インドのブラックな殺人コメディ映画『盲目のメロディ~インド式殺人狂騒曲~』

■盲目のメロディ~インド式殺人狂騒曲~ (監督:シュリラーム・ラガバン 2018年インド映画) 

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盲目のピアニストが関わってしまったある殺人事件。事件を知る彼に犯人たちの魔の手が迫るが……!?という映画『盲目のメロディ~インド式殺人狂騒曲~』。2018年にインドで公開され大ヒット、その驚愕のシナリオと不敵な物語展開は絶賛の嵐で迎えられた。なんでも米映画批評サイトRotton Tomatoesの満足度は100%フレッシュ!なんだそうですよオクサマ。その作品がいよいよ日本公開と聞いて元インド映画好きのオレもワクワクしながら映画館に足を運んだのだが、ワオ!こりゃ評判通りの面白い映画だわ!

物語の主人公は盲目のピアニスト、アーカーシュ(アーユシュマーン・クラーナー)。ある日彼はピアノ演奏をするためインド映画大スターのマンションを訪ねるが、そこではまさに殺人が行われていた!犯人はアーカーシュが盲目であるために目撃されていないと思い込みその場をやり過ごすが、実はアーカーシュは殺人に気付いていたのだ。何も知らないふりをして犯行現場を離れるアーカーシュだが、心は動揺で一杯だった。そして殺人犯はアーカーシュをいぶかしみ、もう一度彼に接近しようと画策するのだ。

この『盲目のメロディ~インド式殺人狂騒曲~』、ジャンルとしては「ブラックな殺人コメディ」といったところか。いわゆる犯罪サスペンスではあるが、「知り過ぎてしまった男と殺人犯との息詰まる攻防」を描いているだけではなく、そこに思いもよらぬ展開を持ち込みツイストを掛けてゆくのだ。そしてその「思いもよらぬ展開」というのが、「どうしてそっちに転がる!?」という素っ頓狂さに満ち溢れているものだから、観ていて思わず「プッ!」と笑えてしまうのである。

このコメディ要素の要因となるのは、殺人犯が冷徹極まりない絶対悪の如き存在ではなく、どこか間が抜けていたり、どうにも憎めない存在であったりする描かれ方だ。同様に、主人公もその周辺の者たちも、どこか打算的であったり欲得づくであったりと、決して一点の曇りもない善人であるとは言い切れない部分だ。すなわち主人公の側も殺人者の側も、どうにも人間臭い理由と事情を抱えた連中ばかりで、そしてこの人間臭さが想定外の行動を生み出させ、呆気にとられるようなドタバタへ繋がってゆく。そこが可笑しいのだ。

もうひとつ、この作品を面白くさせているのは中盤からの「強引な展開の挿入」だろう。これによりその後の物語の流れがさらにとんでもない方向へと転がってゆくだけではなく、益々先の読めない波乱を生んでゆくのである。これがガチリアリズムなクライムドラマであるなら「いやフツーそんなことしないでしょー」とツッコミを入れたくなるような嘘っぽさではあるが、この映画は「いやでもこうしたほうが面白くなるよ?」と確信犯的に盛り込んでゆくのだ。そしてそれは成功している。そう、リアリズムなんてクソくらえ、映画として面白ければそれでいいのだ。いやしかし本当に巧いシナリオだ。

正直、あまりに練りに練られたシナリオであったため、またぞろインド映画お得意の「韓国犯罪映画の翻案」とかそういうのか?と思ったぐらいだが、調べてみるとフランスの短編映画「l’ Accordeur(調律師)」を原案にしているのらしい。YouTubeで探して観たのだが、確かに物語の発端となる部分は同じであるけれど、『盲目のメロディ』中盤からの波乱は映画オリジナルのものであった。

この作品で特に良いなあと思えたのは、物語の舞台がインドではなくても充分通用するものであるという事だ。つまり地域性に頼らない世界共通な映画の面白さを兼ね備えているという事なのだ。これは監督の作家性がインド映画プロパーから脱却しているということ、インド映画的共通認識に決して頼ろうとしていない事の表れでもある。だからインド映画的スメルを追い求める人にはピンと来ない部分があるかもしれないが、逆にインド/アジア映画的な臭みの苦手な人、面白い映画ならインドだろうがどこだろうが気にしない人にこそ受け入れられ易いのではないか。

