『里山奇談 めぐりゆく物語』が発売されたので頼まれてもいないのにオレの里山奇談を語ってみる

里山奇談 めぐりゆく物語/coco、日高トモキチ、玉川数

里山奇談 めぐりゆく物語

"里山奇談集"第2弾

coco、日高トモキチ、玉川数氏らによる"里山奇談集"第2弾『里山奇談 巡りゆく物語』が発売された。前作ファンとしては当然嬉しいが、第2弾が出るとは前作が相当好評を持って迎え入れられた証拠なのだろうと思い、さらに嬉しい。

"里山"とは深山の対義にある言葉で、「人の暮らす地と、今なお不思議が色濃く残る山との境界」なのだという。それは、常世と隠世の境界の事であり、現実のこの世界に幽界に住まう常ならぬものの姿がたまさか映し出されてしまう場所である。

そして「里山奇談」はそんな里山に起こる様々な異聞を紹介する逸話集となっている。これら奇談が現実なのか非現実なのかは大きな問題ではない。常ならぬ場所に置かれた人間に働く超感覚的な体験が、これら奇談へと形を成しているのだ。

それぞれの物語はどれも数ページの短いもので、あたかも幻のように現れてはまた消えてゆく。そして第2弾になる今作では、前作において淡い薄暗がりだったような物語が、より怪異寄りに傾いているものが幾つかあり、さらによりエモーショナルな物語も増えているように感じた。特に終章のトリロジー「めぐりゆく水の物語」は自然の人間の共生について強く打ち出されおり、作者御三方の想いのようなものが伝わってくる。

というわけで前作同様充実した内容であり、今後も第3弾第4弾、その他レムリア大陸篇とか銀河興亡篇の「里山奇談」なんかも出していただければ嬉しいかもしれない(すいません後半冗談です)。

オレの"里山奇談"

さて今回の『里山奇談 巡りゆく物語』発売に便乗してオレ自身の”里山奇談”をここに書いてみたい。超常的な要素は全く無いが、実際に体験したことで、脚色はしていない。

(その1:川の向こうにいたもの)

オレも子供の頃は友達と一緒に山から流れる小川に出向いてザリガニやら川辺の昆虫やらを獲って遊んでいた。いつもは山の裾野あたりで遊んでいたのだが、その日はもっと奥まで行ってみよう、ということになった。いつも行かないのは背の高い草やごつごつした岩が多く、遊ぶのに適していなかったからだ。

という訳でオレら一行は川の水をバシャバシャ言わせながら川筋を遡って行った。川の周りの草はどんどん背が高くなり、山の影もあって辺りは少々薄暗くなってくる。と、ある地点で全員が同時に足を止めたのだ。

目の前には川にせり出す形で腰丈ぐらいの大きな岩が転がっていた。そしてその岩の真上に、真っ黒な色をし、まるまると太った、巨大な毛虫が鎮座してたのである。

巨大な、とはいっても実の所10センチ足らずだったのだが、色の黒さや太さ、白っぽい色の岩肌とのコントラストから、なにか重量級の存在感を醸し出していたのだ。それよりも不思議だったのは、なぜ岩の上に、ぽつんとその毛虫が居座っていたかだ(まあ実際は風か何かで飛ばされたのだろうが、なにしろその時は異様に思えた)。そしてその黒い毛虫は、小岩の上に身じろぎひとつせず居座っていた。

オレと友人たちは凍りついたようにその毛虫を凝視し、しばらくして誰がなにを言う訳でもなく川を引き返し始めた。本当に誰も何も言わなかったような記憶がある。なにか全員に、見てはいけないものを見てしまったような、ここから先に足を踏み入れるなと告げられてしまったような感覚があった。実の所、端的に言ってしまえば「毛虫が怖かったから」だけなのだろうが、あの時の妙にひやっとした感覚は、ずっと覚えている。

(その2:流氷の裂け目にいたもの)

オレは北海道の最北端にある海辺の町で子供時代を過ごしたが、その海には真冬になると流氷が訪れる。流氷がやってくるのは2月ぐらいだったろうか。今では温暖化の影響なのかそれほどの量でもないと思うのだが、当時は水平線の向こうまで氷しか見えないほどの流氷がやってきていた。見渡す限り、氷、氷、氷なのだ。

ある日家の近くの海沿いを歩いていた時だ。ふと目をやった海を覆い尽くす流氷の、海岸から100メートルかもっと先に氷の裂け目があり、そこになにか黒い、ヌラヌラとした大きなものが動いていたのだ。

