018)

いやあ、全方位的にとんでもねえ映画だったなあ!!!!

もうあれこれとことんとんでもなさすぎて、ちまちま言葉で言い表してゆくのが無意味のような気がするほどとんでない映画です。この『王の凱歌』を映画ファン的に評するならば「『ロード・オブ・ザ・リング』を『マッドマックス 怒りのデスロード』テイストで描いたインド映画」 と言い表すのが一番分かり易いかもしれません。『LOTR』の壮大なファンタジー世界を『MMFR』の暴発寸前の熱狂と興奮で描き、そこにスパイシーなガラムマサラをふんだんにぶち込んで芳醇な味と香りと脳天にキリキリ来る辛さを醸し出した映画だということです。

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3位:ブレードランナー 2049 (2017)

さらに、『ブレードランナー』が描いていたのは「大勢の人の住む都会で自分は一人ぼっちで孤独だ」という事と、「こんな自分ってなんなんだろう、何者なんだろう」という事だった。『ブレードランナー』に登場する街並みはあんなにごみごみと人で溢れているのに、登場人物たちは誰もが孤独で誰とも繋がりを持たない。誰もが広々としたフラットにたった一人で生活する。「人間かレプリカントか」という不安、「レプリカント処理」という徒労に塗れた虚無的な仕事の遣り切れなさも、自己存在の不安定さをあからさまにする。「生の虚しさと儚さ」「生きる事の孤独」「自分が何者であるのかという不安」。これら『ブレードランナー』の孕むテーマは、人が生きる上で直面する普遍的な問い掛けであり、不安ではないか。そしてだからこそ、『ブレードランナー』の物語は我々の心を捉え、歴史を超えて語り継がれてきたのではないか。 

 

4位:銃弾の饗宴‐ラームとリーラ (2013)

二人の出会い、高まる気持、人目を忍ぶ密会、結婚を誓う二人、そして駆け落ち。映画は二人の切ない恋の行方を、インド映画らしい躍動感溢れる踊りと美しい歌で盛り上げてゆくんです。そこに目の痛くなるほどの原色に彩られたインドの神々が踊る艶やかな祝祭シーンが盛り込まれ、その高揚はいやが上にも高められていきます。しかしそれと並行して、対立する二つの家の抗争が、町全てを巻き込みながら次第に血生臭いものへと化し、暴力と死がじわじわと画面を覆うのです。そして物語は、鮮烈で幻惑的な色彩美、匂い立つようなエキゾチシズム、熱狂と陶酔、そして死と生のコントラストに彩られながら、運命のクライマックスへとひた走ってゆくんです。

 

5位:リアリティのダンス (2014)

それにしても『リアリティのダンス』というタイトルにはどのような意味が込められているのだろうか。ホドロフスキーはインタビューの中で「人生もこの世で起こることも繋がったものであり、そしてそれらは常に変化してゆく、即ちそれはダンスのようなものなのだ」と語っている。それは【生々流転】ということなのだろう。このとき【リアリティ】とは、いわゆる「客観性による現実」を指すものではなく、「主観性による現実」を指すものなのだろう。ホドロフスキーの作品の多くは、「客観性による現実」の持つ諸相を「主観性による現実」でもって捻じ伏せた表現となっている。それこそが「寓意化」なのだ。ホドロフスキーの『リアリティンのダンス』はこうして、象徴と寓意のダンスを描きながら、生の秘密とその真実を、そして生きることの喜びと慈愛とを解き明かしてゆくのだ。

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6位:T2 トレインスポッティング (2017)

未来があろうがなかろうが、「死」だけは誰にも公平に訪れる。刹那の興奮と快楽に沈溺していようと、どれだけ自分の人生を先延ばしし続けようと、「死」だけは確実に自らの身に訪れる。そして、その終局を意識した時に、自分の人生の全貌が、自分が何をして何をしなかったかが、目の前に詳らかになる。レントンに限らず、主人公たちは皆、年老いることによって、自分の無様な人生と、ようやく対峙することになる。そして、そんな無様なだけでしかなかった自分の人生に、年老いることにより、落とし所を見つけられるか見つけられないか、それがこの『T2』という物語だったのだ。

 

7位:アバター (2010)