なお予告編では今回の記事では触れないことにしていたネタバレが入っているので要注意。

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ドアーズ、あるいは「死」という名の強迫観念

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ドアーズのボックス・セットを買った

ロック・バンド「ドアーズ」のボックス・セットを買った。ドアーズ、60年代中期から70年代初頭にかけてアメリカで活躍、ヴォーカルであるジム・モリソンのカリスマ性によりセンセ―ショナルな人気を誇ったバンドである。そしてそのジム・モリソンの死により伝説と化したバンドでもある。バンド・メンバーはジム・モリソン (Vo)、 レイ・マンザレク (Key)、 ロビー・クリーガー (G) 、ジョン・デンズモア (Ds)。

Doors - Collection Box Set (6cd)

Doors - Collection Box Set (6cd)

 

ドアーズとオレとの出会いは10代の半ばまで遡る。ちょっと長いが、このことを書いた過去のブログ記事があるので引用しておく。

ドアーズの曲を始めて聴いたのは10代の半ば、FMラジオの音楽番組でだった。多分雑誌か何かを読みながら流していたそのラジオから、異様な音楽が流れ始めたのだ。野太い声で絶叫するヴォーカルとドロドロと鳴り渡る演奏。これはなんだ?と慌ててラジカセ(そう、当時はラジカセが一般的だった)にカセットテープを突っ込み、録音を始めることにした。音楽が終り、DJは今の演奏がドアーズというバンドのライブであることを告げた。その音源は、既に発売されていたドアーズの『アブソルートリー・ライブ』というアルバムのものだった。ドアーズ、1965年結成、そして1971年、ヴォーカルであるジム・モリスンの死により、活動を停止したバンドである。

当時の、10代の頃のオレにとって、ドアーズの魅力とは何か?というとそれはヴォーカルであるジム・モリソンの礫岩の様に荒々しく激しくザラザラとした歌声、その彼が表出させる濃厚な死の匂いとあたかも彼岸の情景のような美しく危険な幻惑性、それを引き立てるアメリカの荒野を想起させるが如き乾ききった音を出すバンド演奏だった。なにより、ジム・モリソンの書いた歌詞、その詩の世界が圧倒的なまでに心を鷲掴みにした。オレはあの頃、彼の書いた詩に感化されて、自分も詩を書いていたぐらいだった(黒歴史)。

ジム・モリソンはドアーズとしてライブ作品を含む7枚のアルバムを発表したあと、1971年7月3日、27歳という若さで謎の死を遂げる。当時、ブライアン・ジョーンズ(69年没)、ジミ・ヘンドリックス(70年没)、ジャニス・ジョプリン(70年没)といったロック・スターがどれも27歳で死没していたことから「27クラブ」という言葉まで作られた。あのカート・コバーンも94年、27歳で死没している。実の所、単なる偶然でしかないのだろうが、「死」というのはかつて生きていた時のその存在を神格化させる。ジョイ・ディヴィジョンイアン・カーティスもそうだ。彼は80年、23歳没だが。このジョイ・ディビジョンはある評者に「80年代版オルガン抜きドアーズ」と言われていた。