それは、巨大な海蛇か、やはり巨大な海棲生物が流氷の下を泳いでいて、その背中が、流氷の裂け目からするすると見え隠れしているように見えた。

あまりの光景に心を凍り付かせながら、オレはそこで立ち止まったままその様子を眺めていた。だが、しばらく眺めているうちに、それは単に、流氷の隙間で海面が上下しているだけであろうという結論に達した。流氷により光の差さない海水は、海の色とは思えないほど真っ黒になっていたのだろう。

まあそれが現実的な感覚というものだ。子供の頃ではあったが、その程度の分別は付くのだ。しかしだ。そのように理解できたとしても、あの動きは、本当に生き物のようだな、とオレは不思議な気分でその光景を眺めていた。

するとそこに、見知らぬ大人の男の人がやってきたのだ。その人はオレの隣に立つとオレと同じように流氷の裂け目で上下する黒いものを目をやり、オレに「ねえ、あれは生き物なのだろうか?」と尋ねたのだ。

ああ、この人にも見えるんだ、あれが、生き物に見えるんだ。オレは奇妙な感覚に捕らわれつつ、その人に、「いや、海の水だと思いますよ」と答えた。「ああ、まあそうだよねえ」と男の人は言った。でも、なぜか魅せられたように、オレとその大人の人とは、ちょっとの間、流氷の裂け目に動く"何か"を見つめ続けていた。 

(おまけ) 『里山奇談 巡りゆく物語』発売を喜ぶ幽界(?)の方々

ハエ男「ヴズズ……ヴズズ……ヴズズズズ」(出版おめでとうございます。これからも応援しています)

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物体エックスさん「ヴォウラ~~ヴォウラゥアゥウウウ~~」(ファンです。特にcocoさんのイラストは以前よりチェックしてましたよ!今後の活躍も楽しみにしています)

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モルダー「UFO着陸跡を調査しに来たのだが……。いったいこの物体は!?」

スカリー「これは!今絶賛発売中の『里山奇談 巡りゆく物語』よモルダー!?」

モルダー「もしかするとエイリアンは里山の存在なのか!?」

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お粗末さまでした~。

里山奇談 めぐりゆく物語

里山奇談 めぐりゆく物語

 
里山奇談

里山奇談

 

最近読んだ本あれこれ・橋本治と椎名誠

■たとえ世界が終わっても ──その先の日本を生きる君たちへ/橋本治

 “イギリスのEU離脱決定”と“ドナルド・トランプアメリカ大統領選当選”を見て、成長と拡大を求め続ける資本主義経済の終焉を確信したという橋本治。資本主義の終わりとは何か?その後を我々はどう生きるべきなのか?「昭和の終わりと同時に日本経済は飽和した」「貿易なんて西洋人の陰謀に過ぎない」「国民はクビにできないので、企業経営感覚の政治家は容易に差別主義者になる」など、政治や経済といった枠を超えて次世代に語りかけるメッセージ。

オレにとって90年代は、ひたすら橋本治の著作を読んでいた時期でもあった。『親子の世紀末人生相談』のあまりに透徹した視点に度肝を抜かれたオレは、その後に読んだ青年論「貧乏は正しい!」シリーズの切れ味の鋭い様々な言論とそれを生み出す強烈な思考力にすっかり魅せられていた。ダメ極まる日々を送る青年だったオレは、橋本の著作に勇気付けられていたのだ。

『江戸にフランス革命を!』『89』『二十世紀』の従来的な視点を全く廃した歴史観の在り方と分析力にもひたすら舌を巻いた。オレの歴史観の在り方は実は若干橋本の影響があるのだ。00年代からの「ああでもなくこうでもなく」シリーズも読み耽った。橋本治の考え方、言葉の発し方はメインストリームにあるそれらの背骨をバリバリと外し、橋本ならではの道を新たに舗装するかのような胸のすく革新性があった。

そんな橋本の本を読まなくなったのは、このままだと信者になっちゃうな、と思ったからである。橋本の言説には天網恢恢疎にして漏らさぬ簡明直截な正しさがあった。ただその正しさは橋本の思考力があればこそひとつの筋道を持って成り立つのであって、オレごときが言説の結論だけ真似っこしてもイビツな付け焼刃にしかならない。ただそれでも、橋本の著作に勇気付けられた心根を持ってこれから生きられればいいと思ったのだ。

あれから10数年、橋本はいまどんな本を書いているのだろうか、とふと思ったのだ。調べると橋本ももう70過ぎ、結構イイ年だ。そんなことを思いながら橋本の近作であるこの『たとえ世界が終わっても』を手に取った。驚いたのは橋本がもう「書く」こと自体がしんどくて、この著作自体は「語り下ろし本」になっていることだ。

