最近読んだコミックなどなど

ヒストリエ(11)/岩明均

ヒストリエ(11) (アフタヌーンKC)

ヒストリエ(11) (アフタヌーンKC)

 

相変わらず主要人物全員死んだ目をしており、例によって寒々しい物語が展開していて今回も楽しかったが、きちんと物語が描き込まれるほど全然完結する気がしなくなってきてたまらないお話でもある。

 

アオイホノオ(21)/島本和彦

アオイホノオ (21) (ゲッサン少年サンデーコミックス)
 

周囲がどんどんビッグになっていく中いまだに至らない自分に悪戦苦闘するホノオ君の焦燥と嫉妬!青春だなあ!青春だなあ!

 

聖☆おにいさん(17)/中村光

聖☆おにいさん(17) (モーニング KC)

聖☆おにいさん(17) (モーニング KC)

 

毎回書いているのだが、相変わらずネタが尽きない。面白い。ずっとこの調子でいいのだと思う。

 

■カムヤライド(2)/久正人

カムヤライド 2 (乱コミックス)

カムヤライド 2 (乱コミックス)

 

1巻目で久正人にしては中身薄いなあ、 と思ってたが、この2巻目は絵が荒れて来たなあ。どうかしたかなあ。

 

ヴィンランド・サガ(22)/幸村誠

ヴィンランド・サガ(22) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(22) (アフタヌーンKC)

 

毎回前回までの物語を全く忘れた状態で新刊を読んで毎度わけがわからなくなっているのだが、かといって20巻以上あると読み返すのも難儀だなあ、と思いつつ既にもう22巻……。

 

岡崎に捧ぐ(5)/山本さほ

岡崎に捧ぐ (5) (BIG SUPERIOR COMICS SPECIAL)

岡崎に捧ぐ (5) (BIG SUPERIOR COMICS SPECIAL)

 

あー完結してたんだあ、と手にして、予定通りの大団円にはほっこりさせられたけれども、一人のしょーもないヒネクレ者としては、友達友達ってかまびすしいよなあ、とちょっと思ったりした。

話題の長編中華SF小説『三体』は本当に面白かったのか?

■三体/劉慈欣(りゅう・じきん/リウ・ツーシン)

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SF小説界で話題沸騰中の作品といえば中国作家・劉慈欣(りゅう・じきん/リウ・ツーシン)の長編SF『三体』 だろう。なんというか化け物級の話題作なのだ。

2008年に中国で出版され人気が爆発、《三体》3部作は2100万部以上の売り上げを記録する。2014年にアメリカで翻訳され、翻訳書初・アジア人作家初のヒューゴー賞長編部門賞を受賞し大センセーションを巻き起こす。あのオバマ元大統領がこの作品を絶賛し、中国まで作者に会いに行ったという話まである。さらにアマゾンが10億ドル(約1050億円)を投じてドラマ化を計画しているという。その話題性からいつもはSF小説なんか取りあげないような日本のネットメディアでも取り上げているのを結構目にした。

『三体』とはどんな物語なのか?それはシンプルに言うならファースト・コンタクトの物語であり、異星人による地球侵略の危機を描いた物語である。

物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート女性科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。

数十年後。ナノテク素材の研究者・汪淼(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体〈科学フロンティア〉への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象〈ゴースト・カウントダウン〉が襲う。そして汪淼が入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?

「ファースト・コンタクト」「地球侵略」と書くとよくあるSFテーマに思われるかもしれないが、この『三体』を独特なものにしているのはまずなんといっても中国ならではの歴史性・社会体制の在り方だろう。物語はなんと文化大革命の血塗られた騒乱から始まり、 その後山奥深く作られた秘密レーダー基地で事態が進行してゆく。ここでは共産主義国家らしい疑心暗鬼に満ちた陰鬱な体制の中、息を殺して生きる登場人物の姿が描かれてゆく。

もう一つは数10ページに一回は登場する奇抜極まりないSFアイディアの数々だ。該博な科学知識に裏打ちされたハードなSFアイディアから、どう考えても嘘八百としか思えない奇矯な謎理論まで、とりあえず決して出し惜しみせずポンポン物語の中に捻じ込もうとするサービス精神旺盛な作品なのだ。

さらにもう一つ、この作品をユニークなものにしているのは、現実世界と並行して描かれるVRゲーム世界《三体》の描写だ。このゲーム世界では三つの恒星の周りを経巡る惑星が舞台となっており、小説タイトルの元となる「三体」とはどういったものであるかを説明する。計算不能の恒星軌道の中、三体文明は何度も滅亡を繰り返す。このような世界でどう生き延びるかがゲーム《三体》の使命だ。