さらにこの映画は、二重の意味で、《異世界》への《逃避》を描き出す。主人公ジェイクは、半身不随の不自由な肉体を持ちながら、アバター・ボディに思考転移することで、元の肉体のくび木を捨て、自由に走り回ることの出来る、新たな世界に生きる事になる。その新たな世界は、これまで生きていた世界が、まやかしであったと思えるほどに生き生きとし、そしてもの皆光り輝く、美しい世界だ。そこは生存の為の戦いという危険があるにせよ、むしろ己が生命のきらめきを、確実に感じ取れる世界なのだ。主人公ジェイクは、ナヴィとして生きることを選ぶことになるが、それは、正義や愛だけから、選んだのではないのだと思う。彼は、そここそが、生きている実感を感じることの出来る、"真の"世界だったからこそ、そこで生き、そこを命懸けで守る事を選んだのだ。

 

8位:アナザー・プラネット (2012)

「ここではないどこか」で、私の夢は叶えられる。「ここではないどこか」で、私は幸せになれる。しかし逆に言えばそれは、今いる、今生きているこの場所では、私は、決して、絶対に、夢を叶えることも、幸せになることも、出来ないということなのではないのか。そして、「ここではないどこか」というのは、他ならぬ「空に浮かぶもう一つの地球」なのだ。悲嘆に満ちた現実と、いつまでも癒されることのない未来しか存在しない世界、しかしその世界の空の上に、あり得ない筈の、【救済】が、ぽっかりと浮かんでいる。そしてその【救済】は、この現実世界に生きる者には、本当なら決して手の届かない、「ここではないどこか」にしか存在しない。それならばそれは、果たして【救済】と呼べるのか。しかし、それでも人は夢想してしまう、こうでなかった自分と、こうでなかった人生を。【救済】へと、いつか手の届く日を。だからこそ映画『アナザープラネット』は、どこまでも切なさに満ちた作品なのだ。

 

9位:華麗なるギャツビー (2013)

 大富豪となったギャツビーは、いうなれば世界の全てを手に入れた男だ。あたかも彼は世界の「王」の如く君臨していた。しかし、その世界には、愛する君が含まれていないのだ。彼にとって、世界は、「君と共に生きる」ことで、初めて成り立つものであった筈なのに、君はいないのだ。君のいない、君以外は全てがある世界、結局それは「全て」ではない以上、「無」と変わりない。君がいない世界は、それは、世界ですらない。それは「虚無」だ。なぜなら、彼にとって、「君」こそが世界と等価であり、「君」こそが、真に世界そのものであったからだ。そして彼は、虚無の中で、愛する君という輝きに満ちた光明を請い求める。虚しい世界を、君に振り向いてもらうために飾り立てる。虚しい飾り、まさに虚飾だ。あらん限りの世界の富で飾りたてられながら、飾り立てれば飾り立てるほど、それが巨大な虚無にしか見えないのは、その全てが、彼の「孤独」の裏返しでしかないからだ。ああ、この物語は、なんと寂しく悲しい世界を描いたものだったのだろう。

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10位:アベンジャーズ/エンドゲーム (2019)

しかし『インフィニティ・ウォー』は違っていた。これは、これまで培ってきたMCUを終わらせるために製作されていたのだ。ここまで長い年月を掛け膨大なファンと莫大な収益を得てきたシリーズ作を終わらせる、という英断の在り方に驚いた。どこぞの””SF星間戦争シリーズ”と志が違うな、と感心した。しかもただ終わらせるのではなく、全宇宙の全生命が半分となり、当然ヒーローたちも半分方消滅してしまう、という未曽有の危機を描いて幕を閉じたのである。世に幾多あるSF作品ヒーロー作品の中でもここまで絶望的な状況を描き切った映画は後にも先にも初めてかもしれない。

 

……以上、オレ的「映画テン年代ベストテン」でした!いやーしかし、今回の記事書いていて、取りあげた映画全部観直したくなっちゃったよ!やっぱりそれだけ好きなんだろうね!

ジェラルド・バトラーのエンドオブなシリーズ第3弾は『エンド・オブ・ステイツ』なんだッ!?