「死」にまつわる強迫観念

死の匂いというのは人を惹き付ける。それは生けとし生ける者にとって最大の恐怖であると同時に最大の謎だからだ。その感情はあまりに強烈だからこそ強迫観念化する。

オレは以前、目前で鉄道自殺を目撃したことがある。朝の通勤時間、その若い男は列車がホームに入ってくる寸前、ホームから線路にぴょんと飛び降り、あらかじめ予定してたかのようにうつぶせになって線路に身を横たえた。オレは目の前でそれを見て「ああ、こいつは今まさに自殺しようとしているのだな」と奇妙に冷静に理解した。だからこそ、急ブレーキを掛けた電車が線路上の彼の上を通ろうとするまさにその時は顔を背けた。その瞬間に、電車待ちをしていた大勢の人達は騒然となって身を固まらせていた。だがオレは「電車は暫く動かないだろうからここを抜けて会社に行く別ルートを探そう」と思い、さっさと駅の改札を抜けることにした。誰もが皆凍り付いて動けなくなっている中を、オレ一人が駅の階段を上っていた。その時改札の駅員に「自殺がありましたよ」と告げたのも覚えている。この時の、異様に覚めていた自分が今でも奇妙でしょうがない。自分はこういうメンタルの人間なんだな、となぜだか再発見した。

しかし、会社が終わり、電車に乗って再びこのホームに降り立った時、オレは吸い寄せられるようふらふらとあの男がホームから飛び降りた場所へ向かったのだ。事故のことなど何も知らない多くの乗客が足早に歩く中、オレはその場所に立ち尽くし、誰とも知らないその男が死んだ場所を、30分近くも見つめ続けていた。何か、強力な磁場に吸い寄せられるようだった。死、というのは、あまりにも容易く、簡単なものなのだな、と思った。今まさにこのオレが、あの男と同じように死ぬのも、容易く、簡単なものなのだと思えた。そしてそこでオレはふと我に返った。これが、目の前の死、という強烈な体験が生み出した強迫観念なのだな、とその時理解した。理由の不明な後追い自殺というのもこうした強迫観念が理由なのだろうということも。

ドアーズが高い評価を得ていたのは、別にジム・モリソンの死があったからだけではない。同じように、ジョイ・ディヴィジョンが評価を得ていたのも、イアン・カーティスの死があったからだけではない。彼らは独特の音楽性があったらばこそ評価されていたのだ。しかしドアーズにしてもジョイ・ディヴィジョンにしても、活動中に製作されたその作品の中に、濃厚な死の匂いが横溢していたのは否めない。それは彼らにとって、ひとつの強迫観念として内在するものだったのではないか。そして強烈な死への希求は、同時に、強烈な生への希求の裏返しでもあるのだ。その生と死との輪郭が鮮やかに際立っていたからこそ、彼らの音楽は神格化されたのだろうと思う。

ドアーズのアルバムへの一口コメント

話が思いっきりヘヴィーな方向へ振り切ってしまったので、ここで話を変えて、ボックス・セットに収められているドアーズのアルバムについてそれぞれ一口コメントを付けてお茶を濁したい(なおアルバムのリンクは50thアニバーサリーとかありますが、ボックス・セットの中身は単なる通常版です。お間違いの無きよう)。

The Doors

とりあえずロック史に残っちゃうであろうドアーズの1st。「Break on Through」「Soul Kitchen」「Crystal Ships」「Light My Fire」と名曲が目白押しで、ここにドアーズの全てが詰まっていると言っても過言ではないだろう。映画『地獄の黙示録』で使われた「The End」も収録。10代の頃はこの曲ばかり延々聴いていた根暗な少年だったオレ。

◎Strange Days

1stアルバムと双璧をなす名盤の誉れ高い2nd。中でも延々ドロドロと演奏される「When the Music's Over」は「The End」に匹敵するドアーズの代表曲であり名曲だろう。「Moonlight Drive」「People are Strange」も好きだなあ。ジャケットのフリークさもいい。

◎Waiting For The Sun

WAITING FOR THE SUN (EXPANDED EDITION) [2CD] (50TH ANNIVERSARY)

WAITING FOR THE SUN (EXPANDED EDITION) [2CD] (50TH ANNIVERSARY)

 

初のアルバム1位、「Hello, I Love You」というナンバーワンヒットを収録した3rdアルバムだが、1st、2ndと比べると音楽的には失速、演奏も凡庸で、惰性で作られたような印象すらあり、あまり好きなアルバムではないんだよな。

◎The Soft Parade

Soft Parade

Soft Parade

 

ヒット作「Touch Me」収録、他にもホーン・セクションやストリングスを取り入れテコ入れ図ったポップな4作目だが、 これが「音楽の作り方忘れちゃったんじゃないのか?」と思ってしまうような退屈極まりない凡作。きっとジム・モリソンが酒に溺れすぎて適当に作ってしまったのに違いない。