こういった物語構成の中でどのように「ファースト・コンタクト」が描かれ、それが「地球侵略」の危機に繋がってゆくのかがSF小説『三体』の醍醐味となる。

で、そんな『三体』なんだが、読んで面白かったか?というと確かに面白いことは面白かったが、どうなんだこれ?と思ってしまう箇所も幾つかあり、手放しで絶賛できない作品だった、というのがオレ個人の感想だ。ここから多少ネタバレ気味になるので注意。

まずなにしろ、やたらハッタリがましい小説だなあ、という印象だった。SFなんてェのはハッタリかましてナンボなのかもしれないが、ここまであからさまにやらかされるとシラケるのだ。それはつまりSFアイディアの使い方にあるのだが、科学知識の貧弱なオレですらこれは有り得ないだろ、と眉をひそめるアイディアや、これって必要なのか?と思ってしまうコケ脅かしな描写が多過ぎて鼻につく。

こうしたハッタリがましいアイディア、要するに大風呂敷を広げるだけ広げ、要所要所でコケ脅かしを持ち出して飽きさせなくする、といった構成はベストセラー小説の常套手段で、この作品がベストセラーになったことも頷けるのだが、こういった煽情に特化してしまったせいで物語の全体像を眺めると妙にバランスが悪く思えてしまう。

そして物語の鍵を握る《三体協会》 なる謎の組織の陳腐さだ。これが環境保護団体とショッカーが合体したようなカルト団体なんだが、カルト団体ならではの薄っぺらく現実味の乏しい使命感に燃えた勘違い連中で、これも読めば読むほどシラケさせられた。《三体協会》の中心人物のその動機も飛躍し過ぎた感情が基になっており、 これって殆どセカイ系じゃないのか、と思わされてしまった。それと《三体協会》急進派の目的は400年後に訪れるエイリアンによる地球滅亡なのだが、そんな悠長なこと言ってないで自分らでさっさと地球滅亡させりゃあいいじゃないかよ、とどうしても思ってしまう。

とまあショッパイ感想ばかり並べてしまったが、兎に角大風呂敷の広げ方はとんでもなく凄かった物語であるのも確かで、そこに注視するならまあ話題作にもなるわなあ、とは思ったけどな。とりあえず3部作の第1部ということなので、今後発売される第2部第3部も少なくとも読んでみるつもりではある。

三体

三体

 

ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

アルファヴィル (監督:ジャン=リュック・ゴダール 1965年フランス、イタリア映画)

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ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

オレはSFが好きである。オレにとって小説といえばSF小説の事だし、映画でもまず好きなのはSFジャンルだ。オレの性格もSFだと言っていい。セコくて(S)フヌけた(F)野郎なのである。まあそんなことはどうでもいい。時間も空間も超越し人や社会が意味と価値観を変容させこれまで誰も見たことの無い生命が息づきこれまで誰も見たことが無い世界が広がる、そんな、想像力の翼を限界まではためかせた物語が好きなのである。

そんなSF好きのオレだが、フランス映画界の鬼才ジャン=リュック・ゴダールのSF作品『アルファヴィル』はまだ観ていなかった。だってなんたってゴダールだぜ。「めんどくせえなあ……」と思う訳である。「訳分かねんだろうなあ……」と思う訳なんである。なにしろオレにはゴダールがよく分からない。シネフィルなる方々になぜもてはやされるのかが分からない。「ここがこう凄い」と説明されてもそれがどう凄いのかすら分からない。あまりにも分からなさ過ぎて自分の知性とか理解力とか知能指数まで疑ってしまい「へえへえ分かんなくてすいませんねえ」などと卑屈に顔を歪めてしまう始末だ。

とはいえSF好きのオレとしては映画『アルファヴィル』を無視し続けるわけにもいかない。いかに面倒臭かろうがつまんなさそうだろうが相手が鬼門のゴダールだろうがSFである以上これは観なければいけないのである。それがオレの務めであり宿命でありそして一つの試練なのである。しかもつい最近2000円代でブルーレイが発売され手に入り易くなってしまったのである。もうこれはSFの神がオレに「グダグダ言ってないでいい加減観ろや」と言っているのに等しい。という訳でオレは覚悟を決めわざわざブルーレイを購入してゴダール映画『アルファヴィル』に挑戦することにしたのだ。

◆銀河系星雲都市アルファヴィル

アルファヴィル』はいわば「スパイSF」とでもいったような物語である。舞台は銀河系星雲都市アルファヴィル。ある日ここに秘密諜報員レミー・コーションが潜入する。彼の任務は行方不明の仲間を捜索すること、亡命科学者ブラウンを救出ないし抹殺すること。そんなレミーアルファヴィルで目にしたのは人工知能アルファ60に支配され人間的感情を剥奪された住民たちの姿だった。