しかしかつて読んだ"橋本節"には全く衰えが無い。「イギリスのEU離脱決定とドナルド・トランプアメリカ大統領選当選」を端緒としながら、話題はいきなり紀元前アレキサンダー大王の征服へヨーロッパにおける帝国主義の歴史へと話は飛び、それは日本の80年代バブルの話題に受け継がれ、その中から拡大主義と飽和化した経済の行方を考察するのである。だが橋本は決して世界経済の未来を占おうというのではなく、そこから個人の心の論理について言及してゆく。

この辺の結論は「ああでもなくこうでもなく」シリーズを読んだときの既視感があって、良くも悪くもあの頃の「正しい」橋本からまるで変わっていないなあ、と思えた。しかし、橋本は彼の言う「心ある論理」が一朝一夕に社会に適応されるわけがないこともきちんと知っていて、でもなおかつ、「心ある論理」を心の内に持ち考え続ける事なのだよ、と締めくくるのだ。

個人的には、世界は、その従来性にある限り、どんどんずるずるとダメになってゆくだけなのだろうと思っている。そして世界というのは、その従来性を決して手放さないものであろうとも思っている。どれだけシステムアップデートしても基本の論理機関は変わらないからだ。『君主論』でマキャベリの言う如く、為政者だけ変え続けても実は悪くなり続ける事だけは変わらないのだ。世界を変えるのは、変わる事ではない。そして変わるのは、変えるのは、その世界を観る自らの論理の在り方だけである。橋本が言おうとしているのは、そんなことなのかもしれない。

■ひとりガサゴソ飲む夜は……/椎名誠 
 ■ナマコのからえばり/椎名誠
ナマコのからえばり (集英社文庫)

ナマコのからえばり (集英社文庫)

 
■本日7時居酒屋集合! ナマコのからえばり/椎名誠 

Kindleは持ってるのだが、やはり読書となると紙の本を買ってしまう。だがKindleは暗い所でも片手でも読めるので、特に車中にいる時はKindleを利用することにしている。で、Kindleのほうはなるべく軽めで疲れない本にしようということで、昔好きだったが最近は読んでいない椎名誠の本を何冊か入れてみた。いやあ10代の頃はホントに椎名誠が好きで(流行ってたというのもあったが)相当読んでいた。オレは日本の文筆家で尊敬しているのは、橋本治とこの椎名誠ぐらいなんだ。椎名さんはおもいっきりズボラな所と妙に繊細な部分があってオレ好きなんだよなあ。で、久しぶりに読んでみると案の定流石に軽い。軽いんだが椎名さんの膨大な旅の記憶から呼び戻される膨大な情報量にはクダを巻く。じゃなかった舌を巻く。殆どは酒と食い物の話だけどね!でも一人の呑兵衛であり大食漢であるオレとしてはそこがいいんだよ!この、膨大な情報量をさらっと気楽に、さらに面白おかしく読ませる話法というか文章法がやっぱり、零細ブロガーとしてグダグダした文章しか書けない一般ピーポーのオレなんかが読むともう太刀打ちできないぐらい凄いという事を改めて気付かされるんだよ。「おいこらやめろやめろやめろ」という文章なんて最高に好きだなあ。

巨悪vs.スラム街のヒーロー/スーパースター・ラジニカーント主演映画『Kaala(カーラー)』

■Kaala(カーラー)(監督 : パ・ランジット 2018年インド(タミル)映画)

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スーパースター、ラジニカーントの新作映画!と聞いたらこりゃあ観に行かない訳にはいきません。タイトルは『Kaala(カーラー)』、これは主人公の名前であると同時にインドの死の神ヤマのことも指しています。監督はパ・ランジット、彼はラジニの前作『帝王カバーリ』(2016)の監督を務めた人でもあるんですね。

物語の舞台となるのはムンバイにあるスラム街ダラヴィ。ある日ここに都市開発の波が押し寄せ住人の強制退去が勧告されます。裏で手を引くのは元ギャングのハリ・ダッタ連合大臣(往年のインド映画名バイプレーヤー、ナーナー・パーテカルが演じます!)、開発の巨大な利権を我がものとし、甘い汁を吸うとしていたのです。しかーし!ダラヴィのリーダーであり住民たちのカリスマでもある男カーリー(ラジニカーント)が立ち上がり、ハリ・ダッタの陰謀を叩き潰そうと戦うのです!