■エンド・オブ・ステイツ (監督:リック・ローマン・ウォー 2019年アメリカ映画)

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暴力!暴力!暴力!オレが本当に映画に求めているもの、それは愛でも夢でも優しさでもなく、ヒューマニズムだの社会性なんぞでもなく、もちろん美だのゲージツだのなんてもんでもなく、ただただ凄まじい暴力、ぶん殴って蹴り飛ばして刃物で切り裂き弾丸で蜂の巣にし爆薬で粉微塵にする暴力と破壊とその果ての圧倒的な無敵感全能感である。

そして今、オレが映画の世界で一番暴力の匂いがすると思っている男、それがジェラルド・バトラーだ(いや、ジェイソン・ステイサムも好きなんだけどさあ、『ワイルド・スピード』シリーズ出始めてから妙なハク付いちゃってさあ)。やっぱりね、『300〈スリーハンドレッド〉』のレオニダス王、これがジェラルド・バトラーの原点だね。半裸でマント翻して鬼神の形相で喚きまくりながら殺戮の限りを尽くすスパルタ人のおっさん。いやもう頭おかし過ぎて最高だわ。その後の『GAMER』や『完全なる報復』もよかったなあ。最近だと大傑作『ハンターキラー 潜航せよ』、大傑作『ザ・アウトロー』、大傑作『ジオストーム』と大傑作な映画にばかり出演していて、もはやジェラルド・バトラーが出てれば全部大傑作」と言っていいぐらいだ。

そんな大傑作揃いのジェラルド・バトラーの大人気シリーズといえば、宇宙最強のシークレット・サービス、マイク・バニングが大活躍する「エンド・オブ」シリーズだ。これまでホワイトハウスが血の海と化す『エンド・オブ・ホワイトハウス』、ロンドンが瓦礫の山と化す『エンド・オブ・キングダム』と続いてきたシリーズだが、そのどちらも、マイク・バニングことジェラルド・バトラーが敵テロリストをちぎっては投げちぎっては投げ、すり鉢で擂って団子にしたあとつみれ汁に入れて今日の晩飯ウマーという例によって暴力の限りを尽くす最高の映画作品なのである。

そしていよいよその「エンド・オブ」シリーズ最新作『エンド・オブ・ステイツ』が公開となり、ジェラルド・バトラーもこのシリーズも大好き過ぎるオレはもう楽しみで楽しみで社会生活を営むことすら困難になっていたぐらいである。なんと言っても、ホワイトハウスが、ロンドンが殺戮の荒野と化したこのシリーズの最新タイトルが『エンド・オブ・ステイツ』ともなると、もはやアメリカ全土が火の海死体の山と化しその中を主人公マイク・バニングが凶悪なる復讐の神へと化身してテロリストだかなんだかの皆さんを地獄の底まで叩き落すのであろうと想像して胸は高鳴り手足は痺れ瞳孔は開いて喉からは動物じみた奇声まで発してしまいそうではないか。

(「エンド・オブ」シリーズなんて書いたが勿論これは邦題を元にしており原題は1作目からそれぞれ『Olympus Has Fallen』『 London Has Fallen』『Angel Has Fallen』でありそういうことは全部分かってて書いているので「…Has Fallen」シリーズと言ったほうが正しいんじゃないですかどうなんですかどうなってるんですかそこん所、とかいうツマラナイ突っ込みはホントどうでもいいので止めてくれるとホント助かる。ちなみに「Angel」とはエアフォースワンのコードネームなんだとか)

さてお話はというといつものように大統領の護衛を務めるマイクさん、今日は静かな湖畔の森の陰で大統領の釣りのお供をしていたわけである。そこへ!何者かが放った夥しい数の自爆ドローンが襲い掛かり、多数のシークレットサービスを次々と爆殺、生き残ったのは大統領とマイクさんだけだった! しかし大統領の命を救ったにも拘らず事件の首謀者と疑われ拘束されるマイクさん!そして護送中に謎の武装集団の襲撃!からくも逃げ出したマイクさんを武装集団と政府機関の両方が追撃し始める!マイクさんの明日はどっちだッ!?……というもの。