あろうことか、ある意味分かり易いSF映画であり、分かり易いゴダール作品だった。「機械に支配され感情を失った人間」といったSFテーマは特に珍しいものではなく、「はいはい文明批判文明批判」と言ってしまえばそれまでの作品ではある。しかしだ。そういった物語性はあくまで皮相的なものであり、監督自身が描きたかったものが別にあるのであろうことは、映画の「見せ方」を注視するならおのずと伝わってくる。

まず面白いのは、この作品ではSF的セットやSF的ガジェットを一切使っていない、ということだ。「銀河系星雲都市アルファヴィル」とは言いつつ、単にパリの街でロケーションしているだけである。そもそもレミーが「外惑星」からやってきた方法というのは、その辺のよくある自動車で道路を走って、である。宇宙船でも転送装置でもなんでもない。にもかかわらず、「外惑星からやってきた」と言われるならそのように認識してしまうし、同様に、単なるパリの街も「銀河系星雲都市アルファヴィル」と言われるならそのような未来架空都市のように認識させられてしまうのである。

これは、想像力をちょっと刺激することにより「”見えているもの”を”見えているものとは別のもの”に思わせてしまう」という事なのだろう。例えばタルコフスキーの『ストーカー』では単なる野原や廃坑を、「そこに得体の知れない力場の働く危険地帯」と思わせる事により、異常な世界の緊張感を生み出せさていた。ジョン・セイルズ監督によるインディー作品『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』では、一人の普通の黒人を「宇宙人」、彼を追う白人を「宇宙ハンター」と呼称させることで、殆どSFセットを使っていないにもかかわらず堂々たるSF作品として完成させていた。

言うなればこれは、子供がよくやる「見とり遊び」ということだ。ちょっとした想像力で、公園の遊具が敵性宇宙人の放ったトラップに成り得るし、空き地の物置は科学の粋を集めたウルトラ秘密基地に成り得る。映画『アルファヴィル』にはこういった「想像力の遊び」がある。

アメリカ的ハードボイルド世界とサイエンス・フィクション

もうひとつ面白かったのはこの作品が非常にアメリカ的なハードボイルド・テイストを踏襲しているということだ。それはまず主役である秘密諜報員レミー・コーションのキャラクターだ。中折れ棒にロングコート、苦み走った表情に虚無的な台詞、暴力的な性格と容易く撃ちまくる銃、そして彼を取り巻く謎の美女。これらは面白いくらいハードボイルド探偵の紋切り型をなぞっているではないか。「ハードボイルド」はアーネスト・ヘミングウェイの系譜を継ぐダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーら探偵小説作家が描く文学スタイルだが、非情で暴力的、かつ内面描写を省いた簡素な文体を用いた、ある意味アメリカ文学における「発明」と言っていいだろう。

そこここに登場するアクションや仰々しく盛り上がるサウンドからもやはりノワールの紋切り型が見え隠れする。実の所たいがいのハリウッド・アクションは紋切り型とも言えるが、ゴダールほどの監督がなぜわざわざそういった演出を持ち込んだのか、という部分に興味が湧く。

この『アルファヴィル』は副題として「レミー・コーションの不思議な冒険」というタイトルが付けられている。勿論主人公の名前であるが、実はこのレミー・コーション、もともとフランスで人気を博した探偵映画の主人公の名であり、演じるエディ・コンスタンティーヌ自身がこの『アルファヴィル』で同じ役を再演しているのだ。さらに俳優エディ・コンスタンティーヌアメリカ人であり、彼の演じるレミー・コーションはアメリカ的な単純明快さを持つ、つまりはフランス人が想像するアメリカ人探偵の紋切り型を演じて人気を得たシリーズなのだという(ただし原作は英国人作家によるもの)。

さてゴダールはなぜそのような「アメリカ的ハードボイルド探偵」を主人公とし、さらにそれをSF作品としたのか。SF小説の始祖と呼ばれるジュール・ベルヌはフランス人であり、H・G・ウェルズはイギリス人であったが、ジャンルとして花開いたのはアメリカだったと言っていいだろう。「サイエンス・フィクション」という呼称自体がアメリカ初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』で最初に用いられており、ここから一般への認知が成されたと考えられるだろう。アメリカでSFが花開いた理由は世界一の資本主義大国アメリカの高度経済成長に伴う科学合理主義、科学楽観主義、それらが生む未来への期待と不安がSFという形に結実したからだと言えはしないか。