◎Morrison Hotel

Morrison Hotel by The Doors (2013-03-26)

Morrison Hotel by The Doors (2013-03-26)

 

パッとしない前作の反省からか、もう一度原点回帰して製作された5作目は結構な佳作で、1曲目「Roadhouse Blues」からゴリゴリに荒々しいドアーズが聴けるのが嬉しい。 「Waiting For The Sun」はドアーズらしい荒っぽさと幻想味の同居した曲、そして何より「Indian Summer」の限りない美しさ、これがまた本当に素晴らしい。演奏も堅実。

◎L.A.Woman

L.A.ウーマン(40周年記念エディション)

L.A.ウーマン(40周年記念エディション)

 

ジム・モリソンが生前最後に参加したドアーズのアルバム。この後残されたメンバーで2枚のアルバムが発表されているが、実質ドアーズのラスト・アルバムだと認識していいと思う。そしてこれが1st・2ndに匹敵する名盤なのだ。殆どの曲が一発録りに近い形式での録音というが、そのせいかタイトで疾走感に溢れた曲が多く、特にタイトル曲「L.A. Woman」は消失点へと突っ走っていくような軽快さと凄味に満ちた曲だ。そしてなんと言ってもラスト曲「Riders on the Storm」。雷雨のSEで始まるこの曲の、たゆたうような寂寥感と孤独感はジム・モリソンの死を予感させてなお一層の哀惜を感じる。

その他

なおボックス・セットは6枚のオリジナル・アルバムが収録されているが、他にジム・モリソン存命中のライブ・アルバムとして『Absolutely Live』がリリースされている。このライブもいい。

Absolutely Live (Remastered)

Absolutely Live (Remastered)

 

他にジム・モリソンの死後、生前彼が録音していた詩の朗読にドアーズのメンバーがオケを入れた『American Prayer』というアルバムも素晴らしい。ジム・モリソンの詩の世界をたっぷり堪能できる。ジム・モリソン・ドアーズの(ライブを含めた)8枚目のアルバムという位置づけすらできる作品だ。

アメリカン・プレイヤー

アメリカン・プレイヤー

 

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人間ドックに行ってきた

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unsplash-logo Hush Naidoo

これから書くのはこの間行った人間ドックの話である。それにしてもちょっと前にこのブログで風邪を引いた話を書いて今回は人間ドックである。しみじみと辛気臭い。年を取るとこんなのばっかりである。あとは定年とか年金とか介護の話とかな。そのうち書くと思うので楽しみにしてろ(いや書かない)。

人間ドックに行ったのは先週、11月8日だった。人間ドックには毎年行っている。行き始めてかれこれ10年ぐらいになるだろうか。45歳過ぎると会社から行ったらどうだと勧められるのだ。半日ドックだから大掛かりなものでは無くて、朝8時頃に受け付けして10時頃にはもう終わっている。内容はといえば基本検査と血液検査、胸部/胃部X線検査・腹部超音波検査・心電図といったところか。前日は9時までに食事を済ませて、当日は朝から水も飲んではいけないのだ。検便も2回とったぞ。この検便は腸の腫瘍を調べるためにやる。当然だが前日酒なんて飲んではいけない。健康状態を子細に調べ生い先短い今後の人生の指針とするべき検査の前日に酒を飲むなどもってのほかである。まあ飲んだが。

当日は金曜日であったが会社には有給を提出しての人間ドックだった。土曜もやってるけど理由をつけて平日に休みたいじゃないか。会社には同じ考えの連中が何人かいて、毎回こいつらとつるんで人間ドックに行っている。だいたいオレと同じ50過ぎのおっさんばかりだ。ところが今回はいつもの面子が殆ど来ておらず、来ていた人間に聞いたらみんな仕事が忙しくて人間ドックどころではないのだという。うーむこういう「忙しくて人間ドックどころじゃない」人間こそ本当は人間ドックが必要なんだがな。