そんなわけで今作『エンド・オブ・ステイツ』、敵の罠にハメられたマイクさんが『逃亡者』よろしく味方からも敵からも追跡され逃げ周り、追いつ追われつの危機一髪!な展開が延々と続くというものなんだね。いやーしかし1作目2作目でホワイトハウスやロンドンが火の海になったのに今作で火が付くのはマイクさんのケツだった!?っちゅうのはずいぶんスケールダウンしてないか!?と思わないことも無いんだけどね。なんだようアメリカ全土が火の海になるんじゃなかったのかよお。調べると1作目2作目と比べると製作費も大幅ダウン(7千万ドル→6千万ドル→4千万ドル)してるらしく、その予算ならむべなるかな......と思わないことも無かったり。

とはいえ好意的に見るならどんどんインフレーションしてきた設定をリセットするという意味合いのある3作目かもしれないよな(納得してないけど)。まあアメリカこそ火の海にならなかったけど、冒頭の自爆ドローン攻撃は観ていて正直「コッエエエエエッ!!」と思えたしネタバレになるから詳しく書かないけど「『地獄の黙示録』オープニングのナパーム攻撃かよ!?」と思わせる中盤の連続大爆破は頭がおかしくて最高だったし、クライマックスの「こりゃ『ハンバーガヒル』だね!」と思っちゃうような壮絶な銃撃戦は楽しすぎて気が遠くなりそうだったし、まあ要するにあちこちで戦争状態でありいろんなものがぶっ壊され大勢の人間が無価値な虫けらのようにバタバタと死んでゆくからオレはもう大満足だったけどね!

とはいえなにしろ全体的にこじんまりしててそんなに大量にモノは壊しておらずせいぜい病院一個ズタボロになる程度なんで、邦題を正確に述べるのであれば『エンド・オブ・ホスピタル』ぐらいかなー。あと今作ではマイクさんと家族の在り方がよりクローズアップされてて外連味に逃げようとしているのがアリアリと見て取れたけど、家族なんか慮ってるヒマあるんならもっと敵ぶっ殺せよ!橋や幹線道路や通信機関を爆破しインフラの息の根を止めて軍部を掌握しこの国を乗っ取ってマイク軍事政権を樹立させ恐怖政治を敢行しろよ!などと物語とは一切関係ない気の狂った妄想で脳汁ダダ漏れさせ一人劇場でアヘアヘと鼻息荒くしている血塗られた豚野郎と化していたオレでありました。いやーそれにしてもホント、暴力映画ってサイコーっすよねえ。

www.youtube.com

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映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』はアメリカと父権制の衰退を描いた物語かもしれない

■ブライトバーン/恐怖の拡散者 (監督:ジェームズ・ガン 2019年アメリカ映画)

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■「逆スーパーマン」映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』

巷で「逆スーパーマン」と評判の『ブライトバーン/恐怖の拡散者』を観てきました。

知らない方のためにどういう風に「逆スーパーマン」なのか説明するとですね。まず舞台はカンザス州のブライトバーン。この土地の農場に子宝に恵まれない夫婦がおったわけなんですね。二人はある夜、轟音と共に森に何かが落ちてきたのを発見、行ってみると、墜落した宇宙船があり、そこに人間そっくりの赤ん坊が乗っていて、二人はその子を我が子として育て始めるわけです。ブランドンと名付けられたその子供はすくすくと成長しますが、12歳になったある日、自分が強力な身体と特殊な能力があることに気付くんです。

ここまではスーパーマン・ストーリーを踏襲しているのですが、この『ブライトバーン』において主人公ブランドンは、自分の意に介さないものを排除するするため、その特殊能力を殺戮と破壊に利用し恐怖を撒き散らし始める、というわけなんですよ。単なる子供の癇癪が超絶的な暴力と化してしまうんですね。映画ジャンルとしてはホラー作品で、ダークな雰囲気とエゲツナイ肉体破壊描写、胸糞悪い物語展開を迎えてゆくというわけです。そんななのでR12の視聴年齢制限があったりします。

監督は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガン。彼は以前MCU映画を擁するディズニーとの解雇騒動が巻き起こったことがあり、その経緯からこのような「裏スーパーヒーローモノ」を製作したのか、という邪推も出来ますが、ガンはもともとトロマ映画に参加していたり、そもそもが「裏スーパーヒーローモノ」である『スーパー!』(これもなかなかエゲツなかった)の監督をしていたりする人なので、もともとの資質としてこういったシニシズムに満ちた映画を撮るのが好きな監督ではないかとも思えますね。