つまり映画『アルファヴィル』はフランス人監督がフランスで製作しながら二重にアメリカ的な要素を帯びた作品だと言えるのだ。ゴダールアメリカという国にどういったスタンスをとっていたのかということはゴダール理解に乏しいオレには分からない。しかし完成した作品に少なくとも皮肉や冷笑が含まれていないことを考えるなら、アメリカという国の文化を素材としそれを対象化しようと試みたか、フランスという古い歴史を持つ国のアメリカという新しい国への憧憬があったからか、あるいはアメリカ的な視点を持ち込むことによってフランス的なるものを批評しようとしていたのか、等々、様々な理由が推測できる。

ただし物語のそこここに盛り込まれる観念的で難解な台詞、「愛」や「感情」に対する強烈な希求心の在り方は、精神性を重んじるフランス文化ならではのものだろう。ゴダールアメリカ的なものにどういった感情を抱いているのか容易には想像できないにせよ、それらアメリカ的なるものを最終的にフランス的感情に捻じ伏せたのがこの『アルファヴィル』だと言う事ができるのかもしれない。


Alphaville (1965), Jean-Luc Godard - Original Trailer

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京極夏彦の『今昔百鬼拾遺 天狗』を読んだ

■今昔百鬼拾遺 天狗/京極夏彦

今昔百鬼拾遺 天狗 (新潮文庫)

昭和29年8月、是枝美智栄は天狗伝説の残る高尾山中で消息を絶った。約2か月後、遠く離れた群馬県迦葉山で女性の遺体が発見される。遺体は何故か美智栄の衣服を身にまとっていた。この謎に、旧弊な家に苦しめられてきた天津敏子の悲恋が重なり合い――。科学雑誌『稀譚月報』記者・中禅寺敦子、代議士の娘にして筋金入りのお嬢様=篠村美弥子、そして、これまで幾つかの事件に関わってきた女学生・呉美由紀が、女性たちの失踪と死の謎に挑む。

 『鬼』『河童』と続いてきた京極夏彦の「今昔百鬼拾遺」シリーズ最新刊は『天狗』である。これまでの「百鬼夜行」シリーズでは中禅寺・関口・榎木津らが主人公を務めたが、この「今昔百鬼拾遺」3部作では彼らは一切登場せず、代わりに中禅寺の妹・敦子、そして『絡新婦の理』に登場した女学生呉美由紀が主人公となり妖怪的な怪事件の謎に挑むという訳だ。ちなみに3部作とは書いたが、作者・京極の弁によると書かせてもらえるならまだ続けたいのだそうだ。

物語は高尾山に於いて発生した数人の女性の神隠し事件、さらに後に発見された不審な腐乱死体、これらがどう結びつきどのような事件の真相が隠されているのかを追うというものだ。タイトルの『天狗』は神隠しが”天狗攫い”と呼ばれることによるものではあるが、同時に”高慢さ”の象徴としての「天狗」の意味も隠されているのらしい。その”高慢さ”とは何の事なのかは読んでからのお楽しみという事にしておこう。

さて難事件解決とは別にこの物語のもう一つのテーマとなるのは同性愛の問題である。同性愛が問題なのではなく、それに対する無理解、忌避、蔑視という問題のことだ。今でこそLGBTに関わる理解は進んでいるが、物語の舞台となる戦後まもない時代であるならその無理解は今よりも過酷なものであったろう。しかし京極はこの問題をあえて現代的に語ることによりその差別の根幹となるものをあからさまにしようとする。その根幹とは、旧弊な価値観のまま胡坐をかき続ける愚昧な男権社会の在り方なのだ。

京極作品を全て読んでいるわけではないので間違っているかもしれないが、作者・京極が女性を主人公として社会における女性の立場を描き始めたのは『書楼弔堂 炎昼』あたりからだったのだろうか。この作品において主人公となる女性は明治という変わりゆく時代を背景に、変わりつつある女性の人権の在り方を体感してゆく。しかし京極は、明治という時代に仮託しながら、その問題提起は十分に現代的であった。

そしてこの「今昔百鬼拾遺」シリーズでは、これまでの男性主人公ら全てを蚊帳の外に追い出し、若き女性二人を主人公に据え物語を展開してきた。実の所最初は主人公の性別を変える事で目先を変えることを狙ったものなのだろうと思っていたのだが、この『天狗』を読むにつけ、これは味付けと言ったものなのでは決して無く、京極なりの問題意識を提示したものだったことが理解できる。