この年ともなると検査項目で何にも引っ掛からないことはないのだが、だいたいが「経過観察」というグレイな結果ばかりで、それらも経年による内臓の老化といったような事柄だ(と思うことにしている)。要精密検査なんてェのも何度かやらかしたが、重篤な病気が発見されたりということは今の所無い。オレは中性脂肪が高くて、それが毎回引っ掛かるんだよな。アブラギッシュな中年なんだよオレは。テラテラしているんだあちこちが。どうだ参ったか(何がだ)。それでも肥満というほどは太ってはいないし、血圧も普通だし持病もないし、だいたいはなんとなくグレイな領域において健康ぽくはあるらしい。まあ今年の検査で恐ろしい結果がでるかもしれんがな。

それにしても人間ドックで一番難儀なのはバリウムだ。胃部X線検査でなにやらアミューズメント筐体みたいなクルクル回る台に乗ってああだこうだとグラビアアイドルみたいなセクシーポーズを要求されるのも鬱陶しいが、バリウム飲んだ後の排泄がなにより鬱陶しい。ここから尾籠なハナシへとなだれこみ賢明なる読者各位には大変不快な思いをさせるかとは思うのだが、バリウムってェのは要するに金属だから(アルカリ土類金属)重いんだよな。何が言いたいかというと、トイレで、なかなか流れないんだよ。これ以上子細なことは書かないが、あれが難儀でなあ。それと、検査が終わった後、早く排出させるために下剤飲まされるじゃないですか。オレ実はこの日、人間ドック終わった後に映画観に行ったんだけど、ふと考えたら「下剤を飲んで映画鑑賞」という何か特殊なプレイを思わせるような状況だったな。まあ持ちこたえたけどね!オレはやればできる子なんだよ!(何がだ)

人間ドックをやっているこの病院ではあらかた検査が終わると食事が供されることになっている。まあそれも費用に入ってるんだろうけどな。で、この食事というのが病院で出される食事とは思えないきちんとしたもので、さらになかなか美味いのである。この日出された食事はこんなの。後ろのほうでよく写ってないが今回は白身魚のムニエルと豚の角煮がメインとなっていた。

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食堂は結構高層になっている病院の上階にあるので窓からの眺めもなかなかである。ちょっと天国に近い病院なんだよ…...(やめろ)。

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というわけでこないだ人間ドックに行ってきた話であった。結果は一週間後ぐらいだろうが問題ない事を祈ろう。

『ターミネーター:ニュー・フェイト』 を観た

ターミネーター:ニュー・フェイト (監督:ティム・ミラー 2019年アメリカ映画)

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......ダダンダンダダン!......ダダンダンダダン!......ダダンダンダダン!

というわけで『ターミネーター:ニュー・フェイト』である。あの「痛めつけても痛めつけてもしつこくしつこく追っかけてくる」ターミネーターが登場するシリーズ最新作である。一応シリーズは全部観ている筈だが、なんかもう途中からどれも似たり寄ったりに思えてきてどれがどれやら、記憶をはっきりさせる為に今調べたらこれまで5作作られていて、これが6作目なのだとか。

とはいえこの『ニュー・フェイト』、「シリーズ2作目の”正統続編”で、そんなんなので今まで作った3作目以降は無かったことにしてちょんまげ!」ということになっているらしい。「その代わりサラ・コナー役のリンダ・ハミルトンが復帰して大暴れするから楽しみにしてよ!ちょっと年取っちゃったけど!」ということなのらしい。まあ要するに一回仕切り直しして話をシンプルに戻そうぜ(そのほうが観客集めやすそうだし)、ということなんだと思う。

ここで唐突に、「オレは何作目が好きなのか?」ということを過去記事から引用しておく。

ターミネーター』はどのナンバリングタイトルが面白いか?という議論がよく成されますが、オレ的には『1』は実は「ふーん」と観てしまったクチで、『2』で「なんかとんでもないことになってる!?」と驚愕し、『3』は「『2』の後だけど全然頑張ってると思うよ!」で、『4』は「…ええっと…うーん…でもCGのシュワが登場した時はメチャクチャ盛り上がったよね!?」と思った人間であります。