■スーパーマンアメリ

とまあそんな映画なんですが、「逆スーパーマン」という構成以上でも以下でもない、単に「そのまんま」でしかない作品とも言えちゃうんですね。だから物語それ自体に驚きがある訳ではないし、こういった「逆スーパーヒーロー」の物語は先の『スーパー!』や『クロニクル』、TVドラマ『ザ・ボーイズ』あたりでやられていて、特に斬新なテーマと言うわけでもありません。じゃあつまらないのか?というと、ちょっと視点を変えて観てみると、面白い発見と示唆を見つけることができるんですよ。

まず「逆スーパーマン」とはいいますが、ではそもそも「スーパーマン」とはなんなのでしょう?表層的に見るならスーパーマンは宇宙からやってきて地球を救う超常的なパワーを持つスーパーヒーローということになりますが、実はこれは「アメリカという国家」について描かれたものじゃないかと思うんです。アメリカは移民の国です。そしてアメリカは、本人が望むなら移民として心広く人々を迎え入れます。それがスーパーマンのような異星人であってもです。そしてひとたびアメリカ国民となった者は、その持てる力を振り絞ってアメリカのために尽くさねばならない。それがスーパーマンの物語の根底にあるものではないか。

しかしそれはスーパーマンが生み出された古き善き時代のお話です。今のアメリカは心広く移民を受け入れるわけではなく、アメリカのことをなんとも思わない異分子が侵入してきて、事あればアメリカを攻撃するかもしれないと疑心暗鬼に至っている。『ブライトバーン』の主人公ブランドンがまさにそれなんです。これら現在のアメリカの状況に照らし合わせるならば、『ブライトバーン』の物語は、現代アメリカの、かつての理想と乖離してしまったジレンマが描かれてると見ることもできる。

父権制の衰退

もうひとつは「父権制」の在り方です。ここからは1978年公開の映画『スーパーマン』を元にして書くので実際のコミックとは違うかもしれないのですが、まずスーパーマン/カル=エルは、滅び行く惑星クリプトンから父親のジョー=エルの手により救われることになる(父親からの庇護)。地球で育ったカル=エル/クラーク・ケントが己の使命を意識するのは養父の死がきっかけである(父親の喪失感)。その後彼は北極の要塞において実父ジョーの幻影から己の正しい道を悟ることになる(父親の指導)。つまり『スーパーマン』の物語は(少なくとも映画では)強力な父権制の影響の中で主人公が育ち大人になることが描かれるんです。

一方『ブライトバーン』はどうでしょう。映画を注意深く観ていくと分かりますが、主人公ブランドンの養父は自らが父親であることに最初から及び腰です。ブランドンに「(彼を授かって)最初どうしていいのか判らなかった」みたいなことを平気で語っちゃいます。だからブランドンと養父の関係は親子と言うよりどこか友人関係止まりのようにすら見えます。事件が起こるようになってからブランドンを疑いはしますが愛情を持って庇護しようとしません。そして真実が判明した後ブランドンを導こうとはせず排除しようとしたのも養父です。つまり養父には強力な父権、息子を庇護し導く父親/男としての矜持が最初から欠けているのです。そして何があっても徹底的に息子を信じ愛情を注ぐのは養母だけなんです。

父権制はそれ自体に否定的な要素を抱えており、この物語においても「強力な父親であればそれでよかったのか」ということにはなりません。また、父権制そのものが衰退しつつあることも否めません。この作品における状況もまさにそれなんです。では、父権制が衰退し崩壊した後、いったいどうしたらいいのか。間違った道に行こうとするブランドンをどうすればよかったのか。もっと愛情を注ぎ理解するべきだったのか。この映画ではそれは描かれず、強烈な父権制のしがらみから離れ、暴走するだけのブランドンが描かれることになります。それはどこかで現在ある親と子の状況と繋がるものがあるのかもしれない。映画『ブライトバーン』にはそういった部分での暗喩が含まれているように感じました。

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