舞台となる街ダラヴィはインドに実在する人口30万人とも言われる世界最大のスラム街で、映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の舞台ともなりました。1920年代には大量のタミル人移住者が流入し、映画ではこのタミル人居留区が中心となって描かれます。ムンバイが舞台なのにタミル映画なのはそんな理由からです。ダラヴィの実情はWikipedia(英語版)で読むことができますが、ガイド付きツアーが行われており、↓のリンクでは日本人ブロガー氏による貴重な体験記事を読むこともできます。

映画ではこのスラムで暮らす人々の貧しいながらも気の置けない家族や仲間たちとの毎日が時にコミカルに、そして情感豊かに描かれてゆきます。しかしそんな彼らの生活は都市開発の名のもとに暴力的に粉砕されようとしています。窮状の中にある彼らが助けを求めたのはスラム街のリーダーであり精神的支柱である男・カーラーだったのです。カーラーは強烈な意志と鷹揚とした物腰を持つカリスマ的な男です。そしてひとたび乱闘ともなると恐るべき身のこなしで相手をやり込め、快刀乱麻に事を収めるのです。

そんなカリスマ・ヒーローをインド映画のカリスマ・スーパースター、ラジニカーントが演じます。インドの死の神の意味もある名前カーラーだけに、映画においてラジニは死の神の如く常に黒い衣装をまとっています。これがまたいぶし銀の光をまとっているかのようにカッコいいんですね。今作におけるラジニの役どころは困窮した住民たちを救済するヒーローですが、そもそもラジニ映画の多くは巨悪の成す暴力により打ちひしがれた貧しい人々を救う、というテーマによって製作されているのではないかと思います。

スラム街撤去にまつわる住民対政府組織の対立という構図からは、マニ・ラトラム監督による「インド版ゴッドファーザー」とも呼ばれるテルグ語作品『Nayakan』(1987)を思い出しました。あの作品もムンバイにある南インド人スラム街において横暴を極める警官たちを成敗するため住民たちの顔役とも言えるカリスマ的主人公が立ち上がるのです。また、腐敗した政治家と身を挺して戦う正義のヒーローという構図においては、『ロボット』(2010)でも有名なシャンカール監督の『Nayak: The Real Hero』(2001)を思い出した作品でした。

「巨悪と戦うカリスマ・ヒーロー」というラジカーント十八番の物語展開であるゆえに、逆に物語それ自体には新鮮味はありません。また、主人公が無敵のカリスマ過ぎて物語に緊張感をもたらしにくいという難があります。カーラーが敵の姦計により過酷な状況に追い込まれるのは後半からで、ここでようやく物語にドライブが掛かってきますが、これなどももう少し早い段階に演出があってもよかったかなと思えます。しかし、ラジニ作品によく見られるド派手な演出や巨大セット、見栄えのいいCG映像などを一切排し、そういった演出に頼らない等身大のヒーロー像を描こうとした部分にこの作品の特色があるかもしれません。

また、ムンバイにおける「南インド人による南インド人の平和」を描こうとした今作は、ラジニ&パ・ランジット監督による前作『帝王カバーリ』の、マレーシア移民テルグ人の「南インド人による南インド人の平和」を描こうとした物語と重なります。これらは南インド人たちの苦闘の歴史を掘り起こし、それを記憶に留め、さらに救済をもたらそうという一貫したテーマを感じさせ、さらに我々日本人には馴染の薄いインドの歴史の一端を垣間見せるという点で非常に興味を覚えさせてくれました。

とはいえラジ二もいい歳なんであんまり体が動かず(現在67歳なのだそうな)、踊りのシーンでは手足を軽くパタパタさせているだけなのをダンサー全員がシンクロさせることでなんとか見栄えよく見せられていた位だし、アクションシーンなんかはラジ二がやっぱり手足パタパタ振り回してたら敵が勝手に血反吐吐いて「ひでぶ!」とか「あべし!」とか言いながら宙をクルクル舞っている、という往時のジャイアント馬場さん状態なのはご愛嬌です!ま、無理なさらないでこれからも民衆のヒーロー、スーパースターとして銀幕で輝いていてもらいたいですな。


Kaala (Tamil) - Official Teaser | Rajinikanth | Pa Ranjith | Dhanush | Santhosh Narayanan

 

ヘルボーイの記事を書いたので便乗してヘルボーイ・フィギュアを晒してみる

先日『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』のコミックを紹介したので、今日はついでということでオレの部屋にあるヘルボーイ・フィギュアを晒してみようかと思う。

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う~むやっぱりカッコイイわい。

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背中に哀愁の地獄の息子だぜ。

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「俺に言ってんのか?おい、俺に言ってんのか?(『タクシードライバー』風に)」

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ヘルボーイが縄で引っ張ってるゾンビみたいなのは映画『ヘルボーイ』に出てきた"墓から掘り出された喋る死体"イワン雷帝だ。

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横顔もイイ。

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睨みがききまくってます!