(『ターミネーター:新起動/ジェニシス』の)お話自体は例によって乱暴な作りで、タイムパラドックスの扱いも相変わらず適当ですが、ひたすらB級路線まっしぐらなその出来栄えにはいっそ清々しさを感じるほどであります。

『ターミネーター:新起動/ジェニシス』観た。 - メモリの藻屑 記憶領域のゴミ

煎じ詰めるなら、「まあ、だいたい、適当に楽しい」と思いつつ観ており、「終わってるシリーズ」「○作目は観る価値はない」などというアンチな感想は殆ど抱いたことが無い筈だ。そもそも『ターミネーター』はシュワ主演であることと2作目が突出して注目を浴びた作品であったことでなんだか物凄いシリーズのように思われがちだが、全体的に「程々に心地よいB級SFアクションのフランチャイズ」ぐらいのもんじゃないかというがオレ自身の感想だ。で、それでええやん。SF設定も粗雑の限りだが、アクションの為の方便でしかない事は十分承知してるからあまり気にならないし、気にするような作品でもない。

長々と前置きを書いたが、実のところこの新作も、これまでと何も変わりなく「程々に心地よいB級SFアクションのフランチャイズ」であり、それ以上でもそれ以下でもない。やっていることは今までと殆ど変わりはない。未来から世界の運命を変える殺人ロボットがやってきて、同時にそれを阻止する任務を負った味方もやってきて、あらゆるものをぶっ壊しながら追いつ追われつのストーリーを展開するというものだ。変わるのは敵の機能であったり味方の要素であったりシュワの立ち振る舞いの違いだけだ。即ちアトラクション・ムービーとしての『ターミネーター』の、そのアトラクション要素を、目先を変えて「店内改装後の新装開店」してみせたのがこの『ニュー・フェイト』ということだ。だから今回は粗筋すら書く気がしない。

そんな訳なのでこの作品の評価はアトラクションとして楽しめたかどうかでしかない。そういった部分であるなら答はイエス、充分楽しんだ。まず初っ端からノンストップなアクションがいい。シリーズ物なので説明なしにガンガン行けるのだ。後半に行くにつれてムチャなシチュエーションが増えてゆくのもいい。登場するのがロボットであったり強化人間であったりするので、普通の人間の肉体機能以上のアクションが可能であるがために、こういったムチャなシチュエーションも可能になるのだ。そこに通常のアクション映画とは違う楽しさがある。この辺りは『デッドプール』も監督したティム・ミラーの面目躍如といったところだろう。

今回”目先を変えるために”再登場したリンダ・ハミルトンは、まあ居てくれるだけで充分というか、お年もお年なんでアクション自体にはそれほど期待するものは無い。なんかこう、「ご苦労様でしたッ!」という感じだ。シュワルツェネッガーに関しても、やはりまあ、ご老人なんだなあ、としか思えなくて、冴えたアクションを見せてくれるわけでもない。一応シリーズの「顔」なんで居てくれなきゃ困る、といった程度だ。一方、新型ターミネーターREV-9の機能にはまるで新味を感じなかった。2作目の液体金属が画期的過ぎたんだろうなあ。それに対し、やはり目を惹いたのは「未来から来た兵士」グレース役のマッケンジー・デイヴィスだろう。そのスレンダーな体躯と中性的で颯爽とした魅力、タッパを生かした豪快なアクションが結局物語を牽引しており、彼女が居たからこその『ニュー・フェイト』だったという気がしてならない。

というわけで『ターミネーター:ニュー・フェイト』レヴュー 、全巻の終了である。

......ダダンダンダダン!......ダダンダンダダン!......ダダンダンダダン!