以前から感じていたが、ここ最近の京極作品は過去の時代を舞台にしながら現代社会の問題点へそれとなく切り込んでいた。そして今作『天狗』ではその問題点の中心にあるのが武家社会の時代から何ら変わることの無い日本の男権社会であることを、登場人物の口を通しはっきりと明言する。今作においては同性愛が取り上げられたが、それはどこぞの出版社が流行らせようとしている安直な「百合小説」を標榜する為では決して無い。

 「今昔百鬼拾遺」シリーズは確かに中禅寺らが主役を務める本流「百鬼夜行」シリーズの如き論理のアクロバットやめくるめくペダントを楽しますものではないが、仏頂面した男たちのニエニエになった屁理屈から解き放たれた軽さ、軽やかさがある。これはキャラの固まった主役男性陣ではなく、これまで脇役だった女性陣を中心に据えたことの効果だ。彼女らは若くそれゆえに不器用だが、新しい価値観を持ち、聡明であり、人間への共感は決して忘れない。こうした主人公が活躍する「百鬼夜行」シリーズになかなかの新しさを感じた。

今昔百鬼拾遺 天狗 (新潮文庫)

今昔百鬼拾遺 天狗 (新潮文庫)

 
今昔百鬼拾遺 天狗

今昔百鬼拾遺 天狗

 
■参考:京極夏彦インタビュー
■今昔百鬼拾遺シリーズ レヴュー

◎今昔百鬼拾遺 鬼

今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

 
今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

 

◎今昔百鬼拾遺 河童

今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

 
今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

 

やられ顔

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この間の休みの日のことだ。喫茶店のトイレにスマホを置き忘れたことを後から気付き、大慌てしてしまったことがあった。

気付いたのは出てから30分ぐらい後だった。こりゃヤバイ、と店に取って返し、トイレに駆け込んだら、置き忘れた”トイレの個室”は使用中で、すぐに確かめる事が出来ない。スマホは既に発見され店に届けられたか?今まさに中の人が発見したか?それともとっくに心無い人にナニされたか?などとあれこれ妄想が駆け巡り、やきもきしながら中の人が出てくるのを待っていた。

しばし後、出て来た方に「中でスマホ見ませんでしたか?」と途中まで言いかけてトイレの中を見たら、オレが置いた状態のままそこにあった。中から出て来た方はオレには無反応でトイレから出ていった。まあ要するに、スマホは無事だった、ということである。

ここで思ったのは、「30分の間に”個室”を使用した人がまるでいなかった」「いたけれども放っておかれた」ということだった。繁華街ではあったが治安が良かったのかもしれないし、そもそも忘れ物に無関心な人ばかりだったのかもしれない。とりあえずスマホは無事だったからよかったのだが、逆に変な気分だった。

やっと一安心ということで店から出ようとしたのだが、この時、頭の中がすっかりパニック状態であったために、店のドアが「手動自動ドア」であったものを「自動ドア」だと勘違いしてしまい、思いっきりドアに顔から突っ込んでしまった。顔に打撃ってキツイよね。特に目のあたりと口のあたりを強くぶつけ、口の中は切っちゃうし下手したら前歯折れてたかな、とも思えた。前歯は差し歯だから弱いのだ。

そんなこんなで一日二日経ち、スマホ事件も記憶の彼方になっていたある日、職場で鏡を覗いていたら、オレの片目の周りに黒マジックでこすったような跡があるのを見つけたのだ。仕事で油性マジックをよく使うので(どんな仕事だ?)、手に着いたまま目をこすっちゃったかなあと最初思ったのだが、黒マジックは使ってないんだよな。で、よくよく見るとそれが、痣だったのだ。そう、何日か前にドアにぶつけた部分だったのである。

この痣というのが上瞼から目尻にかけて出来ていて、遠目だと気付かないし、よく見てもアイシャドウ塗ってるように見える出来方なんですね。まあ片目だけアイシャドウ塗る人はいないし、そもそもオレは化粧する様な男ではないんだけど、どっちにしろ、片目の周りだけ若干黒ずんでいる。痛みも腫れも無く、目立つものでもなかったし、この程度なら一週間もあれば消えるだろうと特に心配もしなかったが、しかし顔に痣こしらえてしまったことにはびっくりした。

この身も世も無い状況をオレは早速相方さんにメールした。「こないだドアにぶつけた片目の周りに痣ができちゃったよ!」。すると相方さんから帰って来た返事が一言、「やられ顔」……。あー、そうだ、この片目の痣、よく漫画で格闘技や喧嘩でやられたことを表現する時に使われるよな!「やられ顔」とは言い得て妙だな!相方さんうまいね!と、鏡で自分の「やられ顔」を確認しながら、変な事で感心していたオレであった。やられ顔……。