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ついでにオレのヘルボーイ・コミックのコレクションも晒してみる。

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これはミニョーラヘルボーイ画集。

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 以上でした~。

 

ミニョーラが描くバットマン作品『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』

バットマン/ヘルボーイ/スターマン/マイク・ミニョーラ

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ゴシックホラーの傑作『ヘルボーイ』で、全世界のコミックシーンの話題を独占した、鬼才マイク・ミニョーラ。コミック史に残るアンソロジー『ブラック&ホワイト』で、その魅力を改めて世に知らしめた闇の騎士バットマン。現代アメコミシーンを代表する、最高のアーティストとキャラクターが手を組んだ珠玉の名作3編を日本オリジナル編集!ミニョーラの過去と現在、バットマンの多様な魅力、本場アメリカでも実現していない豪華なラインナップがここにある。

オレは『ヘルボーイ』が好きだ。ギレルモ・デル・トロの映画版2作も当然好きだが、その原作となるグラフィックノベル作品がなにより素晴らしいのだ。原作者であるマイク・ミニョーラの他に類を見ないグラフィックの美しさもそうだが、世界の神話伝承を元に緻密に構成された伝奇的物語に堪らなくそそられるのである。

だから日本で発売された『ヘルボーイ』のグラフィックノベルはほぼ全て収集した……つもりだった。しかし調べると、今まで知らなかった『ヘルボーイ』作品が刊行されていたことを知ってしまったのだ。

作品タイトルは『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』。日本発売は1999年の10月。タイトル通り異種ヒーローとのクロスオーバー作品で、『ヘルボーイ』ストーリーのいわば番外編となる物語となるのらしい。

「うへえまだこんなのもあったのか」と購入しようとしたが、既に絶版になっているらしくネットで売り出されているものは定価の数倍のプレミア価格がつけられていた。「おおおう……」値段を見て一瞬躊躇したオレだが、マニアの血はこんなことで収まりはしない。数秒後思いっきりポチッているオレがそこにいたのである。

という訳でオレのモノとなったこのグラフィックノベルを紹介してみよう。収録されている作品は3作、「ゴッサム・バイ・ガスライト」「サンクタム」「バットマンヘルボーイ/スターマン」だ。メインはバットマン作品で、バットマンミニョーラが描いている、という部分に注目し日本独自編集されたもののようだ。

巻頭の「ゴッサム・バイ・ガスライト」は19世紀のゴッサム・シティを舞台に、ロンドンからアメリカに渡ってきた切り裂きジャックバットマンが対決する、という非常にユニークな作品。いわゆるパラレル・ワールドものということになるが、ガス燈の灯るアメリカ19世紀とバットマン、というのが意外と相性がよく、切り裂きジャックという敵役の陰惨さも相まって実に読ませる作品になっている。またこの作品はアニメ化もされていて、Blu-rayも出てるしAmazonビデオでも観る事ができる。

サンクタム」は墓場に悪党を追いつめたバットマンが地下墓地で超常の存在と対面する、というもの。これなんかははっきりホラー仕立てで、バットマン作品でホラーというのも意外と珍しいのかもしれない(探せばあるんだろうけどね)。そしてこのホラー仕立ての物語展開がまさにミニョーラの面目躍如といったもので、その後の「ヘルボーイ」における活躍を大いに予感させる出来となっている。

そして最後「バットマン/ヘルボーイ/スターマン」でやっとそのヘルボーイとご対面できる。タイトル通り3ヒーローのクロスオーバー作品だが、”スターマン”だけちょっと一般に馴染が薄いかもしれない。1994年にデビューした新世代ヒーローで、宇宙線をエネルギーにして活躍する。物語はオカルト集団を追ってヘルボーイゴッサム・シティを訪れ、そこでバットマンと捜査を開始するというもの。敵の本拠地が別の街にあることを突き止めたヘルボーイは、ジョーカー討伐に慌ただしくなったバットマンと別れ、次にスターマンと共闘してオカルト集団を追い詰める。

オカルト集団は例によってナチス・ドイツの残党であり、またしてもクトゥルフ神を地球に呼び寄せようとしており、ヘルボーイはその企みを阻止するため無敵の鉄腕をぶん回すのである。物語的には初期ヘルボーイに見られた痛快な大暴れぶりを楽しめ、大いに満足できた。ミニョーラの描くバットマン作品、さらにバットマンヘルボーイのクロスオーバー作品の読めるこの『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』、ちょいとお高かったが十分満足できたな。

ヘルボーイ [Blu-ray]

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