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風邪っぴきオヤジの顛末、あるいは奇妙な夢の話

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風邪ひいた。おまけに2週間も風邪っ引き状態である。現在は快方に向かっているが長引いてるせいもあって結構しんどい。いつもなら風邪ぐらいでブログにつけないことにしているが、今回は(いつも通り)全くネタがないのであえて書くことにする。

まあなにしろ詳細もなにもなく風邪だ。咳が出て鼻水が出て悪寒がして熱が上がって頭がクーラクラのあの風邪である。あえて説明するほどのものでもない。しかしいつもなら3日4日大事にしていればなんとか治っていたものの、2週間ともなると長過ぎだ。長引くと飽きる。体はしんどいがそのしんどいのすら飽きる。最初こそ会社を早めに抜けてさっさとメシ食って薬飲んでさっさと寝ていたのだがそれでもよくならないから飽きて来る。酒も抜いていたが抜くのも飽きたから結局飲んでいる。体験上風邪で酒飲んで治ったためしはないのはよく知っているが、なにしろ飽きまくっていたので結局飲んで案の定治らない。そのうちなんとかなるだろうと思いつつやっぱりなんともならないのはオレの人生においては多々見受けられることだ。平常運転じゃないか。いいのかこれを平常と呼んで。

風邪引いた最初の辺りに、既に席取ってしまっていた映画があったので戦々恐々としながら観に行った。そしてゼイゼイいいながら習慣的にブログにつけた。10月28日のブログ記事あたりな。しかしさすがに体力気力が続かず1週間はブログ休んでたな。Twitterもあんまり書く気がしなくてこっちもツイートが減った。しかしブログにしてもTwitterにしても書かないなら書かないで別にいいやあ、と思えてくるし、同時に人様のブログやらツイートやらを読む気も無くなってくるんだよな。で、あーネットとオレの関わりってのも、まあ別に無くてはならないもんでもなんでもなく、その気にならなくなったらいつでも消え去れるし消え去っても気にならないもんなんなんだなあと改めて思ったな。特にTwitter、あれ今まで眺めている時間が結構、というかかなり多かったんだが、全部関わりを断ったとしてもなーんも困らないツールだったんだなあ、としみじみ思えた。実の所、Twitter眺めてる時間あったら本でも読んでた方がずっと有意義だよ。まあ風治ってきたら結局シコシコ書き込んでるけどな!

ところで、なるべく睡眠時間は多めに取ることにしているんだが、そのせいか最近物凄くよく夢を見るんだ。実はオレ、夢をまるで見ない性分でな、まあ見ていても忘れているということもあるのかもしれないが、なにしろその夢をよく見るようになって、そしてなんとなく内容を覚えているということなんだよな。で、この夢というのが、風邪ひいてるから悪夢を見るとかそういうのではなくて、なんだか実に平凡というか、とりたてて奇矯であったり奇抜であったりするような夢じゃないのだよ。まあ夢の内容をくどくどしく書くのはあまり好きじゃないんだが、知ってるような知らないようなどこかの街をたらたら歩いて、知っているような知らないような人たちと会って、なんかしたりしなかったりしているという、ただ単に何かどこかで生活しているらしいだけの夢なんだよな。そんな夢を毎日観るのだよ。それらの夢はあまりに平凡過ぎて、全部繋がっているような繋がっていないような、ただなんとなく「何度も夢に出て来る世界」ではあるようなんだよな.。ありゃなんなんだろうな。まあ思いっきり妄想を膨らませるなら「どこかにあるかもしれないもう一つの世界とそこで生きるもう一人の自分」ということになるのだろうが、オレはそもそもひたすらしみったれてるだけの糞リアリストなので、当然単なる妄想でしかないと思っている。夢如きに意味や理由など求めるような書生じみた年でもないしな。ただ、なんだか最近寝る前に、「またあの世界に行くのかな」という妙な予感と期待があるのは否めないんだ。もちろん明日っから一切そんな夢を見なくなっても全く気にもしないだろうしすぐさま忘れ去ることは分かりきってはいるけどな。まあちょっとだけ妙な話、というわけだ。

というわけで特にオチもなにもない。あってたまるか、という気もするが。なお風邪治りかけであちこち出歩いてしまいご迷惑を掛けた方もいるかと思うのでここで陳謝しておきます。大変申し訳ない。ちなみに相方にはうつしてしまい、微妙に睨まれている。